ゆきの物語 第一章 ゆきの子供達

二階の窓際で女の人が、兵を集めるための広い中庭を見下ろしている。彼女は、大きくふくらんだお腹を、愛おしそうに撫でていた。長い髪はまだ黒々としていて、よく見ないと、その中にごく僅かの白毛が混じっているなど誰も気がつかないだろう。頬に刻まれたうっすらとした皺はきっと、今のように、彼女がよく微笑んだ証なのだろう。そして、身に纏った高価な着物は絹に違いない。

中庭では、数人の少年が武道の練習をしていた。少年と言ったが、そのうちの二人は長く結った髪をしていて、相手の者達より背が低かった。それにしても、その二人の突きは飛び抜けて的確で力強かった。動きも流麗で、無駄がなかった。

「お母様、また姉上達の修行をご覧になっているの?」と、ちらりと顔を上げて女の子が言った。九、十歳くらいであろうか、本の間に突っ伏して、何かを一生懸命書いている。少しあきれた口調だった。

母は娘をちらっと見ると、「ええ」と、窓の外に視線を戻した。

その時、廊下から足音が聞こえた。すぐに襖が開いて、十五、六歳の女の子が怒った顔で入ってきた。「お母様、お父様にお話しして下さらない?お父様はなぜ、あの怪しい大名と私を結婚させたがるのかしら!あの方、もう四人も奥方がおいでなのよ!それに、あの醜さといったら!!長女だから、素敵な若殿と結婚するはずなのに!」とぼやいた。

先の娘は、視線を紙から離さぬまま、「男の子は嫌い」と興味なさそうに言った。

姉は妹の元につかつかと歩いて来て、妹が覗き込でいた本を無造作に取り上げ、「百合、このような童話や物語を読んでいるのに、本当の事は何も分からないのね。少し成長すると、気持ちが変わるでしょう」と言った。

すると、百合は思わず筆を落とし、飛び上がり「それは私のよ!返して!」と叫んで取り戻そうとしたが、力の限り跳んでも、百合は本に触ることさえできなかった。

母は振り返って「桜、妹をいじめないでおくれ。百合はまた小さいのだから」と言うと、二人の下に歩いて行き、優しく本を桜の手から取り、百合に戻した。百合は本を胸に抱き、墨で染まった紙の方を見て、「まあ!書き直さないと…」と言いながら姉を睨んだ。

母は桜の腕を引っ張り、部屋の隅に行った。二人はそこに座り、母が「あなたも評議に参加しているので、国の状況が分かるでしょう。お父様が殿の座に就いてからこの十五年あまり、国はだんだん貧しい国から豊かな国になって来ましたね。でも国が豊かになると、近隣諸国の妬みを買ってしまうの。この戦国時代には、味方がいないことは危険なことなのですよ」と言うと、桜は口を挟んだ。

「それは分かっております。でも、あの大名と結婚することといったい何の関係があるの?あの方は私達のおじい様と同じぐらい年じゃありませんか」

母は「ああ、おじい様は亡くなるまで近隣諸国の覇権を握っていらっしゃった。でも、おじい様が亡くなった今は、近隣諸国の城主の誰もが権力を得ようと画策しているのですよ。あの武威の高いお方にはたくさんの奥方がいらしても、まだお子様がおりません。跡継ぎを産む奥方がいればきっと同盟を結べるとお思いになって、お父様はあなたの縁組みを提案しているのです」と答えた。

「そうですか。でも、四人の奥方にお子様がいないのなら、大名の問題ではありませんか?新しい奥方が身籠る可能性はほとんどないではありませんか?」と少し落ち着き取りを戻したところで桜は訊いた。

母がくすくすと笑い、「男の方は、そうはお考えにならないでしょう。特にご本人はね…」と言うと、桜も笑わざるを得なかった。

二人の笑いが収まると、母は「とにかく、またお父様にお話ししてみましょう。やはり、五人目の奥方になるのは桜には相応しくないでしょう。特にうちにはまだ長子がいないから…」と言った。

すると、桜は「ありがとう、お母様。長子と言うと、今度は…?」と母のお腹を示した。

母はまたお腹を撫で始め、「神様に任せるしか仕方がないですね。前のように、お社で男子が授かるようにお祈りいたしましたけれど」と首を振りながら答えた。

「私もそのようにお祈りしています」と桜が言うと、二人は立ち上がり、互いに抱き合った。

そうこうしているうちに、開いたままの襖から粉まみれ顔の、少し太っている七、八歳の女の子が現れ、「お母ちゃま!私がこしらえましたおにぎりを召し上がりませんか?」と興奮しながら言った。母に駆け寄ると、おにぎりを一つ渡した。

母はおにぎりを手に取って食べると、「美味しい!ありがとう、鈴」と言ってから鈴の膨らんだ懐を見て、「お姉様達にも食べさせてみたいと思いませんか?」と訊いた。

鈴はしばらくためらったが、ようやく物惜しそうに懐から葉で包まれたおにぎりをもう二つ取り出し、俯きながら桜と百合に渡すと、「後で食べたかったのに…」という小さく呟いた。

母は鈴の頭を撫で、「もう充分食べたでしょう?今までいくつ食べましたか?」と訊ねた。

「ええと…味見したのと落としたのと、階段を上った時のと廊下を歩いた時のだから…たぶん五つでしょう?」と鈴は真面目な顔をして指で数えながら言った。

「そうだと思いました。もう少しおやつを減らしましょうね」と母が言うと、長い赤毛の女の人が部屋に入って来て、「ゆきちゃん、諦めるしかありませんよ。鈴は一日中台所でうろうろしているから、いつでも下女からお菓子をもらうことができるのですよ。だから、そんな望みは持つだけ無駄でしょう」と言って襖を閉めた。一見したところでは年齢は桜と同じようだが、その輝いている瞳の奥を見ると、なぜかかなり年上だという気がする。桜より背が低いその女の着物は母の――ゆきの――と同じように高価なもののようだったが、その渋い柄の着物に対して、顔立ちや印象はかなり派手だった。

鈴は「狐子おば!」と呼び、赤毛の女に向かって駆け寄り、腰に抱きついた。そして、懐からもう一つのおにぎりを取り出し、狐子に渡した。「どうぞ食べてみてください。私がこしらえたんです!」

おにぎりを食べてから、狐子は鈴の方に身を屈め、「いつかいいお嫁さんになるでしょう。男性の心を掴むには、まず胃袋を満たせと言いますからね」と、鈴の髪を優しく撫でた。

それを聞くと、鈴の笑みはさらに広がった。両腕を頭の上で振り、「わい!狐子おばに褒めてもらって嬉しい!」と叫びながら部屋を駆け回った。

ゆきは狐子のところに歩み寄り、微笑んだ。「狐子ちゃん、いつも子供達を甘やかしすぎますね。はじめて会ったその日の内に、子供のことが大好きだということに気付きました。でも、今でも分からない点があります。それほど子供が好きなら、私のようにたくさんの子供達を産むのだと思いました。でも、息子が二人しかいません。どうしてですか?」と訊いた。

狐子は、「主人の年齢を考えてのことなの。婚礼の前にもう四十代だったので、彼が子供達の成長を見届けるのは難しいと思って。それで、次男が生まれた時、子供はもう充分だと互いに思ったの。その後、身籠らないためのおまじないを使うようにしたの」と答えた。

ゆきは、「なるほど。そのおまじないはとても便利ですね。私は大家族が欲しいけれど、少しうらやましい気もします。家老殿と言えば、今はいかがですか」と、少し困ったように親友の顔をまっすぐに見やった。

狐子のいつも輝いている瞳が曇ったように見えた。俯きながら、「主人はまだよくなってないの。事件の時に動かなくなった右手足が少し動くようになったけど、まだ自分では歩けないの。私が狐の力をもってしても、おまじないで最愛の人を治すことも、たったの一日、寿命を伸ばすことすらできない。人間の命はあまりに短い」と、溜息をついた。

でも、持ち前の元気な性格では長く悲しみに沈んだままでいることはできなかった。狐子はすぐに笑顔を取り戻し、「悲しいことは充分です。桃と李の練習はどうでしたか?」と訊いた。

ゆきは窓際に戻り、「あの二人はとても上手になっています。ええ、修行はすでに終わりました」と言うと、廊下から走って来る足音が聞こえた。

すぐにまた襖が開いて、さっきまで中庭にいた、髪を結い上げた二人が駆け込んで来た。間近に見ると、二人は厳つい道着を着ていても、男ではなく、十一、二歳の女の双子だということに気がつく。その二人はきっと桃と李だろうが、どっちが桃で、どっちが李かということは、母でもよく間違える程であった。男っぽさは外見だけとは限らない。身のこなし方や話し方、態度にまでも、姫らしくない点がたくさんあった。その二人は、部屋に入り狐子を見るや否や、「狐子おば!」と一斉に叫び、駆け寄って抱きついた。すると、桃…だと思うが、目を閉じ、深く息を吸い込み、「何か美味しそうな匂いがする」と、李…だと思われる方が、狐子を見上げ、「狐子おば、お菓子を持ってきたの?」と言った。

狐子は、「持ってきたのは私ではありませんよ」と答えると、双子は顔を見合わせ、「鈴!」と叫び、妹の方に向き直り、「お菓子をちょうだい!」と呼んだ。

鈴がくすくすと笑いながら「いや!私の!」と、部屋を抜け出そうとしたが、素早く双子の一人が出口を遮った。だが、前後から伸びた双子の手が妹を捕まえる前に、鈴は身を縮め、部屋の奥に駆け戻った。何度も双子が鈴を掴んだ――と思うと、鈴は間一髪で逃げた。でも、双子は鈴を部屋から逃がさなかった。どうしてこの武芸の達者な二人が太っている妹を捕まえることができないのかと思われるかもしれないが、三人の笑い声を聞けば、彼女達が単に遊んでいるだけだということにお気付きになるだろう。彼女達のお気に入りの遊びというわけだ。

そのうち、鈴は息を切らし、足取りも重くなった。床に転げて仰向けになった鈴は、はあはあと息づきながら、「やっぱり、…また…負けた…。今度こそは…逃げる…よ」と言いました。

双子は鈴の腕を一本ずつ掴み、立ち上がらせた。妹に歩かせながら、「褒美を渡せ!食べ物をお出し!」と繰り返した。

まだ息が治まらない鈴は、笑顔のまま、残りの二つのおにぎりを懐から取り出し、双子に一つずつ渡した。

その遊びを見ていた狐子は、「ゆきちゃんはあの二人に関してはちょっと甘やかしすぎみたいね。他の子供達にはあのように妹をいじめることを許さないんじゃない?どうして二人には許しているのかしら?」と少し困ったように言った。

ゆきはくすくすと笑い、頭を横に振った。「あれはいじめている訳ではありません。鈴を遊びながら運動させているのですよ。鈴が降参するか部屋から抜け出すまではできるだけ運動させる、という約束をしました。鈴が部屋を抜け出したら、追ってはいけなくて、鈴が持っているお菓子はもらえません。同じように、鈴が泣いてしまった場合も、お菓子をもらえません。そして、双子達はどうして楽しくなかったのかを反省しなければなりません。でも、最後まで楽しくて鈴が部屋を抜け出すことができなかった場合、鈴はご褒美としてお菓子をあげないといけません」

狐子の瞳は前よりも明るく輝いた。「なるほど。どうして私がそのような遊び方を思い付かなかったのかしら、驚きだわ」というと、ゆきは「実は、『狐子なら、何をするだろう?』と考えながら、これを思い付きました」と答えた。

二人が互いに笑っていると、戸口から「まあ、お二人とも、子供達が何かいたずらをやっている時には、なぜかいつもあなた方がいらっしゃいます。今日は何をやったのでしょう」と言う声と共に、「母ちゃま!狐子おば!」と言う叫びが聞こえた。一、二歳の赤ん坊を抱き上げた老女の側から二人の幼い女の子がゆき達の下に駆け寄った。一人は三、四歳で、もう一人は五、六歳だろう。

ゆきは駆け寄った子供達を抱くと、そのうちの姉の方が、「母ちゃまが婆やの温泉で働いていたと婆やが教えてくれたの。本当にそうだったの?」と訊いた。

ゆきはしゃがみ、その子を真っ直ぐに見て、「そうです、椿。桜お姉様と同い年だったのです」と答えた。

椿の隣に立っている妹は「私も温泉ではたわけうぅの?」と少し舌足らずに尋ねた。

ゆきがくすくすと笑い、その子の方を向き、「白菊、姫が温泉で働くのは変です」と言うと、椿は「だって、母ちゃまがそうしたら、ちっとも変じゃないじゃないか?」と口を挟んだ。

ゆきは「その時、私が姫であるということはまだ知りませんでした。それに、まだ幼い頃に両親が亡くなって、お祖母様にこっそりと貧しい村で育てられたので、お祖母様がなくなると、どこかで働かざるを得ませんでした」と説明し、立ち上がり、婆やから赤ん坊を受け取った。そして、「蘭、今日はいい子でしたか?」と言うと、蘭は「ばば」と笑顔で言った。

ゆきは部屋を見回し、娘を数えた。「一、二、三、四、五、六、七、八…誰かがいません。蓮?誰かが蓮を見ましたか?」と訊ねると、桜は声を上げた。「そう言えば、今朝、紙束を持っているところ廊下で見ました。以前一人でまだ作っていない建物を探しに行った時のように、下女の服を着ていました。城の門の外へ出てはいけないことを忘れないでと言いましたのに、蓮は単に『はい、はい、分かってる』と答えました」

すると、鈴も口を挟んだ。「台所にいた時、蓮お姉ちゃまが勝手口を抜け出すところを見ました」

「どうしてあの子があれほど多くのおもちゃの家を作りたがるのか分かりません。蓮の部屋はもう布団を敷く隙間もないほどおもちゃの家で埋ってますよ」と桜が続けると、紙から視線を動かさず百合は、「桜お姉様はしばらくすれば結婚して引っ越すようだから、蓮お姉様は襖を外して桜お姉様の部屋に自分の部屋を延ばすと言ってたわ」とつまらなそうに言った。

桜は目を吊り上げ、両手を腰当てて肘を張り、ゆきを振り返り、「何てことを!お母様…」と言いかけたが、ゆきの顔を見ると、黙り込んだ。

目を閉じたゆきの顔は青ざめて、手首に巻いていた数珠を握り締め、祈るように何かを呟いていた。

狐子はもう部屋のどこにも見えなかった。

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