目次(もくじ)

  1. 第一章(だいいっしょう)  ゆきの紹介(しょうかい)
  2. 第二章(だいにしょう)  漁師(りょうし)との出会(であ)い
  3. 第三章(だいさんしょう)  狐(きつね)との出会(であ)い
  4. 第四章(だいよんしょう)  商人(しょうにん)との出会(であ)い
  5. 第五章(だいごしょう)  助(たす)けて!
  6. 第六章(だいろくしょう)  都(みやこ)に到着(とうちゃく)
  7. 第七章(だいななしょう)  買物(かいもの)
  8. 第八章(だいはっしょう)  若殿(わかとの)との出逢(であ)い
  9. 第九章(だいきゅうしょう)  家老(かろう)の調査(ちょうさ)
  10. 第十章(だいじっしょう)  家老(かろう)の調査報告(ちょうさほうこく)
  11. 第十一章(だいじゅういっしょう)  忍者(にんじゃ)の襲撃(しゅうげき)
  12. 第十二章(だいじゅうにしょう)  ゆきはどこだ?
  13. 第十三章(だいじゅうさんしょう)  一本(いっぽん)の毛(け)
  14. 第十四章(だいじゅうよんしょう)  救出(きゅうしゅつ)
  15. 第十五章(だいじゅうごしょう)  大名(だいみょう)
  16. 第十六章(だいじゅうろくしょう)  鬼(おに)
  17. 第十七章(だいじゅうななしょう)  家来(けらい)の不満(ふまん)
  18. 第十八章(だいじゅうはっしょう)  鬼(おに)の襲撃(しゅうげき)
  19. 第十九章(だいじゅうきゅうしょう)  鬼(おに)の敗北(はいぼく)
  20. 第二十章(だいにじっしょう)  殿様(とのさま)の評議(ひょうぎ)
  21. 第二十一章(だいにじゅういっしょう)  大名(だいみょう)の返事(へんじ)
  22. 第二十二章(だいにじゅうにしょう)  殿様(とのさま)の返事(へんじ)
  23. 第二十三章(だいにじゅうさんしょう)  若殿(わかとの)の出陣(しゅつじん)
  24. 第二十四章(だいにじゅうよんしょう)  大名(だいみょう)の思(おも)い付(つ)き
  25. 第二十五章(だいにじゅうごしょう)  忍者(にんじゃ)の思(おも)い付(つ)き
  26. 第二十六章(だいにじゅうろくしょう)  ゆきの出発(しゅっぱつ)
  27. 第二十七章(だいにじゅうななしょう)  ゆきの演説(えんぜつ)
  28. 第二十八章(だいにじゅうはっしょう)  家老(かろう)の再取立(さいとりた)て
  29. 第二十九章(だいにじゅうきゅうしょう)  狐(きつね)との会話(かいわ)
  30. 第三十章(だいさんじっしょう)  狐子(ここ)の紹介(しょうかい)
  31. 第三十一章(だいさんじゅういっしょう)  市場(いちば)へ
  32. 第三十二章(だいさんじゅうにしょう)  呉服屋(ごふくや)の中(なか)
  33. 第三十三章(だいさんじゅうさんしょう)  面白(おもしろ)い本(ほん)はどこだ?
  34. 第三十四章(だいさんじゅうよんしょう)  市場(いちば)の中(なか)
  35. 第三十五章(だいさんじゅうごしょう)  庄屋(しょうや)の家(いえ)の中(なか)
  36. 第三十六章(だいさんじゅうろくしょう)  城(しろ)へ帰(かえ)る
  37. 第三十七章(だいさんじゅうななしょう)  狐子(ここ)との会話(かいわ)
  38. 第三十八章(だいさんじゅうはっしょう)  評議(ひょうぎ)
  39. 第三十九章(だいさんじゅうきゅうしょう)  旅(たび)の準備(じゅんび)
  40. 第四十章(だいよんじっしょう)  最初(さいしょ)の村(むら)
  41. 第四十一章(だいよんじゅういっしょう)  女将(おかみ)の到着(とうちゃく)
  42. 第四十二章(だいよんじゅうにしょう)  危難(きなん)の噂(うわさ)
  43. 第四十三章(だいよんじゅうさんしょう)  鬼(おに)との遭遇(そうぐう)
  44. 第四十四章(だいよんじゅうよんしょう)  破壊(はかい)された村(むら)
  45. 第四十五章(だいよんじゅうごしょう)  広(ひろ)がる噂(うわさ)
  46. 第四十六章(だいよんじゅうろくしょう)  城(しろ)への帰還(きかん)
  47. 第四十七章(だいよんじゅうななしょう)  女将(おかみ)との会話(かいわ)
  48. 第四十八章(だいよんじゅうはっしょう)  家老(かろう)の助言(じょげん)
  49. 第四十九章(だいよんじゅうきゅうしょう)  面会(めんかい)の準備(じゅんび)
  50. 第五十章(だいごじっしょう)  家来(けらい)の妻(つま)
  51. 第五十一章(だいごじゅういっしょう)  茶席(ちゃせき)の予定(よてい)
  52. 第五十二章(だいごじゅうにしょう)  三本(さんぼん)の尻尾(しっぽ)
  53. 第五十三章(だいごじゅうさんしょう)  狐子(ここ)の話(はなし)
  54. 第五十四章(だいごじゅうよんしょう)  話(はなし)の続(つづ)き
  55. 第五十五章(だいごじゅうごしょう)  家老(かろう)の話(はなし)
  56. 第五十六章(だいごじゅうろくしょう)  寂(さび)しげな二人(ふたり)
  57. 第五十七章(だいごじゅうななしょう)  茶室(ちゃしつ)にて
  58. 第五十八章(だいごじゅうはっしょう)  琵琶法師(びわほうし)の到着(とうちゃく)
  59. 第五十九章(だいごじゅうきゅうしょう)  冬(ふゆ)の活動(かつどう)
  60. 第六十章(だいろくじっしょう)  狐(きつね)の到着(とうちゃく)
  61. 第六十一章(だいろくじゅういっしょう)  琵琶法師(びわほうし)の話(はなし)
  62. 第六十二章(だいろくじゅうにしょう)  旅(たび)の初(はじ)め
  63. 第六十三章(だいろくじゅうさんしょう)  狐(きつね)の土地(とち)へ
  64. 第六十四章(だいろくじゅうよんしょう)  子狐(こぎつね)との出会(であ)い
  65. 第六十五章(だいろくじゅうごしょう)  姫(ひめ)との出会(であ)い
  66. 第六十六章(だいろくじゅうろくしょう)  晩(ばん)の会話(かいわ)
  67. 第六十七章(だいろくじゅうななしょう)  族長(ぞくちょう)との会話(かいわ)
  68. 第六十八章(だいろくじゅうはっしょう)  八狐(はちこ)との会話(かいわ)
  69. 第六十九章(だいろくじゅうきゅうしょう)  姫(ひめ)の話(はなし)
  70. 第七十章(だいななじっしょう)  狐(きつね)との決戦(けっせん)
  71. 第七十一章(だいななじゅういっしょう)  狐子(ここ)の勝負(しょうぶ)
  72. 第七十二章(だいななじゅうにしょう)  若殿(わかとの)との茶席(ちゃせき)
  73. 第七十三章(だいななじゅうさんしょう)  城(しろ)へ戻(もど)る
  74. 第七十四章(だいななじゅうよんしょう)  狐一(こいち)と下女(げじょ)
  75. 第七十五章(だいななじゅうごしょう)  新(あたら)しい着物(きもの)
  76. 第七十六章(だいななじゅうろくしょう)  新(あたら)しい仕事(しごと)
  77. 第七十七章(だいななじゅうななしょう)  広子(ひろこ)と小猫(こねこ)
  78. 第七十八章(だいななじゅうはっしょう)  狐子(ここ)からの試(ため)し
  79. 第七十九章(だいななじゅうきゅうしょう)  琵琶法師(びわほうし)の告白(こくはく)
  80. 第八十章(だいはちじっしょう)  呪(のろ)いを解(と)く
  81. 第八十一章(だいはちじゅういっしょう)  お守(まも)り
  82. 第八十二章(だいはちじゅうにしょう)  家老(かろう)との面会(めんかい)
  83. 第八十三章(だいはちじゅうさんしょう)  頭痛(ずつう)
  84. 第八十四章(だいはちじゅうよんしょう)  殿様(とのさま)の到着(とうちゃく)
  85. 第八十五章(だいはちじゅうごしょう)  殿様(とのさま)との茶席(ちゃせき)
  86. 第八十六章(だいはちじゅうろくしょう)  狐一(こいち)と家来達(けらいたち)
  87. 第八十七章(だいはちじゅうななしょう)  喧嘩(けんか)
  88. 第八十八章(だいはちじゅうはっしょう)  小姓(こしょう)をやめる
  89. 第八十九章(だいはちじゅうきゅうしょう)  殿様(とのさま)との会話(かいわ)
  90. 第九十章(だいきゅうじっしょう)  狐一(こいち)と親衛長(しんえいちょう)
  91. 第九十一章(だいきゅうじゅういっしょう)  殿様(とのさま)と狐(きつね)
  92. 第九十二章(だいきゅうじゅうにしょう)  ゆきの陣痛(じんつう)
  93. 第九十三章(だいきゅうじゅうさんしょう)  ゆきの子(こ)

第一章(だいいっしょう)

ゆきの紹介(しょうかい)

昔々(むかしむかし)、ある小(ちい)さな村(むら)にゆきという娘(むすめ)がおばあさんと二人(ふたり)で暮(く)らしていました。ゆきは、とても美(うつく)しい子(こ)でしたが、二人(ふたり)は大変(たいへん)貧(まず)しい生活(せいかつ)をしていました。村(むら)全体(ぜんたい)も貧(まず)しく、若者(わかもの)の姿(すがた)もあまり見(み)られませんでした。そして、ゆきと結婚(けっこん)したいという者(もの)も、誰(だれ)一人(ひとり)として現(あらわ)れたことはありませんでした。

「ゆきや、お前(まえ)の幸(しあわ)せを探(さが)すために、都(みやこ)に行(い)った方(ほう)がいいよ」と毎日(まいにち)おばあさんは言(い)いました。

「おばあさまを独(ひと)りここに残(のこ)して都(みやこ)へ出(で)かけることはできません」とその度(たび)、ゆきは答(こた)えました。

ある日(ひ)、おばあさんは亡(な)くなりました。おばあさんをお墓(はか)に葬(ほうむ)ってから、ゆきは、なけなしの家財(かざい)を集(あつ)め、都(みやこ)へ向(む)けて出発(しゅっぱつ)しました。

第二章(だいにしょう)

漁師(りょうし)との出会(であ)い

海岸

間(ま)もなくゆきは海(うみ)に着(つ)きました。砂浜(すなはま)で漁師(りょうし)が網(あみ)に開(あ)いた穴(あな)を繕(つくろ)っていました。

「こんにちは、漁師(りょうし)さん。私(わたし)はゆきと申(もう)します」とゆきは言(い)いました。

「こんにちは、ゆきさん」と漁師(りょうし)は答(こた)えました。

「よろしければ、私(わたし)が網(あみ)を繕(つくろ)うお手伝(てつだ)いをいたします」とゆきは言(い)いました。

「分(わ)かりました。ゆきさんが網(あみ)を繕(つくろ)ってくれるのなら、私(わたし)は貝(かい)を採(と)ります」と漁師(りょうし)は言(い)いました。

それからゆきは砂浜(すなはま)に座(すわ)りながら網(あみ)を繕(つくろ)って、その間(あいだ)に漁師(りょうし)は海岸(かいがん)で貝(かい)を採(と)りました。

間(ま)もなくゆきは網(あみ)を繕(つくろ)い終(お)わりました。「漁師(りょうし)さん!網(あみ)を繕(つくろ)いました」と呼(よ)びました。

漁師(りょうし)は網(あみ)をよく見(み)ました。「きれいに修繕(しゅうぜん)できていますよ。前(まえ)より大分(だいぶん)よくなったようです。助(たす)かりました。どうもありがとう」と言(い)いました。

「いいえ、あまりうまくできなくてごめんなさい」とゆきは答(こた)えました。

「これからどこに行(い)くところなのですか」と漁師(りょうし)は聞(き)きました。

「幸(しあわ)せを探(さが)すために都(みやこ)に参(まい)るところです」とゆきは答(こた)えました。

「そうなんですか。では、頑張(がんば)ってください」と漁師(りょうし)は言(い)いました。

「頑張(がんば)ります」とゆきは言(い)いました。

「どうか、感謝(かんしゃ)の印(しるし)に貝(かい)を半分(はんぶん)受(う)け取(と)ってください」と漁師(りょうし)は言(い)いました。

「そんなにいただくことはできません」とゆきは言(い)いました。

「いいえ、つまらないものですよ。この繕(つくろ)っていただいた網(あみ)で、たんと魚(さかな)が捕(つか)まえられると思(おも)いますから」と漁師(りょうし)は言(い)いました。

「本当(ほんとう)ですか。では、貝(かい)をいただきます。どうもありがとうございます」とゆきは答(こた)えました。

それからゆきは貝(かい)を懐(ふところ)に入(い)れ、都(みやこ)へ向(む)かいました。

第三章(だいさんしょう)

狐(きつね)との出会(であ)い

しばらく行(い)くと、ゆきは焚(た)き火(び)のそばに座(すわ)って、兎(うさぎ)を焼(や)いている狐(きつね)に出会(であ)いました。

「こんにちは、狐(きつね)さま。私(わたし)はゆきと申(もう)します」とゆきは言(い)いました。

「こんにちは、ゆきちゃん」と狐(きつね)は答(こた)えました。

「美味(おい)しそうな匂(にお)いがしますね。私(わたし)はお腹(なか)が少(すこ)し…すみません、狐(きつね)さま。よろしければ、その兎(うさぎ)を分(わ)けていただけませんか。私(わたし)は貝(かい)を少(すこ)し持(も)っているのですが」とゆきは言(い)いました。

「いいですよ。貝(かい)を分(わ)けてくれれば、私(わたし)も兎(うさぎ)を分(わ)けてあげます。ところで、どうしてそんなに美(うつく)しいお嬢(じょう)さんがこのような道(みち)を一人(ひとり)で旅(たび)しているのですか」と狐(きつね)は聞(き)きました。

「幸(しあわ)せを探(さが)すために都(みやこ)に行(い)くところです」とゆきは答(こた)えました。

「気(き)を付(つ)けて行(い)くのですよ」と狐(きつね)は言(い)いました。

「はい。ありがとうございます」とゆきは答(こた)えました。

それからゆきは貝(かい)を開(あ)け始(はじ)めました。驚(おどろ)いたことに、それぞれの貝(かい)の中(なか)に大(おお)きな真珠(しんじゅ)が入(はい)っていました。

「あの、狐(きつね)さま、この貝(かい)の中(なか)に入(はい)っている真珠(しんじゅ)もお受(う)け取(と)りください」とゆきは言(い)いました。

「そんなにもらうことはできません」と狐(きつね)は答(こた)えました。

「一粒(ひとつぶ)だけでも受(う)け取(と)ってください」とゆきは言(い)いました。

「あなたのような気前(きまえ)の良(よ)い人間(にんげん)には、これまで一度(いちど)も会(あ)ったことがありません。それでは、真珠(しんじゅ)を一粒(ひとつぶ)と、数本(すうほん)の尻尾(しっぽ)の毛(け)とを交換(こうかん)しましょう。もし身(み)の危険(きけん)を感(かん)じるようなことがあったら、この尻尾(しっぽ)の毛(け)に触(ふ)れながら『助(たす)けて』と三(さん)回(かい)唱(とな)えてください。そしたら、私(わたし)たち一族(いちぞく)はあなたを助(たす)けるためにそこに現(あらわ)れます。三度(さんど)までなら助(たす)けてあげましょう」と狐(きつね)は十(じっ)本(ぽん)くらいの毛(け)を尻尾(しっぽ)から抜(ぬ)き取(と)りながら言(い)いました。

「そんな大切(たいせつ)なものをいただくことはできません」とゆきは言(い)いました。

「たいした物(もの)ではないですよ」と狐(きつね)は言(い)いました。

「そこまでおっしゃるのなら、ありがたく頂戴(ちょうだい)します」とゆきは真珠(しんじゅ)と尻尾(しっぽ)の毛(け)を交換(こうかん)しながら言(い)いました。

兎(うさぎ)と貝(かい)を焼(や)きながら、ゆきは残(のこ)りの真珠(しんじゅ)を懐(ふところ)に入(い)れました。そして尻尾(しっぽ)の毛(け)を結(ゆ)って腕(うで)飾(かざ)りを作(つく)り、自分(じぶん)の手首(てくび)に巻(ま)きました。

二人(ふたり)が兎(うさぎ)と貝(かい)を食(た)べた後(あと)でゆきは「ご馳走(ちそう)さまでした。いただいたばかりで申(もう)し訳(わけ)ないのですが、そろそろ失礼(しつれい)します」と言(い)って町(まち)へ向(む)かいました。

第四章(だいよんしょう)

商人(しょうにん)との出会(であ)い

ゆきは都(みやこ)を目指(めざ)して旅(たび)を続(つづ)けました。歩(ある)き通(とお)しだったので、日(ひ)が沈(しず)む頃(ころ)になるとお腹(なか)が減(へ)り始(はじ)めました。ふと足(あし)を止(と)めると、ゆきは美味(おい)しそうな匂(にお)いが辺(あた)りに漂(ただよ)っていることに気(き)がつきました。

「どこからあんな美味(おい)しそうな匂(にお)いがしてくるのかしら」とゆきは思(おも)いました。周(まわ)りを見回(みまわ)すと、道端(みちばた)に天幕(てんまく)が張(は)ってあるのを見(み)つけました。天幕(てんまく)に近付(ちかづ)くと、その匂(にお)いはいっそう強(つよ)くなりました。

天幕(てんまく)に着(つ)いた時(とき)、ゆきは天幕(てんまく)の後(うし)ろにいる呉服商(ごふくしょう)を見(み)つけました。その商人(しょうにん)は夕食(ゆうしょく)の仕度(したく)をしているところでした。

「ごめんください」とゆきは商人(しょうにん)に話(はな)しかけました。

「どちらさまですか」と商人(しょうにん)は尋(たず)ねました。

「はい、ゆきと申(もう)します。美味(おい)しそうな匂(にお)いに誘(さそ)われてまいりました」とゆきは答(こた)えました。

「そうですか。かわいそうにお腹(なか)を空(す)かしているんですね。そうだ。お茶(ちゃ)を入(い)れてくれませんか。一緒(いっしょ)に食(た)べましょう」と商人(しょうにん)は言(い)いました。

「ありがとうございます」とゆきは答(こた)えました。

それから、ゆきは湯(ゆ)を沸(わ)かして、お点前(てまえ)を披露(ひろう)しました。

商人(しょうにん)は、「確(たし)かに良(よ)いお茶(ちゃ)を使(つか)ってはいるのですが、それでも元(もと)の味(あじ)を忘(わす)れてしまうほどの結構(けっこう)なお点前(てまえ)でした。そんな見事(みごと)な茶道(さどう)を、都(みやこ)以外(いがい)で目(め)にすることが出来(でき)るとは思(おも)いもしませんでした」と、驚(おどろ)きました。「どちらでこれを習(なら)いましたか」

「祖母(そぼ)が教(おし)えてくれました」とゆきは答(こた)えました。

「あなたのように美(うつく)しく、そして見事(みごと)な茶道(さどう)で美味(おい)しいお茶(ちゃ)を入(い)れることの出来(でき)る娘(むすめ)さんには、絹(きぬ)の着物(きもの)がよく似合(にあ)うと思(おも)います。ちょうどここに、綺麗(きれい)な絹製(きぬせい)の着物(きもの)がございます」と商人(しょうにん)は言(い)いました。

「そうですか。そういったものを今(いま)まで着(き)たことがありませんでした。ぜひ、着(き)てみたいのですが、お金(かね)がありません」と、うつむきながら答(こた)えた時(とき)、旅(たび)の途中(とちゅう)で漁師(りょうし)から貝(かい)をもらったことを思(おも)い出(だ)しました。ゆきは懐(ふところ)の中(なか)の真珠(しんじゅ)を取(と)り出(だ)しながら、「これと交換(こうかん)していただけませんか」と言(い)いました。

「これほど大(おお)きな真珠(しんじゅ)を今(いま)まで見(み)たことがありません」と商人(しょうにん)は言(い)いました。「その真珠(しんじゅ)一粒(ひとつぶ)と引(ひ)き換(か)えに、私(わたし)の一番(いちばん)綺麗(きれい)な絹製(きぬせい)の着物(きもの)をさしあげます」

「これほど綺麗(きれい)な着物(きもの)を旅路(たびじ)で着(き)ることはできません。きっと汚(よご)してしまうでしょうから、もしよろしければ、包(つつ)んでくださいませんか」とゆきはお願(ねが)いしました。

「はい、もちろんですとも。ありがとうございます」と商人(しょうにん)は言(い)って、ゆきから真珠(しんじゅ)をもらい、一番(いちばん)綺麗(きれい)な着物(きもの)を包(つつ)んでゆきに渡(わた)しました。

「どうしてあなたのような美(うつく)しいお嬢(じょう)さんが、このような道(みち)を一人(ひとり)で旅(たび)しているのですか」と商人(しょうにん)は聞(き)きました。

「幸(しあわ)せを探(さが)すために都(みやこ)に行(い)くところなのです」とゆきは答(こた)えました。

「そうですか。でも、この道(みち)を一人(ひとり)で旅(たび)するのは危険(きけん)ですよ。今夜(こんや)私(わたし)のそばで寝(ね)た方(ほう)がいいでしょう。そうすれば、ここで私(わたし)が護衛(ごえい)をすることができますから。私(わたし)は、明日(あした)、発(た)ちますが、その都(みやこ)の方(ほう)へは行(い)きません」と商人(しょうにん)が言(い)いました。

「ありがとうございます。では、お言葉(ことば)に甘(あま)えて、今夜(こんや)ここで寝(ね)させていただきます」とゆきは答(こた)えて、持(も)っていた布(ぬの)を地面(じめん)に広(ひろ)げ始(はじ)めました。

「地面(じめん)で寝(ね)るのはかわいそうだ。私(わたし)の天幕(てんまく)で寝(ね)てもかまいませんよ。そこの垂(た)れ幕(まく)で仕切(しき)りますから、ご安心(あんしん)なさい」と商人(しょうにん)が言(い)いました。

「はい。では、そうさせていただきます」とゆきは答(こた)えました。布(ぬの)を開(ひら)いたとき、一冊(いっさつ)の本(ほん)が落(お)ちました。

「それは何(なん)ですか」と商人(しょうにん)は聞(き)きました。

「家系図(かけいず)です。私(わたし)は家族(かぞく)の最後(さいご)の子孫(しそん)なので、他(ほか)に誰(だれ)も受(う)け継(つ)ぐ人(ひと)がいません」とゆきは答(こた)えました。

第五章(だいごしょう)

助(たす)けて!

次(つぎ)の朝(あさ)、商人(しょうにん)は手紙(てがみ)をゆきに渡(わた)して「都(みやこ)に着(つ)いた後(あと)で、温泉(おんせん)に行(い)ってこの手紙(てがみ)をそこの女将(おかみ)に渡(わた)してください。その人(ひと)は私(わたし)の姉(あね)なのです」と言(い)いました。

「分(わ)かりました。必(かなら)ずその手紙(てがみ)をお姉(ねえ)さんにお届(とど)けします」とゆきは言(い)いました。

それからゆきは都(みやこ)へ向(む)かい、商人(しょうにん)は別(べつ)の方(ほう)へ行(い)きました。

間(ま)もなくゆきは浪人(ろうにん)らに出会(であ)いました。

「こんにちは、お侍(さむらい)さま。私(わたし)はゆきと申(もう)します」とゆきは浪人(ろうにん)の頭(かしら)に言(い)いました。

「ふふふ。なんでそんなに美(うつく)しい娘(むすめ)がこんな道(みち)を旅(たび)しているのかな」と頭(かしら)は言(い)いました。

「幸(しあわ)せを探(さか)すために都(みやこ)に行(い)くところです」とゆきは言(い)いました。

「今日(きょう)はついてるぞ」と頭(かしら)は言(い)ってゆきを掴(つか)みました。

「そうだな」と他(ほか)の浪人(ろうにん)が言(い)いました。

「いや!侍(さむらい)じゃない!山賊(さんぞく)だわ!手(て)を離(はな)して!助(たす)けて助(たす)けて助(たす)けて!」とゆきは叫(さけ)びました。

あっという間(ま)に一匹(いっぴき)、二匹(にひき)、ついには百匹(ひゃっぴき)もの狐(きつね)が浪人(ろうにん)の間(あいだ)に現(あらわ)れて、浪人(ろうにん)を咬(か)んで躓(つまず)かせました。

「畜生(ちくしょう)!妖怪(ようかい)が!逃(に)げよう!」と浪人(ろうにん)は言(い)いました。

「このお嬢(じょう)さんは俺(おれ)が守(まも)っている。貴様(きさま)のような奴(やつ)は彼女(かのじょ)に指(ゆび)一本(いっぽん)触(ふ)れてはならんぞ」と狐(きつね)は浪人(ろうにん)の頭(かしら)に言(い)いました。

それから浪人(ろうにん)は皆(みな)狐(きつね)に追(お)われて逃(に)げていきました。

「狐(きつね)さま、助(たす)けてくださってどうもありがとうございます」とゆきは言(い)いました。「真珠(しんじゅ)をもう一粒(ひとつぶ)差(さ)し上(あ)げましょうか」

「そんなに貰(もら)うことはできませんよ」と狐(きつね)は答(こた)え、「あともう二回(にかい)まで私(わたし)を呼(よ)んでも構(かま)いません。さあ、気(き)を取(と)り直(なお)して、旅(たび)を続(つづ)けなさい」と励(はげ)ましました。

「どうも、ありがとうございます。それでは失礼(しつれい)します」と言(い)って、都(みやこ)へと歩(ある)き始(はじ)めました。

第六章(だいろくしょう)

都(みやこ)に到着(とうちゃく)

間(ま)もなくゆきは都(みやこ)の門(もん)に着(つ)きました。

「こんにちは。私(わたし)はゆきと申(もう)します。どうぞよろしくお願(ねが)いします」とゆきは門番(もんばん)に言(い)いました。

「なんで君(きみ)のような子(こ)がこの町(まち)に一人(ひとり)で来(く)るんだ」と門番(もんばん)は言(い)いました。

「幸(しあわ)せを探(さが)すためです」とゆきは答(こた)えました。

「では、この町(まち)に仕事(しごと)があるんだな」と門番(もんばん)は言(い)いました。

「そうです。あっ、それと、この手紙(てがみ)を温泉(おんせん)の女将(おかみ)にさしあげることになっているのです」とゆきは門番(もんばん)に手紙(てがみ)を見(み)せながら言(い)いました。

「それが本当(ほんとう)なら、町(まち)に入(はい)っても構(かま)わない。しかし、もし三日(みっか)以内(いない)に仕事(しごと)が見(み)つからなかったら、町(まち)を去(さ)らなければならんぞ」と門番(もんばん)は言(い)いました。

「はい、分(わ)かりました。すみませんが、温泉(おんせん)はどこですか」とゆきは聞(き)きました。

門番(もんばん)が道順(みちじゅん)を教(おし)えた後(あと)で、ゆきは間(ま)もなく温泉(おんせん)に来(き)ました。

「ごめんください」とゆきは呼(よ)びました。

「いらっしゃいませ」と女将(おかみ)は返事(へんじ)をしながら、出(で)てきました。

「こんにちは。私(わたし)はゆきと申(もう)します。女将(おかみ)さんに話(はなし)をさせていただいても宜(よろ)しいですか」とゆきは聞(き)きました。

「こんにちは、ゆきさん。私(わたし)が女将(おかみ)です」と女将(おかみ)は言(い)いました。「いかがなさいましたか」

「実(じつ)は、旅路(たびじ)で、とある商人(あきんど)さまと出会(であ)いました。商人(あきんど)さまは、この手紙(てがみ)を温泉(おんせん)の女将(おかみ)であるお姉(ねえ)さまに渡(わた)してくださいと言(い)いました。こちらをどうぞ」とゆきは手紙(てがみ)を女将(おかみ)に渡(わた)しながら言(い)いました。

「どうぞ上(あ)がってください。その間(あいだ)に読(よ)んでおきますから」と女将(おかみ)は言(い)いました。

「お邪魔(じゃま)します」とゆきは言(い)いました。

「ああ、弟(おとうと)はあなたのお手前(てまえ)は素晴(すば)らしいと書(か)いております。そのお手並(てな)みを拝見(はいけん)したいと思(おも)います。弟(おとうと)から貰(もら)った、その新(あたら)しい絹(きぬ)の着物(きもの)を着(き)た後(あと)で、茶(ちゃ)の湯(ゆ)を点(た)ててください。もしあなたが弟(おとうと)の言(い)う通(とお)りの方(かた)なら、ここで雇(やと)いますよ」と女将(おかみ)は言(い)いました。

「はい。でも、私(わたし)は少(すこ)し汚(よご)れております。こちらの新(あたら)しい絹(きぬ)の着物(きもの)を汚(よご)したくないと思(おも)っているのですが」とゆきは言(い)いました。

「あ、そうですね。どうぞ、あちらがお風呂(ふろ)になっています」と女将(おかみ)は言(い)いました。

お風呂(ふろ)に入(はい)って絹(きぬ)の着物(きもの)を着(き)てから、ゆきはお点前(てまえ)を披露(ひろう)しました。それを見届(みとど)けてから、女将(おかみ)は、「どうやら弟(おとうと)が申(もう)していたよりも、ゆきさんの茶(ちゃ)の湯(ゆ)の腕(うで)は達者(たっしゃ)のようですね。こんなに素晴(すば)らしいお手前(てまえ)を、十五(じゅうご)年(ねん)以上(いじょう)もの間(あいだ)見(み)たことがありません。失礼(しつれい)をいたしました。どうぞここにお留(とど)まりください」と深(ふか)い会釈(えしゃく)をしながら言(い)いました。

「どういたしまして。誠(まこと)に粗末(そまつ)なものでしたが」とゆきは言(い)いました。「よろしければ、ここで勤(つと)めさせていただきたいと思(おも)います。でも、私(わたし)はこの町(まち)に着(つ)いたばかりです。住(す)まいもなく、お金(かね)もありません。こちらに貝(かい)から見(み)つけた真珠(しんじゅ)が少々(しょうしょう)あるだけです」と、ゆきは懐(ふところ)から真珠(しんじゅ)を取(と)り出(だ)して言(い)いました。

「それでは、その真珠(しんじゅ)を使(つか)って首飾(くびかざ)りを作(つく)ると良(よ)いでしょう。ここにある部屋(へや)に住(す)んでも結構(けっこう)です。明日(あした)、私(わたし)とゆきさん、二人(ふたり)で一緒(いっしょ)に買物(かいもの)をしましょう。真珠(しんじゅ)の首飾(くびかざ)りを作(つく)るのに宝石(ほうせき)商(しょう)に行(い)ったり、絹(きぬ)の着物(きもの)をもう少(すこ)し買(か)いに弟(おとうと)の店(みせ)に行(い)ったりしましょう」と女将(おかみ)は言(い)いました。

「しかし、お金(かね)がありません」とゆきは言(い)いました。

「心配(しんぱい)しないでください。お金(かね)は私(わたし)がお貸(か)しします。この町(まち)一番(いちばん)の茶道家(さどうか)なんですから、すぐにも返(かえ)すことが出来(でき)ますよ」と女将(おかみ)は言(い)いました。

第七章(だいななしょう)

買物(かいもの)

次(つぎ)の朝(あさ)ゆきは早(はや)く起(お)きました。古(ふる)い服(ふく)を着(き)てから、温泉(おんせん)の掃除(そうじ)を始(はじ)めました。しかし女将(おかみ)はゆきを見(み)て、「この町(まち)一番(いちばん)の茶道家(さどうか)がそんなことをする必要(ひつよう)はありません。さあ、絹(きぬ)の着物(きもの)に着替(きか)えて買(か)い物(もの)に行(い)きましょう。真珠(しんじゅ)を忘(わす)れないようにしてください」と言(い)いました。

女将(おかみ)はゆきの素性(すじょう)が気(き)になるのか、市場(いちば)に行(い)く間(あいだ)に、色々(いろいろ)と質問(しつもん)をしました。

「どちらで茶道(さどう)を学(まな)んだのですか」と女将(おかみ)は聞(き)きました。

「実(じつ)は、祖母(そぼ)から茶(ちゃ)の湯(ゆ)を習(なら)いました」とゆきは答(こた)えました。

「お母(かあ)さんや、お父(とう)さんは?」と女将(おかみ)は聞(き)きました。

「母(はは)も父(ちち)も私(わたし)が生(う)まれてから間(ま)もなく亡(な)くなりました」とゆきは答(こた)えました。

「そうですか。あなたは今、おいくつですか」と女将(おかみ)は聞(き)きました。

「今年(ことし)で十七(じゅうなな)歳(さい)になります」とゆきは答(こた)えました。

「そうですか。お祖母(ばあ)さんのお名前(なまえ)を教(おし)えていただけませんか」と女将(おかみ)は聞(き)きました。

ゆきがお祖母(ばあ)さんの名前(なまえ)を教(おし)えた頃(ころ)、最初(さいしょ)の店(みせ)に到着(とうちゃく)しました。

女将(おかみ)が「その名字(みょうじ)…」と尋(たず)ねかけた時(とき)、番頭(ばんとう)が店先(みせさき)に現(あらわ)れました。「あっ、番頭(ばんとう)さん、こちらはうちの新(あたら)しい腕利(うでき)きの茶道家(さどうか)、ゆきさんです」と紹介(しょうかい)しました。

それから女将(おかみ)は次々(つぎつぎ)と店(みせ)を巡(めぐ)って、ゆきを商人(しょうにん)に紹介(しょうかい)して回(まわ)りました。

程(ほど)なくすると、新(あたら)しい茶道家(さどうか)について、町(まち)の住民(じゅうみん)が皆(みな)口(くち)にするようになりました。温泉(おんせん)に行(い)ってゆきの茶(ちゃ)の湯(ゆ)を見(み)た人々(ひとびと)は皆(みな)驚(おどろ)き、ゆきの茶(ちゃ)の湯(ゆ)の腕(うで)を褒(ほ)めました。その後(あと)の数日間(すうじつかん)、温泉(おんせん)はかつてないほど賑(にぎ)やかでした。

第八章(だいはっしょう)

若殿(わかとの)との出逢(であ)い

城(しろ)の中(なか)でも新(あたら)しい茶道家(さどうか)の腕(うで)について皆(みな)が話題(わだい)にしていました。殿(との)さまの長男(ちょうなん)が家老(かろう)に「その新(あたら)しい茶道家(さどうか)の名高(なだか)いお点前(てまえ)を、今晩(こんばん)にでも見(み)てみたい。温泉(おんせん)に行(い)って、手筈(てはず)を整(ととの)えてくれ」と言(い)いました。

「畏(かしこ)まりました」と家老(かろう)は言(い)って、温泉(おんせん)へ出(で)かけました。

家老(かろう)は温泉(おんせん)に到着(とうちゃく)すると、「女将(おかみ)、茶(ちゃ)の湯(ゆ)の予約(よやく)をしたいのだが」と言(い)いました。

「はい。来週(らいしゅう)はいかがですか」と女将(おかみ)は言(い)いました。

「今晩(こんばん)はどうだ。若殿(わかとの)さまが城(しろ)で新(あたら)しい茶道家(さどうか)のお手前(てまえ)をご覧(らん)になりたいとおっしゃっておる」と少(すこ)し急(せ)き立(た)てるように、家老(かろう)は女将(おかみ)に言(い)いました。

「若君(わかぎみ)さまですか。はい、はい、今晩(こんばん)の予約(よやく)を入(い)れておきます。今晩(こんばん)必(かなら)ず城(しろ)に行(い)かせます」と女将(おかみ)は快(こころよ)く答(こた)えました。

家老(かろう)が去(さ)った後(あと)で、女将(おかみ)はゆきのところに行(い)きました。「ゆきちゃん!今晩(こんばん)、若(わか)さまが城(しろ)であなたのお手前(てまえ)を見(み)てみたいそうです。新(あたら)しい真珠(しんじゅ)の首飾(くびかざ)りと一番(いちばん)きれいな絹(きぬ)の着物(きもの)を着(き)ていきなさい」と言(い)いました。

その日(ひ)、温泉(おんせん)は早(はや)めに店(みせ)じまいしました。女将(おかみ)はゆきが城(しろ)に行(い)くために身支度(みじたく)をするのを手伝(てつだ)いました。その夕刻(ゆうこく)、ゆきは城(しろ)に行(い)きました。若殿(わかとの)の部屋(へや)に案内(あんない)された後(あと)で、「はじめまして。温泉(おんせん)の茶道家(さどうか)、ゆきと申(もう)します。どうぞよろしくお願(ねが)いします」とゆきは言(い)いました。

「はじめまして、ゆき殿(どの)。よろしく」と若殿(わかとの)は言(い)いました。

それからゆきはお点前(てまえ)を披露(ひろう)しました。「あなたは本当(ほんとう)に達者(たっしゃ)な茶道家(さどうか)ですね。毎晩(まいばん)ここに来(き)て、お点前(てまえ)を披露(ひろう)してください」と若殿(わかとの)は言(い)いました。

ゆきは「誠(まこと)にお粗末(そまつ)ではございますが、お望(のぞ)みでしたら、必(かなら)ず毎晩(まいばん)ここに来(き)て、お茶(ちゃ)を点(た)てさせていただきます」と言(い)って、温泉(おんせん)に帰(かえ)りました。

ゆきが去(さ)った後(あと)で、「あんな美(うつく)しくて達者(たっしゃ)な茶道家(さどうか)を見(み)たことは今(いま)までなかった。姫(ひめ)のような風貌(ふうぼう)だ。彼女(かのじょ)のことをもっと知(し)らなければならん。彼女(かのじょ)のことを手(て)を尽(つ)くして調(しら)べておくように」と若殿(わかとの)は家老(かろう)に言(い)いました。

家老(かろう)は「お望(のぞ)みとあれば、何(なん)でもいたします」と答(こた)えました。

第九章(だいきゅうしょう)

家老(かろう)の調査(ちょうさ)

次(つぎ)の日(ひ)、家老(かろう)は温泉(おんせん)に行(い)きました。「女将(おかみ)さん、わしは若殿(わかとの)さまより、新(あたら)しい茶道家(さどうか)のことを調(しら)べ尽(つ)くすようにと仰(おお)せを賜(たまわ)ってきた。彼女(かのじょ)について知(し)っていることを全部(ぜんぶ)教(おし)えてください」と言(い)いました。

女将(おかみ)は「そうですね。ゆきは数日(すうじつ)前(まえ)この温泉(おんせん)に来(き)て、弟(おとうと)の手紙(てがみ)を渡(わた)しました。二人(ふたり)は道(みち)で出会(であ)って、ゆきは弟(おとうと)に茶(ちゃ)の湯(ゆ)をしました。ゆきは小(ちい)さな村(むら)でお祖母(ばあ)さんに育(そだ)てられたと言(い)いました。親(おや)はゆきが生(う)まれてから間(ま)もなく二人(ふたり)とも亡(な)くなったと言(い)いました。家系(かけい)図(ず)の本(ほん)を持(も)ってきました」と言(い)って、おばあさんの名前(なまえ)を教(おし)えて、手紙(てがみ)を見(み)せました。

「そうか。十五(じゅうご)年(ねん)ぐらい前(まえ)、その名(なまえ)は名高(なだか)かったようじゃ。その家系(かけい)図(ず)を見(み)てみたい」と家老(かろう)は言(い)いました。

女将(おかみ)は家老(かろう)をゆきのところまで導(みちび)いて「ゆきちゃん!若殿(わかとの)の家老(かろう)さまがあなたの家系(かけい)図(ず)を見(み)てみたいと仰(おっしゃ)っています」と言(い)いました。

それからゆきは家老(かろう)に家系(かけい)図(ず)を見(み)せました。家老(かろう)は家系(かけい)図(ず)をつぶさに検(あらた)めました。「この紋(もん)はよく覚(おぼ)えておる。本当(ほんとう)にあなたの家紋(かもん)かの」と言(い)いました。

ゆきは「それは分(わ)かりません。この本(ほん)にそう記(しる)されているだけですから」と答(こた)えて、小(ちい)さな村(むら)の生活(せいかつ)と旅路(たびじ)のことを語(かた)りました。

それから家老(かろう)は温泉(おんせん)から去(さ)り、使者(ししゃ)を小(ちい)さな村(むら)に派遣(はけん)しました。

毎晩(まいばん)ゆきは城(しろ)に行(い)って、若殿(わかとの)に茶(ちゃ)の湯(ゆ)を振舞(ふるま)いました。ある夕(ゆう)べ、若殿(わかとの)は狐(きつね)の尻尾(しっぽ)の毛(け)で作(つく)られた腕(うで)飾(かざ)りに気(き)づきました。「ゆき殿(どの)、どうしてそんな腕(うで)飾(かざ)りを手首(てくび)に巻(ま)いているのか」と聞(き)きました。

「この腕(うで)飾(かざ)りですか。実(じつ)は、幸運(こううん)のお守(まも)りなのです。これは道(みち)で出会(であ)った狐(きつね)に頂(いただ)いた尻尾(しっぽ)の毛(け)で作(つく)られています」とゆきは答(こた)えました。それからゆきは若殿(わかとの)に旅路(たびじ)のことを語(かた)りました。

第十章(だいじっしょう)

家老(かろう)の調査報告(ちょうさほうこく)

数日後(すうじつご)、家老(かろう)は若殿(わかとの)に報告(ほうこく)しました。「若殿(わかとの)さま、例(れい)の茶道家(さどうか)を調(しら)べ尽(つ)くしました。十五(じゅうご)年(ねん)ぐらい前(まえ)、ある老婆(ろうば)が赤子(あかご)だった孫娘(まごむすめ)とある小(ちい)さな村(むら)に落(お)ち着(つ)きました。その後(あと)、そこで静(しず)かに二人(ふたり)で貧(まず)しい生活(せいかつ)を送(おく)りました。数週間(すうしゅうかん)前(まえ)、老婆(ろうば)は死(し)んで、孫娘(まごむすめ)は村(むら)を去(さ)りました。

「その日(ひ)、ある漁師(りょうし)がその村(むら)からこの町(まち)まで来(く)る途中(とちゅう)で、その娘(むすめ)と出会(であ)いました。娘(むすめ)は漁師(りょうし)の網(あみ)を繕(つくろ)って、漁師(りょうし)は娘(むすめ)と貝(かい)を分(わ)けました。娘(むすめ)は、そのときは毛(け)の腕(うで)飾(かざ)りを手首(てくび)に巻(ま)いていませんでした。

「その夕(ゆう)べ、ある服(ふく)の商人(あきんど)が(温泉(おんせん)の女将(おかみ)の弟(おとうと)なのです)その道(みち)の途中(とちゅう)で娘(むすめ)と出会(であ)いました。娘(むすめ)は毛(け)の腕(うで)飾(かざ)りを手首(てくび)に既(すで)に巻(ま)いていて、貝(かい)の中(なか)で見(み)つけたという真珠(しんじゅ)と家系(かけい)図(ず)を持(も)っていました。商人(あきんど)は娘(むすめ)に女将(おかみ)宛(あて)の手紙(てがみ)を渡(わた)しました。

「次(つぎ)の日(ひ)、女将(おかみ)への手紙(てがみ)を持(も)ち、毛(け)の腕(うで)飾(かざ)りを手首(てくび)に巻(ま)いていた娘(むすめ)は、この町(まち)の門(もん)に来(き)ました。温泉(おんせん)への道順(みちじゅん)を聞(き)きました。その後(ご)間(ま)もなく、毛(け)の腕(うで)飾(かざ)りを手首(てくび)に巻(ま)いていた娘(むすめ)は温泉(おんせん)に来(き)て、商人(あきんど)からの手紙(てがみ)を女将(おかみ)に渡(わた)しました。女将(おかみ)は娘(むすめ)を茶道(さどう)家(か)として雇(やと)いました。

「商人(しょうにん)達(たち)は皆(みな)、娘(むすめ)がゆきと名乗(なの)ったことを確認(かくにん)しました。狐(きつね)と山賊(さんぞく)の実在(じつざい)は確認(かくにん)できません。しかし、漁師(りょうし)が娘(むすめ)と会(あ)った砂浜(すなはま)と商人(あきんど)の野営(やえい)地(ち)との途中(とちゅう)に、焚(た)き火(び)の灰(はい)と貝(かい)が見(み)つけられました。

「ご存(ぞん)じかもしれませんけど、十五年(ごじゅうねん)ぐらい前(まえ)、ある大名(だいみょう)が倒(たお)されて城(しろ)が火事(かじ)で焼(や)け落(お)ちてしまいました。その大名(だいみょう)には、有名(ゆうめい)な茶道(さどう)家(か)の母親(ははおや)と赤子(あかご)の娘(むすめ)がいました。その時(とき)、母親(ははおや)と娘(むすめ)は火事(かじ)で死(し)んだと皆(みな)思(おも)いましたけど、遺体(いたい)が全(まった)く見(み)つけられませんでした。大名(だいみょう)の母親(ははおや)の名前(なまえ)と若(わか)い茶道(さどう)家(か)の祖母(そぼ)の名前(なまえ)は同(おな)じです。また、大名(だいみょう)の家紋(かもん)は若(わか)い茶道(さどう)家(か)の家系(かけい)図(ず)にあります」と家老(かろう)は言(い)いました。

「面白(おもしろ)い。父上(ちちうえ)に教(おし)えた方(かた)がいい」と若殿(わかとの)は言(い)いました。それから二人(ふたり)は殿(との)さまのところに行(い)って、家老(かろう)は報告(ほうこく)を繰(く)り返(かえ)しました。家老(かろう)が終(おわ)った後(あと)で、殿(との)さまは「そなたは、その娘(むすめ)に興味(きょうみ)があるのか」と若殿(わかとの)に聞(き)きました。

若殿(わかとの)は「もし父上(ちちうえ)が了承(りょうしょう)をしていただければ、茶道(さどう)家(か)と結婚(けっこん)するつもりでございます」と答(こた)えました。

「その茶道(さどう)家(か)を一目(ひとめ)見(み)てみたいと思(おも)う」と言(い)いました。

その夕(ゆう)べ、ゆきは殿(との)さまの部屋(へや)に招(まね)かれました。「はじめまして。温泉(おんせん)の茶道(さどう)家(か)、ゆきと申(もう)します。どうぞよろしくお願(ねが)いします」と言(い)いました。

殿(との)さまは「そなたの風貌(ふうぼう)、、、。うむ、懐(なつ)かしい」と呟(つぶや)きました。

ゆきがお手前(てまえ)をした後(あと)で、殿(との)さまは「そなたのおばあさまにうりふたつだ。彼女(かのじょ)はよく教(おし)えたものだ」と言(い)いました。

ゆきは「左様(さよう)でございますか。殿(との)さま、よくまあ私(わたし)の祖母(そぼ)をご存知(ぞんじ)でしたね?」と聞(き)きました。

殿(との)さまは「そなたのご両親(りょうしん)も亡(な)くなる以前(いぜん)存(ぞん)じ上(あ)げておった。そなたの父上(ちちうえ)は偉大(いだい)な人物(じんぶつ)で、わしと友達(ともだち)だった」と言(い)いました。

「祖母(そぼ)は親(おや)については何(なに)も話(はな)しませんでした。教(おし)えてくださいませんか」とゆきは尋(たず)ねました。

「うむ。しかし、まず息子(むすこ)が申(もう)したいことがある」と殿(との)さまは言(い)いました。

若殿(わかとの)は「ゆき姫(ひめ)、もし私(わたし)と結婚(けっこん)してくだされば、必(かなら)ず幸(しあわ)せにします」と言(い)いました。

「いえ、私(わたし)は姫(ひめ)ではございません。私(わたし)のような女(おんな)は若殿(わかとの)と結婚(けっこん)できません。分(わ)かりません」とゆきは言(い)いました。

「君(きみ)の父上(ちちうえ)は大名(だいみょう)だった」と殿(との)さまは言(い)いました。

「なんと言(い)ったらいいか…。けれどももし若殿(わかとの)さまがそうお望(のぞ)みならば、思(おぼ)し召(め)すままに」とゆきは言(い)いました。

それから三(さん)人(にん)で長(なが)らく喋(しゃべ)りました。

第十一章(だいじゅういっしょう)

忍者(にんじゃ)の襲撃(しゅうげき)

一方(いっぽう)、ある妬(ねた)み深(ふか)い老婆(ろうば)の茶屋(ちゃや)が忍者(にんじゃ)らに会(あ)いました。「あのよそから来(き)た茶道家(さどうか)は、お客(きゃく)を横取(よこど)りするんです!消(け)して欲(ほ)しいんです!」と言(い)いました。

忍者(にんじゃ)の長(おさ)は「そうですか。どんな手立(てだ)てがいいでしょう?」と聞(き)きました。

茶屋(ちゃや)は「どんな手立(てだ)てでも構(かま)いません」と答(こた)えて、去(さ)りました。

長(おさ)は側近(そっきん)に「あの茶道家(さどうか)について何(なに)か知(し)っているか?」と聞(き)きました。

側近(そっきん)は「数週間前(すうしゅうかんまえ)、この町(まち)に来(き)ました。温泉(おんせん)で働(はたら)いています。そして毎晩(まいばん)、城(しろ)に行(い)きます。若殿(わかとの)は彼女(かのじょ)について興味(きょうみ)があるそうです。隣(となり)にあった国(くに)の前(まえ)の大名(だいみょう)の娘(むすめ)かも知(し)れないそうです」と答(こた)えました。

「面白(おもしろ)い。隣(となり)の国(くに)の大名(だいみょう)も、彼女(かのじょ)について興味(きょうみ)があるかな。じゃ、娘(むすめ)を今(いま)からここに連(つ)れてきて、大名(だいみょう)に使者(ししゃ)を派遣(はけん)しろ」と長(おさ)は言(い)いました。

「はっ、長(おさ)、仰(おお)せの通(とお)りにいたします」と側近(そっきん)は言(い)って、出(で)かけました。

その夜(よる)、ゆきが温泉(おんせん)へ帰(かえ)る間(あいだ)、忍者(なんじゃ)はゆきを素早(すばや)く取(と)り囲(かこ)んで、猿轡(さるくつわ)をかませて、手足(てあし)を縛(しば)りました。揉(も)みあっている間(あいだ)に、毛(け)の腕飾(うでかざ)りは切(き)れて、地面(じめん)に落(お)ちてしまいました。

側近(そっきん)はゆきを長(おさ)のもとへ手足(てあし)を縛(しば)ったまま連(つ)れて行(い)きました。「この娘(むすめ)が茶道家(さどうか)です」と言(い)いました。

長(おさ)は「そうか。若(わか)すぎるな。本当(ほんとう)に上手(じょうず)かな。この娘(むすめ)の茶(ちゃ)の湯(ゆ)を見(み)てみたい。束縛(そくばく)を解(と)いて」と言(い)いました。

猿轡(さるぐつわ)が外(はず)させてから、「助(たす)けて助(たす)けて助(たす)けて」とゆきは叫(さけ)びましたが、狐(きつね)の毛(け)がないので、何事(なにごと)も起(お)こりませんでした。

「この付近(ふきん)では、いくら叫(さけ)んでも、誰(だれ)も助(たす)けにはこない」と長(おさ)は言(い)いました。「一服(いっぷく)立(た)ててくれ」

しかたなくゆきはお手前(てまえ)を始(はじ)めました。終(おわ)った後(あと)で「本当(ほんとう)に上手(じょうず)だぞ。大名(だいみょう)の興味(きょうみ)がなければ、俺(おれ)はお前(まえ)を芸者(げいしゃ)にするつもりだ」と長(おさ)は言(い)いました。

「めっそうもございません」とゆきは言(い)いました。

「この娘(むすめ)を牢(ろう)に連(つ)れて行(い)って、そこに閉(と)じ込(こ)めておけ」と長(おさ)は言(い)いました。

牢(ろう)に閉(と)じ込(こ)められてから、ゆきは泣(な)きながら眠(ねむ)ってしまいました。

第十二章(だいじゅうにしょう)

ゆきはどこだ?

次(つぎ)の朝(あさ)、女将(おかみ)が起(お)きると、ゆきが見当(みあ)たりません。「あの子(こ)は一体(いったい)どこだろう?」と思(おも)いました。「まだお城(しろ)にいるかな?」

それから女将(おかみ)は城(しろ)に急(いそ)いで行(い)きました。城(しろ)に着(つ)いてから「温泉(おんせん)の女将(おかみ)です。昨晩(さくばん)、うちの茶道家(さどうか)は若殿(わかとの)に振舞(ふるま)うためにこちらに参(まい)りましたけど、温泉(おんせん)に帰(かえ)ってきませんでした。まだ城(しろ)におりますか」と守衛(しゅえい)に聞(き)きました。

「ここで待(ま)つように」と守衛(しゅえい)は言(い)いました。

間(ま)もなく家老(かろう)が門(もん)に来(き)ました。「昨夜(さくや)、茶道家(さどうか)は温泉(おんせん)へ帰(かえ)ったはずじゃ。そちらに着(つ)いていませんか」と聞(き)きました。

「まだ戻(も)っておりません」と女将(おかみ)は答(こた)えました。

「知(し)らせに感謝(かんしゃ)致(いた)す。調(しら)べさせて茶道家(さどうか)を見(み)つけよう。心配(しんぱい)には及(およ)ばん」と家老(かろう)は言(い)いました。

それから女将(おかみ)は温泉(おんせん)へ帰(かえ)り、家老(かろう)は若殿(わかとの)に報告(ほうこく)しました。守衛(しゅえい)らはゆきの捜索(そうさく)を始(はじ)めるように命(めい)じられました。

間(ま)もなく家老(かろう)は若殿(わかとの)にまた報告(ほうこく)しました。「若殿(わかとの)さま、道(みち)の途中(とちゅう)でこの切(き)れた毛(け)の腕飾(うでかざ)りと絹(きぬ)の切(き)れ端(はし)を見(み)つけました。争(あらそ)った形跡(けいせき)がありました」

「そうか。その場所(ばしょ)に案内(あんない)しなさい。守衛(しゅえい)と猟犬(りょうけん)を連(つ)れていってくれ」と若殿(わかとの)は言(い)いました。

そして、若殿(わかとの)たちは城(しろ)を後(あと)にしました。

第十三章(だいじゅうさんしょう)

一本(いっぽん)の毛(け)

一方(いっぽう)、ゆきは目覚(めざ)めました。「腕(うで)飾(かざ)りがないから、狐(きつね)は来(こ)なかったんだろう」と思(おも)いました。「腕(うで)飾(かざ)りが切(き)れた時(とき)に、狐(きつね)の毛(け)が少(すこ)し着物(きもの)にくっ付(つ)いたかも知(し)れない。もし狐(きつね)の毛(け)が一本(いっぽん)だけでも見(み)つけられるなら、狐(きつね)を呼(よ)ぶことが出来(でき)るかもしれない」

それからゆきは死(し)に物狂(ものぐる)いで着物(きもの)で狐(きつね)の毛(け)を探(さが)しました。やっとのことで短(みじか)い毛(け)を一本(いっぽん)見(み)つけました。毛(け)を両手(りょうて)に持(も)ちながら「助(たす)けて助(たす)けて助(たす)けて」と言(い)いました。

あっと言(い)う間(ま)に一匹(いっぴき)、二(に)匹(ひき)、ついには百匹(ひゃっぴき)の狐(きつね)が牢(ろう)に現(あらわ)れました。「狐(きつね)さま、この牢(ろう)から助(たす)け出(だ)してくださいませんか」とゆきは頼(たの)みました。

「どうしてもっと早(はや)く呼(よ)ばなかったのですか」と狐(きつね)は聞(き)きました。

「実(じつ)は呼(よ)びたかったんですが、不意(ふい)に襲(おそ)われましたし、猿轡(さるぐつわ)をかまされてしまいました。争(あらそ)いの最中(さいちゅう)に毛(け)で作(つく)った腕(うで)飾(かざ)りが切(き)れて落(お)ちてしまったんです。この短(みじか)い毛(け)一本(いっぽん)を見(み)つけるまで、呼(よ)べなかったんです」とゆきは答(こた)えました。

それから狐(きつね)たちは壁(かべ)の下(した)に穴(あな)を掘(ほ)って、忍者(にんじゃ)を追(お)いかけ、牢(ろう)の鍵(かぎ)を見(み)つけました。

第十四章(だいじゅうよんしょう)

救出(きゅうしゅつ)

一方(いっぽう)、家老(かろう)は若殿(わかとの)を腕(うで)飾(かざ)りを見(み)つけた場所(ばしょ)に案内(あんない)しました。若殿(わかとの)は「犬(いぬ)に匂(にお)いを嗅(か)がせなさい」と言(い)いました。

犬(いぬ)は絹(きぬ)の布地(きれじ)を嗅(か)がせられて、吠(ほ)え始(はじ)め、道(みち)に沿(そ)って走(はし)り始(はじ)めました。

間(ま)もなく「畜生(ちくしょう)!妖怪(ようかい)が!」と聞(き)こえてきました。

「早(はや)く!奴(やつ)らを逃(に)がしてはならない!」と若殿(わかとの)は言(い)いました。

守衛(しゅえい)らは若殿(わかとの)と共(とも)に忍者(にんじゃ)を襲(おそ)いました。一方(いっぽう)、忍者(にんじゃ)の砦(とりで)の中(なか)、ゆきはどよめきの音(おと)を聞(き)いて、窓(まど)の方(ほう)に行(い)きました。「若殿(わかとの)さまです!狐(きつね)さま、若殿(わかとの)さまを助(たす)けてくださいませんか」と頼(たの)みました。

狐(きつね)は「そのようなことはできません。若殿(わかとの)は男(おとこ)なので、自分(じぶん)の戦(たたか)いは自分(じぶん)で戦(たたか)わなければなりません」と答(こた)えました。「ここで待(ま)っていてください。戦(たたか)いが終(お)わるまで、君(きみ)を守(まも)ります」

「はい。戦(たたか)いが終(お)わるまで、ここで待(ま)ちます」とゆきは答(こた)えました。

それから若殿(わかとの)は守衛(しゅえい)らと共(とも)に忍者(にんじゃ)の大部分(だいぶぶん)を捕(と)らえましたが、残(のこ)りの忍者(にんじゃ)は逃(に)げました。

「ゆき殿(どの)はどこだ」と若殿(わかとの)は忍者(にんじゃ)に言(い)いました。

「ここです」とゆきは入口(いりぐち)で言(い)いました。

「ゆき殿(どの)!大丈夫(だいじょうぶ)ですか」と若殿(わかとの)は言(い)いました。「これを落(お)としたでしょう?」腕(うで)飾(かざ)りを見(み)せました。

「あっ!それ、無(な)くしてたんです。若殿(わかとの)さま、腕飾(うでかざ)りを見(み)つけて、返(かえ)してくださって、さらには私(わたし)をも助(たす)けてくださるなんて、本当(ほんとう)にありがとうございます」とゆきは言(い)いました。

「礼(れい)には及(およ)ばん」と若殿(わかとの)は答(こた)えました。

「狐(きつね)さま、私(わたし)を脱獄(だつごく)させて、守(まも)ってくださってどうもありがとうございます」とゆきは答(こた)えました。

狐(きつね)は「どういたしまして。他(ほか)にも君(きみ)を守(まも)ってくれる人(ひと)がいるようですね。もう一度(いちど)だけ僕(ぼく)を呼(よ)んでも構(かま)いません。頑張(がんば)ってください」と言(い)いました。

「がんばります」とゆきは答(こた)えました。

「ゆきさんと結婚(けっこん)するつもりです。もし、狐(きつね)どのが結婚式(けっこんしき)に参加(さんか)していただけたら、大変(たいへん)光栄(こうえい)です」と若殿(わかとの)は言(い)いました。

「そうですか。普段(ふだん)なら私(わたし)は人間(にんげん)の営(いとな)みとは関係(かんけい)を持(も)たないのですが、このお嬢(じょう)さんは特別(とくべつ)です。きっと結婚式(けっこんしき)に参加(さんか)できるでしょう」と狐(きつね)は答(こた)えました。

第十五章(だいじゅうごしょう)

大名(だいみょう)

結婚(けっこん)までの計画(けいかく)を立(た)て始(はじ)めました。日取(ひど)りを決(き)めて、殿様(とのさま)に招待状(しょうたいじょう)を送(おく)りました。

隣(となり)の国(くに)の大名(だいみょう)にも招待状(しょうたいじょう)を出(だ)しました。しかし、大名(だいみょう)は招待状(しょうたいじょう)が気(き)に入(い)りません。

「あの女(おんな)は前(まえ)の大名(だいみょう)の娘(むすめ)なのか?」と大名(だいみょう)は忍者(にんじゃ)の長(おさ)に言(い)いました。

「大(おお)きな町(まち)の若殿(わかとの)はそう言(い)っています」と長(おさ)は答(こた)えました。

「娘(むすめ)は前(まえ)は囚人(しゅうじん)だったのか?」と大名(だいみょう)は聞(き)きました。

「はい」と長(おさ)は答(こた)えました。

「娘(むすめ)が生(い)きていては、我々(われわれ)の悪事(あくじ)がばれてしまう。その若殿(わかとの)の家族(かぞく)は前々(まえまえ)から私(わたし)が大名(だいみょう)になることに反対(はんたい)した。若殿(わかとの)が娘(むすめ)の正当(せいとう)な継承(けいしょう)者(しゃ)としての力(ちから)を持(も)てば、私(わたし)は今(いま)の地位(ちい)を失(うしな)ってしまうではないか!なんで殺(ころ)さないのか?!」と大名(だいみょう)は叫(さけ)びました。

「大名(だいみょう)さまは茶道(さどう)家(か)と結婚(けっこん)したいのかも知(し)りませんし、命令(めいれい)をいただいておりませんし…」

「黙(だま)れ!考(かんが)えておるところだ!あっ!私(わたし)が娘(むすめ)と結婚(けっこん)すれば、誰(だれ)も継承(けいしょう)を阻止(そし)できない!」

「素晴(すば)らしい考(かんが)えでございます、大名(だいみょう)さま」

「どうしたら結婚(けっこん)できるかな。もうすぐ若殿(わかとの)と結婚(けっこん)するであろう」

「もし結婚式(けっこんしき)の前(まえ)に娘(むすめ)を連(つ)れ去(さ)れば、大名(だいみょう)さまは娘(むすめ)と結婚(けっこん)できるかも知(し)れません」

「黙(だま)れ!今(いま)考(かんが)えておるところだ。そんなに一度(いちど)に言(い)われたら、考(かんが)えることができん。あっ!娘(むすめ)を連(つ)れ去(さ)れば、結婚(けっこん)できるのか!」

「よい考(かんが)えでございます。しかし、娘(むすめ)は狐(きつね)に守(まも)られているようでございます」

「そのようだな。どうすれば妖怪(ようかい)を避(さ)けて、あの娘(むすめ)を手(て)に入(い)れることができるのか?」

「噂(うわさ)では鬼(おに)の助(たす)けを得(え)て、前(まえ)の大名(だいみょう)を倒(たお)したということです」

「あーもう、話(はなし)が長(なが)くて、ちっとも考(かんが)えられないのだ!あっ、もう一度(いちど)鬼(おに)の助(たす)けを得(え)ればいいのか」

第十六章(だいじゅうろくしょう)

鬼(おに)

大名

次(つぎ)の日(ひ)、大名(だいみょう)は忍者(にんじゃ)の長(おさ)と家来(けらい)と一緒(いっしょ)に山(やま)へ向(む)かって馬(うま)を走(はし)らせていました。間(ま)もなく岩屋(いわや)の入口(いりぐち)に着(つ)きました。

大名(だいみょう)は「ここで待(ま)て。どんなことが起(お)こっても、着(つ)いてきてはいけない」と言(い)いました。

「大名(だいみょう)さま、その場所(ばしょ)は危(あぶ)ないようです。誰(だれ)かお供(とも)を連(つ)れて行(い)った方(かた)がいいのでは…」と、長(おさ)が勧(すす)めました。

「この岩屋(いわや)の住人(じゅうにん)の力(ちから)は、私(わたし)を殺(ころ)したければ、兵(へい)が全員(ぜんいん)でかかってもかなわないほどのものだ。このより先(さき)は、わし一人(ひとり)で行(い)かなければならん」と大名(だいみょう)は答(こた)えました。

それから大名(だいみょう)はろうそくを点(とも)して、岩屋(いわや)の入口(いりぐち)に入(はい)りました。間(ま)もなく大(おお)きな洞窟(どうくつ)に来(き)ました。いきなり、太(ふと)い声(こえ)が聞(き)こえました。「俺(おれ)さまの住(す)まいに入(はい)って来(き)たのは誰(だれ)だ?」

大名(だいみょう)は深(ふか)く会釈(えしゃく)しました。「鬼(おに)さま、昔(むかし)、力(ちから)をお貸(か)しいただいた者(もの)でございます。もう一度(いちど)手伝(てつだ)ってくださいませんか」と言(い)いました。

鬼(おに)は「毎週(まいしゅう)牛(うし)を一匹(いっぴき)近(ちか)くの牧場(まきば)から取(と)っている。別(べつ)な味(あじ)が欲(ほ)しい時(とき)に、娘(むすめ)を一匹(いっぴき)百姓(ひゃくしょう)の家(いえ)から取(と)っている。今度(こんど)手伝(てつだ)ったら、何(なに)をくれるのだ?」と言(い)いました。

「前(まえ)の大名(だいみょう)の娘(むすめ)はまだ生(い)きていて、隣(となり)の国(くに)の大(おお)きな町(まち)に住(す)んでいるようです。娘(むすめ)と結婚(けっこん)するために、彼女(かのじょ)を誘拐(ゆうかい)してくださいませんか。娘(むすめ)さえ手(て)に入(い)るならば、町(まち)を全部(ぜんぶ)滅(ほろ)ぼしても構(かま)いません」と大名(だいみょう)は答(こた)えました。

「なぜ人間(にんげん)の家来(けらい)を使(つか)わないのか」と鬼(おに)は聞(き)きました。

「実(じつ)は、娘(むすめ)は狐(きつね)で守(まも)られているようです。領地(りょうち)にいた忍者(にんじゃ)が誘拐(ゆうかい)しようとしましたが、狐(きつね)が助(たす)けてしまいました」と答(こた)えました。

「狐(きつね)?煩(わずら)わしい奴等(やつら)だ。昔(むかし)から狐(きつね)が大嫌(だいきら)いだ。よしじゃあ、やってみよう」

第十七章(だいじゅうななしょう)

家来(けらい)の不満(ふまん)

一方(いっぽう)、岩室(いわむろ)の入(い)り口(ぐち)の前(まえ)で、忍者(にんじゃ)の長(おさ)は家来(けらい)と待(ま)っていました。

家来(けらい)たちは周(まわ)りを戦々恐々(せんせんきょうきょう)と見渡(みわた)していました。その内(うち)の一人(ひとり)は「ここは嫌(いや)な場所(ばしょ)だ。この近(ちか)くに鬼(おに)がいつも攻(せ)めてくるそうだね。山(やま)に行(い)いってその原因(げんいん)を調(しら)べればいいのに、どうして山(やま)に行(い)くことを禁止(きんし)してるのかな」と言(い)いました。

その話(はなし)を聞(き)くとすぐに、家来(けらい)は全員(ぜんいん)静(しず)かになっておろおろと忍者(にんじゃ)の方(ほう)を伺(うかが)いました。間(ま)もなく、家来(けらい)の長(おさ)は大(おお)きな声(こえ)で「そいつはいつも冗談(じょうだん)ばかり言(い)っているんだよ」と言(い)って最初(さいしょ)の家来(けらい)を脇(わき)へ引(ひ)き込(こ)めて、耳打(みみう)ちしました。「馬鹿者(ばかもの)!あの忍者(にんじゃ)は大名(だいみょう)の目(め)と耳(みみ)のような者(もの)だ。死(し)にたいのか?」

最初(さいしょ)の家来(けらい)の顔(かお)が青(あお)くなりました。「申(もう)し訳(わけ)ございません、頭(かしら)。忍者(にんじゃ)のことを考(かんが)えていませんでした。実(じつ)は、家内(かない)の家族(かぞく)がこの近(ちか)くに住(す)んでいて、最近(さいきん)大変(たいへん)な生活(せいかつ)を送(おこ)っています。前(まえ)の大名(だいみょう)の時代(じだい)…」

「黙(だま)れ!それは禁句(きんく)だぞ」

その瞬間(しゅんかん)、大名(だいみょう)が岩屋(いわや)から出(で)てきました。「ここでの用事(ようじ)は終(お)わった。城(しろ)へ戻(もど)ろう」と言(い)いました。

馬(うま)で城(しろ)へ戻(もど)る間(あいだ)に、忍者(にんじゃ)の長(おさ)は大名(だいみょう)の隣(となり)に座(すわ)りました。「大名(だいみょう)さま、恐(おそ)れ多(おお)くも、家来(けらい)と一緒(いっしょ)にあそこに行(い)くことは、あまり良(よ)い考(かんが)えではなかったかと存(ぞん)じます。そんなことをしたら、家来(けらい)たちは怖(こわ)がって、大名(だいみょう)様(さま)のために戦(たたか)うことには度胸(どきょう)をなくしてしまうんじゃないでしょうか」と言(い)いました。

「仕方(しかた)ない。護衛(ごえい)のない旅(たび)は安全(あんぜん)ではないからな」と大名(だいみょう)は答(こた)えました。

第十八章(だいじゅうはっしょう)

鬼(おに)の襲撃(しゅうげき)

間(ま)もなく、若殿(わかとの)とゆきの結婚式(けっこんしき)の日(ひ)になりました。いろいろな殿様(とのさま)たちが、結婚式(けっこんしき)を出席(しゅっせき)するためにその大(おお)きな町(まち)に来(き)ました。そして狐(きつね)も、人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)けた後(あと)で来(き)ました。しかし、隣(となり)の国(くに)の大名(だいみょう)は来(き)ませんでした。

結婚(けっこん)披露(ひろう)宴(えん)は城(しろ)の庭(にわ)で行(おこな)われました。綺麗(きれい)な花(はな)が、あちらにも、こちらにも咲(さ)いていました。本当(ほんとう)に素晴(すば)らしい日(ひ)でした。

突然(とつぜん)、町(まち)から叫(さけ)び声(ごえ)が聞(き)こえました。ただちに、家老(かろう)は大(おお)きな町(まち)の殿様(とのさま)に近寄(ちかよ)りました。「殿様(とのさま)、巨漢(きょかん)の鬼(おに)が町(まち)の家(いえ)を壊(こわ)して城(しろ)の方(ほう)へ来(く)るようでございます」と知(し)らせました。

「息子(むすこ)と一緒(いっしょ)に兵(へい)を駆(か)り集(あつ)めろ。わしの甲冑(かっちゅう)と武器(ぶき)を整(ととの)えさせろ」と殿様(とのさま)は家老(かろう)に言(い)いました。それから客人(きゃくじん)たちの方(ほう)に向(む)いて大(おお)きな声(こえ)で言(い)いました。「皆様(みなさま)、残念(ざんねん)ですが、大変(たいへん)なことが起(お)こっています。早(はや)く城(しろ)の中(なか)に入(はい)ってください」

間(ま)もなく、ほとんどの客人(きゃくじん)たちが城(しろ)に入(はい)った後(あと)で、若殿(わかとの)は兵(へい)と一緒(いっしょ)に外曲輪(そとくるわ)の上(うえ)に向(む)かいました。そうこうしているうちに、鬼(おに)は外曲輪(そとくるわ)までやってきました。鬼(おに)が見渡(みわた)したとき、一人(ひとり)の女性(じょせい)が見(み)えました。そのきれいな女性(じょせい)は、恐怖(きょうふ)で凍(こお)り付(つ)くようにして立(た)っていました。「ほほう」と鬼(おに)は笑(わら)いました。「お前(まえ)は大名(だいみょう)が話(はな)していた娘(むすめ)だろう。俺様(おれさま)と来(こ)い」と言(い)って手(て)を伸(の)ばして女性(じょせい)を掴(つか)み取(と)りました。

それを見(み)た時(とき)、若殿(わかとの)は「しまった、ゆきが!やめろ!ゆきを掴(つか)んだ手(て)を放(はな)せ!」と叫(さけ)びました。

第十九章(だいじゅうきゅうしょう)

鬼(おに)の敗北(はいぼく)

鬼(おに)は、娘(むすめ)を攫(さら)うと、山(やま)の方(ほう)へ向(む)かって歩(ある)き出(だ)しました。若殿(わかとの)は厩(うまや)に行(い)き、馬(うま)に乗(の)ると急(いそ)いで鬼(おに)を追(お)いかけていきました。若殿(わかとの)の従者達(じゅうしゃたち)も慌(あわ)てて若殿(わかとの)の後(あと)を追(お)いました。

一方(いっぼう)、町(まち)を抜(ぬ)けた鬼(おに)は、「なんでこんなに狐(きつね)臭(ぐさ)いんだ」と、辺(あた)りの臭(にお)いをくんくんと嗅(か)ぎながら言(い)いました。

すると、娘(むすめ)を掴(つか)んだ拳(こぶし)の中(なか)から、「このお嬢(じょう)さんは俺(おれ)が守(まも)っている。貴様(きさま)のような奴(やつ)がこの方(かた)を傷(きず)つけることは許(ゆる)さんぞ」と、その娘(むすめ)のものとは思(おも)えない、太(ふと)い声(こえ)が聞(き)こえてきました。

それを聞(き)いた鬼(おに)は何事(なにごと)かと思(おも)い、声(こえ)のする方(ほう)へ向(む)いたその時(とき)、大(おお)きな穴(あな)に足(あし)が嵌(は)まり、ひっくり返(かえ)ってしまいました。

鬼(おに)が倒(たお)れたその瞬間(しゅんかん)、坂道(さかみち)の曲(ま)がり角(かど)から馬(うま)に乗(の)った若殿(わかとの)が現(あらわ)れました。鬼(おに)は腕(うで)を伸(の)ばして地面(じめん)から二(に)、三尺(さんしゃく)体(からだ)を持(も)ち上(あ)げ、立(た)ち上(あ)がろうとしましたが、その鬼(おに)の広(ひろ)い背中(せなか)に、若殿(わかとの)が乗(の)っていた馬(うま)から跳(と)び移(うつ)り、刀(かたな)で太(ふと)い鬼(おに)の首(くび)をスパッと切(き)り落(お)としました。鬼(おに)の首(くび)は、ごとりと鈍(にぶ)い音(おと)を立(た)てて落(お)ち、辺(あた)り一面(いちめん)が血(ち)の海(うみ)になりました。首(くび)が落(お)ると同時(どうじ)に、鬼(おに)の体(からだ)は再(ふたた)び倒(たお)れ、しばらくの間(あいだ)その巨大(きょだい)な体(からだ)はもう死(し)んでいることに気(き)がついていないかのように震(ふる)えていました。鬼(おに)の体(からだ)から飛(と)び降(お)りた若殿(わかとの)は、顔(かお)までも血(ち)しぶきがかかりましたが、自分(じぶん)の顔(かお)が血(ち)で染(そ)まっていることよりも、ゆきの安否(あんぴ)の方(ほう)が気(き)がかりでなりませんでした。「ゆき!どこだ!大丈夫(だいじょうぶ)か!」と辺(あた)りを見回(みまわ)し、叫(さけ)びました。

「心配(しんぱい)はございません」と、聞(き)き覚(おぼ)えがある声(こえ)がし、若殿(わかとの)が声(こえ)のする方(ほう)へ顔(かお)を向(む)けると、そこには狐(きつね)が立(た)っていました。「城(しろ)へお帰(かえ)りください。本物(ほんもの)のお嬢(じょう)さんは無事(ぶじ)で城(しろ)にいます」と狐(きつね)は言(い)いました。

若殿(わかとの)は「狐(きつね)どの!これはこれは驚(おどろ)きました。しかし、私(わたし)の目(め)には、ゆき殿(どの)が鬼(おに)に攫(さら)われたように映(うつ)ったのですが」と若殿(わかとの)が目(め)を丸(まる)くしながら、狐(きつね)に訊(たず)ねると、狐(きつね)は少(すこ)し笑(わら)いながら、「こんな風(ふう)でしたか」と言(い)って、ゆきの姿(すがた)に化(ば)けました。それから、もう一度(いちど)狐(きつね)の姿(すがた)に戻(もど)りました。

「これはなんと奇(き)ッ怪(かい)な!」若殿(わかとの)は驚(おどろ)いて声(こえ)をあげました。若殿(わかとの)はゆきの無事(ぶじ)を知(し)ると、ほぅ…っと胸(むね)を撫(な)で下(お)ろしました。今(いま)までの緊張(きんちよう)が解(ほぐ)れたのか、一瞬(いっしゅん)、よろよろと倒(たお)れそうになりましたが、狐(きつね)の方(ほう)に向(む)き直(なお)ると、深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げ、「いつもありがとうございます。今後(こんご)はいつでも私(わたし)の城(しろ)へいらしてください。お礼(れい)を差(さ)し上(あ)げたいので」と、言葉(ことば)を残(のこ)し、馬(うま)で城(しろ)へ帰(かえ)りました。狐(め)は若殿(わかとの)が去(さ)っていく姿(すがた)を眺(なが)めながら、「それなら今度(こんど)またゆき殿(どの)を見(み)に行(い)ってみるかな」と呟(つぶや)きました。

第二十章(だいにじっしょう)

殿様(とのさま)の評議(ひょうぎ)

間(ま)もなく若殿(わかとの)たちは城(しろ)に帰(かえ)ってきました。若殿(わかとの)は城(しろ)の中(なか)に入(はい)るとすぐ、「ゆき!ゆきはどこだ!無事(ぶじ)であったか?」と大(おお)きな声(こえ)でゆきの名前(なまえ)を呼(よ)びました。

若殿(わかとの)の声(こえ)は、玄関(げんかん)から遠(とお)く離(はな)れた場所(ばしょ)にいたゆきにも充分(じゅうぶん)に届(とど)くほど、大(おお)きなものでした。ゆきが、逸(はや)る気持(きも)ちを抑(おさ)えつつ、駆(か)け足(あし)で玄関(げんかん)に向(む)かうと、そこには、なんと若殿(わかとの)が血(ち)まみれで立(た)っていました。

驚(おどろ)いたゆきは、「若殿(わかとの)さまこそご無事(ぶじ)でございましたか。血(ち)まみれではございませんか」と訊(たず)ねると、若殿(わかとの)は、「心配(しんぱい)は要(い)らぬ。これは鬼(おに)の返(かえ)り血(ち)を浴(あ)びただけだ」と答(こた)えました。血(ち)まみれではありましたが、その笑顔(えがお)は、いつもの若殿(わかとの)の優(やさ)しい笑顔(えがお)でした。

ゆきが、血(ち)で汚(よご)れた若殿(わかとの)の顔(かお)を拭(ふ)こうとしたその時(とき)、家老(かろう)が若殿(わかとの)のところに駆(か)け寄(よ)って来(き)ました。家老(かろう)は若殿(わかとの)の顔(かお)を見(み)たとたん、安堵(あんど)の笑(え)みを浮(う)かべながら、「若殿様(わかとのさま)ご無事(ぶじ)で何(なに)よりでございます。ご帰還(きかん)なされたばかりでお疲(つか)れのところとは存じますが、我(わ)が殿(との)がお呼(よ)びでございます。只今(ただいま)、近隣諸国(きんりんしょこく)の城主様達(じょうしゅさまたち)と一緒(いっしょ)に評議(ひょうぎ)をなさっています。若殿様(わかとのさま)とゆき様(さま)も参加(さんか)されるようおっしゃっておられます」と、早口(はやくち)で言(い)いました

若殿(わかとの)は「うむ。分(わ)った。ゆき、来(こ)い」と言(い)い、評議(ひょうぎ)の場(ば)へゆきと一緒(いっしょ)に向(む)かいました。

そこではちょうど髭(ひげ)の大名(だいみょう)が「此度(こたび)の襲撃(しゅうげき)は言語道断(ごんごどうだん)です!あの大名(だいみょう)を攻(せ)めるべきです」といきり立(た)っているところでした。

すると、丸禿(まるは)げの大名(だいみょう)が「まあまあ。どうして陰(かげ)で糸(いと)を引(き)いているのがあの大名(だいみょう)だと言(い)えるのですか」と尋(たず)ねました。

髭(ひげ)の大名(だいみょう)は「鬼(おに)とつながりのある大名(だいみょう)なんて、他(ほか)に考(かんが)えられますか」と、興奮(こうふん)しながら言(い)い返(かえ)しました。

城主(じょうしゅ)は「まあまあ、お二人(ふたり)とも少(すこ)し落(お)ち着(つ)いて…今(いま)、鬼(おに)がどのようにしてこの国(くに)までやって来(き)たのか、家来(けらい)に調(しら)べさせています。他(ほか)の国(くに)から来(き)たのかもしれませんよ」と、二人(ふたり)をなだめるように言(い)いました。そして、若殿(わかとの)の方(ほう)へ向(む)き、「息子(むすこ)よ、鬼(おに)はどこへ行(い)ったのだ」と聞(き)きました。

「地獄(じごく)へと送(おく)ってやりました。この太刀(たち)で首(くび)を切(き)り落(お)としてやりましたから」といつもは優(やさ)しい微笑(びしょう)が印象的(いんしょうてき)な若殿(わかとの)が満面(まんめん)ににやりと誇(ほこ)らしげな笑(え)みを浮(う)かべて言(い)いました。

その様子(ようす)を見(み)ると、胸(むね)を張(は)っていてもしばらく言葉(ことば)に詰(つ)まっている若殿(わかとの)の父上(ちちうえ)を横目(よこめ)に、今(いま)まで黙(だま)って聞(き)いていた、太(ふと)った大名(だいみょう)が「もしその大名(だいみょう)が今回(こんかい)の襲撃(しゅうげき)の黒幕(くろまく)だと証明(しょうめい)され、われらが攻(せ)め勝(か)ったとしましょう。そうなると問題(もんだい)はその後(あと)のことです。いったい誰(だれ)が替(か)わって…そ、その、その国(くに)を治(おさ)めることになるのですか」と聞(き)きました。

城主(じょうしゅ)は「ゆき、こちらに参(まい)れ」と、少(すこ)し強(つよ)い口調(くちょう)で、ゆきを呼(よ)び出(だ)しました。ゆきが殿様(とのさま)の傍(そば)に寄(よ)ると、「あの国(くに)の正統(せいとう)な継承者(けいしょうしゃ)はこの者(もの)です。この者(もの)を措(お)いて他(ほか)にはおりますまい。親友(しんゆう)であった先(さき)の大名(だいみょう)の唯一(ゆいいつ)の忘(わす)れ形見(かたみ)なのです」と言(い)いました。

ゆきは、城主(じょうしゅ)の考(かんが)えをそこで初(はじ)めて知(し)りました。「私(わたし)がでございますか?でも、国(くに)を治(おさ)めるなんて、とんでもないことでございます」と、驚(おどろ)き目(め)を丸(まる)くして、どこかに隠(かく)れたい様子(ようす)で言(い)いました。

城主(じょうしゅ)は「心配(しんぱい)は要(い)らぬ。息子(むすこ)は生(う)まれた時(とき)から、わしの下(もと)で国(くに)を治(おさ)めることを学(まな)んできておる。そなたに助言(じょげん)することができよう」と言(い)いました。

太(ふと)った大名(だいみょう)は「大名(だいみょう)の討伐(とうばつ)と領地(りょうち)の件(けん)はまったく別問題(べつもんだい)です。討伐(とうばつ)の結果(けっか)によりこの国(くに)に豊(ゆた)かな領地(りょうち)が加(くわ)わることは我々(われわれ)としては承知(しょうち)しかねますな」と言(い)いました。

それに答(こた)えるように若殿(わかとの)は「私(わたくし)には弟(おとうと)がおります。もし、ゆきがその国(くに)を治(おさ)めることになれば、私(わたし)はこの国(くに)の跡目(あとめ)を継(つ)がぬつもりでございます」と言(い)いました。

丸禿(まるは)げの大名(だいみょう)は「たしかに、先代(せんだい)の大名(だいみょう)が亡(な)くなるまであの国(くに)はとても豊(ゆた)かな国(くに)でしたが、今(いま)の代(だい)になってからは悪政(あくせい)によって、急(きゅう)に貧(まず)しくなっているという噂(うわさ)です」といいました。

髭(ひげ)の大名(だいみょう)は不思議(ふしぎ)そうに「そもそもどうしてこのお嬢(じょう)さんが先(さき)の大殿(おおとの)の娘御(むすめご)だとご存知(ぞんじ)なのですか」と聞(き)きました。

そこで、家老(かろう)が改(あらた)めて、ゆきの素性(すじょう)についての調査(ちょうさ)の結果(けっか)を報告(ほうこく)しました。

その後(あと)隣国(りんこく)の大名(だいみょう)たちは膝(ひざ)を突(つ)き合(あ)わせて、その大名(だいみょう)打倒(だとう)のための様々(さまざま)な計画(けいかく)を立(た)てました。

第二十一章(だいにじゅういっしょう)

大名(だいみょう)の返事(へんじ)

次(つぎ)の日(ひ)、鬼(おに)の足取(あしど)りを調(しら)べに行(い)った兵(へい)が戻(もど)ってきました。兵(へい)の話(はなし)によると、鬼(おに)は隣(となり)の国(くに)から来(き)たようでした。早速(さっそく)、兵達(へいたち)は鬼(おに)の首(くび)を荷車(にぐるま)で国境(くにざかい)まで運(はこ)びました。鬼(おに)が死(し)んだという話(はなし)は、あっという間(ま)に国中(くにじゅう)に広(ひろ)まりました。百姓(ひゃくしょう)たちは、とても喜(よろこ)びましたが、ゆきを手(て)に入(い)れる計画(けいかく)がうまくいかなかったので、大名(だいみょう)は喜(よろこ)ぶことが出来(でき)ませんでした。

そのうち、ゆき達(たち)の婚礼(こんれい)に参加(さんか)していた近隣諸国(きんりんしょこく)の領主達(りょうしゅたち)のほとんどは、その大名(だいみょう)を倒(たお)すために、兵(へい)を送(おく)り出(だ)してきました。続々(ぞくぞく)と戦(いくさ)の準備(じゅんび)のために兵(へい)が到着(とうちゃく)しました。そして、ゆきの義父(ぎふ)となった殿様(とのさま)が、総大将(そうだいしょう)として隣(となり)の国(くに)の大名(だいみょう)に対(たい)し、ゆきに領主(りょうしゅ)の地位(ちい)を譲(ゆず)るように使者(ししゃ)を遣(つか)わしました。

その行為(こうい)に大名(だいみょう)は大変(たいへん)気分(きぶん)を損(そこ)ね、「このようなわけの分(わ)からん要求(ようきゅう)を突(つ)きつけてくるとは、いったいどういうことだ?どうしてわしが前(まえ)の大名(だいみょう)の娘(むすめ)だと名乗(なの)る女子(おなご)にこの国(くに)を譲(ゆず)らねばならんのだ。そもそもその女(おんな)は何者(なにもの)だというのだ?所詮(しょせん)百姓(ひゃくしょう)の娘(むすめ)だろう」と、目(め)をつり上(あ)げて、使者(ししゃ)を怒鳴(どな)り散(ち)らしました。

使者(ししゃ)は、「ゆき様(さま)がこちらの国(くに)を治(おさ)めるか否(いな)かに関(かか)わらず、鬼(おに)の襲撃(しゅうげき)の件(けん)で、あなた様(さま)には領主(りょうしゅ)の座(ざ)を退(しりぞ)いていただかねばならぬと我(わ)が殿達(とのたち)は申(もう)しております」と、落(お)ち着(つ)き払(はら)って答(こた)えました。

「わ…わしはそんな鬼(おに)のことなど知(し)らぬ!!」と、怒(いか)りのあまり耳(みみ)まで真(ま)っ赤(か)にしながら大名(だいみょう)は答(こた)えました。

使者(ししゃ)は、「襲撃(しゅうげき)の時(とき)、その鬼(おに)が『そいつは大名(だいみょう)が話(はな)していた娘(むすめ)だろう』と言(い)ったのを皆(みな)が聞(き)いておりました。そして、鬼(おに)の足取(あしど)りを調(しら)べると、この国(くに)から来(き)たことが判明(はんめい)しました。もはや言(い)い逃(のが)れはできますまい。ここは領地(りょうち)をお譲(ゆず)りになられるのが得策(とくさく)かと思(おも)われます」と言(い)いました。

大名(だいみょう)は「そなたの主(あるじ)がわしに鬼(おに)の首(くび)を送(おく)ったように、わしも同(おな)じようにしてやろう。そやつの首(くび)をはねて送(おく)り返(かえ)してやれ」と家来(けらい)に怒鳴(どな)りつけました。

使者(ししゃ)は、その言葉(ことば)を聞(き)くやいなや身構(みがま)えましたが、刀(かたな)を抜(ぬ)きかけたその瞬間(しゅんかん)、すでに首(くび)が宙(ちゅう)に飛(と)んでいました。首(くび)が大名(だいみょう)のところまで転(ころ)がる前(まえ)に、血(ち)だまりに頽(くずお)れる使者(ししゃ)の体(からだ)の背後(背後)で、忍者(にんじゃ)の長(おさ)がもう血(ち)に染(そ)まった刀(かたな)を拭(ふ)いているのを見(み)て、大名(だいみょう)は満足(まんぞく)げに目(め)を細(ほそ)めました。

そして、使者(ししゃ)の首(くび)は主(あるじ)の下(もと)へ送(おく)り返(かえ)されることとなったのです。

第二十二章(だいにじゅうにしょう)

殿様(とのさま)の返事(へんじ)

間(ま)もなく大名(だいみょう)の使(つか)いが使者(ししゃ)の首(くび)をその町(まち)に引(ひ)き渡(わた)しに来(き)ました。そして、殿様(とのさま)の御前(おまえ)で、使(つか)いは思(おも)い詰(つ)めたように切(き)り出(だ)しました。

「畏(おそ)れながら我(わ)が殿(との)は、あなた様(さま)が遣(つか)わされた使者(ししゃ)の首(くび)を刎(は)ねさせ、私(わたくし)に送(おく)りつけるようにと命(めい)じました。お確(たし)かめください。このようなことを平気(へいき)でしたり、鬼(おに)に百姓(ひゃくしょう)を襲(おそ)わせるような理不尽(りふじん)な主(あるじ)には、もはやお仕(つか)えすることはできません。ずうずうしいことは重々(じゅうじゅう)承知(しょうち)の上(うえ)ですが、あなた様(さま)にお仕(つか)えさせて頂(いただ)くわけには参(まい)りませんでしょうか。願(ねが)いを聞(き)き届(とど)けていただけない場合(ばあい)は、浪人(ろうにん)になる覚悟(かくご)もできております」その使者(ししゃ)の眼差(まなざ)しは、真剣(しんけん)そのものでした。

殿様(とのさま)は、その瞳(ひとみ)を見(み)つめながら、「ふむ。家老(かろう)、この首(くび)を家族(かぞく)の元(もと)に届(とど)け、丁重(てちょう)に葬(ほうむ)ってやれ」と言(い)いつけました。そして家老(かろう)が首(くび)の入(はい)った箱(はこ)を持(も)ち去(さ)ると、「そなたの仲間(なかま)も同(おな)じように考(かんが)えておるのか」と、使者(ししゃ)に訊(き)きました。

大名(だいみょう)の使者(ししゃ)は、頭(あたま)を下(さ)げたまましばらく考(かんが)えたのち、おそるおそる語(かた)り始(はじ)めました。「我(わ)が殿(との)はとても恐(おそ)ろしいお方(かた)なので、皆(みな)殿(との)を恐(おそ)れ、本音(ほんね)を語(かた)る者(もの)などおりません。ですから、あくまで私(わたくし)の推測(ういそく)ですが、殿(との)の下(もと)を去(さ)りたがっている者(もの)は少(すく)なくはないでしょう。しかし、一族(いちぞく)に対(たい)する報復(ほうふく)を恐(おそ)れ、国(くに)を出(で)られない者(もの)もおりますし、中(なか)には我(わ)が殿(との)のような厳(きび)しいお方(かた)こそ真(しん)の主(あるじ)だと考(かんが)える者達(ものたち)もおるようでございます」と、殿様(とのさま)の目(め)を真(ま)っ直(す)ぐに見(み)つめながら答(こた)えました。

「そうか。わしの家来(けらい)になりたいのなら、後(あと)で家老(かろう)に話(はな)してみるが良(よ)かろう。しかし、わしの軍勢(ぐんぜい)に入(はい)る前(まえ)に、この仕打(しう)ちに対(たい)するわしの返事(へんじ)を持(も)って国(くに)へ戻(もど)れ。わしの返事(へんじ)はこうだ。『貴殿(きでん)の胸(むね)の内(うち)、よく分(わ)かった。そちらがそう出(で)るならこちらにも考(かんが)えがある。お覚悟(かくご)召(め)されよ』とな。そしてできるだけ多(おお)くの叛意(はんい)を持(も)つ者(もの)を連(つ)れてここへ戻(もど)って参(まい)れ」そして殿様(とのさま)は声(こえ)を張(は)り上(あ)げて叫(さけ)びました。「これは戦(いくさ)だ!」

第二十三章(だいにじゅうさんしょう)

若殿(わかとの)の出陣(しゅつじん)

間(ま)もなくして戦(いくさ)の準備(じゅんび)が整(ととの)いました。殿様(とのさま)と若殿(わかとの)は兵(へい)と一緒(いっしょ)に出(で)かけるところでした。「ゆき、行ってくる。私(わたし)が留守(るす)の間(あいだ)、家老(かろう)から国(くに)の治(おさ)め方(かた)を学(まな)びなさい」と若殿(わかとの)は言(い)いました。

「お気(き)をつけて、どうぞご無事(ぶじ)で」とゆきは心配(しんぱい)そうに答(こた)えました。若殿(わかとの)は笑顔(えがお)で「うむ」と答(こた)え、颯爽(さっそう)と馬(うま)に乗(の)り、戦場(せんじょう)へ向(む)かっていきました。ゆきはその出陣(しゅつじん)を見(み)えなくなるまでじっと見送(みおく)りました。

若殿(わかとの)が帰(かえ)ってくるのを待(ま)つ間(あいだ)、ゆきは毎日(まいにち)、朝(あさ)から晩(ばん)まで一生懸命(いっしょうけんめい)国(くに)の治(おさ)め方(かた)を勉強(べんきょう)しました。時々(ときどき)殿様(とのさま)や若殿(わかとの)からの手紙(てがみ)を受(う)け取(と)ることもありました。殿様(とのさま)の手紙(てがみ)の内容(ないよう)はほとんどは、戦(いくさ)の報告(ほうこく)や家老(かろう)への命令(めいれい)でしたが、若殿(わかとの)からの手紙(てがみ)の内容(ないよう)の大半(たいはん)は、ゆきへの想(おも)いを綴(つづ)ったもので、それはまるで恋文(こいぶみ)のようでした。ゆきはその手紙(てがみ)を、自分(じぶん)の宝物(たからもの)を入(い)れている化粧箱(けしょうばこ)の中(なか)に保管(ほかん)し、寝(ね)る前(まえ)に必(かなら)ずそれを読(よ)み返(かえ)しながら、若殿(わかとの)の無事(ぶじ)を祈(いの)っていました。そんな行為(こうい)が日課(にっか)になりつつあった、ある日(ひ)のことです。

その日(ひ)の指導(しどう)が終(お)わった時(とき)、自分(じぶん)の部屋(へや)でお点前(てまえ)を練習(れんしゅう)しに戻(もど)ろうとするゆきに、家老(かろう)が「ゆき様(さま)には、国(くに)を治(おさ)める資質(ししつ)がおありです。読(よ)み書(か)きは、お祖母様(ばあさま)から学(まな)ばれたのでしょうか」と尋(たず)ねました。

ゆきは手(て)を止(と)め、「そうです。書物(しょもつ)を読(よ)むのが大好(だいす)きです。でも、私(わたし)の村(むら)には読(よ)み物(もの)があまりなかったので、おばあさまの『源氏物語(げんじものがたり)』以外(いがい)、あまり読(よ)んだことがありません」と答(こた)えました。

すると、家老(かろう)は、「さようでございますか。では源氏物語(げんじものがたり)は、全(すべ)てお読(よ)みになりましたか」と家老(かろう)は聞(き)くと、ゆきは少(すこ)し残念(ざんねん)そうに「おばあさまの本(ほん)は数章(すうしょう)が抜(ぬ)けておりましたので、全(すべ)てを読(よ)んではおりません」と答(こた)えました。

「さようでございますか。ここには『源氏物語(げんじものがたり)』の全巻(ぜんかん)と、他(ほか)にもいろいろな本(ほん)がございます。もしお暇(ひま)があれば、どうぞお読(よ)みください」と家老(かろう)は優(やさ)しく言(い)いました。

第二十四章(だいにじゅうよんしょう)

大名(だいみょう)の思(おも)い付(つ)き

殿様(とのさま)の同盟軍(どうめいぐん)が隣(となり)の国(くに)に攻(せ)め入(い)ると、その国(くに)の兵(へい)は大名(だいみょう)の城(しろ)へ退却(たいきゃく)し、間(ま)もなく殿様(とのさま)はその城(しろ)を包囲(ほうい)し、攻撃(こうげき)し始(はじ)めました。

大名(だいみょう)は激高(げっこう)し、忍者(にんじゃ)に言(い)いました。「馬鹿(ばか)な鬼(おに)め、なぜあの時(とき)の襲撃(しゅうげき)で死(し)んでしまったのだ?」

すると忍者(にんじゃ)は、「私(わたし)は鬼(おに)のことは存(ぞん)じませんでした」と冷静(れいせい)に答(こた)えました。

大名(だいみょう)は、「あの連中(れんちゅう)は、襲撃(しゅうげき)がわしのせいだと責(せ)めておる!わしが命(めい)じたわけでもないのに!」と言(い)いながら座布団(ざぶとん)を取(と)り、裂(さ)き始(はじ)めました。

忍者(にんじゃ)は、「左様(さよう)でございますか」と瞬(まばた)きもせず答(こた)えました。

大名(だいみょう)は裂(さ)かれた座布団(ざぶとん)を床(ゆか)に投(な)げ、舌打(したう)ちをし「どうすればいい?向(む)こうは多勢(たぜい)である上(うえ)に、わしの家来(けらい)どもはあの有様(ありさま)だし、打(う)つ手(て)がない」と哀(あわ)れっぽい声(こえ)で言(い)いました。

忍者(にんじゃ)は表情(ひょうじょう)を変(か)えずに、「左様(さよう)でございますか」と繰(く)り返(かえ)しました。

その声(こえ)に反感(はんかん)が籠(こ)もっているのに気付(きづ)かなかったのか、大名(だいみょう)は、「そうだ!忍者(にんじゃ)のお前(まえ)なら、敵陣(てきじん)に入(はい)って、あの殿(との)と息子(むすこ)を殺(ころ)すことができるだろう」と言(い)い、輝(かがや)きを取(と)り戻(もど)した目(め)を忍者(にんじゃ)の方(ほう)へやっとはじめて向(む)けました

「それはそうでございますが、そう簡単(かんたん)にはいきますまい。狐(きつね)の襲撃(しゅうげき)の際(さい)、私(わたし)は家来(けらい)を全(すべ)て失(うしな)いましたし、相手方(あいてがた)の警護(けいご)は厳重(げんしゅう)でございます」と忍者(にんじゃ)は冷(つめ)たく答(こた)えました。

忍者(にんじゃ)は大名(だいみょう)とは反対(はんたい)に、冷静沈着(れいせいちんちゃく)そのものでした。大名(れんちゅう)は、その冷静(れいせい)さの理由(りゆう)が分(わ)からないまま、それに対(たい)して怒(いか)りをますます増幅(ぞうふく)させました。大名(だいみょう)はいらいらしながら「つべこべいわずにやれ!」と叫(さけ)びました。

「仰(おお)せの通(とお)りに」と忍者(にんじゃ)は答(こた)え、部屋(へや)から出(で)て行(い)きました。襖(ふすま)が閉(し)まると、それまで冷(ひ)え切(き)っていた部屋(へや)の温度(おんど)がふっと元(もと)に突然(とつぜん)戻(もど)ったようでしたが、それすらも大名(だいみょう)は気(き)づかないようでした。

第二十五章(だいにじゅうごしょう)

忍者(にんじゃ)の思(おも)い付(つ)き

その夜(よる)、忍者(にんじゃ)の長(おさ)は黒装束(くろしょうぞく)に身(み)に包(つつ)み、城(しろ)から抜(ぬ)け出(だ)し、殿様(とのさま)の野営地(やえいち)に忍(しの)び込(こ)みました。番兵(ばんぺい)の目(め)を注意深(ちゅういぶか)く掻(か)い潜(くぐ)りながら、忍者(にんじゃ)は殿様(とのさま)の本陣(ほんじん)にゆっくり近(ちか)づいてゆきました。しばらくして、忍者(にんじゃ)は抜(ぬ)け出(だ)した時(とき)と同(おな)じように、注意深(ちゅういぶか)く音(おと)を立(た)てずに城(しろ)に戻(もど)り、大名(だいみょう)の元(もと)へ報告(ほうこく)に行(い)きました。

大名(だいみょう)が「事(こと)は済(す)んだのか?」と聞(き)きました。

忍者(にんじゃ)は大名(だいみょう)に近(ちか)づき、「はい」と答(こた)えました。

大名(だいみょう)が「よかろう…」と言(い)いかけたその時(とき)、最後(さいご)の言葉(ことば)を言(い)い終(お)える前(まえ)に、忍者(にんじゃ)は音(おと)もなく刀(かたな)を抜(ぬ)き、大名(だいみょう)の首(くび)を、その鋭(するど)い刀(かたな)で切(き)り落(お)としていました。血(ち)のついた刀(かたな)をそっと拭(ふ)いた後(あと)、忍者(にんじゃ)は城(しろ)の門(もん)を開(あ)け、兵(へい)を迎(むか)え入(い)れて、殿様(とのさま)たちと落(お)ち合(あ)いました。

忍者(にんじゃ)は、「お約束(やくそく)の通(とお)り、大名(だいみょう)は始末(しまつ)いたしました」と忍者(にんじゃ)は殿様(さのとま)言(い)いました。

殿様(とのさま)は重(おも)そうな袋(ふくろ)を渡(わた)し、「約束(やくそく)の報酬(ほうしゅう)だ、受(う)け取(と)れ。しかし、主人(しゅじん)を殺(ころ)すのに手(て)を貸(か)すような者(もの)を我(わ)が領内(りょうない)にとどまらせるわけにはいかない。早々(そうそう)に立(た)ち去(さ)るのだ。さもなくばお前(まえ)の命(いのち)は保障(ほしょう)できぬ」と殿様(とのさま)は言(い)いました。

「承知(しょうち)いたしました。これほどのものを頂(いただ)きましたので、もはや宮仕(みやづか)えをする必要(ひつよう)はございません。自分(じぶん)で道場(どうじょう)でも構(かま)えてやっていこうと思(おも)っております」と忍者(にんじゃ)は答(こた)え、城(しろ)から立(た)ち去(さ)ろうとしました。

「そなた、待(ま)て」と若殿(わかとの)は言(い)いました。「なぜ、我(われ)らに寝返(ねがえ)ったのだ?」

忍者(にんじゃ)は、しばしとどまり、「忍(しの)びの身(み)でございますから、侍(さむらい)のような栄誉(えいよ)はございませんが、我(わ)が殿(との)の為(ため)に、十五年間(じゅうごねんかん)、全身全霊(ぜんしんぜんれい)を捧(ささ)げていました。しかし、その期間(きかん)我(わ)が殿(との)は私(わたし)をあまり評価(ひょうか)してくださいませんでした。しかし、私(わたし)はそれでも、殿(との)のためにと今(いま)まで我慢(がまん)に我慢(がまん)を重(かさ)ねていましたが、今日(きょう)になり初(はじ)めて、我(わ)が殿(との)が自分(じぶん)を守(まも)ることしか頭(あたま)になく、家来(けらい)の命(いのち)を軽(かる)く考(かんが)えておられるのを知(し)り、ついに堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切(き)れてしまいました。仮(かり)に私(わたし)が我(わ)が殿(との)をこの危機(きき)から助(たす)けたとしても、すぐに他国(たくに)がまた我(わ)が殿(との)の命(いのち)を狙(ねら)うでしょう」

「そうなるだろうな」と殿様(とのさま)は答(こた)えました。

「それが私(わたし)の答(こた)えでございます」と忍者(にんじゃ)は答(こた)え、城(しろ)から立(た)ち去(さ)りました。

第二十六章(だいにじゅうろくしょう)

ゆきの出発(しゅっぱつ)

隣国(りんこく)の城(しろ)が、殿様(とのさま)の手中(しゅちゅう)に落(お)ちた後(あと)しばらくして、殿様(とのさま)は自分(じぶん)の城(しろ)に戻(もど)りました。ゆきは、「お義父上(ちちうえ)さま、お帰(かえ)りなさいませ。若殿(わかとの)さまはどちらにいらっしゃいますか。ご無事(ぶじ)でございますか」と尋(たず)ねました。

殿様(とのさま)は、「心配(しんぱい)無用(むよう)だ。息子(むすこ)はあの国(くに)の城(しろ)に留(とど)まっている。ゆき、今(いま)から息子(むすこ)に逢(あ)いに行(い)きなさい。旅支度(たびしたく)は家老(かろう)が手(て)を貸(か)してくれるだろう」と答(こた)えました。それからゆきは家老(かろう)の助(たす)けを借(か)り、旅支度(たびしたく)を整(ととの)えました。

一方(いっぽう)、敗北(はいぼく)した大名(だいみょう)の国(くに)のあちらこちらで、このような噂(うわさ)が飛(と)び交(か)いました。

「前(まえ)の殿様(とのさま)の姫君(ひめぎみ)が来(く)るそうだ」

「なんと?前(まえ)の殿様(とのさま)の一族(いちぞく)は皆(みな)すでに死(し)んでしまったはずだが…」

「ゆきという姫君(ひめぎみ)が祖母(そぼ)とともに逃(に)げて、祖母(そぼ)が密(ひそ)かに育(そだ)てていたらしい。最近(さいきん)、その姫君(むすめ)は隣(となり)の国(くに)の若殿(わかとの)と結婚(けっこん)したそうだ」

「面白(おもしろ)そうだね。その姫君(ひめぎみ)を見(み)に行(い)こう」

しばらくして、ゆきは駕籠(かご)に乗(の)って、若殿(わかとの)が待(ま)つ国(くに)へ向(む)かいました。国境(くにざかい)には、老若男女(ろうにゃくなんにょ)を問(と)わず多(おお)くの人々(ひとびと)が詰(つ)め掛(か)けていました。ゆきはこんな会話(かいわ)を耳(みみ)にしました。

「あの一行(いちぎょう)がゆき様(さま)じゃないだろうか!」

「えっ、どこに?」

「ほら、あの駕籠(かご)に!」

「よく見(み)えないぞ!」

ゆきは付(つ)き添(そ)いの従者(じゅうしゃ)に「止(と)めてください!あの者(もの)たちに話(はなし)があります」と言(い)いました。

馬(うま)でゆきに従(したが)っていた従者(じゅうしゃ)が、「それはいかがなものでしょうか。おやめになった方(ほう)がよろしいかと存(ぞん)じますが」と言(い)いました。

「この国(くに)を治(おさ)めることになるなら、あの者(もの)たちの助(たす)けを借(か)りることが最善(さいぜん)ではありませんか。どうしても話(はな)す必要(ひつよう)があるのです」とゆきは答(こた)えました。

第二十七章(だいにじゅうななしょう)

ゆきの演説(えんぜつ)

ゆきは駕籠(かご)を降(お)り、その側(そば)にある岩(いわ)に登(のぼ)りると、大(おお)きな喝采(かっさい)が沸(わ)き起(お)こりました。ゆきは村人(むらびと)の興奮(こうふん)を制(せい)すように両手(りょうて)を挙(あ)げ、そのまま静(しず)かになるのを待(ま)ちました。人込(ひとご)みが静(しず)かになっていくのを見届(みとど)けてから大(おお)きな声(こえ)ではっきりと、ゆきはこう言(い)いました。

「私(わくたし)は前(まえ)の大名(だいみょう)の娘(むすめ)、ゆきです。父上(ちちうえ)が攻(せ)め滅(ほろ)ぼされた時(とき)、祖母(そぼ)が私(わたくし)を連(つ)れて小(ちい)さな村(むら)に落(お)ち延(の)び、私(わたし)はそこで人(ひと)知(し)れず育(そだ)てられました」

「数ヶ月(すうかげつ)前(まえ)に祖母(そぼ)は亡(な)くなり、その後(あと)、私(わたくし)は隣国(りんごく)の都(みやこ)に行(い)きました。幸運(こううん)と機会(きかい)に恵(むぐ)まれて、数週間前(すうしゅうかんまえ)その町(まち)の若殿(わかとの)さまに嫁(とつ)ぎました」

「その結婚式(けっこんしき)の日(ひ)に、この国(くに)から来(き)た鬼(おに)が町(まち)を襲撃(しゅうげき)し、私(わたくし)を連(つ)れ去(さ)ろうとしました。でも、狐(きつね)どののおかげで若殿(わかとの)さまはその鬼(おに)の首(くび)を切(き)り落(お)とすことができたのです」と言(い)うと、もう一度(いちど)喝采(かっさい)が沸(わ)き起(お)こりました。

「その結婚式(けっこんしき)に参加(さんか)していた殿様(とのさま)たちは、この国(くに)の大名(だいみょう)を倒(たお)すことを決心(けっしん)しました。その大名(だいみょう)は任(にん)を退(と)くことを拒(こば)んだので、殿様(とのさま)たちはその大名(だいみょう)を滅(ほろ)ぼすために戦(いくさ)を始(はじ)めました。落城(らくじょう)した時(とき)、その大名(だいみょう)は死(し)にました」とゆきが言(い)うと、またしても喝采(かっさい)が沸(わ)き起(お)こりました。

「私(わたくし)が前(まえ)の大名(だいみょう)の娘(むすめ)であり、最後(さいご)の子孫(しそん)でもあるので、殿様(とのさま)たちは私(わたくし)に、若殿(わかとの)さまと共(とも)に、この国(くに)を統治(とうじ)するようおっしゃいました。そういう訳(わけ)でここに来(き)ました。城(しろ)へ行(い)く途中(とちゅう)なのです」

「父上(ちちうえ)の時代(じだい)にはこの国(くに)は豊(ゆた)かだったと聞(き)きましたが、父上(ちちうえ)が戦(いくさ)に敗(やぶ)れ、あの大名(だいみょう)の時代(じだい)になると、このように貧(まず)しくなりました。私(わたくし)の夢(ゆめ)はこの国(くに)をもう一度(いちど)豊(ゆた)かにすることです。けれども、この夢(ゆめ)を叶(かな)えるには、皆(みな)さんの助(たす)けが必要(ひつよう)なんです」とゆきが言(い)うと、割(わ)れんばかりの大喝采(だいかっさい)が沸(わ)き起(お)こりました。ゆきは岩(いわ)から降(お)り、駕籠(かご)に再(ふたた)び乗(の)ってから、かご(かご)の簾(すだれ)を上(あ)げたまま、城(しろ)の方(ほう)へ進(すす)みました。あちらこちらで、ゆきは駕籠(かご)を止(と)めさせて、その演説(せりふ)を繰(く)り返(かえ)しました。

第二十八章(だいにじゅうはっしょう)

家老(かろう)の再取立(さいとりた)て

その後(のち)、ゆきは城(しろ)に着(つ)き、若殿(わかとの)との再会(さいかい)を喜(よろこ)びました。

次(つぎ)の朝(あさ)、若殿(わかとの)はゆきの従者(じゅうしゃ)と話(はな)した後(あと)、少(すこ)し渋(しぶ)い顔(かお)をしながら、ゆきにこう言(い)いました。「なぜ百姓(ひゃくしょう)らに演説(えんぜつ)したのだ。そういうことを姫(ひめ)がするのは、いかがなものかな…?」

ゆきは、「大名(だいみょう)の娘(むすめ)ではありますが、姫(ひめ)として育(そだ)ったわけではありません。百姓(ひゃくしょう)たちの中(なか)で育(そだ)ったので、彼(かれ)らの気持(きも)ちがよく分(わ)かります。百姓(ひゃくしょう)は自分達(じぶんたち)の生活(せいかつ)が変(か)わってしまうのを恐(おそ)れているので、変革(へんかく)など好(この)みません。だから、昔(むかし)の生活(せいかつ)に戻(もど)るということを話(はな)したのです」と、反論(はんろん)しました。

若殿(わかとの)は、「私(わたし)は怒(おこ)っているのではない…ただ、私(わたし)の妻(つま)であるという立場(たちば)を弁(わきま)えて、そういうことはしないでほしいのだ」と、少(すこ)し興奮気味(こうふんぎみ)のゆきを、なだめるように言(い)ったのですが、ゆきにはその言葉(ことば)が逆(ぎゃく)に白々(しろじろ)しく聞(き)こえました。

ゆきは「それはどういう意味(いみ)でしょうか?私(わたし)がこの国(くに)を治(おさ)めるようにと父上(ちちうえ)さまがおっしゃったことや、あなたに私(わたし)を補助(ほじょ)してくれるようにとおっしゃってくださったことをお忘(わす)れなのですか?それとも、私(わたし)はあなたの妻(つま)として黙(だま)って奥(おく)に控(ひか)えていれば良(よ)いだけの人間(にんげん)だということでしょうか!?」そういい終(お)えると、くるりと後(うし)ろを振(ふ)り向(む)き、自分(じぶん)の部屋(へや)に向(む)かい駆(か)け出(だ)しました。走(はし)りながら、溢(あふ)れてくる涙(なみだ)が止(と)まりませんでした。しかし、そんなことに構(かま)う余裕(よゆう)もありませんでした。自分(じぶん)の部屋(へや)の襖(ふすま)をぴしゃりと閉(し)め、そのまま泣(な)き伏(ふと)しました。

少(すこ)しして、部屋(へや)の外(そと)から「ゆきさま、見知(みし)らぬ男(おとこ)の方(かた)が、ゆき様(さま)にお会(あ)いしたいと申(もう)しております。亡(な)き殿(どの)にお仕(つか)えしていたと本人(ほんにん)は言(い)っていますが…」という小姓(こしょう)の声(こえ)が聞(き)こえてきました。

ゆきは涙(なみだ)を拭(ふ)き、「その方(かた)を謁見(えっけん)の間(ま)にお通(とお)ししてください」と言(い)いました。

小姓(こしょう)が去(さ)った後(あと)、ゆきは心(こころ)を落(お)ち着(つ)けてから、謁見(えっけん)の間(ま)へ向(む)かいました。そこには、小姓(こしょう)と男(おとこ)がいました。

ゆきは、「外(そと)で待(ま)っていてください」と小姓(こしょう)に言(い)いました。小姓(こしょう)が去(さ)ってから、「父上(ちちうえ)に仕(つか)えていたとのことですが、何(なに)か証(あかし)になるようなものはありますか」と男(おとこ)に尋(たず)ねました。

男(おとこ)は、「ここに私(わたし)の印鑑(いんかん)がございます。お父上(ちちうえ)の時代(じだい)、この印鑑(いんかん)で多数(たすう)の公文書(こうぶんしょ)に押印(おういん)してきました。その当時(とうじ)の城(しろ)は焼(や)け落(お)ちてしまいましたが、もしかしたら焼(や)け残(のこ)った公文書(こうぶんしょ)もあるかもしれません。印影(いんえい)に見覚(みおぼ)えはございませんか?」と答(こた)えました。

「このような印章(いんしょう)はたしかに見覚(みおぼ)えがあります」とゆきは言(い)いました。入(い)り口(ぐち)に向(む)かって、「入(はい)ってください」と小姓(こしょう)を呼(よ)びました。

小姓(こしょう)は中(なか)に入(はい)り、「はい」と言(い)いました。

ゆきは、「私(わたし)の部屋(へや)から、家系図(かけいず)の本(ほん)をここに持(も)ってきてください」と命(めい)じました。

小姓(こしょう)が小走(こばし)りに出(で)て行(い)ってから、ゆきは、「父上(ちちうえ)の治世(ちせい)が終(お)わった後(あと)、どこで、何(なに)をしていたのですか」と聞(き)きました。

男(おとこ)は、「あの後(あと)、逃(に)げ延(の)びた先(さき)で、その土地(とち)の殿(との)にお仕(つか)えしておりました。こちらをどうかお読(よ)みください」と、手紙(てがみ)をゆきに渡(わた)しました。

ゆきはその手紙(てがみ)を読(よ)んでから、「あの殿(との)は結婚式(けっこんしき)においででしたね。しかし、あなたはお見(み)かけしませんでしたが、どうしてでしょうか」と尋(たず)ねました。

「あの時(とき)、私(わたし)は殿(との)の代理(だいり)として城(しろ)に残(のこ)っていたのでございます。しかし、この国(くに)を元主君(もとしゅくん)の娘御(むすめご)さまがお治(おさ)めになるということを聞(き)き、懐(なつ)かしさのあまり居(い)ても立(た)ってもいられなくなり、殿(との)にお願(ねが)いしてお暇(ひま)をいただき、こちらに急(いそ)いで駆(か)けつけた次第(しだい)でございます」と男(おとこ)は答(こた)えました。

ちょうどその時(とき)、小姓(こしょう)が戻(もど)ってきて、家系(かけい)図(ず)の本(ほん)をゆきに渡(わた)しました。ゆきは本(ほん)を開(ひら)き、そこに押(お)されている印(いん)を男(おとこ)の印鑑(いんかん)と見比(みくら)べました。そしてすぐに、「やっぱり!確(たし)かにこれは同(おな)じ印(しるし)です」と興奮(こうふん)して声(こえ)を出(だ)しました。指(ゆび)で示(しめ)している印影(いんえい)のちょうど側(そば)にはゆきの名前(なまえ)や誕生日(たんじょうび)が書(か)いてありました。

「左様(さよう)でございます。私(わたし)は、あの日(ひ)をよく覚(おぼ)えております。ゆきさまの生(う)まれた日(ひ)で私(わたし)がそれを書(か)いて印(いん)を押(お)しました」と男(おとこ)は答(こた)えました。

「それでは、私(わたし)の後(あと)についてきてください」とゆきは言(い)い、若殿(わかとの)のところに向(む)かいました。「旦那(だんな)さま、この者(もの)は私(わたし)の父上(ちちうえ)に仕(つか)えていたと申(もう)しております。もし本当(ほんとう)に信頼(しんらい)のおける人物(じんぶつ)であるなら、重臣(じゅうしん)として迎(むか)え入(い)れたいのですが」と言(い)って、手紙(てがみ)を若殿(わかとの)に渡(わた)しました。

若殿(わかとの)は手紙(てがみ)を読(よ)んで、「よく分(わ)かった。かの国(くに)の舵(かじ)を取(と)っていたのは彼(かれ)であったのか」と答(こた)え、その男(おとこ)を家老(かろう)に取(と)り立(た)てました。

第二十九章(だいにじゅうきゅうしょう)

狐(きつね)との会話(かいわ)

その後(ご)、若殿(わかとの)は来(く)る日(ひ)も来(く)る日(ひ)も朝(あさ)から晩(ばん)まで執務室(しつむしつ)に籠(こも)り、政(まつりごと)に追(お)われていました。一方(いっぽう)、ゆきは城(しろ)の女達(おんなたち)と親(した)しくなろうとしましたが、彼女達(かのじょたち)はゆきを大名(だいみょう)の娘(むすめ)ではなく百姓(ひゃくしょう)の娘(むすめ)だとでも言(い)いたげに、ゆきを避(さ)け、殿(との)の妻(つま)として扱(あつか)いませんでした。

ある日(ひ)、ゆきが城(しろ)の庭(にわ)を一人(ひとり)で歩(ある)いていると、日々(ひび)の悩(なや)みや辛(つら)いことなどがふいにぐるぐると頭(あたま)を回(まわ)り、ゆきはついに岩陰(いわかげ)に腰(こし)を下(お)ろし泣(な)き出(だ)してしまいました。

ゆきがしくしく泣(な)いていると、後(うし)ろで聞(き)き覚(おぼ)えのある声(こえ)がしました。「大切(たいせつ)な人(ひと)よ、どうして泣(な)いているのですか。まだ幸(しあわ)せに巡(めぐ)り会(あ)えないのですか」

ゆきは顔(かお)を上(あ)げ、後(うし)ろを振(ふ)り向(む)くと、そこにはあの見覚(みおぼ)のある動物(どうぶつ)が立(た)っていました。「お久(ひさ)しぶりですね、ゆきさん」声(こえ)の主(ぬし)は、狐(きつね)でした。

ゆきは、「びっくりしました。こんなところにいらっしゃるとは、思(おも)いもしませんでした。でも、またお会(あ)いできて嬉(うれ)しいです。立(た)ち話(ばなし)もなんですから、あちらの茶室(ちゃしつ)でお茶(ちゃ)を一服(いっぷく)しませんか?」と言(い)いました。

すると狐(きつね)は手(て)を振(ふ)りながら「いえ、いえ、結構(けっこう)です。私(わたし)はここにお茶(ちゃ)を飲(の)みに来(き)たわけではありませんから…ここに座(すわ)って、あなたの悩(なや)みをお聞(き)きしましょう」と、狐(きつね)は優(やさ)しくゆきに言(い)いました。その言葉(ことば)を聞(き)いたゆきは、岩(いわ)にへたり込(こ)み、堰(せき)を切(き)ったように話(はな)し始(はじ)めました。

「生活(せいかつ)のすべてがあまりにも目(め)まぐるしく変(か)わっていく上(うえ)に、相談(そうだん)できる友達(ともだち)もおりません。殿(との)は優(やさ)しい方(かた)ですが、昼間(ひるま)は忙(いそが)しくて私(わたし)は蚊帳(かや)の外(そと)です。新(あたら)しい家老(かろう)は政治(せいじ)についていろいろと教(おし)えてくれますが、やはり私(わたし)より殿(との)のそばでお仕(つか)えしていますので、私(わたし)はいつも自分(じぶん)が役立(やくだ)たずで、みんなの足手(あして)まといなような気(き)がしています」と、ゆきはさめざめと泣(な)き始(はじ)めました。

狐(きつね)は「生活(せいかつ)の変化(へんか)についていけない気(き)がする時(とき)は、静(しず)かな場所(ばしょ)で気晴(きば)らしでもしてみたら良(よ)いですよ」と言(い)いました。

「気晴(きば)らしといっても、どんな事(こと)をすればいいのですか」と、ゆきは顔(かお)を伏(ふ)せながら言(い)いました。

狐(きつね)が、「いろいろあるでしょう。縫(ぬ)い物(もの)とか、料理(りょうり)とか、読書(どくしょ)とか…」と言(い)うと、ゆきは顔(かお)を上(あ)げ、「読書(どくしょ)ですか。本(ほん)を読(よ)むのは大好(だいす)きです。でも…」そう言(い)うと、ゆきはまた俯(うつむ)きました。「でも、このごろは読(よ)むといっても、政治(せいじ)に関(かん)したものばかりしか読(よ)んでいなくて…」

「この城(しろ)には面白(おもしろ)い本(ほん)がありませんか」と狐(きつね)は聞(き)きました。

「ないようです。前(まえ)の大名(だいみょう)は読書(どくしょ)が好(す)きではなかったようなので」とゆきは答(こた)えました。「義父(ちちうえ)の城(しろ)にはたくさん面白(おもしろ)い本(ほん)があるのですが」

「お父上(ちちうえ)に本(ほん)を貸(か)していただけるよう、お願(ねが)いの手紙(てがみ)を書(か)いてみてはどうでしょう?。あるいは、この町(まち)の商人(あきんど)をあたって面白(おもしろ)い本(ほん)を探(さが)してみませんか?」と狐(きつね)は提案(ていあん)しました。

ゆきは「この町(まち)の市場(いちば)では、まだ買(か)い物(もの)をしたことがありません。誰(だれ)も私(わたし)と一緒(いっしょ)に出(で)かけてくれないのです。狐殿(きつねどの)、どうか、私(わたし)と一緒(いっしょ)に行(い)ってくださいませんか?」と訊(き)きました。

狐(きつね)は、「ご主人(しゅじん)と一緒(いっしょ)に行(い)った方(ほう)がいいのでしょうが、それが無理(むり)なら私(わたし)があなたと行(い)きましょう。でも、その前(まえ)に他(ほか)の悩(なや)みについても伺(うかが)いましょう。城(しろ)の女性(じょせい)達(たち)とは上手(うま)くやっていますか」と、目(め)を細(ほそ)めながら訊(たず)ねました。その瞳(ひとみ)は、まるでゆきの全(すべ)てを分(わ)かっているように見(み)えました。

するとゆきは、少(すこ)し間(あいだ)を置(お)いた後(あと)、伏目(ふしめ)がちに答(こた)えました。「…いいえ、皆(みな)私(わたし)を避(さ)けているようです。私(わたし)が百姓(ひゃくしょう)育(そだ)ちだからと言(い)って蔑(さげす)んだり、着(き)ている着物(きもの)が殿(との)の妻(つま)に相応(ふさわ)しくないと悪口(わるくち)を言(い)ったり。そういう訳(わけ)で、皆(みな)、私(わたし)と話(はなし)もしてくれません」

狐(きつね)は、ふうむと頷(うなず)きながら、「茶道家(さどうか)のような格好(かっこう)をしていたのでは、殿(との)の妻(つま)として相応(ふさわ)しくないでしょうね。買(か)い物(もの)に行(い)った時(とき)、ついでに着物(きもの)も買(か)いましょう。お父上(ちちうえ)の都(みやこ)には、誰(だれ)か顔見知(かおみし)りがいますか?」と言(い)いました。

ゆきは、「あの…温泉(おんせん)の女将(おかみ)さんがいます」と答(こた)えました。

狐(きつね)は、「女将(おかみ)さんですか。女将(おかみ)さんなら人(ひと)を使(つか)うことが出来(でき)るでしょう。あなたの身(み)の回(まわ)りの世話(せわ)をしてもらうために、誰(だれ)かに城(しろ)で働(はたら)いてもらうようお願(ねが)いすれば良(よ)いかもしれませんよ。それに、私(わたし)の娘(むすめ)のうちの一匹(いっぴき)が人間(にんげん)に非常(ひじょう)に興味(きょうみ)を持(も)っています。もうすぐここへ訪(たず)ねてくると思(おも)います」と言(い)いました。

それを聞(き)いたゆきはばああっと笑顔(えがお)になり、「娘(むすめ)さんがここへ訪(たず)ねてくるなんて、楽(たの)しみです」と答(こた)えました。

狐(きつね)は、「他(ほか)にも何(なに)か悩(なや)みがあるのではないでしょうか?例(たと)えば政治(せいじ)のことなど。あなたはまだお若(わか)い。確(たし)かお年(とし)は十七(じゅうなな)を抑(おさ)えて間(あいだ)もないはず。あなたが男(おとこ)であって、生(う)まれた時(とき)からずっと政治(せいじ)のことを勉強(べんきょう)してきたのなら、国(くに)を治(おさ)めることは何(なん)の問題(もんだい)もないのでしょうが、あなたには、まだまだ経験(けいけん)が足(た)りません。女(おんな)が国(くに)を治(おさ)めるなどということは非常(ひじょう)に稀(まれ)なことですよ。男(おとこ)であるご主人(しゅじん)が自分(じぶん)で政務(せいむ)を執(と)りたがるのは自然(しぜん)なことです。難(むずか)しい問題(もんだい)ですね。しかし、もしあなたがこのまま勉強(べんきょう)を続(つづ)け、ご主人(しゅじん)と家老(かろう)との評議(ひょうぎ)に出席(しゅっせき)し、気(き)の利(き)いた質問(しつもん)や良(よ)い提案(ていあん)が出来(でき)るようになれば、そのうち政治(せいじ)の深(ふか)い部分(ぶぶん)にまで参加(さんか)することを許(ゆる)されるかもしれませんよ」と言(い)いました。

ゆきは「そうですね。みんなと仲良(なかよ)くすることが出来(でき)るようになれば、この胸(むね)の痛(いた)みや、吐(は)き気(け)なども治(なお)るかもしれません」と言(い)いました。

狐(きつね)は、「胸(むね)の痛(いた)みや吐(は)き気(け)…??このようなことを私(わたし)から申(もう)すのは不躾(ぶしつけ)ではありますが、一番(いちばん)最近(さいきん)に来(き)た月(つき)のものはいつ頃(ごろ)だったのでしょう?」と聞(き)きました。

ゆきは、「あの、祝言(しゅうげん)の前(まえ)でした…二ヶ月(にかげつ)ほど前(まえ)だったでしょうか」と答(こた)えると、狐(きつね)は、「ゆきさん、貴方(あなた)が情緒(じょうしょ)不安定(ふあんてい)なのも無理(むり)はない。その吐(は)き気(け)はきっとつわりです。あなたは妊娠(にんしん)しているのです」と言(い)いました。

ゆきは、飛(と)び上(あ)がって驚(おどろ)きました。「妊娠(にんしん)?私(わたし)のお腹(なか)に赤(あか)ちゃんがいるのですか…??」しばらく呆然(ぼうぜん)としていたゆきでしたが、思(おも)いだしたように「今(いま)すぐ殿(との)にお伝(つた)えしなければいけません!」と、城(しろ)へ振(ふ)り向(む)いて駆(か)け出(だ)そうとしました。そのゆきの前(まえ)には狐(きつね)がもう歩道(ほどう)をふさいでいました。

「待(ま)って、待(ま)ってください」と狐(きつね)は言(い)いました。

「なぜ止(と)めるのです!早(はや)く、早(はや)くこのことを殿(とのにお)にお伝(つた)えしなければ!!」と半(なか)ば錯乱状態(さくらんじょうたい)にあるゆきは狐(きつね)を避(よ)けて城(しろ)の入口(いりぐち)へ向(む)かって駆(か)け出(だ)しました。しかし、その途中(とちゅう)、何(なに)かに気(き)がついたかのように、足(あし)を止(と)めて、見下(みお)ろしながら手(て)をお腹(なか)に当(あ)て、再(ふたた)び小走(こばし)りで進(すす)みました。

狐(きつね)は首(くび)を振(ふ)りながらくすくすと笑(わら)いました。「百年(ひゃくねん)近(ちか)く生(い)きているのに、まだまだ人間(にんげん)も女(おんな)も分(わ)からないな」と呟(つぶや)き、ゆきについて行(い)きました。

第三十章(だいさんじっしょう)

狐子(ここ)の紹介(しょうかい)

それからゆきは、草履(ぞうり)を脱(ぬ)ぐことを忘(わす)れるほど興奮(こうふん)しながら若殿(わかとの)のところに駆(か)け寄(よ)りました。

襖(ふすまの)を開(あ)けるやいなや、「旦那(だんな)さま、大変(たいへん)すごいことが!赤(あか)ちゃんが!」と叫(さけ)びながら、若殿(わかとの)の元(もと)に走(はし)り、彼(かれ)の両手(りょうて)を握(にぎ)り、机(つくえ)から引(ひ)きました。

若殿(わかとの)は、何事(なにごと)かとぽかんとしたまま、「待(ま)て、待(ま)て。落(お)ち着(つ)け。何(なに)が言(い)いたいのだ?私(わたし)が忙(いそ)がしいのを知(し)っているだろう?」といぶかっていると、開(あ)いた襖(ふすま)の外(そと)からゆきについて来(き)た狐(きつね)が声(こえ)をかけました。「ゆき殿(どの)は身籠(みごも)ったようです」

それを聞(き)くと、若殿(わかとの)は、「真(まこと)か。それが真(まこと)なら、大変(たいへん)喜(よろこ)ばしい」と、興奮(こうふん)のあまりゆきを抱(だ)きました。

二人(ふたり)がようやく落(お)ち着(つ)くと、若殿(わかとの)は、「ああ、狐(きつね)どの、失礼(しつれい)しました。ようこそお出(い)でくださいました。突然(とつぜん)のご訪問(ほうもん)はどういった訳(わけ)でしょうか」と聞(き)きました。

狐(きつね)は、「つい今(いま)し方(がた)、近(ちか)くで鼠(ねずみ)狩(が)りをしていると、誰(だれ)かが泣(な)いているのが聞(き)こえたのです。どこかで聞(き)いたことのある声(こえ)だな…と思(おも)い、その声(こえ)のする方(ほう)へ行(い)ってみると、そこには、座(すわ)り込(こ)んで泣(な)いていらっしゃるゆき殿(どの)がおられたのです。大変(たいへん)驚(おどろ)きました。いったい、どうしてゆき殿(どの)が泣(な)いているのだろうかと。若殿(わかとの)さまと結婚(けっこん)して、お父上(ちちうえ)の国(くに)に帰(かえ)ってきたのだから、私(わたし)はてっきり、幸(しあわ)せな日々(ひび)を過(す)ごしていらっしゃることだろうと思(おも)っていましたが、そうではなかったようです。ゆき殿(どの)は、私(わたし)に悩(なや)みを打(う)ち明(あ)けてくださいました」と、若殿(わかとの)の顔(かお)をまっすぐに見(み)つめながら言(い)いました。

それを聞(き)いた若殿(わかとの)は驚(おどろ)き、「なんと。ゆきが泣(な)いていたのですか。今(いま)の様子(ようす)を見(み)ると、つい今(いま)し方(がた)泣(な)いていたとは信(しん)じられません。どのような悩(なや)みがあると申(もう)しましたか」と問(と)いました。

狐(きつね)は言(い)いました。「ゆき殿(どの)の悩(なや)みは三(みっ)つあります。まず一(ひと)つ目(め)。近頃(ちかごろ)、生活(せいかつ)の変化(へんか)が大(おお)きいので、気分(きぶん)が落(お)ち着(つ)かないことがあるようです。私(わたし)が何(なに)か気晴(きば)らしを勧(すす)めると、ゆきどのは読書(どくしょ)が好(す)きだということが分(わ)かりました。ただ、ここには面白(おもしろ)い本(ほん)がないようでしたので、お父上(ちちうえ)に、面白(おもしろ)い本(ほん)をお貸(か)し下(くだ)さるように手紙(てがみ)をお書(か)きになるように、また市場(いちば)でも探(さが)してみるといいでしょうと勧(すす)めました」

「次(つぎ)の悩(なや)みはというと、ゆきどのが百姓(ひゃくしょう)のように育(そだ)ち、いまだに茶道家(さどうか)のような着物(きもの)を着(き)ているので、それを好(この)ましく思(おも)わない人(ひと)がいるということです。それ故(ゆえ)に、市場(いちば)で殿(との)の妻(つま)として相応(ふさわ)しい着物(きもの)を買(か)い、また大(おお)きな町(まち)の温泉(おんせん)の女将(おかみ)へ、ここでお仕(つか)え願(ねが)う手紙(てがみ)を送(おく)るようにと勧(すす)めました。女将(おかみ)はきっとゆき殿(どの)の支(ささ)えになってくれるでしょう。それに、私(わたし)の娘(むすめ)の内(うち)の一匹(いっぴき)が人間(にんげん)について興味津々(きょうみしんしん)のようですから、もうすぐこちらへ訪(たず)ねてくるでしょう。あの子(こ)もゆきどのの力(ちから)になれると思(おも)います」

「三(み)つ目(め)の悩(なや)みは、ゆきどのがこの国(くに)の政治(せいじ)から疎外(そがい)されていると感(かん)じていることです。言(い)うまでもなく、ゆきどのは勉強(べんきょう)を続(つづ)けて、あなたと家老(かろう)との評議(ひょうぎ)に出席(しゅっせき)した方(ほう)がいいと勧(すす)めました。評議(ひょうぎ)で気(き)の利(き)いた質問(しつもん)を投(な)げかけたり、良(よ)い提案(ていあん)を待(ま)ち出(だ)してみることも勧(すす)めました」

若殿(わかとの)は、「評議(ひょうぎ)に参加(さんか)したいというのなら、明日(あした)の評議(ひょうぎ)に出席(しゅっせき)してみるのもいいでしょう。着物(きもの)や本(ほん)のことなら、城(しろ)の御用商人(ごようしょうにん)を呼(よ)べばよいではないか」と政(まつりごと)の背負(せお)いで疲(つか)れているように言(い)いました。

ゆきは、「お抱(かか)えの商人(しょうにん)があるのでございますか。でも、私(わたし)は自分(じぶん)で買(か)い物(もの)をしたいのです。一緒(いっしょ)に行(い)ってくださいませんか。それが無理(むり)なら、狐(きつね)どのと行(い)ってもよろしいでしょうか」と頼(たの)みました。

その途端(とたん)に、小(ちい)さな声(こえ)が聞(き)こえました。「私(わたし)も行(い)きたい」

狐(きつね)は、「悪戯(いたずら)っ子(こ)、姿(すがた)をあらわせ。いつから私(わたし)たちを見(み)ていたのか」と棚(たな)の方(ほう)へ向(む)かって呼(よ)びかけました。

棚(たな)の下(した)から、鼠(ねずみ)が出(で)てきたと思(おも)うと、あっという間(ま)に十五(じゅうご)、六(ろく)歳(さい)の女(おんな)の子(こ)の姿(すがた)に変(か)わりました。

「まぁ、父上(ちちうえ)ったら。『悪戯(いたずら)っ子(こ)』じゃなくって、『狐子(ここ)』と呼(よ)んでください」と言(い)いました。

その娘(むすめ)は背(せ)が低(ひく)くて、長(なが)い赤毛(あかげ)で、悪戯(いたずら)っぽく輝(かがや)く黒目(くろめ)をして、とても高級(こうきゅう)そうな着物(きもの)を着(き)ていました。

「私(わたし)は、今(いま)まで、京(きょう)でいろいろなうわさ話(ばなし)を楽(たの)しく聞(き)いていたのよ。それから家(うち)に帰(かえ)る途中(とちゅう)で、この国(くに)を渡(わた)すと、遠(とお)くから父上(ちちうえ)の『私(わたし)の娘(むすめ)のうちの一匹(いっぴき)が人間(にんげん)に非常(ひじょう)に興味(きょうみ)を持(も)っています』と話(はな)す声(こえ)が聞(き)こえたの。私(わたし)のことだとすぐに分(わ)かったけど、なんで『一人(ひとり)』じゃなくて『一匹(いっぴき)』なんて言(い)うの?この、私(わたし)の姿(すがた)が『一匹(いっぴき)』に見(み)える?とにかく、父上(ちちうえ)の話(はな)し声(ごえ)を聞(き)いてから、鼠(ねずみ)の姿(すがた)に化(ば)けて声(こえ)の方(ほう)に急(いそ)いでいったわ。そしたら父上(ちちうえ)は女(おんな)の子(こ)と話(はな)しているじゃない。きっと、あれが例(れい)のゆきという娘(むすめ)さんなんだろうと思(おも)って、父上(ちちうえ)が女(おんな)の子(こ)と一緒(いっしょ)に出(で)るところに、ついてきたの。買(か)い物(もの)のことを聞(き)いたときは、さすがにもう黙(だま)っていられなくなっちゃって」と早口(はやくち)でまくしたてました。

狐(きつね)は、「この子(こ)がもう一度(いちど)口(くち)を開(ひら)く前(まえ)に紹介(しょうかい)をしておいた方(ほう)がよさそうですね。これが今(いま)話(はな)した娘(むすめ)です。狐子(ここ)や、こちらはこの国(くに)の新(あたら)しいお殿様(とのさま)と、前(まえ)に話(はな)したゆきどのだよ」と言(い)いました。

狐子(ここ)は、「初(はじ)めまして。私(わたし)もゆきさまと一緒(いっしょ)に買(か)い物(もの)に行(い)けると嬉(うれ)しいのですが。しばらくこちらに泊(と)まってもよろしいですか」と言(い)いました。

若殿(わかとの)が「初(はじ)めまして」と言(い)うと、ゆきは、「初(はじ)めまして、よろしくね。一緒(いっしょ)に市場(いちば)へ行(い)きましょう」と答(こた)えました。

若殿(わかとの)は、「私(わたし)は忙(いそが)しいので一緒(いっしょ)には行(い)けなくてすまない。狐(きつね)どのたちとなら、行(い)ってもいいでしょう」と言(い)い、少(すこ)し安心(あんしん)そうに机(つくえ)に戻(もど)りました。

狐(きつね)は、「お殿様(とのさま)も時々(ときどき)はお休(やす)みになられた方(ほう)がよろしいかと存じます。もし気(き)が変(か)わられましたら、ご一緒(いっしょ)に参(まい)りたいと存(ぞん)じます。それではまた後(のち)ほどこちらへ参(まい)ります」と、人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)けて、ゆきと狐子(ここ)と一緒(いっしょ)に立(た)ち去(さ)りました。

第三十一章(だいさんじゅういっしょう)

市場(いちば)へ

ゆきは狐達(きつねたち)と一緒(いっしょ)に市場(いちば)へ向(む)かう途中(とちゅう)、狐子(ここ)といろいろなことについて話(はな)しました。

ゆきは、「京(きょう)から来(き)たばかりなの?京(きょう)は面白(おもしろ)そうね。でも遠(とお)くない?私(わたし)も行(い)きたいのだけど、何日(なんにち)くらいかかるの?」と訊(き)きました。

狐子(ここ)は答(こた)えました、「狐(きつね)のおまじないがあれば、あっという間(ま)に着(つ)いちゃうわよ。まぁ、人間(にんげん)なら数週間(すうしゅうかん)はかかるでしょうね」

ゆきは、「狐子(ここ)ちゃん、それは、他(ほか)の人(ひと)と一緒(いっしょ)でも大丈夫(だいしょうぶ)なの?」と聞(き)きました。

狐子(ここ)は、「それは無理(むり)。狐(きつね)のおまじないは、自分(じぶん)にしか効(き)かないの」と答(こた)えました。

ゆきは、「それは残念(ざんねん)だわ。京(きょう)では、お姫様(ひめさま)がそういう着物(きもの)を着(き)るの?」と尋(たず)ねました。

「そうよ。公家(くげ)のお姫様(ひめさま)だって着(き)てるんだから」と狐子(ここ)は答(こた)えました。

そんなふうにおしゃべりを続(つづ)けながら、女(おんな)の子達(こたち)は狐(きつね)の後(あと)について行(い)きました。

一方(いっぽう)、その城下町(じょうかまち)の人々(ひとびと)はゆき達(たち)を見(み)て、このように話(はな)していました。

「あそこに娘(むすめ)さんがいるね」

「あの赤毛(あかげ)の娘(むすめ)さんのことかい?」

「違(ちが)う。あの赤毛(あかげ)と話(はな)してる娘(むすめ)さんだよ」

「ああ、それがどうした?」

「あの人(ひと)、ゆき様(さま)だと思(おも)わないか?」

「そうだ、そうだ。この前(まえ)、ゆき様(さま)が岩(いわ)の上(うえ)で演説(えんぜつ)していたのを、俺(おれ)は見(み)たよ。その時(とき)も同(おな)じような着物(きもの)を着(き)ていたから、あれはゆき様(さま)に間違(まちが)いない。それにしても、殿様(とのさま)の奥方(おくがた)が市場(いちば)に行(い)くというのも珍(めずら)しいな。おい、ついて行(い)かないか?」

「そうだな。面白(おもしろ)そうだな。ついて行(い)こう」

「先(さき)に行(い)っててくれ。ついて行(い)くのもいいが、俺(おれ)はまず家(うち)に寄(よ)ってからにするよ。うちのかみさんがゆき様(さま)を見(み)てみたいと言(い)ってたから教(おし)えてやらないと」

「そりゃいい思(おも)い付(つ)きだ。家(うち)の子供達(きどもたち)もゆき様(さま)を見(み)たいと言(い)ってたよ。家族(かぞく)揃(そろ)ってみんなで市場(いちば)へ行(い)ってみよう」

あちらこちらで、ゆきに気付(きづ)いた人達(ひとたち)がささやき始(はじ)めました。早速(さっそく)、ゆき達(たち)の後(あと)をつけ始(はじ)める人(ひと)もいれば、家族(かぞく)・親類(しんるい)・友人達(ゆうじんたち)を集(あつ)めて大勢(おおせい)で市場(いちば)へ向(む)かう人達(ひとたち)もいました。

第三十二章(だいさんじゅうにしょう)

呉服屋(ごふくや)の中(なか)

しばらくして、ゆき達(たち)は市場(いちば)に着(つ)き、そこで呉服屋(ごふくや)を探(さが)しました。思(おも)いのほか早(はや)く見(み)つかりました。ゆきが「ごめんください」と中(なか)に入(はい)ると、「いらっしゃいませ!きれいな反物(たんもの)がたくさんございますよ」と、奥(おく)から優(やさ)しそうな初老(しょろう)の男性(だんせい)が出(で)てきました。

ゆきが、「これと同(おん)じような着物(きもの)を仕立(した)てることはできますか」と、狐子(ここ)の着物(きもの)を指差(ゆびさ)し訊(たず)ねると、呉服屋(ごふくや)は驚(おどろ)いたように、「このような仕立(した)ては初(はじ)めて見(み)ました。恐(おそ)らく、京(きょう)の新作(しんさく)なのでございましょう。私(わたし)どもは呉服屋(ごふくや)ですので反物(たんもの)の扱(あつか)いには自信(じしん)がございますが、そのような高級(こうきゅう)な、作(つく)ったこともない品(しな)を上手(うま)く仕立(した)てられるかどうか…。しかし、私(わたし)の兄(あに)はこの町(まち)一番(いちばん)の仕立(した)て屋(や)でございます。兄(あに)なら仕立(した)てることができるでしょう。ゆき様(さま)の採寸(さいすん)をした後(あと)に、お連(つ)れの方(かた)のお着物(きもの)をしばらくお貸(か)しいただければ、数日後(すうじつご)には、同(おな)じような着物(きもの)をお届(とど)けできるかと存(ぞん)じます。お待(ま)ちいただく間(あいだ)、お連(つ)れ様(さま)にはこちらにございます、お好(す)きな着物(きもの)をお召(め)しになって頂(いただ)ければよろしいかと存(ぞん)じます」と言(い)いました。

狐子(ここ)は嬉(うれ)しそうに、「それでは、ご好意(こうい)に甘(あま)えさせて頂(いただ)きます」と、いそいそと店(みせ)の着物(きもの)を選(えら)び始(はじ)めました。

ゆきが、「あの、なぜこんなに親切(しんせつ)にしてくださるのですか?」と訊(たず)ねると、呉服屋(ごふくや)は、「以前(いぜん)、ゆき様(さま)がこの町(まち)にいらっしゃった時(とき)、私(わたし)は駕籠(かご)を降(お)りて演説(えんぜつ)をされたゆき様(さま)のお顔(かお)を拝見(はいけん)し、お声(こえ)を聞(き)いていたのでございます。先(さき)ほど、あなた様(さま)がこの店(みせ)に入(はい)っていらした時(とき)より、その時(とき)の女性(じょせい)とずいぶん似(に)たお方(かた)だと思(おも)っておりました。そして、今(いま)しがたお声(こえ)をお聞(き)きし、ゆき様(さま)に間違(まちが)いないと確信(かくしん)いたしました。私(わたし)はあの時(とき)のお話(はなし)に、たいそう心(こころ)を打(う)たれ、確信(かくしん)したのです。ゆき様(さま)は我々(われわれ)の味方(みかた)だと。そのようなお方(かた)からのご注文(ちゅうもん)に、私(わたし)としましては精一杯(せいいっぱい)のことをしない訳(わけ)にはいかないでしょう」と、微笑(ほほえ)みながら答(こた)えました。さらに呉服屋(ごふくや)は、「私(わたし)はこれから少(すこ)し失礼(しつれい)させていただき、兄(あに)を連(つ)れて参(まい)ります。どうぞこのままお待(ま)ちください」と、言(い)い残(のこ)して店(みせ)から出(で)て行(い)きました。

ゆきは、「まあ、なんとご親切(しんせつ)なお方(かた)でしょう…それにしても、あの方(かた)が私(わたし)の顔(かお)や声(こえ)を覚(おぼ)えておいでだとは、驚(おどろ)きだわ」と言(い)いました。

狐(きつね)はいたずらっぽく笑(わら)いながら、「店(みせ)の外(そと)を見(み)れば、その理由(りゆう)が分(わ)かりますよ」と、店(みせ)の入(い)り口(ぐち)の方(ほう)を指差(ゆびさ)しました。

するとそこには、ゆきの顔(かお)を一目(いちもく)見(み)ようとする人々(ひとびと)が、押(お)し合(あ)いながら店(みせ)の外(そと)に集(あつ)まっていたのです。

「父(とう)さん、ゆき様(さま)はあの女性(じょせい)?」

「とっても綺麗(きれい)な人(ひと)だね」

「どの店(みせ)にあのお姫様(ひめさま)がいるの?」

「どうやら、あの呉服屋(ごふくや)にいらっしゃるようだよ」

「お父(とう)さん、お姫様(ひめさま)の姿(すがた)を見(み)たいよう!肩車(かたぐるま)して!」

「ほら、息子(むすこ)や、上(あ)がって」

人々(ひとびと)のざわめく声(ごえ)が店(みせ)の外(そと)から聞(き)こえてきます。ゆきがおそるおそる戸(と)の陰(かげ)から外(そと)を覗(のぞ)くと、そこにはゆきを一目見(ひとめみ)ようとする、人々(ひとびと)がたくさん集(あつ)まってきていました。ゆきは驚(おどろ)きと恥(は)ずかしさのあまり、また顔(かお)を引(ひ)っ込(こ)めてしまいました。「狐殿(きつねどの)!あんなに大勢(おおぜい)の人(ひと)達(たち)がこっちを見(み)ているわ。どうしましょう」

狐(きつね)は、笑(わら)いながら「そんなにおろおろするものではありませんよ。岩(いわ)の上(うえ)で御自分(ごじぶん)の意見(いけん)を述(の)べられていたあの時(とき)と同(おな)じように、もっと堂々(どうどう)としていらっしゃればよいのです」と言(い)いました。

ゆきは、「あの時(とき)と今(いま)とでは全然(ぜんぜん)違(ちが)います。今(いま)からこの人(ひと)だかりの中(なか)を歩(ある)かなくてはならないなんて。それに、あの時(とき)は義父上(ちちうえ)の家臣(かしん)が私(わたし)と共(とも)に旅(たび)をしてくださいました。しかし今(いま)は私(わたし)とあなただけなのですよ」と答(こた)えました。

狐(きつね)は、「まあまあ。そんなに心配(しんぱい)しなくても大丈夫(だいじょうぶ)ですよ。あの声(こえ)を聞(き)いてみてください。彼(かれ)らはただ、ものめずらしいだけなのです。その上(うえ)、ゆき殿(どの)は一人(ひとり)ではありません。狐(きつね)が二(に)匹(ひき)」

「二人(ふたり)!」と、店(みせ)の奥(おく)から、狐子(ここ)が狐(きつね)の言葉(ことば)を遮(さえぎ)って叫(さけ)びました。

狐(きつね)は狐子(ここ)をちらっと見(み)て続(つづ)けました、「…側(そば)にいます。狐(きつね)が一匹(いっぴき)で」

「一人(ひとり)!」

「百人(ひゃくにん)の家臣(かしん)が守(まも)っているより安全(あんぜん)です。何(なに)があっても、我(われ)らがいれば、二百人(にひゃくにん)の兵(へい)より心強(こころつよ)いですよ」

狐子(ここ)はゆきのそばに来(き)ました。「父上(ちちうえ)の言(い)う通(とお)りよ。それより、この着物(きもの)はどう?」

ちょうどその時(とき)、呉服屋(ごふくや)が兄(あに)の仕立(した)て屋(や)を連(つ)れ、戻(もど)って来(き)ました。そして、ゆきの採寸(さいすん)が始(はじ)まりました。

第三十三章(だいさんじゅうさんしょう)

面白(おもしろ)い本(ほん)はどこだ?

仕立(した)て屋(や)がゆきの採寸(さいすん)をして、狐子(ここ)が着物(きもの)を着替(きが)えると、ゆきは呉服屋(ごふくや)の兄(あに)である仕立(した)て屋(や)におずおずと「あの、つかぬことをお伺(うかが)いいたしますが、面白(おもしろ)い本(ほん)を探(さが)しているのですが、どこかお心当(こころあ)たりはございませんでしょうか」と訊(たず)ねました。

呉服屋(ごふくや)は、「時々(ときどき)、本(ほん)を売(う)る行商人(ぎょうしょうにん)がこの町(まち)に参(まい)りますが、残念(ざんねん)ながらここの所(ところ)、とんと見(み)かけませんなあ」と言(い)いました。

ゆきが「そうですか…」と呟(つぶや)くと、呉服屋(ごふくや)は、「兄(にい)さん、どう思(おも)う?」と仕立(した)て屋(や)に尋(たず)ねてくれました。

すると仕立(した)て屋(や)は、「本(ほん)さえお借(か)りできれば、この町(まち)にいる代書屋(だいしょや)が本(ほん)をお作(つく)りいたしますよ。どのような本(ほん)をお探(さが)しでしょうか」とゆきに聞(き)きました。

ゆきはばっと笑顔(えがお)になり、「『源氏物語(げんじものがたり)』が大好(だいす)きなんです。この町(まち)に、お持(も)ちの方(かた)はいらっしゃるかしら」と聞(き)きました。

仕立(した)て屋(や)は顎(あご)に手(て)をやり、ふうむと頷(うなず)き、「この町(まち)の庄屋(しょうや)さまは、なかなかの読書家(どくじょか)だとの評判(ひょうばん)ですので、そのような本(ほん)をお持(も)ちかもしれませんね…おいお前(まえ)、どう思(おも)う?」と呉服屋(ごふくや)に聞(き)きました。

呉服屋(ごふくや)は、「確(たし)かに。それに、代書屋(だいしょや)なら誰(だれ)がどんな本(ほん)を持(も)っているのかを知(し)っているでしょう」と答(こた)えました。

ゆきは、「庄屋(しょうや)さんと代書屋(だいしょうや)さんですか。その方々(かたがた)はどちらにいらっしゃいますか」と尋(たず)ねました。

呉服屋(ごふくや)は、「代書屋(だいしょや)の店(みせ)は、市場(いちば)の反対側(はんたいがわ)でございます」と言(い)いました。

仕立(した)て屋(や)は、「はい、それに庄屋様ですが、先(さき)ほど私(わたし)がこちらに戻(もど)って参(まい)ります時(とき)、ちょうどこの店(みせ)の前(まえ)で、見物人(けんぶつにん)の中(なか)に庄屋様(しょうやさま)の姿(すがた)をお見(み)かけしました。ゆき様(さま)の採寸(さいすん)をいたしに急(いそ)いでいたので、軽(かる)く会釈(えしゃく)だけしました」と加(くわ)えました。

ゆきは、「そうですか。では、行(い)ってみます」と、店(みせ)を出(で)ようとしましたが、途中(とちゅう)で足(あし)を止(と)めて、商人(しょうにん)たちの方(ほう)に向(む)き直(なお)りました。「呉服屋(ごふくや)さん、私(わたし)を庄屋(しょうや)さんに紹介(しょうかい)してくださいませんか」

呉服屋(ごふくや)は、「ゆき様(さまがた)のお役(やく)に立(た)てるなら喜(よろこ)んで」と言(い)い、ゆきと狐(きつね)たちの後(あと)について店(みせ)を出(で)ました。

第三十四章(だいさんじゅうよんしょう)

市場(いちば)の中(なか)

市場

ゆきたちが店(みせ)を出(で)ると、大(おお)きな喝采(かっさい)が沸(わ)き起(お)こりました。一人(ひとり)の老人(ろうじん)が箱(はこ)の上(うえ)に上(のぼ)り、静(しず)かにしなさいと皆(みな)を宥(なだ)めると、群集(ぐんしゅう)は静(しず)かになりました。その後(あと)、呉服屋(ごふくや)は、「ゆき様(さま)、こちらが今(いま)お話(はな)しした、町(まち)の庄屋(しょうや)でございます」と、その老人(ろうじん)を、「庄屋様(しょうやさま)、こちらはゆき様(さま)とお連(つ)れの方(かた)でございます」と、ゆきを紹介(しょうかい)しました。

ゆきは少(すこ)しはにかみながら、「初(はじ)めまして、庄屋殿(しょうやどの)。こちらは私(わたし)を手伝(てつだ)ってくれている、新(あたら)しい友達(ともだち)の狐子(ここ)とその父上(ちちうえ)です。よろしくお願(ねが)いします」と言(い)いました。

庄屋(しょうや)は箱(はこ)から降(お)り、深々(ふかぶか)と頭(あたま)を下(さ)げてゆきに挨拶(あいさつ)をし、そばに立(た)っている家族(かぞく)を、孫(まご)に至(いた)るまで紹介(しょうかい)しました。

ゆきは庄屋(しょうや)の家族(かぞく)に挨拶(あいさつ)を返(かえ)した後(あと)、庄屋(しょうや)の方(ほう)へ向(む)き直(なお)り、「『源氏物語(げんじものがたり)』のような面白(おもしろ)い本(ほん)を買(か)いに来(き)ましたが、ここには本(ほん)を売(う)る商人(あきんど)さんがいないようですね。でも、呉服屋(ごふくや)さん達(たち)が庄屋殿(しょうやどの)なら本(ほん)を貸(か)してくださるかもしれないと仰(おっしゃ)ったので、あなたにお会(あ)いしたくなりました」と言(い)いました。

庄屋(しょうや)は頭(あたま)を下(さ)げ、「もちろん、家(うち)に来(き)て頂(いただ)けるなら、奥方様(おくがたさま)には何冊(なんさつ)の本(ほん)を借(か)りていただいても嬉(うれ)しゅうございます。今(いま)、来(き)ていただけますか」と、市場(いちば)に面(みわた)した屋敷(やしき)の方(ほう)にちらりと目(め)をやりました。

ゆきはしばらく首(くび)を傾(かたむ)けてから、「お邪魔(じゃま)したいのですが、その前(まえ)に、この市場(いちば)のお店(みせ)の方々(かたがた)を、私(わたし)に紹介(しょうかい)して頂(いただ)けないでしょうか?」と尋(たず)ねました。

庄屋(しょうや)が「もちろん」と言(い)うとすぐに、庄屋(しょうや)の妻(つま)が、「あなた、ゆき様(さま)がお出(い)でくださるのでしたら、私(わたし)たちはここで失礼(しつれい)して、一足先(ひとあしさき)に家(うち)に帰(かえ)り、食事(しょくじ)の準備(じゅんび)をしておきます」と立(た)ち去(さ)ろうとしました。

すると、まだ幼(おさな)さの残(のこ)る男(おとこ)の子(こ)が庄屋(しょうや)の妻(つま)に、「おじいさんと一緒(いっしょ)に残(のこ)ってもいい?」と言(い)いました。

それを聞(き)いたもう一人(ひとり)の女(おんな)の子(こ)が、「おばあさん、私(わたし)も残(のこ)っていい?弟(おとうと)のお守(も)りをしておじいさんとゆき様(さま)の邪魔(じゃま)しないように見張(みは)ってなくちゃ」と庄屋(しょうや)の妻(つま)に言(い)いました。

庄屋(しょうや)の妻(つま)は、「おじいさんは大事(だいじ)なお話(はなし)をしているから、私(わたし)と帰(かえ)りましょう」と答(こた)えました。

ゆきは、「大丈夫(だいじょうぶ)です。構(かま)いませんよ。私(わたし)と一緒(いっしょ)にいらっしゃい」と、優(やさ)しく孫達(まごたち)に言(い)いました。そして、残(のこ)りの子供達(こどもたち)を振(ふ)り返(かえ)りました。「賑(にぎ)やかでいいですけれども、皆(みな)が私達(わたしたち)といたら、おばあさんを手伝(てつだ)ってあげる人(ひと)がいないでしょう?食事(しょくじ)の時(とき)、また会(あ)いましょう」と言(い)いました。

庄屋(しょうや)の妻(つま)は、「そう言(い)ってくださって助(たす)かります。では、他(ほか)の者(もの)は皆(みな)、帰(かえ)りましょう」と、立(た)ち去(さ)りました。

それから、ゆき達(たち)は市場(いちば)を歩(ある)き回(まわ)り、いろいろな商人(あきんど)やその町(まち)の有力者(ゆうりょくしゃ)などを紹介(しょうかい)してもらいました。

その間(あいだ)、庄屋(しょうや)の孫息子(まごむすこ)は狐子(ここ)と話(はな)していました。その子(かえ)は狐子(ここ)に、「ねえ、どうしてお姉(ねえ)さんの髪(かみ)はそんな色(いろ)なの?」と聞(き)いたり、くるくると変(か)わる狐子(ここ)の表情(ひょうじょう)に、「その顔(かお)、おかしい!ねえねえ、もっと面白(おもしろ)い顔(かお)して」とせがんだり、楽(たの)しく談笑(だんしょう)していました。

その一方(いっぽう)、市場(いちば)を歩(ある)きながら庄屋(しょうや)の孫娘(まごむすめ)はゆきと話(はな)していました。「お姉(ねえ)さまはお姫様(ひめさま)として生(う)まれたのに、百姓(ひゃくしょう)の中(なか)で育(そだ)って、大(おお)きな町(まち)で有名(ゆうめい)な茶道家(さどうか)になったんでしょ。すごいのね!それから、若殿様(わかとのさま)と結婚(けっこん)して、お父(とう)さまの国(くに)に帰(かえ)ってきたんですね。まるでおとぎ話(ばなし)のようだわ」と、羨望(せんぼう)の眼差(まなざ)しでゆきを見(み)つめながら言(い)いました。

代書屋

二人(ふたり)は楽(たの)しく談笑(だんしょう)しながら、代書屋(だいしょや)に向(む)かいました。ゆきが代書屋(だいしょや)の戸(と)を開(あ)け、「代書屋(だいしょや)さん、本(ほん)をここに持(も)ってくれば、写本(しゃほん)を作(つく)ってもらえるそうですね。庄屋殿(しょうやどの)の他(ほか)に『源氏物語(げんじものがたり)』のような本(ほん)を貸(か)していただけそうな方(かた)をご存(ぞんん)じないでしょうか」

代書屋(だいしょや)は、「そのことでしたら、庄屋様(しょうやさま)にお尋(たず)ねになるのがよろしいかと存(ぞん)じます。本(ほん)を売(う)る行商人(ぎょうしょうにん)が来(く)るたびに、あのお方(かた)はいつも真(ま)っ先(さき)に行(い)かれます」と、町(まち)の庄屋(しょうや)に軽(かる)く目礼(もくれい)しました。

ゆきは、「ありがとうございます」とお礼(れい)を言(い)い、次(つぎ)の店(みせ)へ向(む)かいました。

すべての店(みせ)を訪(たず)ね終(お)えて、人々(ひとびと)がほとんど去(さ)った後(あと)、ゆきたちは呉服屋(ごふくや)に戻(もど)りました。そこで狐子(ここ)は元(もと)の着物(きもの)に着替(きが)え、それから皆(みな)で庄屋(しょうや)の家(いえ)へと向(む)かいました。

第三十五章(だいさんじゅうごしょう)

庄屋(しょうや)の家(いえ)の中(なか)

しばらくして、ゆき達(たち)は庄屋(しょうや)の家(いえ)に着(つ)きました。庄屋(しょうや)の妻(つま)が玄関先(げんかんさき)で、「ゆき様(さま)、拙宅(せったく)にようこそおこしくださいました。おかえりなさいませ、あなた」と笑顔(えがお)で出迎(でむか)えました。

「ただいま」という庄屋(しょうや)の声(こえ)に続(つづ)き、ゆきが「お邪魔(じゃま)します」と言(い)って、家(いえ)の中(なか)に入(はい)るやいなや、あっという間(ま)に、ゆきと一緒(いっしょ)にいた庄屋(しょうや)の孫(まご)たちを、その兄弟(きょうだい)・従兄弟(いとこ)たちが取(と)り囲(かこ)みました。しばらくして、「何(なに)をしてたの?」とか、「ゆき様(さま)はどんな人(ひと)?」と話(はな)す声(こえ)がその人垣(ひとがき)の中(なか)から聞(き)こえました。その後(あと)、ゆき達(たち)と一緒(いっしょ)にいた庄屋(しょうや)の孫息子(まごむすこ)は、ゆきの後(うし)ろから入(はい)ってきた狐子(ここ)のところに来(き)て手(て)を掴(つか)み、「お姉(ねえ)ちゃん、市場(いちば)の時(とき)のように、またおかしな顔(かお)をして」と狐子(ここ)に言(い)って、子供(こども)たちの中(なか)に引(ひ)っ張(ぱ)って行(い)きました。程(ほど)なくして、狐子(ここ)の百面相(ひゃくめんそう)を見(み)ている庄屋(しょうや)の孫達(まごたち)の間(あいだ)から笑(わら)いの混(ま)じったはしゃぐ声(こえ)が聞(き)こえてきました。そんな楽(たの)しそうな声(こえ)を聞(き)きながら、庄屋(しょうや)の妻(つま)は娘(むすめ)たちに手伝(てつだ)わせながら食事(しょくじ)の支度(したく)をしました。湯気(ゆげ)が、美味(おい)しそうな匂(にお)いと共(とも)に、台所(だいどころ)から漂(ただよ)ってきました。ふと、ゆきはおばあさんと一緒(いっしょ)に住(す)んでいた頃(ころ)のことを思(おも)い出(だ)しました。貧(みず)しかったけれど、おばあさんと一緒(いっしょ)で楽(たの)しかった日々(ひび)…。そんな懐(なつ)かしい思(おも)い出(で)に浸(ひた)っていると、庄屋(しょうや)の妻(つま)と、娘(むすめ)が「ゆき様(さま)のお口(くち)に合(あ)うか分(わ)かりませんが」と言(い)いながら、お盆(ぼん)に食事(しょくじ)を載(の)せて持(も)ってきました。

ほかほかの炊(た)き立(た)てご飯(はん)、魚(さかな)や貝(かい)の煮付(につ)け、お漬物(つけもの)、そして沢山(たくさん)の山菜類(さんさいるい)、おみおつけも、まだ湯気(ゆげ)が立(た)っています。海(うみ)の幸(さち)、山(やま)の幸(さち)をこんなにも揃(そろ)えることがどれだけ大変(たいへん)なことか、ゆきにはよく分(わ)かっていたので、尚(なお)一層(いっそう)、庄屋(しょうや)の妻(つま)の心遣(こころづか)いが心(こころ)に染(し)みました。ゆきはそれを心(こころ)からありがたく、美味(おい)しく頂(いただ)きました。

食事(しょくじ)が終(お)わった後(あと)で、ゆきは庄屋(しょうや)に、「庄屋殿(しょうやどの)は読書家(どくしょか)だとお聞(き)きしたのですが」と訊(たず)ねました。

庄屋(しょうや)は、「それほどではございませんが、時々(ときどき)本(ほん)を読(よ)むのを楽(たの)しみにしております」と答(こた)えました。

ゆきは、「前(まえ)に申(もう)し上(あ)げましたが、『源氏物語(げんじものがたり)』のような本(ほん)を市場(いちば)で探(さが)していたところ、呉服屋(ごふくや)さんが、庄屋殿(しょうやどの)に聞(き)いてみたら良(よ)いと教(おし)えてくれました」と言(い)うと、庄屋(しょうや)は、「それでしたら、家内(かない)とお話(はなし)になるのが宜(よろ)しいかと存(ぞん)じます」と教(おし)えました。

ゆきは、『源氏物語(げんじものがたり)』についての助言(じょげん)がもらえ、とても嬉(うれ)しくなり「このお礼(れい)というわけではないのですが、何(なに)か私(わたし)にお役(やく)に立(た)てることがありますか。何(なに)か力(ちから)になれたら嬉(うれ)しいのですが」と、庄屋(しょうや)に尋(たず)ねました。

すると庄屋(しょうや)は、神妙(しんみょう)な面持(おもも)ちで、「この町(まち)から唯一(ゆいいつ)村(むら)へ通(つう)じている道(みち)のことですが…。ここ数年(すうねん)で荷車(にぐるま)が通(とお)れないほど悪(わる)くなったそうでございます。整備(せいび)もされず、大雨(おおあめ)で押(お)し流(なが)されたり、沿道(えんどうがわ)の木々(きぎ)が生(お)い茂(しげ)ってきたりして、道幅(みちはば)が狭(せま)くなっている箇所(かしょ)もあると聞(き)いております。百姓達(ひゃくしょうたち)は作物(さくもつ)をこの町(まち)へ運(はこ)ぶのに大層難儀(たいそうなんぎ)をしているようでございます」と言(い)いました。

百姓(ひゃくしょう)育(そだ)ちのゆきは、百姓達(ひゃくしょうたち)の苦(くる)しみを聞(き)き、胸(むね)を痛(いた)めました。「そうですか。ずいぶん苦労(くろう)されているのですね…。殿(との)に必(かなら)ず報告(ほうこく)しておきます。一刻(いっこく)も早(はや)い改善(かいぜん)が必要(ひつよう)ですね」それから、二人(ふたり)は国(くに)について話(はな)し込(こ)みました。囲炉裏(いろり)の火(ひ)が消(き)えそうになるまで、二人(ふたり)の会話(かいわ)は、途切(とぎ)れることなく、続(つづ)きました。

やがて、興奮(こうふん)していた孫達(まごたち)も一人(ひとり)、二人(ふたり)とあくびをし始(はじ)め、一人(ひとり)ずつ、布団(ふとん)に寝(ね)かされました。狐(きつね)が「失礼(しつれい)ですが、もう夜(よる)も遅(おそ)うございます。殿(との)がゆき殿(どの)のお戻(もど)りをお待(ま)ちかねかと存(ぞん)じますが、よろしいのでございましょうか」と二人(ふたり)の会話(かいわ)に口(くち)を挟(はさ)むと、ゆきはふと本(ほん)の事(こと)を思(おも)い出(だ)し、庄屋(しょうや)の妻(つま)にそのことについて訊(たず)ねてみました。

庄屋(しょうや)の妻(つま)は、数十冊(すうじっさつ)の本(ほん)がある部屋(へや)にゆきを案内(あんない)しました。驚(おどろ)くゆきを横目(よこめ)に、庄屋(しょうや)の妻(つま)は、「どうぞ何冊(なんさつ)でもお持(も)ちください。ゆき様(さま)のお役(やく)に立(た)てるならば、こんなに嬉(うれ)しいことはございません」庄屋(しょうや)の妻(つま)の言葉(ことば)に心(こころ)を打(う)たれたゆきが、「本(ほん)のお礼(れい)に、何(なに)か私(わたし)に出来(でき)ることがあるでしょうか?」と聞(き)くと、妻(つま)は「お礼(れい)ですか…?」と、ゆきの思(おも)いがけない申(もう)し出(で)に驚(おどろ)いた顔(かお)をしていましたが、しばらくして、「ゆき様(さま)は有名(ゆうめい)な茶道家(さどうか)でいらっしゃるということをお聞(き)きしました。もしゆき様(さま)のお点前(てまえ)を拝見(はいけん)させていただけたら大変(たいへん)嬉(うれ)しいのですが」と、少(すこ)しはにかみながら伺(うかが)いました。

ゆきは「もちろん、茶道具(さどうぐ)をしばらく借(か)りてもよかったら、皆(みな)に見(み)せます。茶道(さどう)がつまらないなら、茶道具(さどうぐ)と関係(かんけい)なく、きっと私(わたし)のせいでしょう」と言(い)い、皆(みな)の前(まえ)でお茶(ちゃ)を点(た)てました。それは、見(み)る者(もの)を魅了(ひりょう)する、素晴(すば)らしい所作(しょさ)でした。その後(あと)で、ゆきは庄屋(しょうや)の妻(つま)の助(たす)けを借(か)りながら面白(おもしろ)そうな本(ほん)を選(えら)び、狐(きつね)たちと一緒(いっしょ)に城(しろ)へ戻(もど)りました。

第三十六章(だいさんじゅうろくしょう)

城(しろ)へ帰(かえ)る

ゆきが狐(きつね)や狐子(ここ)と一緒(いっしょ)に城(しろ)へ向(む)かうと、出(で)た時(とき)の空(そら)にあった太陽(たいよう)もすっかり暮(く)れて、代(か)わりにもう空(そら)を高(たか)く上(のぼ)った望(もち)の月(つき)が淡(あわ)く帰(かえ)り道(みち)を照(て)れていました。若殿(わかとの)がいらいらしながら、ゆきの帰(かえ)りを今(いま)か今(いま)かと待(ま)ちわびていると、ようやくゆきたちが、城(しろ)の門(もん)に向(む)かって歩(ある)いてくるのが見(み)えました。若殿(わかとの)はゆき達(たち)一同(いちどう)の元(もと)へ走(はし)りました。ゆき達(たち)が「まあ殿(との)!いったい…」と最後(さいご)の言葉(ことば)を言(い)う前(まえ)に、若殿(わかとの)は「ゆき、なぜこんなに遅(おそ)くまで帰(かえ)ってこなかったのだ。市場(いちば)はもうとっくに閉(し)まっている時間(じかん)だろう。それに、買(か)い物(もの)をしていると思(おも)っていたのに、本一冊(ほんいっさつ)しか持(も)ち帰(かえ)っていないようだが、今(いま)までどこにいたのだ?ずっと待(ま)っていたのだぞ」と、息(いき)を切(き)らせながら言(い)いました。

ゆきが若殿(わかとの)のそんな姿(すがた)に少(すこ)し狼狽(ろうばい)しながら、「あの…市場(いちば)にいました。市場(いちば)の仕立(した)て屋(や)さんが狐子(ここ)のと同(おな)じような着物(きもの)を作(つく)ってくれると言(い)ったのです。それから、町(まち)の庄屋(しょうや)さんに会(あ)ったり、一緒(いっしょ)に市場(いちば)のあちらこちらに行(い)ったり、いろいろな方(かた)を紹介(しょうかい)してくださったりしました。その後(あと)、お宅(たく)にお邪魔(じゃま)し夕食(ゆうしょく)をいただいて、親(した)しくお話(はなし)をいたしました。そして、奥様(おくさま)がこの本(ほん)を貸(か)してくださったのです」と説明(せつめい)するのを受(う)けて、狐(きつね)が、「その通(とお)りです」と加(くわ)えました。

ゆきはさらに続(つづ)けました。「どうしてそのように厳(きび)しい口調(くちょう)でおっしゃるのですか。私(わたし)は子供(こども)ではありません。祖母(そぼ)が亡(な)くなった後(あと)、一人(ひとり)であの大(おお)きな町(まち)に歩(ある)いて行(い)ったではありませんか」

若殿(わかとの)が、「しかし…」と口籠(くちごも)ると、ゆきは、「結婚(けっこん)する前(まえ)は、毎晩(まいばん)城(しろ)から一人(ひとり)で帰(かえ)ったではありませんか。忍者(にんじゃ)に襲(おそ)われた後(あと)も、それをそのまま続(つづ)けたではありませんか」と遮(さえぎ)りました。

「しかし…」

「それに、今回(こんかい)私(わたし)は一人(ひとり)ではありませんでした。こちらの狐(きつね)どのは私(わたし)を何度(なんど)も助(たす)けてくださったではありませんか。この方(かた)と一緒(いっしょ)にいるのに安全(あんぜん)でないとすると、一体(いったい)どこにいるのが、安全(あんぜん)とお考(かんが)えでしょうか」

「しかし…」

ゆきは、「それでは、お休(やす)みなさいませ」と言(い)い放(はな)つと、そのまま自分(じぶん)の部屋(へや)に帰(かえ)って行(い)きました。

若殿(わかとの)は、「しかし、心配(しんぱい)でなかったら、このように言(い)いはしない」と、少(すこ)し戸惑(とまど)ったようで溜息(ためいき)をつきました。

狐(きつね)が、「ご心配(しんぱい)ではあられましょうが、もう少(すこ)し穏(おだ)やかな口調(くちょう)で話(はな)された方(ほう)が宜(よろ)しいかと存(ぞん)じます」と諭(さと)すように言(い)うと、若殿(わかとの)は、「どうしたらいいのだ?」と聞(き)き返(かえ)しました。

「これからゆきどのを一人(ひとり)の大人(おさな)として扱(あつか)った方(ほう)が宜(よろ)しいかと存(ぞん)じます。私(わたし)はこれで失礼(しつれい)させていだきますが、ついでに鼠(ねずみ)を探(さが)してみることにいたします」と言(い)うと、狐(きつね)は、人間(にんげん)の姿(すがた)から本来(ほんらい)の姿(すがた)に戻(もど)って、立(た)ち去(さ)りました。

狐子(ここ)は、「私(わたし)が使(つか)わせていただけるお部屋(へや)を拝見(はいけん)してから、ゆきちゃんのお部屋(へや)を訪(たず)ねてもいいですか。私(わたし)がお話(はなし)をすれば、ゆきちゃんも落(お)ち着(つ)くかも知(し)れません」と言(い)いました。

そして若殿(わかとの)は下女(げじょ)を呼(よ)び、狐子(ここ)を部屋(へや)に案内(あんない)し、次(つ)いでゆきの部屋(へや)に連(つ)れて行(い)くよう申(もう)し付(つ)けました。

第三十七章(だいさんじゅうななしょう)

狐子(ここ)との会話(かいわ)

狐子(ここ)がゆきの部屋(へや)に入(はい)ると、ゆきは隅(すみ)に座(すわ)って床(ゆか)をじっと見(み)つめたまま、本(ほん)を抱(かか)えて涙(なみだ)を流(なが)していました。それを見(み)た狐子(ここ)は、ゆきの肩(かた)を後(うし)ろから叩(たた)き、「ゆきちゃん、さあ、涙(なみだ)を拭(ふ)いて。大切(たいせつ)な本(ほん)が濡(ぬ)れちゃうよ」

狐子(ここ)が背中越(せなかご)しに優(やさ)しく声(こえ)をかけると、ゆきは狐子(ここ)に背(せ)を向(む)けたまま、「殿(との)は私(わたし)のことを怒(おこ)っているのかしら?」と、涙(なみだ)を拭(ぬぐ)いながら尋(たず)ねました。

狐子(ここ)は「嫌(きら)いになったわけじゃないわよ。ゆきちゃんの帰(かえ)りが遅(おそ)くなったから、殿(との)は心配(しんぱい)だったのよ。だから、ついつい本当(ほんとう)のお気持(きも)ちよりきついお言葉(ことば)になっちゃったのね。ゆきちゃんがいなくなった後(あと)、殿(との)はとても寂(さび)しそうだったわ」と、優(やさ)しく元気(げんき)づけるように言(い)いました。

ゆきは、狐子(ここ)の方(ほう)を振(ふ)り向(む)き、「本当(ほんとう)?」と、まだ涙(なみだ)の残(のこ)る目(め)で狐子(ここ)を見(み)つめながら訊(たず)ねました。狐子(ここ)は、「うそなんかじゃないわよ。それより、手紙(てがみ)を書(か)かなくちゃいけないと言(い)っていたじゃない。ほら、蝋燭(ろうそく)に火(ひ)を点(つ)けて、その手紙(てがみ)を書(か)いてみましょうよ」と、ゆきの肩(かた)をぽんと叩(たた)きました。

ゆきは、狐子(ここ)の手(て)に籠(こも)った優(やさ)しさを感(かん)じ取(と)りました。その後(ご)、二人(ふたり)はゆらゆらと揺(ゆ)れる蝋燭(ろうそく)の灯(あかり)の下(した)で、殿様(とのさま)と女将(おかみ)宛(あて)の手紙(てがみ)を書(か)きました。

第三十八章(だいさんじゅうはっしょう)

評議(ひょうぎ)

次(つぎ)の朝(あさ)、評議(ひょうぎ)の前(まえ)に、ゆきは家老(かろう)のところに行(い)き、「この二通(につう)の手紙(てがみ)を、あの大(おお)きな町(まち)に送(おく)りたいのですが、自分(じぶん)の印章(いんしょう)がないので、まだ封(ふう)じていません。このまま封(ふう)をして、町(まち)へ届(とど)けた後(あと)で、私(わたし)に相応(ふさわ)しい印鑑(いんかん)を作(つく)ってくださいませんか」と訊(たず)ねました。

家老(かろう)は、「かしこまりました。では、ゆき様(さま)のお父上(ちちうえ)と同(おな)じような印鑑(いんかん)ではいかがでしょうか」と答(こた)えました。

ゆきは、父親(ちちおや)と同(おな)じような印鑑(いんかん)が手(て)に入(はい)ると思(おも)うと、嬉(うれ)しくなり、家老(かろう)にお礼(れい)を言(い)い、その場(ば)を立(た)ち去(さ)りました。

少(すこ)しして、ゆきは若殿(わかとの)と家老(かろう)の評議(ひょうぎ)に参加(さんか)し、町(まち)の人達(ひとたち)が例(れい)の道(みち)のことで困(こま)っているということを報告(ほうこく)しました。「あの道(みち)は、いつ頃(ごろ)からあのような状態(じょうたい)なのでしょうか?直(ただ)ちに改善(かいぜん)させなくてはなりません」とゆきが言(い)うと、家老(かろう)は、当時(とうじ)のことを思(おも)い出(だ)すように、「良(よ)い道(みち)というほどではありませんでしたが、今(いま)よりはずっとましでございました。当時(とうじ)、それぞれの村(むら)は、税(ぜい)の一部(いちぶ)を免除(めんじょ)される代(か)わりに、道(みち)を整備(せいび)する義務(ぎむ)を負(お)っていました。ひょっとすると、後(あと)の大名(だいみょう)がその取(と)り決(き)めを変(か)えてしまったのかも知(し)れません」と答(こた)えました。

若殿(わかとの)は家老(かろう)に、「現在(げんざい)はどういうことになっているのかを調査(ちょうさ)してくれ。すぐにだ!」と言(い)うと家老(かろう)はははっと言(い)い、部屋(へや)を飛(と)び出(だ)しました。そして若殿(わかとの)は、一度(いちど)咳払(せきばら)いをし、ゆきの方(ほう)に振(ふ)り向(む)きました。「ゆき、このことを伝(つた)えてくれてありがとう。昨夜(さくや)は、つい厳(きび)しい物言(ものい)いになってしまい、悪(わる)いことをしてしまったと反省(はんせい)している。狐(きつね)どのが言(い)ったように、これからはあなたを一人(ひとり)の大人(おとな)として扱(あつか)った方(ほう)がいいようだ」と、優(やさ)しい笑(え)みを浮(う)かべながら、ゆきに言(い)いました。その笑顔(えがお)は、今(いま)までゆきが見(み)た若殿(わかとの)の笑顔(えがお)の中(なか)で、一番(いちばん)優(やさ)しい笑顔(えがお)でした。

そんな笑顔(えがお)を見(み)て、ゆきは顔(かお)をぽっと赤(あか)らめながら、「いいえ、遅(おそ)くなると分(わ)かった時点(じてん)で誰(だれ)かに言付(ことづ)けを頼(たの)むべきでした」と、少(すこ)しうろたえたように、俯(うつむ)き加減(かげん)で言(い)いました。「…しかし国(くに)のこととなると話(はなし)は別(べつ)です。まだこの国(くに)をよく知(し)りません。お腹(なか)が大(おお)きくなる前(まえ)に、それぞれの村(むら)を訪(たず)ねて、さまざまな問題(もんだい)や農民(のうみん)の不満(ふまん)などを直(じか)に聞(き)いておきたいと思(おも)っています」と、若殿(わかとの)の目(め)を見(み)つめながら、きっぱりとした調子(ちょうし)で言(い)いました。

若殿(わかとの)は、「ここに留(とど)まっ…」と言(い)いかけると、ふと口籠(くちごも)って、狐(きつね)の言葉(ことば)を思(おも)い出(だ)しました。「分(わ)かりました。しかし今回(こんかい)ばかりは、私(わたし)も一緒(いっしょ)に行(い)こうと思(おも)います。家老(かろう)は私(わたし)の代理(だいり)として城(しろ)に残(のこ)りなさい」と、たった今(いま)戻(もど)ってきた家老(かろう)に強(つよ)い口調(くちょう)で言(い)いました。すると、家老(かろう)は、「あのような狭(せま)くて凸凹(でこぼこ)した道(みち)を駕籠(かご)での往来(おうらい)は無理(むり)でございましょう。ゆき様(さま)は乗馬(じょうば)をなさいますか」と、ゆきに訊(たず)ねました。

ゆきが馬(うま)に乗(の)ったことは一度(いちど)もないと答(こた)えると、若殿(わかとの)は家老(かろう)に、「厩(うまや)の者(もの)に気性(きしょう)の優(やさ)しい牝馬(ひんば)を選(えら)ばせて、出発(しゅっぱつ)までゆきに毎日(まいにち)乗(の)り方(かた)を教(おし)えてやってほしい。それと、それぞれの村(むら)に使者(ししゃ)を送(おく)っておきなさい」と命(めい)じました。

それから他(ほか)のことについても話(はな)しました。

第三十九章(だいさんじゅうきゅうしょう)

旅(たび)の準備(じゅんび)

ゆきが村(むら)を訪(たず)ねることを耳(みみ)にした狐子(ここ)は、「私(わたし)も行(い)きたい」と言(い)い出(だ)し、若殿(わかとの)はそれを許(ゆる)しました。

旅(たび)に出(で)るまで、ゆきは評議(ひょうぎ)に立(た)ち会(あ)ったり、家老(かろう)から統治(とうち)についての心得(こころえ)を教(おそ)わったり、厩(うまや)の者(もの)から馬(うま)の乗(の)り方(かた)を学(まな)んだりして、忙(いそが)しく暮(く)らしていました。その一方(いっぽう)、狐子(ここ)は城(しろ)の女性(じょせい)たちの言動(げんどう)を調査(ちょうさ)していました。人間(にんげん)の姿(すがた)で彼女(かのじょ)たちに交(ま)ざり、「この着物(きもの)が気(き)に入(い)ったの?京(きょう)のお姫(ひめ)さまは皆(みな)このような着物(きもの)を着(き)ているのよ。市場(いちば)の仕立(した)て屋(や)は、ゆきちゃんのためにこれと同(おな)じような着物(きもの)を作(つく)ってるわ。あ、ゆきちゃんと言(い)えば、あなたたち、彼女(かのじょ)のお点前(てまえ)を見(み)たことある?私(わたし)は京(きょう)一番(いちばん)の茶道家(さどうか)を見(み)たことがあるのだけど、それでもゆきちゃんのお点前(てまえ)を見(み)た時(とき)はあまりの美(うつく)しさに、思(おも)わず息(いき)を呑(の)んじゃったわ。お願(ねが)いしたら、もしかしたらあなたたちも見(み)せてもらえるかもね」などと、城(しろ)の女性達(じょせいたち)にいうこともありました。

また時(とき)には狐子(ここ)は他(ほか)の姿(すがた)に化(ば)けて現(あらわ)れることもありました。侍女(じじょ)や、小姓(こしょう)や、猫(ねこ)の姿(すがた)に化(ば)けて、城(しろ)のあちらこちらで、いろいろな会話(かいわ)を聞(き)くのです。もし、ゆきの悪口(わるくち)を話(はな)している人(ひと)がいたら、すかさずおまじないでその人(ひと)の指(ゆび)に針(はり)を刺(さ)したり、床板(ゆかいた)で躓(つまず)かせたり、持(も)っている物(もの)を落(お)とさせたりしたのです。たまたまゆきが側(そば)にいて、狐子(ここ)のいたずらに困(こま)っている者達(ものたち)を助(たす)けたこともありました。ゆきの心(こころ)の優(やさ)しさ、美(うつく)しさは、日(ひ)ごとに皆(みな)に伝(つた)わり、悪口(わるくち)の代(か)わりに、「お点前(てまえ)を見(み)せてほしい」という言葉(ことば)が城(しろ)には飛(と)び交(か)うようになったのです。

村(むら)への出発(しゅっぱつ)の前日(ぜんじつ)に、若殿(わかとの)は城(しろ)に仕(つか)えている者達(ものたち)全(すべ)てを招(まね)いた盛大(せいだい)な宴(うたげ)を催(もよお)しました。宴(うたげ)が一段落(ひとだんらく)したところで、ゆきは新(あたら)しい着物(きもの)に着替(きが)え、お茶(ちゃ)を点(た)てました。ゆきの着物(きもの)の優雅(ゆうが)さとお点前(てまえ)のと見事(みごと)さに、皆(みな)は感動(かんどう)のあまり言葉(ことば)を失(うしな)ってしまいました。そして、その後(あと)しきりにゆきを褒(ほ)めたたえました。

第四十章(だいよんじっしょう)

最初(さいしょ)の村(むら)

次(つぎ)の朝(あさ)、ゆきと若殿(わかとの)は家来(れらい)と共(とも)に最初(さいしょ)の村(むら)へ向(む)かいました。しばらくすると、道(みち)が狭(せま)くなり、二頭(にとう)の馬(うま)は肩(かた)を並(なら)べて歩(ある)くことができなくなりました。さらに道(みち)がでこぼこになるにつれて、かろうじて一頭(いっとう)通(とお)るのがやっとの悪路(あくろ)になってしまいました。若殿(わかとの)は、「酷(ひど)いな。道(みち)がずっとこのような状態(じょうたい)が続(つづ)くならば、兵(へい)をどこかへ急(きゅう)に派遣(はけん)させたい時(とき)に、まったく使(つか)い物(もの)にならないではないか。このまま放(ほう)っておくわけにはいかない」と言(い)いました。

なんとかゆきたち一行(いっこう)は村(むら)に到着(とうちゃく)することができました。しかし、村(むら)には人気(ひとけ)がありませんでした。家来達(けりいたち)がしばらく捜(さが)し回(まわ)ると、そのうちの一人(ひとり)が、ぽつんと立(た)っている一人(ひとり)の老人(ろうじん)を見(み)つけました。

その家来(けらい)が、「おい、じじい、他(ほか)の者(もの)はどうした?」と聞(き)くと、老人(ろうじん)は辛(つら)そうに言(い)いました。「お侍(さむらいぎ)さまが村(むら)にくれば、理由(りゆう)もなくわしら百姓(ひゃくしょう)を殺(ころ)したり、わしらの妻(つま)や娘(むすめ)の純潔(じゅんけつ)を汚(けが)したり、来年(らいねん)植(う)えるための米(こめ)まで取(と)り上(あ)げたりするので、わしらは苦(くる)しみます。それでもお殿(との)さまがじきじきに来(く)られるよりはましであろうと思(おも)っておりました。今日(きょう)、お殿(との)さまがここにいらっしゃるおつもりということを伺(うかが)いまして、村(むら)の者(もの)は皆(みな)逃(に)げ出(だ)し、身(み)を隠(かく)しております。わしはどうせ老(お)い先(さき)短(みじか)い身(み)ですので、ここに一人(ひとり)残(のこ)っておりました」

その家来(けらい)が、「無礼(ぶれい)者(もの)!侍(さむらい)の悪口(わるくち)を言(い)えばどうなるか教(おし)えてやるぞ!」と、刀(かたな)を抜(ぬ)こうとしましたが、「お止(や)めなさい!」という鋭(するど)い制止(せいし)の声(こえ)が響(ひび)きました。思(おも)わず振(ふ)り向(む)くと、そこにはゆきがいました。「私共(わたしども)は村(むら)の人々(ひとびと)を傷(きず)つけるつもりはありません。その人(ひと)を放(はな)しなさい」とゆきは命(めい)じました。ゆきの言葉(ことば)に若殿(わかとの)が顎(あご)で合図(あいず)するのを見(み)ると、家来(けらい)は老人(ろうじん)を放(はな)しました。

ゆきは馬(うま)から降(お)りて、老人(ろうじん)のところに近(ちか)づきました。「おじいさん、父上(ちちうえ)の時代(じだい)にも農民(のうみん)がそんな扱(あつか)いを受(う)けることがありましたか」と聞(き)きました。

すると、老人(ろうじん)は突然(とつぜん)顔(かお)を上(あ)げ、動揺(どうよう)したように、「まさか、今(いま)お父上(ちちうえ)とおっしゃいましたか。もしや、あのお方(かた)をお父上(ちちうえ)とおっしゃるのなら、あなたはゆき様(さま)ではございませんか」と、おそるおそるゆきに訊(たず)ねました。ゆきはこくりと頷(うなず)きました。すると、老人(ろうじん)は、「やっぱりそうですか…。ゆき様(さま)、どうかお聞(き)きください。百姓(ひゃくしょう)の生活(せいかつ)はいつもつらいものではございますが、これほどつらい時代(じだい)は今(いま)までありませんでした。貴方(あなた)のお父上(ちちうえ)の時代(じだい)は、お侍(さむらい)が理由(りゆう)もなく百姓(ひゃくしょう)を殺(ころ)すようなことはありませんでした。万(まん)が一(いち)そのようなことがあれば、お父上(ちちうえ)は直(ただ)ちにそのお侍(さむらい)を罰(ばっ)されたものです。しかし、後代(こうだい)のお殿(との)さまは、どのような事情(じじょう)があろうと、いつも悪(わる)いのは百姓(ひゃくしょう)ということになり、決(けっ)してお侍(さむらい)を罰(ばっ)することなどありません。それどころか、百姓(ひゃくしょう)は取(と)るに足(た)らぬ奴(やつ)らだと言(い)われて、逆(ぎゃく)に罰(ばち)を受(う)けております」

ゆきは少(すこ)し憤慨(ふんがい)したように、「それは本当(ほんとう)に酷(ひど)い話(はなし)です。侍(さむらい)も、農民(のうみん)も、公正(こうせい)な裁(さば)きを受(う)けるべきでしょう」と言(い)いました。老人(ろうにん)はずっと黙(だま)っていました。言(い)うべき言葉(ことば)が見当(みあ)たらないのでしょう。少(すこ)しの沈黙(ちんもく)の後(あと)、ゆきは「他(ほか)の住民達(しゅうみんたち)に、私(わたし)が皆(みな)と会(あ)いたいと言(い)っていると伝(つた)えてください」と言(い)いました。

その老人(ろうじん)は、「分(わ)かりました」と言(い)い、急(いそ)いで村人(むらびと)を集(あつ)めました。ほどなく、村人(むらびと)が一人(ひとり)、また一人(ひとり)と集(あつ)まってきました。ほとんど全(すべ)ての村人(むらびと)が集(あつ)まってから、若殿(わかとの)とゆきは農民(のうみん)一人(ひとり)一人(ひとり)の話(はなし)を聞(き)きました。そして、村(むら)がその辺(あた)りの道(みち)を整備(せいび)するお返(かえ)しに、税(ぜい)を軽(かる)くすると約束(やくそく)しました。

第四十一章(だいよんじゅういっしょう)

女将(おかみ)の到着(とうちゃく)

ゆき達(たち)はその村(むら)に二日(ふつか)間(かん)滞在(滞在)した後(あと)、次(つぎ)の村(むら)へ向(む)けて出発(しゅっぱつ)しました。ゆきと若殿(わかとの)はいい領主(りょうしゅ)だといううわさが広(ひろ)まるにつれ、村人(むらびと)たちも次第(しだい)に、ゆきたちを歓迎(かんげい)してくれるようになりました。

その一方(いっぽう)で、城内(じょうない)では妬(ねた)みから、ゆきのよくない噂(うせさ)を流(なが)す者(もの)が出(だ)てきました。「あの女(おんな)が城(しろ)にいた頃(ころ)は、あの女(おんな)の悪口(わるぐち)を言(い)っている者(もの)は必(かなら)ず何(なに)かしらの災難(さいなん)に遭(あ)っていたようだ。あの女(おんな)が城(しろ)を離(はな)れてから、そんな災難(さいなん)はぴたりと起(お)こらなくなったらしい。あの女(おんな)が災難(さいなん)を起(お)こしたに違(ちが)いない」「あの女(おんな)は若(わか)いのに、どうしてあんなにお茶(ちゃ)のお点前(てまえ)が達者(たっしゃ)なのだろう?噂(うせさ)では、彼女(かのじょ)は狐(きつね)と通(つう)じているらしい。彼女(かのじょ)も狐(きつね)で、狐(きつね)の妖術(ようじゅつ)いを使(つか)うのかも知(し)れない。あるいは、物(もの)の怪(け)の類(たぐ)いかも知(し)れない。前代(ぜんだい)の大名(だいみょう)が倒(たお)れた時(とき)、有名(ゆうめい)な茶道家(さどうか)でいらっしゃったご母堂様(ぼどうさま)が城内(じょうない)で焼(や)き死(し)んだという話(はなし)もあるよ」などと、とんでもないことを言(い)い出(だ)す者(もの)まで現(あらわ)れました。

その頃(ころ)、ゆきが手紙(てがみ)で来訪(らいほう)を依頼(いらいこ)していた、婚礼(こんれい)の前(まえ)に雇(やと)った女将(おかみ)が、城(しろ)に到着(とうちゃく)しました。女将(おかみ)は門番(もんばん)にゆきから貰(もら)った手紙(てがみ)を見(み)せ、部屋(へや)に通(とお)されると、家老(かろう)がそこで待(ま)っていました。女将(おかみ)がゆきからの願(ねが)いで、ここに来(き)た旨(むね)を伝(つた)えると、家老(かろう)は今(いま)ゆきはここにいないと言(い)いました。女将(おかみ)は驚(おどろ)き、「ゆき様(さま)がお留守(るす)だということでしたら、私(わたし)は何(なに)をしたらよいのでしょうか」と家老(かろう)に訊(き)きました。

家老(かろう)は、「あなたのことは伺(うかが)っております。ゆき様(さま)が村(むら)を訪問(ほうもん)されている間(あいだ)に、あなたは、この城内(じょうない)のことをよく知(し)っておいた方(ほう)がいいでしょう。お部屋(へや)は、ゆき様(さま)の隣室(りんしつ)をお使(つか)いください」と答(こた)えました。

それから女将(おかみ)はゆきの隣室(りんしつ)に通(とお)され、自分(じぶん)の荷物(にもつ)の整理(せいり)などをしてから、城内(じょうない)をあちこち見(み)て回(まわ)りました。数日間後(すうにちかんご)、何人(なんにん)かの女中(じょちゅう)が井戸(いど)の周(まわ)りに集(あつま)まって噂話(うわさばなし)をするのを見(み)かけるようになりました。初(はじ)め、女将(おかみ)はいったい誰(だれ)のことを話(はな)しているのかと不思議(ふしぎ)に思(おも)っていましたが、まだ彼女(かのじょ)は城(しろ)のことをよく知(し)らなかったので、何(なに)も言(い)いませんでした。しかし、徐々(じょじょ)にその人(ひと)たちが話(はな)しているのは、ゆきのことだと分(わ)かってきました。女将(おきみ)はそれを早速(さっそく)家老(かろう)に報告(ほうこく)しました。

家老(かろう)は、「その件(けん)に関(かん)しては承知(しょうち)しました。しかし、人(ひと)の口(くち)に戸(と)は立(た)てられません。噂(うわさ)をとめることはできないでしょう。だからといってそのまま放置(ほうち)しておくわけにもいきません。ゆき様(さま)の噂(うわさ)にはいつも注意(ちゅうい)を払(はら)っていてくれませんか。ゆき様(さま)がお帰(かえ)りになられたら、お伝(つた)えした方(ほう)がいいでしょう」と言(い)いました。

それから女将(おかみ)は、悪(わる)いうわさを聞(き)くたびに、その詳細(しょうさい)を日記(にっき)に書(か)きとめていきました。

第四十二章(だいよんじゅうにしょう)

危難(きなん)の噂(うわさ)

ゆきたちが、山(やま)の近(ちか)くまで辿(たど)り着(つ)いた時(とき)、鬼(おに)や天狗(てんぐ)などが村(むら)を襲撃(しゅうげき)している、という妙(みょう)な噂(うわさ)を耳(みみ)にしました。家来(けらい)の長(おさ)は、早速(さっそく)それを若殿(わかとの)に報告(ほうこく)しました。「殿(との)、村(むら)に行(い)くのは大変(たいへん)危険(きけん)でございます。このまま城(しろ)にお戻(もど)りになる方(ほう)が得策(とくさく)だと思(おも)います。もしそのままお進(すす)みになるのであれば、女子衆(おなごしゅう)は城(しろ)にお帰(かえ)しするべきかと存(ぞん)じます」

それを聞(き)いた若殿(わかとの)は、困(こま)った顔(かお)をしながら、「私(わたし)はもう城(しろ)に戻(もど)るように命(めい)じたが、彼女達(かのじょたち)はそれを頑(がん)として聞(き)き入(い)れんのだ。それに、狐子(ここ)は…」と、若殿(わかとの)が最後(さいご)まで言葉(ことば)を言(い)い続(お)える前(まえ)に、「鬼(おに)なんて怖(こわ)くないわ」と言(い)う声(こえ)が背中越(せなかご)しに聞(き)こえてきました。若殿(わかとの)がその方(ほう)を向(む)くと、そこにはいたずらっ子(こ)のような笑(え)みを浮(う)かべた狐子(ここ)が立(た)っていました。「鬼(おに)なんて、力(ちかる)だけで、頭(あたま)は空(くら)っぽですもの」と、くすくすと笑(わら)いながら狐子(ここ)が言(い)うと、若殿(わかとの)は、「確(たし)かに、狐殿(きつねどの)や狐子(ここ)にとっては、鬼(おに)などとるにたらないものなのかもしれないな。鬼(おに)が我(われ)らの城(しろ)を襲撃(しゅうげき)した時(とき)、狐子(ここ)のお父上(ちちうえ)があそこにおられなかったら、私(わたし)も家来(けらい)も何(なに)もできなかったに違(ちが)いない…狐子(ここ)、とにかく、ゆきに城(しろ)に戻(もど)るように説得(せっとく)してくれないか」と若殿(わかとの)は狐子(ここ)に頼(たの)みました。

すると狐子(ここ)は、きっぱりと「それはもう無駄(むだ)です。命令(めいれい)される前(はえ)は、城(しろ)へ戻(もど)る気(き)もないわけではなかったようだけど、命令(めいれい)されてからは、逆(ぎゃく)に城(しろ)に戻(もど)らないと決意(けつい)してしまったようです。あの子(こ)は頑固(がんこ)な所(ところ)があるから。私(わたし)はあの子(こ)の味方(みかた)ですわ。…かえって、鬼(おに)などがいた方(ほう)が、このつまらない旅(たび)も賑(にぎ)やかになっていいでしょうしね」と答(こた)えると、狐子(ここ)は踵(きびす)を返(かえ)し、ゆきの方(ほう)へ向(む)かって歩(ある)き出(だ)しました。

若殿(わかとの)は家来(けらい)に、「皆(みな)の者(もの)、怪(あや)しいものの気配(けはい)に抜(ぬ)かりなきよう心得(こころえ)て欲(ほ)しい。不意(ふい)はつかれたくないからな」と命(めい)じてから、「つまらない旅(たび)の方(ほう)がいいのだが」と呟(つぶや)きました。

第四十三章(だいよんじゅうさんしょう)

鬼(おに)との遭遇(そうぐう)

少(すこ)しして、ゆき達(たち)が森(もり)を通(とお)り抜(ぬ)ける途中(とちゅう)、偵察(ていさつ)から戻(もど)ってきた家来(けらい)が告(つ)げました。「殿(との)、一町(いっちょう)ほど先(さき)で、倒(たお)れた巨木(きょぼく)が道(みち)をふさいでおります。先(さき)へ進(すす)むことは不可能(ふかのう)と思(おも)われます」

若殿(わかとの)は家来(けらい)に尋(たず)ねました。「他(ほか)に通(とお)れる道(みち)はないのか?」

「あの村(むら)は狭(せま)い谷(たに)の奥(おく)にあるので、他(ほか)に道(みち)はございません」と家来(けらい)は答(こた)えました。

「そうか…」と若殿(わかとの)は呟(つぶや)き、ゆきの方(ほう)へ向(む)きました。そして、「もう城(しろ)へ戻(もど)ろう」と若殿(わかとの)はゆきを促(うなが)しました。

ゆきはきっとした顔(かお)つきで首(くび)を振(ふ)り、「私(わたし)はそれぞれの村(むら)を訪(たず)ねたいと申(もう)しました。安全(あんぜん)で行(い)きやすい村(むら)だけを選(えら)んで訪(たず)ねたいと申(もう)した覚(おぼ)えはございません。すべての村(むら)を訪(たず)ね終(お)えてから、戻(もど)るつもりです」と、若殿(わかとの)の目(め)をじっと見(み)つめながら答(こた)えました。

若殿(わかとの)はゆきの目(め)を見(み)つめました。ゆきの瞳(ひとみ)は真剣(しんけん)そのものでした。若殿(わかとの)は溜(た)め息(いき)をつきながら、「仕方(とかた)ない。斧(おの)を持(も)っていき、木(き)を取(と)り除(ひら)いて、なんとか道を通れるようにしなさい」と命(めい)じました。

それから、ゆき達(たち)は倒木(とうぼく)のそばに集(あつ)まり、三人(さんにん)の家来(れらい)が、斧(おの)で木(き)を切(き)ろうとしました。ところが、斧(おの)が木(き)に当(あ)たった途端(とたん)、その木(き)は激(はげ)しく動(うご)き始(はじ)め、怒号(どごう)が辺(あた)りに響(ひび)き渡(わた)りました。「俺様(おれさま)の昼寝(ひるね)を邪魔(じゃま)するのはどこのどいつだ?」木(き)だと思(おも)っていたものは、なんと鬼(おに)の足(あし)だったのです!

鬼(おに)はゆっくりと立(た)ち上(あ)がりました。ゆき達(たち)の馬(うま)は、鬼(おに)の気迫(きはく)に押(お)され、興奮(こうふん)し暴(あば)れ出(だ)しました。ゆきが宥(なだ)めるために撫(な)でながら声(こえ)をかけようとした、まさにその時(とき)です。普段(ふだん)は大人(おとな)しいが今(いま)は興奮(こうふん)した牝馬(めうま)が前足(まえあし)で地面(じめん)を高(たか)く蹴(け)り上(あ)げ、必死(ひっし)にしがみつくゆきを一気(いっき)に地面(じめん)に叩(たた)きつけたのです。あたりはひどい混乱状態(こんらんじょうたい)に陥(おちい)ってしまいました。

鬼(おに)は、「俺様(おれさま)は、弟(おとうと)に会(あ)うためにここに来(き)たのに、あいつの岩屋(いわや)には誰(だれ)もいやしなかった。この辺(あた)りの人間(にんげん)が、俺様(おれさま)が着(つ)いてあいつらを食(く)う前(まえ)に、すでに弟(おとうと)を殺(ころ)してしまったに違(ちが)いない。お前(まえ)ら、何(なに)か知(し)っていることがあるか?」と言(い)いました。その声(こえ)はまるで雷鳴(らいめい)のように、辺(あた)り一面(いちめん)に轟(とどろ)きました。

すると「出(で)たわね、この木偶(でく)の坊(ぼう)、私(わたし)の父(ちち)がその鬼(おに)を退治(退治)させたのよ」と鬼(おに)の低(ひく)い声(こえ)とは真逆(まぎゃく)に、鐘(かね)のような弾(はず)む声(こえ)が聞(き)こえました。その声(こえ)の主(ぬし)は狐子(ここ)でした。狐子(ここ)は、石(いし)の上(うえ)に座(すわ)りながら「兄弟(きょうだい)そろって間抜(まぬ)け面(づら)の見本市(みほんいち)でもやるつもりだったのかしら。戦(たたか)うだけ無駄(むだ)ね」狐子(ここ)はドロンと自分(じぶん)の姿(すかた)に戻(もど)り、石(いし)に座(すわ)ったまま、のんびりと毛(け)づくろいを始(はじ)めました。

鬼(おに)はにやりとし、「お前(まえ)のようなちびの女狐(めぎつね)が俺様(おれさま)の相手(あいて)になるはずもない」と言(い)いました。狐子(ここ)は何(なん)の反応(はんのう)もせず、今度(こんど)はの尻尾(しっぽ)の毛(け)づくろいをし始(はじ)めました。「尻尾(しっぽ)が二本(にほん)だろうが、百本(ひゃっぽん)だろうが、俺様(おれさま)には関係(かんけい)ない。叩(たた)きつぶしてやる」と言(い)うと、鬼(おに)は松(まつ)の木(き)を引(ひ)き抜(ぬ)き、それをまるで棍棒(こんぼう)のように操(あやつ)り、狐子(ここ)に向(む)けて振(ふ)り下(お)ろしました。鬼(おに)が木(き)を振(ふ)り上(あ)げると、そこには狐子(ここ)は影(かげ)も形(かたち)もありませんでした。頭(あたま)がよくない鬼(おに)は、釘(くぎ)を打(う)つように狐子(ここ)のことを押(お)しつぶしたつもりで、「軽(かる)いもんだわい」と満足(まんぞく)な声(こえ)で言(い)うと、「あらこっちよ、のろまちゃん。その松(まつ)の木(き)を枕(まくら)に、お昼寝(ひるね)するところだったわ」と笑(わら)う声(こえ)が後(うし)ろから聞(き)こえました。狐子(ここ)は少(すこ)し離(はな)れた所(ところ)に立(た)っていました。次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)、鬼(おに)に向(む)かって駆(か)けてきたかと思(おも)うと、狐子(ここ)は鬼(おに)の踵(かかと)を噛(か)んで、また遠(とお)ざかりました。

「畜生(ちくしょう)!止(と)めろ!うっとうしい女狐(めぎつね)め、そこを動(うご)くな!」と、鬼(おに)は松(まつ)の木(き)を振(ふ)り回(まわ)しました。

狐子(ここ)はそんな風(ふう)にして、徐々(じょじょ)に鬼(おに)をゆき達(たち)のいる場所(ばしょ)から遠(とお)ざけていきました。

そのおかげで、家来(けらい)たちは馬(うま)を捕(つか)まえた後(あと)、少(すこ)し落(お)ち着(つ)くことができました。若殿(わかとの)はゆきの目(め)を覚(さ)まそうとしました。「ゆき!起(お)きなさい!逃(に)げるんだ!」

ゆきは目(め)を開(あ)けました。「あの、何(なに)があったの?頭(あたま)が痛(いた)い…」と言(い)うと、ゆきは目(め)を丸(まる)くして続(つづ)けました。「鬼(おに)だったの?どこ?」と、慎重(しんちょう)に辺(あた)りを見回(みまわ)し、鬼(おに)が少(すこ)しずつ遠(とお)ざかっていることに気(き)づきました。「誰(だれ)かが鬼(おに)に追(お)われているのですか」

若殿(わたとの)は、「狐子(ここ)だよ。狐子(ここ)が我(われ)らから鬼(おに)を遠(とお)ざけている。今(いま)のうちだ、さあ逃(に)げよう!」と言(い)いました。

ゆきは、「それが侍(さむらい)のお言葉(ことば)でしょうか。女子(おなご)に戦(たたか)わせて、ご自分(じぶん)はお逃(に)げになるとは。それに、あの鬼(おに)を止(と)めなければ、これからまた何人(なんにん)の農民(のうみん)が殺(ころ)されてしまうことか。侍(さむらい)のつとめは国(くに)を守(まも)ることではございませんか。農民(のうみん)は国(くに)の生(い)きた血(ち)です。農民(のうみん)を失(うしな)えば、国(くに)が滅(ほろ)んでしまうことでしょう」

「あそこを見(み)て!狐子(ここ)が噛(か)んだ踵(かかと)のところに、狐火(きつねび)が憑(つ)いています。あそこを深(ふか)く切(き)れば鬼(おに)は必(かなら)ずひっくり返(かえ)るでしょう!真(しん)の侍(さむらい)なら出来(でき)るはずです」とゆきは言(い)いました。

「そうか!見(み)えるぞ!よし、やってみる」と、若殿(わかとの)は刀(かたな)を抜(ぬ)こうとしましたが、「殿(との)、お待(ま)ちください」と言(い)う声(こえ)が聞(き)こえました。家来(けらい)がゆき達(たち)に近(ちか)づいてきました。

「お考(かんが)え直(なお)しください。農民(のうみん)は国(くに)の生(い)きた血(ち)ではありますが、殿(との)は国(くに)の御心(みこころ)でございます。お世継(よつ)ぎがいらっしゃらない殿(との)に、万(まん)が一(いち)のことでもございますれば…」

「我(われ)ら家来(けらい)の最(もっと)も大切(たいせつ)なつとめは殿(との)を守(まも)ることでございます。拙者(せっしゃ)の父(ちち)は、この刀(かたな)と共(とも)にゆきさまのお父上(ちちうえ)にお仕(つか)え致(いた)しておりました。しかし、刀(かたな)を父(ちち)から譲(ゆず)り受(う)けた拙者(せっしゃ)は、お父上(ちちうえ)を倒(たお)した大名(だいみょう)に仕(つか)えることとなりました。これは拙者(せっしゃ)にとって真(せっしゃ)に不名誉(ふめいよ)なことでありました。ですから、そのお役目(やくめ)は私(わたし)めにご命(めい)じください。たとえ我(わ)が命(いのち)と引(ひ)き換(か)えてでも、あの鬼(おに)を倒(たお)すことで汚名(おめい)を返上(へんじょう)致(いた)したいのです。殿(との)にはとどめの一太刀(ひとたち)をお願(ねが)い致(いた)します」

若殿(わかとの)がゆっくりとうなずくと、家来(けらい)は鬼(おに)の方(ほう)へ向(む)きました。木(き)の間(あいだ)を走(はし)りぬけ、鬼(おに)の様子(ようす)を窺(うかが)いながら少(すこ)し待(ま)ち、また次(つぎ)の木(き)の陰(かげ)へ向(む)かって走(はし)りました。若殿(わかとの)も同(おな)じように、家来(けらい)の後(うし)ろを少(すこ)し離(はな)れてついて行(い)きました。そしてようやく、家来(けらい)は鬼(おに)の近(ちか)くまでたどり着(つ)きました。もう一度(いちど)、鬼(おに)がまだ気(き)づいていないのを確(たし)かめてから、鬼(おに)の踵(かかと)のそばに駆(か)け寄(よ)り、力(ちから)いっぱい刀(かたな)を振(ふ)り下(お)ろしました。鬼(おに)は激高(げきこう)しながら切(き)られた足(あし)を持(も)ち上(あ)げようとしましたが、松(まつ)の木(き)を棍棒(こんぼう)のように振(ふ)り回(まわ)していたので、重心(じゅうしん)を失(うしな)い、ついには地面(じめん)にひっくり返(かえ)ってしまいました。

鬼(おに)が倒(たお)れたのを見(み)て、すぐに若殿(わかとの)は鬼(おに)の頭(あたま)のところに駆(か)け寄(よ)り、刀(かたな)を抜(ぬ)き、一振(ひとふ)りで鬼(おに)の首(くび)を切(き)り落(お)としました。一段落(いちだんらく)した後(あと)で、足(あし)に斬(き)りつけた家来(けらい)が立(た)っていた辺(あた)りを見(み)ましたが、そこには誰(だれ)もいませんでした。「おい、どこだ?大丈夫(だいじょうぶ)か?」と呼(よ)びかけると、家来(けらい)が答(こた)えました。「こちらにおりますが、身動(みうご)きできないのでございます。鬼(おに)の足(あし)が拙者(せっしゃ)の腕(うで)に乗(の)っているのです」

家来(けらい)たちは彼(かれ)を鬼(おに)の足(あし)の下(した)から助(す)け出(だ)しました。一方(いっぽう)、狐子(ここ)は人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)け、若殿(わかとの)のところに戻(もど)ってきました。「とっても楽(たの)しかったわ。今度(こんど)はどんな鬼(おに)に会(あ)うかしら」と言(い)いました。

「やれやれ」と若殿(わかとの)は苦笑(にがわら)いしながら言(い)いました。

第四十四章(だいよんじゅうよんしょう)

破壊(はかい)された村(むら)

鬼(おに)を退治(たいじ)した後(あと)で、ゆきたちは谷(たに)の奥(おく)の村(むら)に向(む)けて旅(たび)を続(つづ)けました。村(むら)に着(つ)いた時(とき)、あちこちに壊(こわ)れた家(いえ)が見(み)えましたが、人(ひと)は誰(だれ)もいませんでした。

家来(けらい)の一人(ひとり)が、ある壊(こわ)れかけた家(いえ)に走(はし)っていき、「父(とう)さん!母(かあ)さん!どこにいるのですか!大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」と叫(さけ)びました。

すると「おじさん!」と言(い)う声(こえ)がして、崩(くず)れかけた家(いえ)の中(なか)から、七(しち)、八歳(はっさい)の女(おんな)の子(こ)がその家来(けらい)のところに走(はし)ってきました。女(おんな)の子(ころ)は興奮(こうふん)した様子(ようす)で「鬼(おに)が出(で)たの!お家(うち)がめちゃめちゃにされて!お母(かあ)さんとお父(とう)さんが食(た)べられちゃって!怖(こわ)かったからずっと穴(あな)に隠(かく)れてたの!」と、泣(な)き出(だ)しました。

家来(けらい)は、「落(お)ち着(つ)いて、落(お)ち着(つ)いて。鬼(おに)はもう死(し)んだよ。お腹(なか)がぺこぺこだろう?」と言(い)い、女(おんな)の子(ころ)の頭(あたま)を優(やさ)しく撫(な)でました。女(おんな)の子(こ)は泣(な)きじゃくりながら、こくりと頷(うなず)きました。家来(けらい)は微笑(ほほえ)みながら「後(あと)でお腹(なか)いっぱいご飯(はん)を食(た)べようね。兄弟達(きょうだいたち)と一緒(いっしょ)に」と言(い)いました。

女(おんな)の子(こ)は「弟(おとうと)も妹(いもうと)もまだ穴(あな)にいる」と、泣(な)きなから指差(ゆびさ)しました。「おじいさんや、おばあさんは?」と家来(けらい)が尋(たず)ねると、「知(し)らない!」と悲(かな)しそうに答(こた)えました。

「じゃあ、兄弟(きょうだい)を集(あつ)めて、何(なに)か食(た)べよう」と家来(けらい)は言(い)いました。

それから家来(けらい)は、穴(あな)の中(なか)に隠(かく)れていた子供達(こどもたち)を、ゆき達(たち)のところに連(つ)れて行(い)き、持(も)っていた糒(ほしい)などを与(あた)えました。子供達(こどもたち)はよほどお腹(なか)が空(す)いていたのでしょう。夢中(むちゅう)になって食(た)べていました。そんな子供達(こどもたち)を横目(よこめ)に、若殿(わかとの)は、生(い)き残(のこ)った者(もの)を探(さが)すために、村(むら)の四方(しほう)に家来(けらい)を送(おく)りました。

しばらくして、家来達(けらいたち)が戻(もど)り、二(に)、三十人(さんじゅうにん)の子供達(こどもたち)と、ごく僅(わず)かの大人(おとな)を連(つ)れて戻(もど)ってきました。家来(けらい)は「殿(との)、どこも隈(くま)なく捜索(そうさく)致(いた)しましたが、この者(もの)たちしかいないようでございます」と報告(ほうこく)しました。

若殿(わかとの)は、「五十世帯(ごじゅうせたい)の中(なか)から生(い)き残(のこ)った者(もの)は、たったのこれだけか…?被害(ひがい)は甚大(じんだい)だぞ」と呟(つぶや)きました。そして、はじめに子供(こども)を見(み)つけた家来(けらい)の方(ほう)へくるりと振(ふ)り向(む)き、「お前(まえ)はこの村(むら)にどういう縁(ゆかり)があるのだ?」と訊(たず)ねました。

家来(けらい)は、「拙者(せっしゃ)の家内(かない)はこの村(むら)から参(まい)りました。家内(かない)の父(ちち)はこの村(むら)の長(おさ)で、この子(こ)たちは家内(かない)の兄(あに)の子供(こども)なのでございます」と答(こた)えました。

ずっと黙(だま)っていたゆきが口(くち)を開(ひら)き、若殿(わかとの)に「この村人達(むらびとたち)を、いかがなさるおつもりですか」と訊(たず)ねました。

若殿(わかとの)は、「こんな何(なに)もないところに住(す)んでいても仕方(しかた)がないであろう。村人(むらびと)は、私(わたし)が他(ほか)の村(むら)か城下町(じょうかまち)に連(つ)れて行(い)こう」と答(こた)えました。

ゆきは、「何(なに)も残(のこ)っていないとおっしゃるのですか。あちらをご覧(らん)ください!あれでも何(なに)もないとおっしゃいますか」と、田(た)んぼ一面(いちめん)に実(みの)った稲穂(いなほ)を指差(ゆびさ)しました。「あれは国(くに)の宝(たから)ではございませんか。あの田(た)をすぐにでも刈(か)り取(と)らないと、この村(むら)からの米(こめ)の収穫(しゅうかく)は無(な)くなってしまいます。つまり、この村(むら)からの税収(ぜいしゅう)も無(な)くなるということです」

「それよりも、この人(ひと)たちが他(ほか)の村(むら)に連(つ)れて行(い)かれたら、一体(いったい)どのような生活(せいかつ)を送(おく)ることになるとお思(おも)いですか。よそ者(もの)として、とても貧(まず)しく暮(く)らすことになるに違(ちが)いないでしょう。私(わたし)はそのように育(そだ)ちましたから、よく分(わ)かるのです。それでもまだ、他(ほか)の村(むら)などに連(つ)れて行(い)くおつもりですか」とゆきは言(い)いました。

「ふむ。それでは何(なに)か良(よ)い考(かんが)えでもあるのか?」と若殿(わかとの)は聞(き)きました。

ゆきは、「はい。仮住(かりずまい)まいや食料(しょくりょう)の確保(かくほ)が必要(ひつよう)です。まず、壊(こわ)された家(いえ)の中(なか)から一(いち)、二軒(にけん)を建(た)て直(なお)し、倒(たお)された米倉(こめぐら)のお米(こめ)が腐(くさ)ってしまわないように、運(はこ)び込(こ)んで保管(ほかん)しましょう。それに、隣(となり)の村(むら)や城(しろ)に使者(ししゃ)を送(おく)って、彼(かれ)らの親戚(しんせき)や手伝(てつだ)ってくれる人(ひと)を呼(よ)び集(あつ)めましょう。家(いえ)を再建(さいけん)した後(あと)に収穫(しゅうかく)を始(はじ)め、それから改(あらた)めて米倉(こめぐら)を作(つく)ればいいかと存(ぞん)じます」と答(こた)えました。

若殿(わたとの)は言(い)いました、「分(わ)かった。よし、それではそなたは城(しろ)へ帰(かえ)りなさい」

「何(なに)をおっしゃいますか。あれらの田(た)んぼの刈(か)り入(い)れが終(お)わるまで、ここに残(のこ)るつもりです。この侍(さむらい)たちの中(なか)で、米(こめ)の収穫(しゅうかく)の経験(けいけん)がある者(もの)は何人(なんにん)いますか。私(わたし)はあの子(こ)くらいの年頃(としごろ)から、毎年(まいとし)収穫(しゅうかく)を手伝(てつだ)っていたのです。ですから、今年(ことし)も収穫(しゅうかく)を手伝(てつだく)うつもりです」と、ゆきは七(しち)、八歳(はっさい)の女(おんな)の子(こ)を指差(ゆびさ)しました。

若殿(わかとの)は、「なんと。ここに残(のこ)るつもりならば、ゆきは身重(みおも)の身(み)ゆえ、あの子(こ)たちの子守(こも)りくらいにしておいた方(ほう)がいいだろう」と言(い)いました。

ゆきは、「私(わたし)より狐子(ここ)の方(ほう)が、子守(こも)りが上手(じょうず)です。あちらをご覧(らん)ください!狐子(ここ)のお話(はなし)や面白(おもしろ)い顔(かお)のおかげで、泣(な)き顔(がお)のあの子(こ)たちが笑顔(えがお)になりました。それに、毎年(まいとし)身重(みおも)の女(おんな)が稲(いね)を刈(か)り取(と)るのを見(み)てきました。私(わたし)が田(た)んぼで働(はたら)く方(ほう)が役(やく)に立(た)つでしょう」と答(こた)えました。

若殿(わかとの)はため息(いき)をつきました。「賛成(さんせい)するしかないだろう」と、家来(けらい)の中(なか)から使者(ししゃ)を選(えら)びました。

第四十五章(だいよんじゅうごしょう)

広(ひろ)がる噂(うわさ)

ゆきたちが家(いえ)を建(た)て直(なお)したり、稲(いね)を刈(か)り入(い)れたりしているうちに、だんだん他(ほか)の村(むら)や城下町(じょうかまち)から手(て)を貸(か)す者(もの)たちが現(あらわ)れ始(はじ)めました。一週間(いっしゅうかん)ほどで米(こめ)の収穫(しゅうかく)が終(お)わり、ゆきと若殿(わかとの)は村(むら)の今後(こんご)を話(はな)し合(あ)いました。そして、誰(だれ)がどの田(た)んぼを受(う)け継(つ)ぐか、誰(だれ)がどの孤児(こじ)を育(そだ)てるか、といったこと一(ひと)つ一(ひと)つを決(き)めました。

若殿(わかとの)一行(いっこう)についての話(はなし)が、国中(くにじゅう)に伝(つた)わりました。「殿(との)が、またもや鬼(おに)の首(くび)を切(き)り落(お)とした。まさに豪傑(ごうけつ)と呼(よ)ぶに相応(ふさわ)しいお方(かた)だ!」とか「殿(との)とゆきさまが、鬼(おに)に襲(おそ)われた村(むら)を再興(さいこう)なされた。真(まこと)の名君(めいくん)だ」などと、農民(のうみん)たちは口々(くちぐち)に褒(ほ)め称(たた)えました。

一方(いっぽう)、城(しろ)の中(なか)では、ゆきの行動(こうどう)について「彼女(かのじょ)は田(た)んぼで働(はたら)いているそうだ。百姓(ひゃくしょう)の心(こころ)が染(し)み付(つ)いているのだろう。全(まった)く我等(われら)が殿(との)には似(に)つかわしくない妻(つま)だ」とか「なんと、殿(との)を泥(どろ)まみれで働(はたら)かせたそうだ。魔術(まじゅつ)を使(つか)う物(もの)の怪(け)に違(ちが)いない」とか「狐(きつね)の姿(すがた)に化(ば)けて、鬼(おに)と戦(たたか)ったそうだよ。かねてからの噂通(うわさどお)り、彼女(かのじょ)は化(ば)け物(もの)なの」などと、悪(わる)い噂(うわさ)が広(ひろ)まっていました。 女将(おかみ)は日記(にっき)にいろいろな噂(うわさ)を黙々(もくもく)と記録(きろく)し続(つづ)けました。

そしてついに、ゆきたちはその村(むら)の復旧(ふっきゅう)を終(お)え、残(のこ)った村(むら)もすべて訪(たず)ね、城(しろ)へ帰(かえ)ってきました。

第四十六章(だいよんじゅうろくしょう)

城(しろ)への帰還(きかん)

ゆき達(たち)が城(しろ)に向(む)かう途中(とちゅう)、狐(きつね)に会(あ)いました。ゆきは「狐(きつね)どの、こんにちは」と言(い)いました。

狐(きつね)は「こんにちは、ゆきどの。申(もう)し訳(わけ)ありませんが、狐子(ここ)と一緒(いっしょ)に参(まい)らねばなりません。狐(きつね)の評議(ひょうぎ)がありますので」と、ぺこりと頭(あたま)を下(さ)げました。

ゆきは、「狐(きつね)の評議(ひょうぎ)ですか。狐子(ここ)ちゃんに何(なに)か問題(もんだい)でも起(お)こったのですか」と、心配(しんぱい)そうに訊(たず)ねました。

狐子(ここ)は、「別(べつ)に、心配(しんぱい)しないで。きっと鬼(おに)を退治(たいじ)した時(とき)のことね。すぐに帰(かえ)って来(く)られると思(おも)うわ。それでは行(い)ってきます」と言(い)った後(あと)、狐(きつね)の姿(すがた)に戻(もど)り、父親(ちちおや)と一緒(いっしょ)に歩(ある)き出(だ)したかと思(おも)うと、まるで風(かぜ)のような速(はや)さで消(き)えてしまいました。

しばらくするとゆきたちは城下町(じょうかまち)に着(つ)きました。老若男女(ろうにゃくなんにょ)、町中(まちじゅう)の人々(ひとびと)が道端(みちばた)に並(なら)んで待(ま)っていました。その中(なか)を通(とお)って城(しろ)へ向(む)かう間(あいだ)、大(おお)きな喝采(かっさい)が止(や)むことはありませんでした。打(う)って変(か)わって、城(しろ)の中庭(んかにわ)はとても静(しず)かでした。ゆきは城(しろ)の窓(まど)という窓(まど)から悪意(あくい)に満(み)ちた目(め)で眺(なが)められているように感(かん)じました。

そんな時(とき)、ゆきはふと見覚(みおぼ)えのある人(ひと)が、自分(じぶん)に向(む)かって歩(ある)いて来(き)ていることに気(き)づきました。ゆきは嬉(うれ)しさのあまり、大(おお)きな声(こえ)で「女将(おかみ)さん!来(き)てくれたのですね!やっと願(ねが)いが叶(かな)いました!」と言(い)い、泣き出(なきだ)してしまいました。

女将(おかみ)は、「ゆきさま、お待(ま)ちしておりました。どうか落(お)ち着(つ)いてくださいませ。身重(みおも)のお体(からだ)ながら国(くに)のあちらこちらにお出(で)かけなさって、さぞやお疲(つか)れでございましょう。馬(うま)からお降(お)りになって、お部屋(へや)にお戻(もど)りください。湯殿(ゆどの)の支度(したく)を整(ととの)えてございます」と、ゆきが馬(うま)から降(お)りるのを手伝(てつだ)い、部屋(へや)へ連(つ)れて行(い)きました。

第四十七章(だいよんじゅうななしょう)

女将(おかみ)との会話(かいわ)

次(つぎ)の日(ひ)、ゆきが朝(あさ)ご飯(はん)を食(た)べた後(あと)、女将(おかみ)は、ゆきの前(まえ)に座(すわ)り、「昨日(きのう)は、気(き)が動転(どうてん)なさっておられたようですね。何(なに)かお困(こま)りでしょうか。私(わたし)に出来(でき)ることはございませんか」と、優(やさ)しく訊(たず)ねました。

ゆきは、「元々(もともと)女将(おかみ)さんの下(した)で働(はたら)いていたのですから、二人(ふたり)だけの時(とき)は、気(き)を使(つか)わなくても結構(けっこう)ですよ」と言(い)い、下(した)を向(む)いて溜(た)め息(いき)をつきました。女将(おかみ)がゆきの言葉(ことば)に頷(うなず)きながらも「ご遠慮(えんりょ)なさらず、何(なん)でもおっしゃってください」と言(い)うと、ゆきは窓(まど)の外(そと)を指差(ゆびさ)し、「外(そと)に出(で)ている間(あいだ)は自由(じゆう)を感(かん)じていました。でも城内(じょうない)にいる時(とき)は、まるで籠(かご)の中(なか)の鳥(とり)になった気(き)がします。何(なに)かをしようとすると、すぐに反感(はんかん)を買(か)ってしまいますし…。狐子(ここ)ちゃんがここにいた時(とき)は、だんだんよくなっている感(かん)じがしていたのですが、狐子(ここ)ちゃんは狐(きつね)どのと一緒(いっしょ)に遠(とお)くへ行(い)ってしまいました。私(わたし)が城(しろ)に帰(かえ)ってきた時(とき)、笑顔(えがお)で迎(むか)えてくれた人(ひと)は誰(だれ)もいませんでした」と、悲(かな)しそうに言(い)いました。

女将(おかみ)が「その狐子(ここ)さんという方(かた)は、どんな人(ひと)なのですか」と尋(たず)ねると、ゆきは含(ふく)み笑(わら)いをしました。「実(じつ)を言(い)うと、狐子(ここ)ちゃんは人(ひと)ではないんです。狐(きつね)どのの娘(むすめ)なんです。人間(にんげん)のことにすごく興味(きょうみ)があるから、常(つね)に人間(にんげん)の姿(すがた)をしていますけどね。とても明(あか)るい女(おんな)の子(こ)です。村(むら)を訪(たず)ねる途中(とちゅう)で鬼(おに)と遭遇(そうぐう)したのですが、狐子(ここ)ちゃんは狐(きつね)の姿(すがた)に戻(もど)って、たった一人(ひとり)で勇敢(ゆうかん)に鬼(おに)と戦(たたか)ったのですよ」

女将(おかみ)は、「狐子(ここ)さんが狐(きつね)の姿(すがた)で鬼(おに)と戦(たたか)ったのですね。噂(うわさ)では、ゆき様(さま)が狐(きつね)に化(ば)けて鬼(おに)を退治(たいじ)なさったと…」と言(い)った後(あと)、自分(じぶん)の部屋(へや)に行(い)き、日記(にっき)を持(も)って戻(もど)ってきました。「私(わたし)が城(しろ)で働(はたら)き始(はじ)めてから、ゆき様(さま)についてのお噂(うわさ)を耳(みみ)にするたびに、それらをこの日記(にっき)に書(か)いておきました。どうぞお読(よ)みください」

それからゆきはその日記(にっき)に書(か)かれた噂(うわさ)を読(よ)み始(はじ)めました。順(じゅん)に目(め)を通(とお)しながら、「この意味(いみ)がさっぱり分(わ)かりません」とか、「この部分(ぶぶん)は狐子(ここ)ちゃんのことです」とか、「これは私(わたし)のしたことですが、事実(じじつ)と全(まった)く違(ちが)います」などと女将(おかみ)に言(い)いました。

第四十八章(だいよんじゅうはっしょう)

家老(かろう)の助言(じょげん)

その日(ひ)の評議(ひょうぎ)で家老(かろう)は、「あの時(とき)子供(こども)を見(み)つけた家来(けらい)を、村(むら)の長(おさ)にお取立(とりた)てになったのはゆき様(さま)のお考(かんが)えでございますか」と尋(たず)ねました。

若殿(わかとの)ははっきりと答(こた)えました。「そうだ。ゆきの考(かんが)えだ」

それを聞(き)いた家老(かろう)は、「しかし、その者(もの)の妻(つま)が、村(むら)には戻(もど)りたくないと申(もう)しているようでございます。ゆき様(さま)のお考(かんが)えだということでしたら、一度(いちど)、ゆき様(さま)がその者(もの)にお会(あ)いになってはいかがでしょうか」と、ゆきに言(い)いました。

ゆきは、「私(わたし)がですか?でも、誰(だれ)も私(わたし)のことをよくは思(おも)っていないようです」と、俯(うつむ)き加減(かげん)で言(い)いました。

家老(かろう)は、「ゆき様(さま)はこの城(しろ)にお越(こ)しになられて以来(いらい)、城(しろ)の者達(ものたち)とはほとんど触(ふ)れ合(あ)う機会(きかい)がございませんでした。ゆき様(さま)のことをあまりよく存(ぞん)じ上(あ)げておらぬゆえ、悪(わる)い噂(うわさ)を立(た)てているのではないでしょうか。もし、その者達(ものたち)がゆき様(さま)のお人柄(ひとがら)に触(ふ)れさえすれば、そのような噂(うわさ)はたちまち消(き)えるはずでございます」と、優(やさ)しく助言(じょげん)しました。

ゆきはふぅっと小(ちい)さく溜(た)め息(いき)をつきました。「では、その者(もの)と話(はなし)をしてみましょう。今晩(こんばん)、私(わたし)の部屋(へや)に来(く)るように伝(つた)えてください」

第四十九章(だいよんじゅうきゅうしょう)

面会(めんかい)の準備(じゅんび)

ゆきは家来(けらい)の妻(つま)のことを考(かんが)えながら自分(じぶん)の部屋(へや)に戻(もど)って来(き)て、窓際(まどぎわ)に座(す)わりました。女将(おかみ)が櫛(くし)でゆきの髪(かみ)を撫(な)で始(はじ)めると、ゆきは女将(おかみ)に話(はなし)を始(はじ)めました。「女将(おかみ)さん。今晩(こんばん)、新(あたら)しい村長(むらおさ)の妻(つま)と会(あ)うことになりました。その人(ひと)のことを、何(なに)かご存知(ぞんじ)ですか」

女将(おかみ)は髪(かみ)を撫(な)でながら、家来(けらい)の妻(つま)のことを思(おも)い出(だ)そうとして、しばらく黙(だま)り込(こ)みました。やがて、「あぁ、そうそう、子供(こども)が二人(ふたり)おります。ゆき様(さま)のお怒(いか)りに触(ふ)れたので、一家(いっか)が遠(とお)い村(むら)に送(おく)られてしまうという噂(うわさ)が広(ひろ)がっているのでございます」と女将(おかみ)が言(い)うと、ゆきは飛(と)び上(あ)がり、女将(おかみ)の方(ほう)を振(ふ)り向(む)きました。「私(わたし)が怒(おこ)っているですって?どうしてそんなことになっているのでしょうか」

女将(おかみ)は櫛(くし)で頬(ほお)を軽(かる)く叩(たた)き、「ゆき様(さま)の悪(わる)い噂(うわさ)を広(ひろ)めたのはその者(もの)なのじゃないですか?ゆき様(さま)がそのことをご存(ぞん)じになり、お怒(いか)りなのだと思(おも)っているのでしょう」と答(こた)えました。

ゆきは溜(た)め息(いき)をつきました。「そんな人(ひと)と会(あ)って、私(わたし)が話(はなし)をしても、きちんと聞(き)いてくれないのではないでしょうか」

女将(おかみ)は櫛(くし)をしまい、「まず、お話(はな)しをなさる前(まえ)に、一服(いっぷく)のお茶(ちゃ)で、その者(もの)の気(か)を落(お)ち着(つ)かせてはいかがでしょう。それから、ゆっくりと問題(もんだい)についてお話(はな)しなさればよろしいかと存(ぞん)じます」と答(こた)えました。

ゆきは頷(うなず)いて、「そうですね。それではお茶(ちゃ)の席(せき)に相応(ふさわ)しい着物(きもの)を選(えら)んでいただけますか。その間(あいだ)に私(わたし)は茶道具(ちゃどうぐ)の支度(したく)をします」と、準備(じゅんび)を始(はじ)めました。

第五十章(だいごじっしょう)

家来(けらい)の妻(つま)

夜(よる)になり、その家来(けらい)の妻(つま)がゆきの部屋(へや)に入(はい)ってきました。彼女(かのじょ)はそわそわしていました。「ゆき様(さま)、私(わたし)について何(なに)をお聞(き)きであっても、それは出鱈目(でたらめ)なことでございます。信(しん)じないでください」と言(い)いました。

ゆきは、「ちょうど今(いま)お湯(ゆ)が沸(わ)きました。お茶(ちゃ)を飲(の)んだ後(あと)でゆっくり話(はな)しましょう」と、お茶(ちゃ)を点(た)て始(はじ)めました。

お茶(ちゃ)を飲(の)んだ後(あと)で、ゆきは、「あの村(むら)はあなたの故郷(こきょう)なのに、戻(もど)りたくないそうですね。どうしてなの?」と聞(き)きました。

家来(けらい)の妻(つま)は、「あの村(むら)で鬼(おに)の襲撃(しゅうげき)に怯(おび)えながら暮(く)らしていました。それは、私(わたし)にはとても辛(つら)いことでした。結婚(けっこん)した後(あと)は村(むら)に絶対(ぜったい)戻(もど)るまいと心(こころ)に決(き)めたのです。私(わたし)がそう思(おも)っていることはこの城(しろ)の人達(ひとたち)は皆(みな)知(し)っていることでございますので、ゆき様(さま)も当然(とうぜん)ご存知(ぞんじ)かと思(おも)っておりましたが…。今回(こんかい)私(わたし)どもを村(むら)に戻(もど)すというのは、私(わたし)がゆき様(さま)の悪(わる)い噂(うわさ)を流(なが)したという話(はなし)をお聞(き)きなっての処罰(しょばつ)でございますか」と聞(き)きました。

ゆきは、「あなたがそのように決心(けっしん)していたとは知(し)りませんでした。私(わたし)はただあなたのお兄(にい)さんの子供達(こどもたち)のことだけを考(かんが)えていました。あの子達(こたち)しかおじいさんの田畑(たはた)を相続(そうぞく)する者(もの)がいないのです。でも、あの子達(こたち)はまだ幼(おさな)すぎるから、十分(じゅうぶん)に成長(せいちょう)するまで、誰(だれ)かが面倒(めんどう)を見(み)てやらねばなりません。他(ほか)に、世話(せわ)をしてくれる身寄(みよ)りがありますか」と尋(たず)ねました。

家来(けらい)の妻(つま)ははっと息(いき)をのみました。「兄(あに)の子供達(こどもたち)が孤児(こじ)になっていたのですか。知(し)りませんでした。彼(かれ)らをここに呼(よ)び寄(よ)せてもよろしいでしょうか。ここでなら、私(わたし)が育(そだ)てることができます」

ゆきは首(くび)を振(ふ)りました。「ここだと、田畑(たはた)のことを全(まった)く知(し)らずに育(そだ)つでしょうね。皆(みな)が城(しろ)で暮(く)らしたら、いったい誰(だれ)がおじいさんから受(う)け継(つ)いだ田畑(たはた)を耕(たがや)すのですか」

家来(けらい)の妻(つま)は震(ふる)えました。「でも、鬼(おに)が怖(こわ)いのです。また鬼(おに)が襲(おそ)って来(き)たら、どうしたらいいのでしょうか」

ゆきは、「殿(との)は、すでに二匹(にひき)の鬼(おに)の首(くび)を切(き)り落(お)としています。また鬼(おに)が来(き)ても、殿(との)はすぐに兵(へい)を率(ひき)いて駆(か)けつけ、前(まえ)のように首(くび)を切(き)り落(お)として下(くだ)さるに違(ちが)いありません。今回(こんかい)の旅(たび)の間(あいだ)に、それぞれの村(むら)に早(はや)く行(い)き来(き)できるように、殿(との)は道(みち)を修繕(しゅうぜん)する手筈(てはず)を整(ととの)えました。心配(しんぱい)しないでください」と、もう一度(いちど)お茶(ちゃ)を点(た)てました。そうして、ようやく家来(けらい)の妻(つま)は夫(おっと)と一緒(いっしょ)にその村(むら)に住(す)むことにしぶしぶ同意(どうい)しました。

第五十一章(だいごじゅういっしょう)

茶席(ちゃせき)の予定(よてい)

家来(けらい)の妻(つま)がゆきの部屋(へや)を出(で)てから、女将(おかみ)が入(はい)ってきました。「ゆき様(さま)、お茶席(ちゃせき)はいかがでしたか」

ゆきは溜息(ためいき)をつきました。「はじめは渋(しぶ)っていましたが、ようやく承知(しょうち)してくれました。家族(かぞく)と一緒(いっしょ)にあの村(むら)に行(い)って、お兄(にい)さんの忘(わす)れ形見(がたみ)の子(こ)どもたちを育(そだ)てることに同意(どうい)してくれました」そしてまた溜息(ためいき)をつきました。「こういう話(はなし)をするのは苦手(にがて)です」

女将(おかみ)は茶道具(ちゃどうぐ)を片付(かたづ)け始(はじ)めました。「国(くに)を治(おさ)めるとなれば、そのようなことは避(さ)けては通(とお)れないでしょう。それがまさに政(まつりごと)というものなのですね」

ゆきは、「そうですね」と、苦笑(にがわら)いをしました。「その者(もの)が城(しろ)を出(で)れば、例(れい)の悪(わる)い噂(うわさ)も無(な)くなると思(おも)いますか」

女将(おかみ)は首(くび)を軽(かる)く横(よこ)に振(ふ)りました。「そうはならないでしょうね。噂話(うわさばなし)の好(す)きな者(もの)が多(おお)いですから。でも、城中(じょうちゅう)の者(もの)がゆき様(さま)のことをよく分(わ)かってくれれば、悪口(わるくち)を広(ひろ)めるようなことはしなくなるでしょうね」

ゆきは、「どのようにすれば、彼女(かのじょ)たちに私(わたし)のことを分(わ)かってもらえると思(おも)いますか」と尋(たず)ねました。

女将(おかみ)は、「一人一人(ひとりひとり)をお呼(よ)びになり、お茶(ちゃ)を点(た)ててもてなすのが一番(いちばん)かと思(おも)われます。でも、誰(だれ)からお呼(よ)びになるべきかは難(むずか)しい問題(もんだい)ですね」と、ゆきの着替(きが)えを手伝(てつだ)いながら言(い)いました。

ゆきはくすくすと笑(わら)い出(だ)しました。「難(むずか)しくなどないと思(おも)いますよ。今晩(こんばん)もう、その最初(さいしょ)のお客様(きゃくさま)をもてなしたのですから」

女将(おかみ)も笑(わら)いました。「そうですね。さて、問題(もんだい)は、次(つぎ)のお客(きゃく)を誰(だれ)にするかということになりますね。はじめのお客(きゃく)はお茶席(ちゃせき)の後(あと)でお城(しろ)から追放(ついほう)されたようにも見(み)えかねません。そうなると、城内(じょうない)の者(もの)はお茶席(ちゃせき)を怖(こわ)がり始(はじ)めるかも知(し)れません」

「そうですね」と答(こた)えながら、ゆきがふと棚(たな)に目(め)をやると、その上(うえ)にある二(に)冊(さつ)の本(ほん)が目(め)に留(とど)まりました。そしてその二(ふた)つの本(ほん)が、どちらも同(おな)じ内容(ないよう)だということに気付(きづ)きました。「私(わたし)がここを離(はな)れている間(あいだ)に、庄屋(しょうや)さんの奥(おく)さんから借(か)りた本(ほん)の写本(しゃほん)が出来上(できあ)がっていたようですね。それでは、彼女(かのじょ)が次(つぎ)のお客(きゃく)というのはどうですか」

女将(おかみ)は、「良(よ)い考(かんが)えだと存(ぞん)じます」と答(こた)え、二人(ふたり)は庄屋(しょうや)の妻(つま)に招待状(しょうたいじょう)を書(か)いて送(おく)りました。

そういうわけで、数日後(すうじつご)、庄屋(しょうや)の妻(つま)が城(しろ)にやって来(き)ました。茶会(ちゃかい)の席(せき)で、ゆきは借(か)りていた本(ほん)を返(かえ)し、他(ほか)の本(ほん)を借(か)りる約束(やくそく)をしました。

間(ま)もなく、庄屋(しょうや)の妻(つま)が楽(たの)しんだという話(はなし)が城内(じょうない)に広(ひろ)まっていきました。それから、城内(じょうない)の女性(じょせい)のもとに一人(ひとり)また一人(ひとり)と招待状(しょうたいじょう)が届(とど)き始(はじ)めました。初(はじ)めは皆(みな)びくびくしながらゆきの部屋(へや)に行(い)きましたが、呼(よ)ばれた者(もの)たちが楽(たの)しんだという噂(おわさ)がだんだん広(ひろ)まると、皆(みな)は招待状(しょうたいじょう)を心待(こころま)ちにするようになっていきました。それぞれの茶席(ちゃせき)の前(まえ)に、女将(おかみ)はその客(きゃく)に関(かん)する情報(じょうほう)をゆきに教(おし)えておきました。そして、ゆきはその客(きゃく)の好(す)きなことや嫌(きら)いなこと、家族(かぞく)のことなどをその席(せき)で話(はな)し合(あ)いました。こうして、ゆきについての悪(わる)い噂(うわさ)はだんだん消(き)えていきました。

第五十二章(だいごじゅうにしょう)

三本(さんぼん)の尻尾(しっぽ)

そのようにして数週間(すうしゅうかん)が過(す)ぎました。ある秋空(あきぞら)の日(ひ)、ゆきは庭(にわ)で日向(ひなた)ぼっこをしながら、座(すわ)って本(ほん)を読(よ)んでいました。ふと、誰(だれ)かが落(お)ち葉(ば)の上(うえ)を歩(ある)く足音(あしおと)が聞(き)こえました。辺(あた)りを見渡(みわた)すと、見覚(みおぼ)えのある赤毛(あかげ)の娘(むすめ)が見(み)えました。

「狐子(ここ)ちゃん!おかえり!」と、ゆきは重(おも)い体(からだ)でゆっくりと立(た)ち上(あ)がりました。

「ただいま!わあっ、ゆきちゃん、お腹(なか)がすっかり大(おお)きくなったわね。赤(あか)ちゃんが蹴(け)るのがもう分(わ)かるの?」と狐子(ここ)が聞(き)くと、ゆきは「そうよ。さわってみて!」と、狐子(ここ)の手(て)を取(と)って、自分(じぶん)のお腹(なか)に置(お)きました。

「力強(ちからづよ)い蹴(け)りね!いつ生(う)まれるのかしら?」と狐子(ここ)が尋(たず)ねると、ゆきは「春(はる)らしいの。多分(たぶん)、お花見(はなみ)のころね」と答(こた)えました。

「わあ!きっと桜(さくら)のように華(はな)やかな子(こ)が産(う)まれるわよ」と狐子(ここ)が言(い)うと、ゆきは「それはそうと狐子(ここ)ちゃん、ここを離(はな)れてから、どうしてたの?心配(しんぱい)しないでと言(い)っていたけど、なかなか戻(もど)ってこなかったから、気(き)になってたの。その後(ご)、変(か)わりはないの?」と聞(き)きました。

狐子(ここ)は、「心配(しんぱい)しないで大丈夫(だいじょうぶ)よ。鬼(おに)との争(あらそ)いのおかげで、尻尾(しっぽ)をもう一本(いっぽん)付(しっぽ)けることを許(ゆる)してもらったの。見(み)て!」と、狐(こつね)の姿(すがた)に戻(もど)り、背中(せなか)の後(うし)ろに揺(ゆ)れる数(すう)本(ほん)の尻尾(しっぽ)を見(み)せました。

ゆきは、「可愛(かわい)い!」と、指差(ゆびさ)して数(かぞ)え始(はじ)めました。「一(いち)、二(に)、三(さん)…三本(さんぼん)あるわ。ええと、前(まえ)は二本(にほん)だったかしら?狐子(ここ)ちゃんはいつも人間(にんげん)の姿(すがた)だったから覚(おぼ)えてないわ」

狐子(ここ)は人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)け、「前(まえ)は二本(にほん)だったの。お父(とう)さんが得意気(とくいげ)な顔(かお)をしてたわ」と笑(わら)った後(あと)、一転(いってん)して憂鬱(ゆううつ)そうに溜息(ためいき)をつきました。「でも、もう尻尾(しっぽ)が三(さん)本(ぼん)になったのだから、一族(いちぞく)繁栄(はんえい)のために、すぐにでも結婚(けっこん)すべきだって、お父(とう)さんが言(い)うのよ。それでひっきりなしに、つまんない男(おとこ)に私(わたし)を紹介(しょうかい)するの。本当(ほんとう)にうんざりするわ。みんな人間(にんげん)のことなんかより私(わたし)の尻尾(しっぽ)をくんくん嗅(か)ぐことにしか興味(きょうみ)がないのよ」と言(い)って、顔(かお)をしかめました。

「それは残念(ざんねん)ね。まだお嫁(よめ)に行(い)きたくないの?」

「結婚(けっこん)はしたいけど、そんな男(おとこ)たちとはちょっとね…」

「どんな人(ひと)がいいの?」

狐子(ここ)は両手(りょうて)を胸(むね)に置(お)いて、顔(かお)を上(あ)げ、微笑(ほほえ)んでから、長(なが)く息(いき)をつきました。そして「家老(かろう)」とだけ言(い)いました。

「えぇ?何(なに)?どういうこと?」

「家老(かろう)のような人(ひと)がいいの。優(やさ)しいし、頭(あたま)がいいし、世(よ)の中(なか)のことをよく知(し)っているしね」

「でも、年(とし)が違(ちが)いすぎない?」

「構(かま)わないわ。昔(むかし)から彼(かれ)のことが好(す)きなの。それに、狐(きつね)の一生(いっしょう)は人間(にんげん)のと違(ちが)うのよ。私(わたし)は何歳(なんさい)だと思(おも)う?」

「ええと。十五(じゅうご)、六(ろく)歳(さい)かしら?」

狐子(ここ)は二(に)、三(さん)歳(さい)の女の子(おんなのこ)の姿(すがた)に化(ば)けました。「今(いま)、何歳(なんさい)ぐらいに見(み)える?」と言(い)ってから、次(つぎ)は八十代(はちじゅうだい)の老女(ろうじょ)の姿(すがた)に化(ば)けました。「今度(こんど)は?」と言(い)って、元(もと)の姿(すがた)に戻(もど)りました。「化(ば)けている姿(すがた)は自分(じぶん)の年齢(ねんれい)と関係(かんけい)ないのよ。ただ、性格(せいかく)と合(あ)わせた姿(すがた)の方(ほう)が気持(きも)ちいいから、いつも娘(むすめ)の格好(かっこう)をしているの。狐(きつね)としてはまだまだ若輩者(じゃくはいもの)だけど、実(じつ)は家老(かろう)の年(どし)とあまり変(か)わらないのよ」

ゆきは額(ひたい)に手(て)を当(あ)てて考(かんが)え込(こ)んでしまいました。「そうなのね。でもちょっと待(ま)って。どういうことなのかしら。混乱(こんらん)して、頭(あたま)が痛(いた)くなってきたわ。いつから家老(かろう)のことを好(す)きだったの?どうやって知(し)り合(あ)ったの?」

狐子(ここ)は、「長(なが)い話(はなし)よ。陽(ひ)がもうすぐ沈(しず)むから、部屋(へや)に行(い)きましょうよ」と、ゆきの手(て)を取(と)って、城(しろ)の門(もん)へ向(む)かって歩(ある)き始(はじ)めました。

第五十三章(だいごじゅうさんしょう)

狐子(ここ)の話(はなし)

二人(ふたり)がゆきの部屋(へや)に着(つ)くと、女将(おかみ)が洗濯(せんたく)ものを行李(こうり)にしまっているところでした。ゆきは身重(みおも)の身体(からだ)で狐子(ここ)に足早(あしばや)に手(て)を引(ひ)かれてきたので息(いき)を切(き)らしていました。ゆきは乱(みだ)れた息(いき)を整(ととの)えてから、「女将(おかみ)さん、狐子(ここ)ちゃんが帰(かえ)ってきたんですよ。狐子(ここ)ちゃん、こちらは私(わたし)が以前(いぜん)働(はたら)いていた温泉(おんせん)の女将(おかみ)さんなんです」とお互(たが)いを紹介(しょうかい)しました。

狐子(ここ)と女将(おかみ)が挨拶(あいさつ)を交(か)わすのを待(ま)って、ゆきは、「女将(おかみ)さん、狐子(ここ)ちゃんが戻(もど)ってきたので、狐子(ここ)ちゃんと一緒(いっしょ)に夕食(ゆうしょく)を楽(たの)しむつもりなんです。台所(だいざころ)に食事(しょくじ)の用意(ようい)を頼(たの)んでから、そのように旦那様(だんなさま)に伝(つた)えていただけますか?それから、今晩(こんばん)予定(よてい)していたお客(きゃく)に明日(あした)にしてもらうよう伝(つた)えていただけませんか?」と頼(たの)みました。

女将(おかみ)が去(さ)ってから、二人(ふたり)は縁側(えんがわ)に腰(こし)を降(お)ろしました。「どうやって家老(かろう)と知(し)り合(あ)いになったのかを教(おし)えてくれない?」

「うん。何(なに)から話(はな)したらいいかしら。ああ、そうね。昔々(むかしむかし)、ある雌狐(めぎつね)が侍(さむらい)と恋(こい)に落(お)ちました。やがて、二人(ふたり)は結婚(けっこん)しましたが、二人(ふたり)の生活(せいかつ)は長(なが)く続(つづ)きませんでした。殿様(とのさま)の命令(めいれい)で、侍(さむらい)はすぐに戦(いくさ)に行(い)ってしまったのです。二(に)、三ヶ月(さんかげつ)が過(す)ぎた頃(ころ)、戦(いくさ)は終(お)わり、侍達(さむらいたち)は城(しろ)へ戻(もど)ってきましたが、雌狐(めぎつね)はその中(なか)に夫(おっと)の姿(すがた)を見(み)つけることはできませんでした。雌狐(めぎつね)が夫(おっと)のことを尋(たず)ねてみると、討(う)ち死(じ)にしたと伝(つた)えられました」

「雌狐(めぎつね)は悲(かな)しみに打(う)ちひしがれて、夫(おっと)のいない村(むら)で一人(ひとり)で暮(く)らすよりも、できるだけ早(はや)く自分(じぶん)の家族(かぞく)のところに戻(もど)りたいと思(おも)いました。でも、すぐに戻(もど)る訳(わけ)にはいきませんでした。雌狐(めぎつね)のお腹(なか)の中(なか)には新(あたら)しい命(いのち)が宿(やど)っていたのです。狐(きつね)の中(なか)で人間(にんげん)の子(こ)を育(そだ)てるのは難(むずか)しいことが分(わ)かっていたので、戻(もど)って産(う)むことができなかったのです。それで、雌狐(めぎつね)は侍(さむらい)の家族(かぞく)のところに移(うつ)り住(す)みました」

ゆきは話(はなし)を遮(さえぎ)りました。「どうして戻(もど)ることができなかったの?狐(きつね)と人間(にんげん)の間(あいだ)の子供(こども)ってどういう風(ふう)なの?」

狐子(ここ)は答(こた)えました。「見(み)た目(め)は人間(にんげん)の姿(すがた)になることが多(おお)いの。人間(にんげん)の中(なか)で育(そだ)てば、たいてい神童(しんどう)だということになるわね。でも狐(きつね)の中(なか)だと成長(せいちょう)して大人(おとな)になっても子狐(こきつね)にさえ勝(か)てない、弱(よわ)い狐(きつね)になってしまうのよ」

ゆきが「へぇ。そういうものなの」と答(こた)えると同時(どうじ)に、廊下(ろうか)から「よいか」という若殿(わかとの)の声(こえ)がしました。

二人(ふたり)が「どうぞお入(はい)りください」と言(い)うと、若殿(わかとの)は襖(ふすま)を開(あ)け、部屋(へや)の中(なか)に入(はい)って来(き)て、「狐子(ここ)、おかえり」と言(い)いました。

ゆきが、「狐子(ここ)ちゃんはうちの家老(かろう)と昔(むかし)からの知(し)り合(あ)いだったそうなのよ。今(いま)、出会(であ)った頃(ころ)の話(はなし)をしてもらっているんです」と説明(せつめい)すると、「私(おれ)も聞(き)いていいかな」と、返事(へんじ)を待(ま)たずにゆきの隣(となり)に腰(こし)を降(お)ろしました。

狐子(ここ)は続(つづ)けました。「とにかく、子供(こども)を授(さず)かった雌狐(めぎつね)は、亡(な)くなった夫(おっと)の家族(かぞく)の家(いえ)に移(うつ)り住(す)んだのです。来(く)る日(ひ)も来(く)る日(ひ)も、雌狐(めぎつね)は悲(かな)しみに打(う)ちひしがれたままでしたが、お腹(なか)は順調(じゅんちょう)にどんどん大(おお)きくなり続(つづ)けました。そしてついに、雌狐(めぎつね)は赤(あか)ちゃんを産(う)みました。しかし、雌狐(めぎつね)は、夫(おっと)のことを諦(あきら)めた時(とき)から、産(う)まれた子(こ)を決(けっ)して見(み)るまいと、強(つよ)く心(こころ)に決(き)めていたのでした。いくら義母(ぎぼ)が頼(たの)んでも、きっぱりと断(ことわ)りました。一目(ひとめ)でも見(み)てしまうと、離(はな)れ辛(づら)くなると思(おも)ったのです」

「その夜(よる)、雌狐(めぎつね)は家(いえ)を出(で)て近(ちか)くの川(かわ)に飛(と)び込(こ)み、自分(じぶん)の家族(かぞく)のところに帰(かえ)りました。しかし、自分(じぶん)では何(なに)もできないものの、気(き)が気(き)ではなかったので、弟(おとうと)に産(う)まれた子供(こども)を見守(みまも)ってくれるようにと頼(たの)んだのです。そして、二度(にど)と人間(にんげん)の土地(とち)に戻(もど)ることなく、実(じつ)は今(いま)でも自分(じぶん)の住処(すみか)に独(ひと)りで暮(く)らしています。遠(とお)く離(はな)れていても、雌狐(めぎつね)は一時(いちじ)も忘(わす)れることなく子供(こども)のことを思(おも)い続(つづ)けているのです」

「雌狐(めぎつね)がいなくなった翌朝(よくあさ)、侍(さむらい)の両親(りょうしん)は嫁(よめ)の不在(ふざい)に気付(きづ)き、村中(むらじゅう)を捜(さが)し回(まわ)りました。でも、どこにも見(み)つからなかったので、とうとう最後(さいご)は川(かわ)で溺(おぼ)れ死(じ)んだのだろうと諦(うきら)めたのです」

「そんな騒(さわ)ぎの中(なか)、侍(さむらい)の母親(ははおや)は数日(すうじつ)前(まえ)に近所(きんじょ)の農家(のうか)に赤(あか)ん坊(ぼう)を亡(な)くした女(おんな)がいたことを思(おも)い出(だ)し、乳母(うば)として迎(むか)え入(い)れました」

ゆきが声(こえ)を上(あ)げて、「その子(こ)が家老(かろう)なの?」と訊(き)くと、「違(ちが)うのよ。その子(こ)は女(おんな)の子(こ)だったの」と狐子(ここ)は答(こた)えました。

「雌狐(めぎつね)の娘(むすめ)はすくすくと育(さだ)ち、年(とし)が経(た)つにつれ、綺麗(きれい)で賢(かしこ)くなっていきました。また、娘(むすめ)は茶道(さどう)にも長(た)けていました。縁(えん)あって、娘(むすめ)は住(す)んでいる国(くに)の若殿(わかとの)の目(め)を引(ひ)き、すぐに二人(ふたり)は結婚(けっこん)しました。雌狐(めぎつね)の弟(おとうと)は姪(めい)をずっと見守(みまも)り続(つづ)けていました。普段(ふだん)は遠(とお)くから見守(みまも)っていましたが、時々(ときどき)人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)け、姪(めい)のところを訪(たず)ねることもありました」

「間(ま)もなく、雌狐(めぎつね)の娘(むすめ)に息子(むすこ)が産(う)まれました。同(おな)じ頃(ころ)、雌狐(めぎつね)の弟(おとうと)にも娘(むすめ)が産(う)まれたのです」

そこまで話(はな)すと、狐子(ここ)は襖(ふすま)の方(ほう)にふっと目(め)を向(む)けて「ああ、夕食(ゆうしょく)の準備(じゅんび)が整(ととの)ったようね。また後(あと)で続(つづ)けるわ、先(さき)にいただきましょう!」と言(い)い、ゆきと若殿(わかとの)は後(うし)ろを振(ふ)り返(かえ)りました。二人(ふたら)が狐子(ここ)の話(はなし)に聞(き)き入(い)っている間(あいだ)に、女将(おかみ)が女中(じょちゅう)に命(めい)じて三人分(さんにんぶん)のお膳(ぜん)を用意(ようい)させていたのです。いつの間(ま)にか暗(くら)くなっていたので、女将(おかみ)は蝋燭(ろうそく)に火(ひ)をつけました。

第五十四章(だいごじゅうよんしょう)

話(はなし)の続(つづ)き

箸(はし)を置(お)くか置(お)かぬかのうちにゆきと若殿(わかとの)は話(はなし)を続(つづ)けてほしいと頼(たの)みました。

ゆきが、「その時(とき)の男(おとこ)の子(こ)が、今(いま)の家老(かろう)なの?」と言(い)うと、若殿(わかとの)が「いや違(ちが)うだろう。うちの家老(かろう)はその殿(との)の家系(かけい)ではないはずだよ。だけど、その弟狐(おとうとぎつね)の親子(おやこ)のことは、私達(わたしたち)も知(し)ってると思(おも)うけれどね」と狐子(ここ)に言(い)いました。

狐子(ここ)は顔(かお)を真(ま)っ赤(か)にしながら「話(はなし)は、どこまでしましたっけ?ああ、思(おも)い出(だ)した」と話(はなし)を続(つづ)けました。

「月日(つきひ)が経(た)ち、雌狐(めぎつね)の孫(まご)は強(つよ)くて勇敢(ゆうかん)な若者(わかもの)に成長(せいちょう)しました。城内(じょうない)の同(おな)じ年頃(としごろ)の者(もの)は皆(みな)雌狐(めぎつね)の孫(まご)に忠誠(ちゅうせい)を尽(つ)くしましたし、隣(となり)の国(くに)の若殿(わかとの)も雌狐(めぎつね)の孫(まご)と盟友(めいゆう)となることを望(のぞ)みました」

「弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)も成長(せいちょう)していました。従姉(いとこ)が人間(にんげん)と暮(く)らしていたということもあり、人間(にんげん)に強(つよ)く興味(きょうみ)を持(も)ようになりました。人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)けられるようになってからは、父親(ちちおや)と一緒(いっしょ)に従姉(いとこ)を訪(たず)ねることもありました。その内(うち)に、雌狐(めぎつね)の孫(まご)の仲間達(なかまたち)と知(し)り合(あ)うようになりました」

「その頃(ころ)、弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は従姉(いとこ)を訪(たず)ねては、狐(きつね)らしくいたずらして楽(たの)しんでいました。武術(ぶじゅつ)より本(ほん)の方(ほう)が好(ほんす)きだという一人(ひとり)の武家(ぶけ)の少年(しょうねん)が本(ほん)を読(よ)みながら廊下(ろうか)を弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)の方(ほう)に歩(ある)いて来(く)た時(とき)のことでした。弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)がまじないで少年(しょうねん)が歩(ある)く少(すこ)し先(さき)の床(ゆか)の板(いた)を持(も)ち上(あ)げたので、少年(しょうねん)は躓(つまず)いて転(ころ)んでしまいました。弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)はくすくすと笑(わら)いましたが、少年(しょうねん)の顔(かお)を見(み)ると、笑(わら)いを噛(か)み殺(ころ)して、少年(しょうねん)が立(た)ち上(あ)がるのを手伝(てつだ)いました。その時(とき)、少(すこ)しだけ少年(しょうねん)と言葉(ことば)を交(か)わしましたが、それがきっかけで従姉(いとこ)を訪問(ほうもん)するたびに、少年(しょうねん)にも会(あ)うようになり、だんだん仲良(なかよ)くなっていきました。やがて、少年(しょうねん)は城主(じょうしゅ)の家来(けらい)となりました」

「雌狐(めぎつね)の孫(まご)は成人(せいじん)するとすぐ、政治的(せいじてき)駆(か)け引(ひ)きにより隣国(りんごく)の姫(ひめ)と政略結婚(せいりゃくけっこん)しました。しばらくすると、二人(ふたり)の間(あいだ)に娘(むすめ)が産(う)まれましたが、母親(ははおや)の方(かた)は産後(さんご)の肥立(ひだ)ちが悪(わる)く、すぐに亡(な)くなってしまいました」

「その頃(ころ)から、次第(しだい)に不穏(ふおん)な空気(くうき)が漂(ただよ)う時代(じだい)になってきました。それぞれの国(くに)は将軍(しょうぐん)の命令(めいれい)を無視(むし)して、隣国(りんごく)と戦(たたか)い始(はじ)めました。全国(にほん)いたるところで戦(いくさ)が起(お)こりました。そうして戦国(せんごく)の世(よ)が始(はじ)まったのです」

「狐(きつね)の里(さと)も戦(いくさ)に巻(ま)き込(こ)まれました。力(ちから)を持(も)つ狐達(きつねたち)は恐(おそ)れられ、それ故(ゆえ)に攻撃(こうげき)の対象(たいしょう)に選(えら)ばれたのです。狐(きつね)の一族(いちぞく)は様々(さまざま)な妖怪(ようかい)に攻撃(こうげき)されました。そういうわけで数ヶ月(すうかげつ)の間(あいだ)、弟狐(おとうとぎつね)は姪(めい)である雌狐(めぎつめ)の娘(むすめ)を見守(みまも)ることができなくなりましたが、娘(むすめ)が従姉(いとこ)と一緒(いっしょ)に住(す)みたいと頼(たの)んだので、望(のぞ)み通(どお)りにさせることにしました」

「弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)が城(しろ)に着(つ)いた時(とき)、城内(じょうない)は混乱(こんらん)の坩堝(るつぼ)と化(か)していました。殿様(とのさま)も若殿(わかとの)も戦(いくさ)で亡(な)くなってしまい、若殿(わかとの)の息子(むすこ)である雌狐(めぎつね)の孫(まご)が侍達(さむらいたち)を再(ふたた)び集(あつ)め、城(しろ)に退却(たいきゃく)したばかりでした。敵(てき)の大将(たいしょう)は鬼(おに)と組(く)んでいるという噂(うわさ)が城内(じょうない)のあちこちに広(ひろ)まっていました。一方(いっぽう)、城主(じょうしゅ)になった雌狐(めぎつね)の孫(まご)は次(つぎ)に攻(せ)められることに対(たい)して、城(しろ)を守(まも)るための準備(じゅんび)を進(すす)めていました。他(ほか)の国(くに)に援軍(えんぐん)を送(お)ってくれるように使者(ししゃ)を送(おく)りましたが、隣国(りんこく)の亡(な)くなった妻(つま)の国(くに)からさえも、良(よ)い返答(へんとう)は得(え)られませんでした」

「弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は手伝(てつだ)いたかったのですが、その時(とき)は尻尾(しっぽ)が一本(いっぽん)しかなかったので、まだ強(つよ)い術(すべ)を使(つか)うことができませんでした」

「しばらくすると、敵軍(てきぐん)が城(しろ)を取(と)り囲(かこ)み始(はじ)め、籠城(ろうじょう)が始(はじ)まりました」

「時々(ときどき)、敵陣営(てきじんえい)の中(なか)に巨大(きょだい)な鬼(おに)が見(み)えました。鬼(おに)が国(くに)のあちこちを荒(あ)らし回(まわ)っているという噂(うわさ)が城内(じょうない)に広(ひろ)まっていました」

「その段(だん)になってやっと近隣諸国(きんりんしょこく)の雌狐(めぎつね)の孫(まご)の盟友達(めいゆうたち)が、少数(しょうすう)の侍(さむらい)と共(とも)に密(ひそ)かに城(しろ)にやってきました。雌狐(めぎつね)の孫達(まごたち)は喜(よろこ)びましたが、盟友達(めいゆうたち)は、「援軍(えんぐん)に来(き)てはみたものの、我(われ)らは皆(みな)若(わか)く、どのくらいの技量(ぎりょう)を持(も)っているとも知(し)れない。それに我々(われわれ)の国(こに)も危険(きけん)にさらされており、他国(たこく)の援軍(えんぐん)を受(う)けるあてもない。我(われ)らはそんな中(なか)、父上達(ちちうえたち)の反対(はんたい)を押(お)し切(き)って参上(さんじょう)しているのです」と苦(くる)しい胸(むね)の内(うち)を話(はな)しました」

「籠城(ろうじょう)の数日間(すううじつかん)で、弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は城(しろ)の人(ひと)たちと親(した)しくなりました。その中(なか)には今(いま)や城主(じょうしゅ)になった雌狐(めぎつね)の孫(まご)の腹心(ふくしん)の家来(けらい)として、立派(りっぱ)に成長(せいちょう)したかつて幼馴染(おさななじみ)の少年(しょうねん)の姿(すがた)がありました。弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)はその男(おとこ)の人(ひと)が好(す)きになりました」

「日(ひ)に日(ひ)に、城(しろ)の兵糧(ひょうろう)は減(へ)っていきました。城(しろ)の中(なか)では乏(とぼ)しい食料(しょくりょう)をみんなで分(わ)け合(あ)ってなんとか飢(う)えをしのいでいましたが、結局(けっきょく)、皆(みな)が弱(よわ)ってきた頃(ころ)に敵(てき)の総攻撃(そうこうげき)に遭(あ)い、落城(らくじょう)してしまいました。」

ゆきは口(くち)を挟(はさ)みました。「どんな風(ふう)に総攻撃(そうこうげき)されたの?」

狐子(ここ)はしばらく考(かんが)え込(こ)んでから、「ある日(ひ)、鬼(おに)の姿(すがた)がまた敵陣営(てきじんえい)に見(み)えました。敵(てき)の大将(たいしょう)と相談(そうだん)していたようでした。そしてついに、鬼(おに)は敵軍(てきぐん)と一緒(いっしょ)に城(しろ)を攻撃(こうげき)することを了解(りょうかい)したようでした。間(ま)もなく、鬼(おに)が大(おお)きな岩(いわ)を城郭(じょうかく)に投(な)げつけて、壊(こわ)し始(はじ)めました。同時(どうじ)に、敵兵(てきへい)が一斉(いっせい)に攻撃(こうげき)を仕掛(しか)けてきました」

「一方(いっぽう)、城内(じょうない)では、殿(との)は、家来達(けらいたち)の士気(しき)を鼓舞(こぶ)しながら外堀(そとぼり)を守(まも)らせていました。しかし、現実(げんじつ)は、心中(しんちゅう)ではもはやこれまでと密(ひそ)かに覚悟(かくご)を決(き)めていたのです」

「殿(との)が外堀(そとぼり)の方(ほう)へ向(む)かう前(まえ)に、弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は声(こえ)をかけました。『殿(との)、失礼(しつれい)いたします。秘密(ひみつ)の抜(ぬ)け穴(あな)がありました。ぜひ一緒(いっしょ)にいらしてください』殿(との)は、『私(わたし)が行(い)くことはできないが、母上(ははうえ)と赤子(あかご)と一緒(いっしょ)に三人(さんにん)で逃(に)げてくれ』と答(こた)えました。そこで弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げ、従姉(いとこ)である城主(じょうしゅ)の母親(ははおや)を捜(さが)すために立(た)ち去(さ)りました」

そこで若殿(わかとの)が口(くち)を挟(はさ)みました。「弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)がそれほど丁寧(ていねい)に喋(しゃべ)ることが出来(でき)るとは、ちょっと信(しん)じがたいな」と言(い)って、狐子(ここ)の顔(かお)を訳知(わけし)り顔(がお)で見(み)つめました。

狐子(ここ)の顔(かお)はまた真(ま)っ赤(か)になりました。ゆきは若殿(わかとの)の方(ほう)に顔(かお)を向(む)けました。「あなたは、どうしてそのような事(こと)を言(い)うのです?狐子(ここ)ちゃんが話(はな)しているのだから、狐子(ここ)ちゃんの好(す)きなように話(はな)しても構(かま)わないでしょう?」と、また狐子(ここ)の方(ほう)へ向(む)きました。「それから、何(なに)が起(お)こったの?」

狐子(ここ)はまた続(つづ)けました。「従姉(いとこ)を捜(さが)す途中(とちゅう)で、弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は秘か(ひそか)に心(こころ)を寄(よ)せている殿(との)の家来(けらい)と出会(であ)いました。そこで、『殿(との)の命令(めいれい)に従(したが)って殿(との)の母上様(ははうえさま)と姫様(ひめさま)と一緒(いっしょ)に秘密(ひみつ)の出口(でぐち)から逃(に)げるために、お二人(ふたり)を捜(さが)しているのですが手(て)を貸(か)してくださいませんか』と頼(たの)みました。家来(けらい)は、『そうしたいのだが、殿(との)がまだここに残(のこ)るおつもりなら自分(じふん)だけ逃(に)げるということはできない。出口(でぐち)までなら一緒(いっしょ)に行(い)けるが、そこから先(さき)は行(い)ってあげられない』と答(こた)えました。弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)はがっかりしましたが、仕方(しかた)のないことと納得(なっとく)しました。それから二人(ふたり)は一緒(いっしょ)に殿(との)の家族(かぞく)を捜(さが)しました。

「間(ま)もなく、従姉(いとこ)である殿(との)の母(はは)の部屋(へや)に着(つ)きました。従姉(いとこ)は孫娘(まごむすめ)と一緒(いしょ)にそこにいました。『殿(との)が私(わたし)にお孫様(まごさま)と三人(さんにん)で逃(に)げるようにおっしゃいました。お供(とも)致(いた)しますのでお急(いそ)ぎください』と話(はな)しました」

「城主(じょうしゅ)の母(はは)は、『息子がそう言(い)うのなら従(したが)った方(ほう)が良(よ)いでしょう。荷物(にもつ)をまとめるので少(すこ)し待(ま)ってください』と答(こた)えました。城主(じょうしゅ)の母(はは)は手荷物(てにもつ)に自分(じぶん)にとって大切(たいせつ)な本(ほん)を二冊入(にさつい)れた後(あと)、孫娘(まごむすめ)を抱(だ)きました。そして、弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)に先導(せんどう)されて城(しろ)の地下(ちか)へ降(お)りて行(い)きました」

「辿(たど)り着(つ)いた所(ところ)には地下道(ちかどう)の入口(いりぐち)がありました。そこまで同行(どうぎょう)してきた殿(との)の家来(けらい)は、『私(わたし)は戻(もど)らなければなりません。もうお目(め)にかかることはできないと思(おも)いますが、どうぞお達者(たっしゃ)で』と言(い)いました。弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は、『もう会(あ)えないだろうなんて言(い)わないでください。また会(あ)えると信(しん)じています』と答(こた)えました」

「それから彼(かれ)は戦(いくさ)に戻(もど)り、残(のこ)った三人(さんにん)は地下道(ちかどう)に入(はい)って行(い)きました」

「この地下道(ちかどう)は実(じつ)は弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)が見(み)つけたものではなく、彼女(かのじょ)が作(つく)ったものでした。籠城(ろうじょう)が始(はじ)まった時(とき)から、毎夜秘密(まいよひみつ)のうちに少(すこ)しずつ掘(ほ)り進(すす)めていたのです。前日(ぜんじつ)の夜(よる)に、努力(どりょく)の甲斐(かい)あって外(そと)に通(つう)じたのでした」

「穴(あな)の中(なか)をしばらく歩(ある)くと、弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)たちは地下道(ちかどう)の出口(でぐち)に着(つ)きました。辺(あた)りを見回(みまわ)すと、そこは城(しろ)を囲(かこ)む敵陣営(てきじんえい)の背後(はいご)でした。城(しろ)の方(ほう)を見(み)ると、分厚(ぶあつ)い黒煙(こくえん)がもうもうと上(あ)がっていました。城(しろ)はすでに落(お)ちていたのです」

「『息子(むすこ)よ、なぜこんな若(わか)さで死(な)んでしまうの?親(おや)が子供(こども)より長生(ながい)きすることになるなんて』と城主(じょうしゅ)の母(はは)は泣(な)き崩(くず)れました」

「弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は従姉(いとこ)の肩(かた)を抱(だ)き支(ささ)えて、言(い)いました。『殿(との)が討(う)ち死(じ)になさったとは限(かぎ)りませんよ。今(いま)はそれよりお孫様(まごさま)のことを考(かんが)えてください』と」

「雌狐(めぎつね)の娘(むすめ)は涙(なみだ)を流(なが)しながらも孫娘(まごむすめ)を抱(だ)きしめて立(た)ち上(あ)がりました。『ここにはもう私(わたし)の住(す)める場所(ばしょ)はありません。故郷(こきょう)に戻(もど)りたい』と言(い)って城(しろ)に背(せ)を向(む)け、歩(ある)き始(はじ)めました。弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)はその後(うし)ろに付(つ)いて歩(ある)き、まじないを使(つか)って二人(ふたり)の足跡(あしあと)を消(け)し去(さ)りました」

「雌狐(めぎつね)の娘(むすめ)の故郷(こきょう)に着(つ)いてみると、そこには壊(こわ)された家(いえ)しかありませんでした。鬼(おに)が村(むら)を襲撃(しゅうげき)したのだということは誰(だれ)の目(め)にも明(あき)らかでした。『ここにも留(とど)まることができないようね。私(わたし)のかけがえのない思(おも)い出(で)の場所(ばしょ)は全部破壊(ぜんぶはかい)されてしまいました。一体(いったい)どこへ行(い)けばいいのかしら』と嘆(なげ)きながら従姉(いとこ)はうなだれました。弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は、『隣(となり)の国(くに)にある小(ちい)さな村(むら)を知(し)っています。そこなら密(ひそ)かに暮(く)らすことができるでしょう。いかがでしょうか』と言(い)いました。雌狐(めぎつね)の娘(むすめ)が頷(うなず)いたので三人(さんにん)はその村(むら)の方(ほう)へ向(む)かって歩(ある)きました」

「その村(むら)は狐(きつね)の里(さと)にごく近(ちか)い所(ところ)にありました。弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は、従姉(いとこ)があそこにいるなら、父上(ちちうえ)は、姪(めい)を見守(みまも)るという約束(やくそく)を果(は)たせるだろうと思(おも)いました。それで、近(ちか)くの村(むら)に従姉(いとこ)を連(つ)れて来(き)たのです」

「従姉(いとこ)がその村(むら)に住(す)まいを見(み)つけたのを確(たし)かめた後(あと)で、弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は自分(じぶん)の住処(すみか)に帰(かえ)って、父(ちち)に籠城(ろうじょう)や従姉(いとこ)との旅(たび)のことを伝(つた)えました。それから弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は、好(す)きなあの人(ひと)が籠城(ろうじょう)で生(い)き残(のこ)ったかどうか確認(かくにん)するために、あちこちで好(す)きなその者(もの)のことを尋(たず)ね回(まわ)りました。殿(との)が鬼(おに)に殺(ころ)された数ヶ月後(すうかげつご)に、ようやくその家来(けらい)が、数人(すうにん)の侍達(さむらいたち)や援軍(えんぐん)に来(き)ていた隣国(りんこく)の若殿達(わかとの)と共(とも)に地下道(ちかどう)で城(しろ)から逃(に)げたということを知(し)りました。でもそれ以上(にじょう)の消息(しょうそく)は結局(けっきょく)つかめませんでした。その後(あと)、弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)は人間(にんげん)のことを良(よ)く知(し)りたいと思(おも)って、各地(かくち)を旅(たび)するようになりました」

「一方(いっぽう)、弟狐(おとうとぎつね)は姪(めい)を見守(みまも)り続(つづ)けました。雌狐(めぎつね)の娘(むすめ)は孫娘(まごむすめ)を育(そだ)て、読書(どくしょ)や茶道(さどう)を教(おし)えました。その村(むら)で暮(く)らして十数年(じゅうすうねん)という長(なが長)い年月(ねんげつ)のうちに、弟狐(おとうとぎつね)が見守(みまも)っていた姪(めい)も老婆(ろうば)となり、やがて静(しず)かに人生(じんせい)の幕(まく)を閉(と)じました。少(すこ)し経(た)ったある日(ひ)、身寄(みよ)りのなくなった孫娘(まごむすめ)はその村(むら)を出(で)ました。そしてしばらくして弟狐(おとうとぎつね)に会(あ)いました」

ゆきは声(こえ)を出(だ)しました。「え?もしかしてその子(こ)が私(わたし)なの?それで、狐子(ここ)ちゃんが弟狐(おとうとぎつね)の娘(むすめ)なの?」狐子(ここ)がうなずいた後(あと)で、「狐子(ここ)ちゃんや狐(きつね)どのは私(わたし)の血縁者(けつえんしゃ)だったの?どうしてもっと早(はや)くに教(おし)えてくれなかったの?」と言(い)いました。

狐子(ここ)はこう答(こた)えました。「伯母(おば)の願(ねが)いだったの。ここを離(はな)れている間(あいだ)、伯母(おば)と私(わたし)はよく話(はな)し合(あ)ったのよ。私(わたし)がゆきちゃんと仲良(なかよ)くなったから、伯母(おば)はやっとこの話(はなし)をすることを許(ゆる)してくれたの」

ゆきはまた訊(き)きました。「好(す)きだった人(ひと)というのが家老(かろう)なのね!今(いま)もまだ想(おも)っているのなら、数週間私達(すうしゅうかんわたし)と一緒(いっしょ)に国中(くにじゅう)を旅(たび)して回(まわ)ったのはどうしてなの?」

狐子(ここ)は溜息(ためいき)をつきました。「昔(むかし)から人間自体(にんげんじたい)に興味(きょうみ)があったし、あの人(ひと)が私(わたし)のことを覚(おぼ)えているかどうかさえ分(わ)からないでしょう。それに、ずっと会(あ)っていなかったから、ちょっと恥(は)ずかしかったの。でも、例(れい)のお見合(みあ)い相手(あいて)の間抜(まぬ)けな雄狐(おすきつね)たちに会(あ)わされてから、彼(かれ)のことが頭(あたま)から離(はな)れなくなって…彼(かれ)ともう一度(いちど)話(はな)してみたいと思(おも)うようになったの」

ゆきが悪戯(いたずら)っぽく笑(わら)いました。「今晩(こんばん)はどう?」

若殿(わかどの)は声(こえ)を上(あ)げました。「うん。いい考(かんが)えだ」と言(い)うと、女将(おかみ)の方(ほう)を見(み)ました。「家老(かろう)のところに行(い)って、ここに来(く)るように伝(つた)えなさい。狐子(ここ)は隠(かく)れて待っていなさい」と命(めい)じました。

女将(おかみ)は深(ふか)く黙礼(もくれい)をして、立(た)ち去(さ)りました。一方(いっぽう)、狐子(ここ)は猫(ねこ)の姿(すがた)に化(ば)け、棚(たな)の上(うえ)に飛(と)び乗(の)りました。

第五十五章(だいごじゅうごしょう)

家老(かろう)の話(はなし)

しばらくして女将(おかみ)が家老(かろう)と一緒(いっしょ)に戻(もど)ってきました。家老(かろう)は、「殿(との)、私(わたし)をお呼(よ)びと伺(うかが)いましたが」と言(い)いながら頭(あたま)を下(さ)げました。

若殿(わかとの)は中(なか)に入(はい)るように手招(てまね)きしました。「ここに来(き)なさい。聞(き)きたいことがあるのだ」と言(い)いながら狐子(ここ)がさっきまで座(すわ)っていた場所(ばしょ)を指(ゆび)さしました。

ゆきは問(と)いかけました。「どのようにして父上(ちちうえ)と出会(であ)い、父上(ちちうえ)のもとでどのようなことをしていたのか話(はな)してくれませんか。また、どういう経緯(けいい)で他国(たこく)の城代(じょうだい)となったのか話(はな)してください」

家老(かろう)は深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げ、そして指示(しじ)された場所(ばしょ)に腰(こし)を下(お)ろしました。「私(わたくし)の父(ちち)は、幼(おさな)い頃(ころ)よりゆき様(さま)のお生(う)まれになった国(くに)の殿(との)に仕(つか)えておりました。殿(との)のお孫様(まごさま)と私(わたし)はあまり変(か)わらない年頃(としごろ)でしたので、この若君(わかぎみ)をお見(み)かけする機会(きかい)が、私(わたし)には度々(たびたび)ございました。時折(ときおり)、若君(わかぎみ)は城内(じょうない)にいる同(おな)じ年頃(としごろ)の子供達(こどもたち)と連(つ)れ立(だ)って、こっそりと城(しろ)を抜(ぬ)け出(だ)されては外(そと)で遊(あそ)んでいらっしゃいました。そして次第(しだい)に、若君(わかぎみ)とお話(はなし)できるようになったのでございます」

「武術(ぶじゅつ)の稽古(けいこ)の間(あいだ)、若君(わかぎみ)はいつも子供達(こどもたち)の中(なか)では、一番(いちばん)の剣士(けんし)でございました。そして他(ほか)の方々(かたがた)同様(どうよう)、この私(わたし)も若君(わかぎみ)にお仕(つか)えしたいと望(のぞ)んでおりました」

「私(わたし)にできることと言(い)えば武術(ぶじゅつ)などではなく書類(しょるい)仕事(しごと)などでございました。なので、間(ま)もなく城(しろ)の中(なか)で殿(との)の命令(めいれい)や殿(との)への報告(ほうこく)を写(うつ)したりするようになりました」

「若君(わかぎみ)は立派(りっぱ)な若者(わかもの)になられ、すぐに隣国(りんこく)の姫(ひめ)とご結婚(けっこん)なさいました。しばらくして、二人(ふたり)の間(あいだ)に姫(ひめ)がお産(う)まれになりました。若君(わかぎみ)に、『どのような名前(なまえ)を家系図(かけいず)に書(か)き込(こ)まれますか』とお尋(たず)ねしたところ、『ゆき』とご返事(へんじ)なさいました」

「その頃(ころ)、政局(せいきょく)は難(むずか)しい局面(きょくめん)にさしかかっていました。侍(さむらい)と大名(だいみょう)、大名(だいみょう)と大名(だいみょう)、大名(だいみょう)と将軍(しょうぐん)、これらの関係(かんけい)が緊張(きんちょう)の度合(どあい)を増(ま)していき、ついには破局(はきょく)を迎(むか)えることになったのです。それはまるで山火事(やまかじ)で木(き)から木(き)へと火(ひ)の手(て)が飛(と)び移(うつ)っていくような勢(いきお)いでした。妖怪(ようかい)が侍(さむらい)をけしかけているという噂(うわさ)が広(ひろ)まるのと同時(どうじ)に、侍(さむらい)に攻撃(こうげき)され、攻(せ)め滅(ほろ)ぼされる大名(だいみょう)が増(ふ)えていきました」

「同(おな)じように、ゆき様(さま)の故国(ここく)もまた、賊軍(そくぐん)に攻撃(こうげき)されたのです。自分(じぶん)の力(ちから)を誇(ほこ)り、それを過信(かしん)していた殿(との)は、若殿(わかとの)が城(しろ)に残(のこ)るようにご説得(せっとく)されたにもかかわらず、忠臣(ちゅうしん)を集(あつ)め、その賊軍(そくぐん)を追(お)い払(はら)うために城(しろ)からご出陣(しゅつじん)されました。しかし、その途中(とちゅう)、狭(せま)い谷(たに)の中(なか)で待(むか)ち伏(ふ)せに遭(あ)われたのです。隊(たい)の中(なか)ほどにいらっしゃった殿(との)は飛(と)んでくる岩(いわ)に当(あ)たり命(いのち)を落(お)とされ、先陣(せんじん)にいらっしゃった若殿(わかとの)もお付(つ)きの者(もの)共々(ともども)、敵軍(てきぐん)に素早(すばや)く取(と)り囲(かこ)まれ、討(う)ち死(じ)になさいました。後詰(ごづ)めでいらっしゃった若君(わかぎみ)は敗走(はいそう)していた兵(へい)たちを再(ふたた)び集(あつ)め、やっとのことで城(しろ)へ退(ど)いていらっしゃいました」

「新(あら)たに殿(との)になった若君(わかぎみ)は城(しろ)に帰(かえ)ってくるやいなや、城(しろ)を守(まも)るための準備(じゅんび)を始(はじ)めました。近隣諸国(きんりんしょこく)へ援軍(えんぐん)を請(こ)う手紙(てがみ)を書(か)くようにとも私(わたし)に命(めい)じられました」

「しかしそれらの手紙(てがみ)の返事(へんとう)を受(う)け取(と)る前(まえ)に、敵軍(てきぐん)が城(しろ)の外(そと)に現(あらわ)れ、包囲(ほうい)が始(はじ)まったのです」

「その頃(ころ)、私(わたし)は城内(じょうない)のあちらこちらで手伝(てつだ)っている赤毛(あかげ)のお嬢様(じょうさま)の存在(そんざい)に気付(きづ)きました。少年(しょうねん)の頃(ころ)から、そのお嬢様(じょうさま)は時折(ときおり)、殿(との)のお母上(ははうえ)の元(もと)に訪問(ほうもん)にいらっしゃっていて、何度(なんど)かお目(め)にかかったこともございました。城(しろ)が包囲(ほうい)されてしまっては訪問(ほうもん)されることもあるまいと思(おも)っておりましたが、その後(あと)、城内(じょうない)の至(いた)る所(ところ)でお見受(みう)けするようになり、意識(いしき)するようになりました。たちまち彼女(かのじょ)は私(わたし)の心(こころ)を虜(とりこ)にしてしまったのでございます」

「時折(ときおり)、敵営(てきえい)の中(なか)に巨大(きょだい)な鬼(おに)が見(み)えました。岩(いわ)を投(な)げて殿(との)のお祖父様(じいさま)を殺(ころ)したのは、そのような鬼(おに)だったそうでございます」

「少(すこ)しすると、近隣諸国(きんりんしょこく)から数人(すうにん)の若殿(わかとの)が秘密裏(ひみつり)に城(しろ)に入(はい)ってこられました。その中(なか)には隣(となり)の国(くに)の若殿様(わかとのさま)、つまり我(わ)が殿(との)のお父上様(ちちうえさま)がいらっしゃったのです。これは可能(かのう)な限(かぎ)りの援軍(えんぐん)であるという若殿(わかとの)の父君(ちちぎみ)たちからの返答(へんとう)を携(たずさ)えていらっしゃいました」

「数ヶ月(すうかげつ)が過(す)ぎた後(あと)、その鬼(おに)がまた敵営(ときえい)に見(み)えた時(とき)に、殿(との)が兵(へい)を集(あつ)め、『外郭(がいかく)を守(まも)れ』と命令(めいれい)しました。敵軍(てきぐん)が総攻撃(そうこうげき)を始(はじ)めたようでしたので、勘定方(かんじょうかた)の私(わたし)も武器(ぶき)を手(て)に戦(たたか)う覚悟(かくご)でやって参(まい)りました。その途中(とちゅう)、私(わたし)の心(こころ)を捉(とら)えたお嬢様(じょうさま)にお会(あ)いしました。嬢様(じょうさま)は私(わたし)にこう懇願(こんがん)されました。『殿(との)からの命(めい)で、殿(との)の家族(かぞく)を逃(に)がして差(さ)し上(あ)げねばなりません。お手(て)をお貸(か)しくださいませんか』」

「私(わたし)は『手助(てたす)けいたしますが、最後(さいご)まで殿(との)のお側(そば)でお仕(つか)えするのが家臣(かしん)の務(つと)めでございます。皆様(みなさま)だけでお逃(に)げくださいませ』、と申(もう)しました。それからお嬢様(じょうさま)と一緒(いっしょ)に殿(との)のお母上(ははうえ)の部屋(へや)に参(まい)りました」

「殿(との)のお母上(ははうえ)と幼(おさな)い姫様(ひめさま)は、お嬢様(じょうさま)を連(つ)れられ、城(しろ)の地下(ちか)に下(お)りて行(い)きました。辿(たど)り着(つ)くと、すぐに地下道(ちかどう)の入口(いりぐち)がありました。子供(こども)の頃(ころ)、私(わたし)はそこでよく遊(あそ)んだものでしたが、そんな入口(いりぐち)があることは知(し)りませんでした。一体(いったい)どうやって、誰(だれ)が、いつ、その地下道(ちかどう)を作(つく)ったのかは想像(そうぞう)できませんでした」

「お嬢様達(じょうさまたち)と別(わか)れた後(あと)に、武器(ぶき)を取(と)りに行(い)こうとすると、すぐに数人(すうにん)の傷(きず)ついた兵(へい)や加勢(かせい)のために来(き)た隣国(りんこく)の若殿(わかとの)たちに出会(であ)いました。すでに城壁(じょうへき)は破壊(はかい)され、殿(との)が討(う)ち死(じ)になされたとのことでございました。外(そと)を見(み)ると、全(すべ)てが混乱(こんらん)していました。もう一度(いちど)『殿(との)は本当(ほんとう)にお亡(な)くなりになられたのか』と隣国(りんこく)の若殿達(わかとのたち)にお尋(たず)ねすると、そのうちのお一人(ひとり)がご確認(かくにん)になられたとの事(こと)でした」

「そこで、隣国(りんこく)の若殿(わかとの)たちをお嬢様(じょうさま)たちが入(はい)っていった地下道(ちかどう)にご案内(あんない)しました。地下道(ちかどう)を出(で)た後(あと)で、お嬢様達(じょうさまたち)の足跡(あしあと)など探(さが)そうと致(いた)しましたが、それらしき跡(あと)は何(なに)もございませんでした」

「若殿達(わかとの)は自分(じぶん)の国(くに)に戻(もど)る時(とき)、生(い)き残(のこ)った兵(へい)を一緒(いっしょ)に連(つ)れて行(い)きました。私(わたし)にもそうするように勧(すす)めて下(くだ)さいましたが、その時(とき)にはお嬢様達(じょうさまたち)の行方(ゆくえ)しか私(わたし)の頭(あたま)にありませんでした」

「空(そら)が暗(くら)くなるまで一人(ひとり)でその辺(あた)りを調(しら)べました。次(つぎ)の朝(あさ)、殿(との)のお母上(ははうえ)の故郷(こきょう)を思(おも)い出(だ)したので、そこへも行(い)ってみました。しかし、そこにも、誰(だれ)もいませんでした。それから浪人(ろうにん)となり、あちらこちらを巡(めぐ)り歩(ある)き、赤毛(あかげ)のお嬢(じょう)さんを見(み)かけなかったかと誰彼(たれかれ)構(かま)わず尋(たず)ねました。時折(ときおり)、そのようなお嬢(じょう)さんの姿(すがた)を見(み)たという答(こた)えが返(かえ)ってきましたが、もう発(た)った後(い)で、どこに行(い)ったのかは分(わ)からないと言(い)われるばかりでした」

「二年(にねん)ほどそのような事(こと)が続(つづ)きました。ようやく、籠城(ろうじょう)の時(とき)にお会(あ)いした隣国(りんこく)の若殿(わかとの)の一人(ひとり)が、殿様(とのさま)になったという話(はなし)を聞(き)きましたので、その方(かた)の国(くに)に行(い)って、仕(つか)え始(はじ)め、あのお嬢様(じょうさま)のことを忘(わす)れようとしました。そうして、ゆき様(さま)がここに戻(もど)ってくるまで、あちらに仕(つか)え続(つづ)けたのでございます」

ゆきが口(くち)を挟(はさ)みました。「他(ほか)の女(おんな)のことが好(すき)きになったでしょうね」

家老(かろう)は、「いいえ。捜(さが)すのを止(や)めはしましたが、私(わたし)の心(こころ)はまだあのお嬢様(じょうさま)のことを思(おも)い続(つづ)けています」と、首(くび)を横(よこ)に振(ふ)りました。

若殿(わかとの)は問(と)いました。「して、その娘(こ)の名前(な)は何(なん)という?」

「はは、ココと申(もう)します」と家老(かろう)が畏(かしこ)まって答(い)えました。すると、狐子(ここ)がいきなり棚(たな)から飛(と)び降(お)り、当時(とうじ)の姿(すがた)に化(ば)けるや否(いな)や、さっと家老(かろう)の背後(はいご)に歩(あゆ)み寄(よ)り、「あの時(とき)、またお会(あ)いしましょうと申(もう)し上(あ)げたのは、この私(わたし)ではなかったですか」と言(い)いました。

さすがに愚鈍(ぐどん)な家老(かろう)も狐子(ここ)から身(み)を遠(とお)ざけるように、慌(あわ)て飛(と)び退(の)き、「いっ、一体(いったい)いつの間(ま)に!?」そして、なおも震(ふる)える手(て)で狐子(ここ)の頬(ほお)を恐(おそ)る恐(おそ)る触(さわ)れながら「あっ、あなたは何(なに)も変(か)わっていません。ほっ、本物(ほんもの)ですか。…狐(きつね)に化(ば)かされているのではあるまいな」と。放心(ほうしん)の体(からだ)で呻(うめ)くように呟(つぶや)きました。

狐子(ここ)は気(き)に障(さわ)ったような表情(ひょうじょう)で、「どうしてそのような質問(しつもん)をするのですか。狐(きつね)が好(す)きじゃないのですか」と尋(たず)ねました。

家老(かろう)は、「べっ、別(べつ)に…。あなたが狐(きつね)が好(す)きと言(い)うのなら、私(わたし)も狐(きつね)が大好(だいす)きです」と、困惑(こんわく)の色(いろ)を浮(う)かべながら、やっとのことで答(こた)えました。

狐子(ここ)はくすくすと笑(わら)いながら「私(わたし)が本当(ほんとう)は狐(きつね)だったら、いかがですか」と訊(き)きました。

家老(かろう)は首(くび)を振(ふ)りました。「それはありえません。ココはどこから見(み)ても人間(にんげん)でしたよ。あのお嬢(じょう)さんが狐(きつね)だったとは思(おも)えません」

狐子(ここ)は紙(かみ)と筆(ふで)を手(て)に取(と)って、漢字(かんじ)を二字(にじ)書(か)きました。漢字(かんじ)を指(ゆび)さしながら、こう言(い)いました。「これは私(わたし)の名前(なまえ)です。狐(きつね)の子(こ)と書(か)いて、狐子(ここ)と申(もう)します」

家老(かろう)は首(くび)を振(ふ)りました。「あなたは人間(にんげん)です。それほどに美(うつく)しいお嬢(じょう)さんが動物(どうぶつ)だということはありえません」

「でも本当(ほんとう)に狐(きつね)なのです。自然(しぜん)な姿(すがた)をお目(め)にかけます」と言(い)うと、狐(きつね)の姿(すがた)に化(ば)け、三本(さんぼん)の尻尾(しっぽ)を腰(こし)の上(うえ)で振(ふ)りました。「他(ほか)の姿(すがた)にもなれます」と、猫(ねこ)、鼠(ねずみ)、十一(じゅういち)、二歳(にさい)の男(おとこ)の子(こ)の姿(すがた)に化(ば)けてみせ、そして人間(にんげん)の娘(むすめ)の姿(すがた)に戻(もど)りました。「でも、これが昔(むかし)からの普通(ふつう)の姿(すがた)です。従姉(いとこ)を訪(たず)ねるために、この姿(すがた)に化(ば)ける方法(ほうほう)を習(なら)いました」

家老(かろう)はぼんやりと狐子(ここ)を見返(みかえ)しました。「い…とこ?」とだけ言(い)いました。

「はい。ゆきちゃんのお祖母(ばあ)さんは父(ちち)の姉(あね)の娘(むすめ)でした」と狐子(ここ)は説明(せつめい)しました。

家老(かろう)はこめかみを両手(りょうて)で摩(さす)りました。「ゆき様(ゆき)のお祖母様(ばあさま)は雌狐(めすぎつね)の娘(むすめ)だったと言(い)うのですか。それはありえません。ゆき様(さま)のお祖母様(ばあさま)は武家(ぶけ)のご出身(しゅっしん)です。どこから拝見(はいけん)いたしましてもきつね(きつね)ではなく人間(にんげん)でした」

「ゆきちゃんのお祖母様(ばあさま)は従姉(いとこ)でしたのよ。人間(にんげん)は人間(にんげん)でも、狐(きつね)の血筋(ちすじ)を引(ひ)いた人間(にんげん)でした。父親(ちちおや)は人間(にんげん)の侍(さむらい)でしたが、母親(ははおや)は人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)けた雌狐(めすぎつね)でした。狐(きつね)が他(ほか)の生(い)き物(もの)の姿(すがた)に化(ば)けて子供(こども)を産(う)むと、その生(い)き物(もの)の子供(こども)になるのです。雌狐(めすぎつね)は身籠(みごも)りの間(あいだ)は、姿(すがた)を変(か)えることができません」と狐子(ここ)は言(い)いました。「だから、ゆきちゃんのお祖母様(ばあさま)は狐(きつね)ではなく人間(にんげん)なのです」

家老(かろう)はふらふらと立(た)ち上(あ)がりました。「色々(いろいろ)なことを考(かんが)えなくてはいけません」と狐子(ここ)に言(い)うと、若殿(わかとの)の方(ほう)に向(む)きました。「そろそろ失礼(しつれい)いたします。お邪魔(じゃま)いたしました」と、うなだれながら、その場(ば)を後(あと)にしました。

狐子(ここ)はただ家老(かろう)の去(さ)った後(あと)をきょとんと見(み)つめていました。

「かわいそう」とゆきは呟(つぶや)くと、狐子(ここ)に声(こえ)をかけました。「元気(げんき)を出(だ)して!」

狐子(ここ)はただ「はい」とだけ、力(ちから)なく答(こた)えました。そして、自分(じぶん)の姿(すがた)に戻(もど)り、隅(すみ)で縮(ちぢ)こまり、鼻(はな)を尻尾(しっぽ)で覆(おお)って目(め)を閉(と)じました。

第五十六章(だいごじゅうろくしょう)

寂(さび)しげな二人(ふたり)

次(つぎ)の日(ひ)、狐子(ここ)が家老(かろう)に会(あ)おうとすると、彼(かれ)は「いろいろと思案(しあん)しなければならないことがございますゆえ、今(いま)は手(て)が離(はな)せないのです」としか答(こた)えずに、狐子(ここ)に背(せ)を向(む)けてしまいました。

狐子(ここ)はゆきのところに行(い)きました。「家老(かろう)さんが私(わたし)に会(あ)いたがらないの。どうしよう?」と訊(き)きました。

ゆきは「分(わ)からないわ。どうしたらいいのかしら」と言(い)うと、女将(おかみ)はそれとなく、「あのお方(かた)、どうして狐子(ここ)様(さま)のことが好(す)きになったのでしょうねえ」と一言(ひとこと)、口(くち)を出(だ)しました。

「あ!分(わ)かった」と狐子(ここ)は言(い)って、急(いそ)いで部屋(へや)を出(で)て行(い)きました。

それから狐子(ここ)は城(しろ)のあちこちに行(い)って、困(こま)っている者(もの)がいれば、誰(だれ)にでも親切(しんせつ)にしました。特(とく)に、泣(な)いている子供(こども)がいると、すぐに狐子(ここ)はその子(こ)に駆(か)け寄(よ)りました。その泣(な)き顔(がお)は見(み)る見(み)るうちに笑顔(えがお)になりました。

しばらくすると城(しろ)の中(なか)で狐子(ここ)の話(はなし)がよく囁(ささや)かれるようになりました。

「狐子(ここ)という人(ひと)を知(し)ってる?」

「赤毛(あかげ)の子(こ)?うん。昨日(さくじつ)、うちの子(こ)が転(ころ)んで、膝(ひざ)を擦(す)り剥(む)いちゃったら、あの娘(むすめ)がさっと飛(と)んできて立(た)ち上(あ)がらせたの。私(わたし)が息子(むすこ)の側(そば)に駆(か)け寄(よ)った時(とき)には、もうニコニコ笑(わら)ってたわ。膝(ひざ)の血(ち)を拭(ぬぐ)い取(と)ると、もう傷(きず)は跡形(あとかた)もなかったのよ」

「うちの亭主(ていしゅ)は殿様(とのさま)と一緒(いっしょ)に旅(たび)をしていたんだけれど、その途中(とちゅう)、あの子(こ)が妖怪(ようかい)に化(ば)けて、鬼(おに)と戦(たたか)ったと言(い)っていたわ。そんな怪(あや)しい者(もの)を子供(こども)に近(ちか)づけるのはいかがなものかしら?」

「へえ?私(わたし)は妖怪(ようかい)ではなくて、狐(きつね)に化(ば)けたと聞(き)いたわ。狐(きつね)は妖怪(ようかい)じゃなくて、神様(かみさま)の使者(ししゃ)よね」

「ねえ、あの赤毛(あかげ)の子(こ)の話(はなし)をしてるの?私(わたし)も見(み)たわよ。この頃(ごろ)、あの娘(むすめ)は庭(にわ)にぽつんと座(すわ)って、お城(しろ)の方(ほう)を見(み)ては溜息(ためいき)をついたりしていたのよ」

「そう!そう言(い)えば、私(わたし)も息子(むすこ)を連(つ)れて一緒(いっしょ)に帰(かえ)る途中(とちゅう)で、あの娘(むすめ)の溜息(ためいき)を聞(き)いたことがあるわ」

狐子(ここ)と家老(かろう)が再会(さいかい)して数週間(すうしゅうかん)の後(あと)、若殿(わかとの)はゆきと話(はな)しました。「どうやら、最近(さいきん)、家老(かろう)は政務(せいむ)に集中(しゅうちゅう)できなくなっているらしい」

ゆきは頷(うなず)きました。「そのようでございますね。評定(ひょうてい)の最中(さなか)も溜息(ためいき)をついたりぼんやりと壁(かべ)を眺(なが)めたりして心(こころ)ここにあらずという感(かん)じがいたします。これまでは、同(おな)じ質問(しつもん)を度々(たびたび)繰(く)り返(かえ)す必要(ひつよう)などございませんでしたのに、近頃(ちかごろ)は、三度(さんど)尋(たず)ねても返答(へんとう)がない場合(ばあい)も珍(めずら)しくなくなってまいりました」

「どうやら、狐子(ここ)と会(あ)いたくないようでいて、実(じつ)は会(あ)いたいらしいのだ。二人(ふたり)をなんとかもう一度(いちど)会(あ)わせてみるのが良(よ)いのではなかろうか」と若殿(わかとの)はゆきの顔(かお)を見(み)つめて言(い)いました。

「かしこまりました。今宵(こよい)のお茶席(ちゃせき)には狐子(ここ)ちゃんと家老(かろう)を招(まね)きましょう」と言(い)うと、ゆきは女将(おかみ)にその旨(むね)を伝(つた)えました。

第五十七章(だいごじゅうななしょう)

茶室(ちゃしつ)にて

家老(かろう)がゆきの部屋(へや)の襖(ふすま)を開(あ)けると、狐子(ここ)が座(すわ)っていました。「すみません。部屋(へや)を間違(まちが)えたようです」と、家老(かろう)が言(い)い、そのまま去(さ)ろうとすると、ゆきは家老(かろう)の袂(たもと)を掴(つか)み、「間違(まちが)いではありません」と言(い)って、恥(は)ずかしさで顔(かお)を真(ま)っ赤(か)にしている狐子(ここ)の隣(となり)に座(すわ)らせました。

ゆきはお茶(ちゃ)を点(た)て終(お)えると、「あっ!忘(わす)れていたことがあります。ちょっと待(ま)っていてください」と言(い)って、廊下(ろうか)に出(で)ました。そして、そのまま襖越(ふすまご)しにこっそりと聞(き)き耳(みみ)を立(た)てました。

部屋(へや)に残(のこ)された二人(ふたり)は、居心地(いごこち)が悪(わる)そうにしていました。時々(ときどき)、互(たが)いに相手(あいて)の方(ほう)をちらちらと見(み)ましたが、目(め)が合(あ)うと、すぐさま慌(あわ)てて目(め)を逸(そ)らしました。

しばらくして、二人(ふたり)は同時(どうじ)に「ごめんなさい」と言(い)いました。

家老(かろう)と狐子(ここ)はやっと目線(めせん)が合(あ)いました。「謝(あやま)らないでください!全(すべ)ては私(わたし)のせいです。あなたのことを思(おも)い続(つづ)けてきたというのに」と強(つよ)く言(い)いました。

狐子(ここ)は家老(かろう)を見(み)つめながら手(て)を取(と)りました。「そんなことおっしゃらないでください!あなたのせいではありません。もっと早(はや)く、本当(ほんとう)のことを正直(しょうじき)に申(もう)し上(あ)げていたなら…」と答(こた)えました。

二人(ふたり)はただ黙(だま)って手(て)を取(と)り合(あ)って互(たが)いの目(め)を見(み)つめていました。ほんの僅(わず)かな間(あいだ)のことでしたが、二人(ふたり)にとっては、数時間(すうじかん)のようにも感(かん)じられたのでした。ふいに、襖(ふすま)が開(あ)きました。ゆきがお菓子(かし)を持(も)って戻(もど)ってきました。「お待(ま)たせしてしまいましたね」と、頬(ほお)を赤(あか)く染(そ)めた二人(ふたり)に言(い)いました。

それから二人(ふたり)はお互(たが)いを捜(さが)し求(もと)めていた時(とき)のことについて話(はに)しました。いつ、どこで、どのように手(て)がかりを見(み)つけ、探(さが)し出(だ)そうとしたのかなど、語(かた)り合(あ)いました。

「ある村(むら)で、赤毛(あかげ)の娘(むすめ)が訪(たず)ねて来(こ)なかったか、と言(い)う老婆(ろうば)に出会(であ)ったことがありました。その老婆(ろあば)は、『その娘(むすめ)は誰(だれ)かを捜(さが)しに来(き)たようだったけれど、数日前(すうじつまえ)に出会(であ)ったきりで、どこへ行(い)ったのかは分(わ)からない』、と言(い)いました。その老婆(ろうば)のことを覚(おぼ)えていますか?」

「ええ、覚(おぼ)えています。そのおばあさんの息子(むすこ)が城(しろ)に籠城(ろうじょう)していて、彼(かれ)が自分(じぶん)の故郷(こきょう)に逃(に)げ帰(かえ)ったという噂(うわさ)を聞(き)いたので、その息子(むすこ)というのはあなたかもしれないと思(おね)い訪(たず)ねて行(い)ったのですが、人違(ひとちが)いでした。彼(かれ)は落城(らくじょう)以来(いらい)、あなたを見(み)てはいないと言(い)いました」

そのような会話(かいわ)が夜(よる)遅(おそ)くまで続(つづ)きました。だいぶ夜(よる)が更(ふ)けてから、ようやく、二人(ふたり)は笑顔(えがお)でそれぞれの自室(じしつ)へ下(さ)がりました。

第五十八章(だいごじゅうはっしょう)

琵琶法師(びわほうし)の到着(とうちゃく)

それから家老(かろう)と狐子(ここ)は二人(ふたり)でいることが多(おお)くなりました。一緒(いっしょ)に仲睦(なかむつ)まじく庭(にわ)を歩(ある)いたり共(とも)に食事(しょくじ)をしたりしました。二人(ふたり)はゆきの茶席(ちゃせき)の常連(じょうれん)になりました。時折(ときおり)若殿(わかとの)がその茶席(ちゃせき)の相客(あいきゃく)になることもありました。

しばらくすると、気温(きおん)は冷(ひ)え込(こ)み始(はじ)め、雪(ゆき)が降(ふ)り始(はじ)めました。冬(ふゆ)が訪(おとず)れたのです。

そんな時(とき)、小姓(こしょう)がゆきのところに来(き)て言(い)いました。「ゆき様(さま)、琵琶法師(びわほうし)だと申(なの)す者(もの)がやってきて、ゆき様(さま)にお目通(めどお)りを願(ねが)い出(で)ております。ゆき様(さま)のお噂(うわさ)を耳(みみ)にし、教(おし)えを受(う)けるために急(いそ)ぎ参(まい)ったとのことでございます。いかがいたしましょうか?」

ゆきは頷(うなず)きました。「分(わ)かりました。では、その者(もの)と会(あ)いましょう」とゆきが答(こた)えると、小姓(こしょう)は会釈(えしゃく)をして、去(さ)りました。ゆきは茶席(ちゃせき)の準備(じゅんび)を始(はじ)めながら、「女将(おかみ)さん、殿(との)と狐子(ここ)ちゃんを探(さが)して、こちらにお出(い)でくださるように伝(つた)えてください」と声(こえ)をかけました。

「家老(かろう)はいかがなさいますか」と女将(おかみ)は訊(き)きました。

「家老(かろう)も招待(しょうたい)してください」ゆきそうが言(い)うと、女将(おかみ)は一礼(いちれい)し、立(た)ち去(さ)りました。

しばらくすると、小姓(こしょう)が琵琶(びわ)と大(おお)きな荷物(ほん)を持(も)った男(おとこ)を連(つ)れてきました。男(おとこ)は深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げ、「はじめまして、ゆき様(さま)。私(わたし)はゆき様(さま)について興味深(きょうみぶか)いお噂(うわさ)を耳(みみ)にしたので、それを確(たし)かめたくやって参(まい)りました。ゆき様(さま)は読書(どくしょ)がお好(よ)きだと伺(うかが)いましたので、この本(ほん)を持参(じさん)いたしました。どうぞお納(おさ)めください」

ゆきはお茶(ちゃ)を点(た)てると、法師(ほうし)に向(む)かって言(い)いました。「お茶(ちゃ)をどうぞ。それはいったいどのような本(ほん)ですか」

琵琶法師(びわほうし)は本(ほん)をゆきの前(まえ)に置(お)いて言(い)いました。「日本(にほん)の歴史書(れきししょ)、小説(しょうせつ)そして和歌集(わかしゅう)でございます」と、興味深(きょうみぶか)げに一口(ひとくち)お茶(ちゃ)を口(くち)に含(ふく)みました。「素晴(すば)らしい!京(きょう)でも美味(おい)しいお茶(ちゃ)を数多(かずおお)くいただきました。それにもかかわらず、私(わたし)はゆき様(さま)のお点前(てまえ)に魅(み)せられてしまいました」

ゆきは真(ま)っ赤(か)に頬(ほお)を染(そ)めて、「私(わたし)はお祖母様(ばあさま)から教(おし)えられたことを忠実(ちゅうじつ)に守(まも)っているだけです」と言(い)いました。

「ゆき様(さま)のお祖母(ばあ)様(さま)のお点前(てまえ)の素晴(すばら)しさは国(こく)中(じゅう)で有名(ゆうめい)でございました。もうすぐゆき様(さま)もお祖母様(ばあさま)をしのぐようになられましょう」と琵琶法師(びわほうし)は答(こた)えました。

「失礼(しつれい)ですが、琵琶法師(びわほうし)であるならば、あなたの暮(く)らしが豊(ゆた)かであるとは思(おも)えません。そのような方(かた)から、このような高価(こうか)な贈(おく)り物(もの)をいただくわけには参(まい)りません」

「それでは、この本(ほん)をお譲(ゆず)りする代(か)わりに、この冬(ふゆ)の間(あいだ)こちらに居候(いそうろう)させていただき、ゆき様(さま)のことを学(まな)ばせていただくというのはどうでしょうか?」と琵琶法師(びわほうし)は提案(ていあん)しました。

ゆきの微笑(ほほえ)みました。「それはいい考(かんが)えですね。もちろん承知(しょうち)いたしました。それならば、この本(ほん)をいただく代(か)わりにあなたが春(はる)になるまでここで過(す)ごすことができるように取(と)り計(はか)らいましょう。しかし私(わたし)の一存(いちぞん)では決(き)めかねますので、殿(との)のお許(ゆる)しをいただかなければなりません」と言(い)うと、また茶(ちゃ)を点(た)てて、琵琶法師(びわほうし)に振(ふ)る舞(ま)いました。

ちょうどその時(とき)、家老(かろう)が狐子(ここ)と一緒(いっしょ)に部屋(へや)に入(はい)ってきました。「この琵琶法師(びわほうし)は私(わたし)のことをよく知(し)りたいとおっしゃってこちらにいらっしゃったのです。琵琶法師(びわほうし)さん、こちらはこの城(しろ)の家老(かろう)と私(わたし)の親戚(しんせき)の狐子(ここ)ちゃんです。殿(との)のお許(ゆる)しが出(で)れば、琵琶法師(びわほうし)さんは冬(ふゆ)の間(あいだ)こちらに滞在(たいざい)することになります。私(わたし)の幼(おさな)い頃(ころ)のことについては、二人(ふたり)の方(ほう)が私(わたし)より詳(くわ)しく知(じゅくち)っています」とゆきが言(い)うと、琵琶法師(びわほうし)は眉(まゆ)をひそめました。「親戚(しんせき)とおっしゃいましたか。ゆき様(さま)は赤毛(あかげ)のお嬢様(じょうさま)と仲(なか)がよろしいという話(はなし)を耳(みみ)にいたしましたが、その者(もの)がゆき様(さま)の親戚(しんせき)という話(はなし)を聞(き)いたことはございません。ゆき様(さま)にはご存命(ぞんめい)の肉親(にくしん)の方(かた)はいないと伺(うかが)っております。それに、狐子(ここ)様(さま)はゆき様(さま)と同(おな)じお年頃(としごろ)とお見受(みう)けしますが…。どうしてゆき様(ざま)の幼(おさな)い頃(ころ)のことをご存知(ぞんじ)なのでございますか」と言(い)い終(お)わると狐子(ここ)の方(ほう)へ会釈(えしゃく)しました。

しかし、狐子(ここ)は静(しず)かに立(た)ったままで、琵琶法師(びわほうし)の方(ほう)を見(み)つめました。彼女(かのじょ)の顔(かお)は一瞬(いっしゅん)青(あお)ざめてから、火(ひ)が点(つ)いたように真(ま)っ赤(か)になりました。ついに、腕(うで)を上(あ)げて琵琶法師(びわほうし)を指差(ゆびさ)しました。「雄狐(おぎつね)め!なんでここに来(き)たの?父(ちち)が私(わたし)の尻尾(しっぽ)の匂(にお)いを嗅(か)がせるために送(おく)ったの?人間(にんげん)の姿(すがた)をしているくせに、匂(にお)いを消(け)すのを忘(わす)れているよ!」

狐子(ここ)がそう乱暴(らんぼう)に言(い)い放(はな)つと、皆(みな)は彼女(かのじょ)を見(み)つめました。それから少(すこ)し間(あいだ)があり、琵琶法師(びわほうし)は声(こえ)を出(だ)しました。「それは誤解(ごかい)でございます。私(わたし)は本当(ほんとう)に、狐子(ここ)様(さま)のお父上(ちちうえ)を存(ぞん)じません。家族(かぞく)が妖怪(ようかい)に殺(ころ)された後(あと)で、十五(じゅうご)年(ねん)ほどこの姿(すがた)をして独(ひと)りで人間(にんげん)の世界(せかい)を流(なが)れ歩(ある)いておりました。ですが、ゆき様(さま)は狐(きつね)と何(なん)らかの関係(かんけい)があることを耳(みみ)にしたので、こちらに向(む)かおうと決(き)めました」

琵琶法師(びわほうし)がそう言(い)うと、狐子(ここ)は恥(は)ずかしそうに少(うこ)し顔(かお)を赤(あか)らめて、口(くち)を手(て)で覆(おお)いました。それから何回(なんかい)も深(ふか)く会釈(えしゃく)をしました。「ごめんなさいごめんなさい本当(ほんとう)にごめんなさい!父(ちち)は私(わたし)の考(かんが)えを無視(むし)して、狐(きつね)と結婚(けっこん)するようにしつこく言(い)い始(はじ)めましたので、それでてっきり…、申(もう)し訳(わけ)ありません!」と言(い)って襖(ふすま)に向(む)かって走(はし)り出(だ)そうとしたその時(とき)、若殿(わかとの)がちょうどそこに立(た)ってました。「おいおい、どうしたんだ?廊下(ろうか)の奥(おく)からでも狐子(ここ)の大声(おおごえ)がはっきり聞(き)こえたぞ」と言(い)いました。

若殿(わかとの)に状況(じょうきょう)を説明(せつめい)しているうちに狐子(ここ)も落(お)ち着(つ)きを取(と)り戻(もど)しました。若殿(わかとの)は笑(え)みを浮(う)かべながら、「やれやれ、もう一匹(いっぴき)狐(きつね)がここに住(す)むことになりそうだな。いっそこの城(しろ)を狐城(こじょう)と呼(よ)んだ方(ほう)がいいかな」と言(い)うと、琵琶法師(びわほうし)の方(ほう)を向(む)きました。「琵琶(びわ)を弾(ひ)くというのだな。そなたの逗留(とうりゅう)を許可(きょか)する前(まえ)に、手並(てな)みを披露(ひろう)せよ」と命(めい)じ ました。

琵琶法師(びわほうし)は深(ふか)くお辞儀(じぎ)をし、琵琶(びわ)を手(て)に取(と)り、弾(ひ)き歌(うた)い始(はじ)めました。古(ふる)い歌(うた)や新(あたら)しい歌(うた)、有名(ゆうめい)な歌(うた)や聞(き)き手(て)が知(し)らない歌(うた)、色恋(いろこい)や戦(いくさ)についての歌(うた)まで、色々(いろいろ)詠(うた)いました。その間(あいだ)、部屋(へや)の外(そと)の廊下(ろうか)には、次第(しだい)に人(ひと)が集(あつ)まり、皆(みな)耳(みみ)を傾(かたむ)けていました。彼(かれ)が歌(うた)をやめると、黙(だま)って聞(き)いていた聴衆(ちょうしゅう)は皆(みな)ぱちぱちと手(て)を叩(たた)き始(はじ)めました。

割(わ)れんばかりの拍手(はくしゅ)がようやく収(おさ)まると、若殿(わかとの)は声(こえ)を出(だ)しました。「居候(いそうろう)としてこの城(しろ)に滞在(たいざい)するのではなく、我(わ)が城(しろ)に仕(つか)えてみないか。ここにいる間(あいだ)は、俸給(ほうきゅう)を与(あた)える。それほど見事(みごと)な腕前(うでまえ)であれば、どの国(くに)の主(あるじ)もそなたを召(め)し抱(かか)えたいと思(おも)うであろうな。どうしてまだ渡(わた)り歩(ある)いている?住(す)む場所(ばしょ)を探(さが)しているのか?」

琵琶法師(びわほうし)は溜(た)め息(いき)をつきました。「実(じつ)は、狐(きつね)の世界(せかい)に戻(もど)りたいのに、どこの部族(ぶぞく)も自分(じぶん)のようなどこの誰(だれ)とも知(し)れぬ狐(きつね)は置(お)いてはくれないのでございます。それに、猫(ねこ)や犬(いぬ)なども私(わたし)のことが好(す)きではなく、また人間(にんげん)も私(わたし)の近(ちか)くに来(き)ると必(かなら)ずそわそわして立(た)ち去(さ)ろうとします。狐子(ここ)様(さま)の言(い)う通(とお)り、匂(にお)いの問題(もんだい)でございましょう。どうか狐子(ここ)様(さま)、匂(にお)いを変(か)える方法(ほうほう)を教(おし)えてくださいませんか?」と言(い)うと、狐子(ここ)は「もちろん」と言(い)って、琵琶法師(びわほうし)の手(て)を取(と)って部屋(へや)の隅(すみ)に引(ひ)っ張(は)って行(い)きました。そこで二人(ふたり)は座(すわ)ったまま静(しず)かな声(こえ)で話(はな)し合(あ)いました。一方(いっぽう)、家老(かろう)は二人(ふたり)の方(ほう)を見(み)つめました。

「おい、家老(かろう)、どうした?何(なに)か気(き)になることがあるのか?」声(こえ)をかけたのは若殿(わかとの)でした。

「そうですね、殿(との)、ただ…矢(や)が胸(むね)に刺(さ)さったような感(かん)じがしました。あの者(もの)は見事(みごと)な琵琶(びわ)の弾(ひ)き手(て)ですし、なんといっても狐子(ここ)さんと同(おな)じ狐(きつね)でございます。…いったいどうやって競(きそ)えば良(よ)いのかと考(かんが)えております。それに、二十数(にじゅうすう)年(ねん)後(のち)には、私(わたし)は死(し)んでいるでしょうが、二人(ふたり)はまだ若(わか)いに違(ちが)いありません」

若殿(わかとの)は家老(かろう)の肩(かた)を叩(たた)きました。「案(あん)ずるな!琵琶法師(びわほうし)というのは普通(ふつう)は女性(じょせい)には興味(きょうみ)など持(も)たないからな。お前(まえ)の性格(せいかく)がいいから、彼女(かのじょ)はお前(まえ)のことを気(き)に入(い)ったのだろう。それに、そなたは彼女(かのじょ)の人(ひと)を助(たす)けるのが好(す)きなところに惹(ひ)かれたのではないのか?今回(こんかい)もそういうことの延長(えんちょう)だろう。案(あん)ずる必要(ひつよう)はない」と言(い)って立(た)ち去(さ)りました。

それでも、家老(かろう)は「だが、心配(しんぱい)だ。私(わたし)は彼(かれ)を妬(ねた)んでいる。どうにかしてその考(かんが)えを心(こころ)から消(け)そうとしても、できるものではない」と呟(つぶや)きました。

「家老(かろう)さん、お茶(ちゃ)をどうぞ」とゆきは家老(かろう)の独(ひと)り思案(しあん)に割込(わりこ)みました。

「あっ、ありがとうございます」と家老(かろう)は言(い)って、ようやく視線(しせん)を隅(すみ)にいる狐子達(ここたち)から離(はな)すことができました。

第五十九章(だいごじゅうきゅうしょう)

冬(ふゆ)の活動(かつどう)

それから毎晩(まいばん)、琵琶法師(びわほうし)はゆきの茶席(ちゃせき)で歌(うた)いました。以前(いぜん)にも増(ま)して、ゆきの茶席(ちゃせき)は人気(にんき)となりました。茶室(ちゃしつ)の外(そと)は琵琶法師(びわほうし)の歌(うた)を聴(き)こうと群(むら)がって来(き)た招待(しょうたい)にあぶれた者(もの)たちで溢(あふ)れ返(かえ)るようになりました。

しかし、若殿(わかとの)はそのような光景(こうけい)を好(この)ましく思(おも)いませんでした。「廊下(ろうか)は渡(わた)るためのものだ。お前(まえ)の茶席(ちゃせき)を食堂(しょくどう)に移(うつ)した方(ほう)がいいだろう」とゆきに言(い)いました。

そこで、その後(ご)の茶席(ちゃせき)は城(しろ)の食堂(しょくどう)で催(もよお)されるようになりました。夕飯(ゆうげ)が済(す)んだ後(あと)、ゆきはその晩(ばん)の客(きゃく)を高座(こうざ)に呼(よ)んで、お点前(てまえ)を披露(ひろう)しました。一方(いっぽう)、琵琶法師(びわほうし)は琵琶(びわ)を弾(ひ)いて歌(うた)い始(はじ)めました。時々(ときどき)席(せき)を立(た)って、歌(うた)いながら食堂(しょくどう)を渡(わた)り歩(ある)きました。

琵琶法師(びわほうし)は、日中(にっちゅう)はゆきや狐子達(ここたち)に会(あ)い、ゆきについて質問(しつもん)をし、相手(あいて)の返答(へんとう)を紙(かみ)に書(か)きとめました。その日(ひ)の質問(しつもん)が終(お)わると、たいてい自分(じぶん)の部屋(へや)に戻(もど)り、その日(ひ)に得(え)た話(はなし)について考(かんが)えてみたり、以前(いぜん)の話(きろく)と比(くら)べてみたり、次(つぎ)の日(ひ)の質問(しつもん)を考(かんが)えたりしました。ただ、話(はな)し相手(あいて)が狐子(ここ)の場合(ばあい)は、時々(ときどき) 一緒(いっしょ)にしばらく残(のこ)り、狐子(ここ)の家族(かぞく)の話(はなし)をしましたが、そのことは書(か)き留(と)めませんでした。しばらくすると、琵琶法師(びわほうし)と狐子(ここ)は、お互(たが)い相手(あいて)の知(し)らないまじないを使(つか)えると知(し)って、教(おし)え合(あ)いました。

琵琶法師(びわほうし)は何度(なんど)か家老(かろう)に会(あ)ってくれるように頼(たの)みましたが、家老(かろう)はいつも会(あ)うことを拒(こば)みました。家老(かろう)は茶席(ちゃせき)も避(さ)けていましたが、狐子(ここ)が頼(たの)むと、しぶしぶ参加(さんか)しました。

琵琶法師(びわほうし)の腕前(うでまえ)の噂(うわさ)を聞(き)いて、茶席(ちゃせき)に招待(しょうたい)してほしいという請願書(せいがんしょ)を書(か)く町人達(まちびとたち)が日(ひ)に日(ひ)に増(ふ)えていきました。請願書(せいがんしょ)の数(かず)を見(み)た若殿(わかとの)は、「そんな大勢(おおぜい)を食堂(しょくどう)に入(い)れるのは無理(むり)だろう。でも、ある程度(ていど)人数(ひとかず)をしぼることができるのなら招待(しょうたい)しても良(よ)かろう」と、決(き)められた人数(にんずう)の者(もの)を招待(しょうたい)することを許(ゆる)しました。それ以来(いらい)、毎日(まいにち)、請願書(せいがんしょ)を書(か)いた者(もの)の中(なか)から、決(き)められた人数(にんずう)だけ抽選(ちゅうせん)で選(えら)ばれて招待(しょうたい)されるようになりました。招待客(しょうたいきゃく)として選(えら)ばれた者(もの)は、雪(ゆき)が降(ふ)り積(つ)もろうと冷(つめ)たい風(かぜ)が吹(ふ)こうと、必(かなら)ずゆきの茶会(ちゃかい)へ現(あらわ)れるのでした。

第六十章(だいろくじっしょう)

狐(きつね)の到着(とうちゃく)

ある日(ひ)、狐子(ここ)が茶席(ちゃせき)の後(あと)で大広間(おおひろま)を出(で)ようとすると、彼女(かのじょ)の前(まえ)に一匹(いっびき)の狐(きつね)がいました。狐子(ここ)は一瞬(いっしゅん)呆然(ぼうぜん)として狐(きつね)を見(み)つめてから、「父(とう)さん!どうしてここにいるの?」と聞(き)きました。

「お前(まえ)の決心(けっしん)をずっと待(ま)っていたのだ。狐子(ここ)や、どの狐(きつね)と結婚(けっこん)するのだ?」と狐(きつね)が言(い)うと、狐子(ここ)は「ええと、実(じつ)は…」と言(い)いよどみました。そして、狐子(ここ)の横(よこ)に家老(かろう)が現(あらわ)れました。「狐様(きつねさま)、はじめまして。昔(むかし)からお嬢様(じょうさま)のことをお慕(した)いしておりました。狐子様(ここさま)と結婚(けっこん)させていただければ、大変(たいへん)嬉(うれ)しいのですが」と深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げながら言(い)いました。

狐(きつね)は首(くび)を横(よこ)に傾(かたむ)けました。「人間(にんげん)なのだな?やはり、この子(こ)は、いつも人間(にんげん)ばかりに関心(かんしん)が向(む)いている」と呟(つぶや)いた時(とき)、狐子(ここ)の向(む)かい側(がわ)に琵琶法師(びわほうし)が現(あらわ)れました。「あなた様(さま)は狐子様(ここさま)のお父上(ちちうえ)なのでございますか?お嬢様(じょうさま)は本当(ほんとう)に気立(きだ)ての良(よ)い方(かた)でございますね」と深(ふか)く頭(あたま)を下(あたま)げました。

家老(かろう)は狐子(ここ)の頭越(あたまご)しに琵琶法師(びわほうし)を睨(にら)みつけましたが、琵琶法師(びわほうし)は気(き)がつかないようでした。狐子(ここ)は困(こま)った顔(かお)をして左右(さゆう)を見(み)ました。

「やれやれ、もう一人(ひとり)も人間(にんげん)か?いや、人間(にんげん)じゃないな。狐(きつね)の呪(まじな)いの跡(あと)を感(かん)じる」と呟(つぶや)いてから、三人(さんにん)に向(む)かって言(い)いました。「三人(さんにん)とも、人(ひと)ごみから離(はな)れよう」と言(い)って、尾(お)を振(ふ)りながら大広間(おおひろま)に入(はい)って、三人(さんにん)を高座(こうざ)の方(ほう)へ連(つ)れていきました。

大広間(おおひろま)を出(で)ようとしていた者(もの)たちがそれに気(き)づき、立(た)ち止(と)まって呆然(ぼうぜん)と狐(きつね)たちを見(み)つめました。そのうちにこのような会話(かいわ)が聞(き)こえました。

「狐(きつね)が!」

「妖怪(ようかい)が!」

「馬鹿(ばか)!狐(きつね)は妖怪(ようかい)じゃない!殿様(とのさま)の味方(みかた)にも、妖怪(ようかい)に対(たい)して戦(たたか)う狐(きつね)がいるではないか!」

「なるほど」

ゆきと若殿(わかとの)はまだ高座(こうざ)にいました。ゆきは狐(きつね)を見(み)ると、「狐(きつね)どの─いや、狐叔父上(きつねおじうえ)、久(ひさ)しぶりですね。どうしてこんな天気(てんき)が悪(わる)い時(とき)に来(こ)ようと決(き)めたのですか」と言(い)って、お茶(ちゃ)を点(た)てて、狐(きつね)に振舞(ふるま)いました。

狐(きつね)はお茶(ちゃ)を飲(の)みながら狐子(ここ)の方(ほう)を見(み)ました。「この子(こ)はあの話(はなし)をしましたか?」

狐子(ここ)は父親(ちちおや)を見(み)ました。「私(わたし)はもう子供(こども)じゃないのよ!」と言(い)ってから、顔(かお)を真(ま)っ赤(か)にして、目(め)を伏(ふ)せました。「とにかく、伯母上(おばうえ)が許(ゆる)してくれた」と呟(つぶや)きました。

狐(きつね)は首(くび)を横(よこ)に傾(かたむ)けました。「そうか?なるほど。おそらく姉(あね)はようやく喪(き)が明(あ)けたのだな。姉(あね)と会(あ)った方(ほう)がいいだろう」と言(い)うと、家老(かろう)の方(ほう)を見(み)ました。「あなたはこの国(くに)の家老(かろう)なのですね。昔(むかし)から娘(むすめ)のことが好(す)きだと言(い)っていた方(ほう)ですね。狐子(ここ)と出会(であ)ったきっかけをうかが(うかが)ってもいいですか?」と尋(たず)ねました。

「少年(しょうねん)の頃(ころ)、まだ城(しろ)の廊下(ろうか)を歩(ある)いている時(とき)でございました。その頃(ころ)、時折(ときおり)父上(ちちうえ)と思(おも)われる男性(だんせい)と一緒(いっしょ)に城(しろ)に来(き)ている赤毛(あかげ)の女(おんな)の子(こ)がいたことが気付(きづ)きました。そのお訪(たず)ねのことですが、なぜか緩(ゆる)んだ床(ゆか)の板(いた)に私(わたし)が躓(つまず)いて転(ころ)んでしまって時(とき)、あの赤毛(あかげ)の娘(むすめ)は立(た)ち上(あ)がることを手伝(てつだ)ってくれいました。でも、籠城(ろうじょう)している時(とき)まで、赤毛(あかげ)の娘(むすめ)のお訪(たず)ねは短(みじ)こうございましたし、次(つぎ)のお訪(たず)ねまで数ヶ月(すうかげつ)がかかりましたので、親(した)しくなる機会(きかい)はあまりございませんでした。その頃(ころ)、狐子様(ここさま)はいつも他人(たにん)を助(たす)けようとしているようでしたので、好意(こうい)を持(も)ったのでございます。落城(らくじょう)の際(さい)、私(わたし)は狐子様(ここさま)とは離(はな)ればなれになってしまって、ゆき様(さま)が帰(かえ)ってくるまでお会(あ)いすることができませんでした」

家老(かろう)がそう言(い)った時(とき)、狐(きつね)は人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)けました。そして、「その赤毛(あかげ)の女(おんな)の子(こ)が一緒(いっしょ)にいた男(おとこ)というのは、このようでしたか」と問(と)いました。

家老(かろう)は首(まゆ)を捻(ひね)りました。「そうですね。十五年(じゅうごねん)以上(いじょう)も前(まえ)のことなので、よく覚(おぼ)えていませんが…多分(たぶん)、そうだと思(おも)います」

まだ大広間(おおひろま)に残(のこ)っていた人々(ひとびと)は、それを見(み)てこう囁(ささや)きました。

「あれを見(み)た?」

「見(み)た、見(み)た!狐(きつね)が人間(にんげん)に化(ば)けた!」

「狐子様(ここさま)が狐(きつね)に化(ば)けたという噂(うわさ)を聞(き)いたが、この目(め)で見(み)るまで信(しん)じられなかったよ!」

それを聞(き)くと、若殿(わかとの)は、「ここは人目(ひとめ)が多(おお)いので、私(わたし)の部屋(へや)に行(い)きましょう」と言(い)うと、狐(きつね)たちを連(つ)れて大広間(おおひろま)から出(で)て行(い)きました。

第六十一章(だいろくじゅういっしょう)

琵琶法師(びわほうし)の話(はなし)

部屋(へや)に入(はい)ってから、若殿(わかとの)は声(こえ)を上(あ)げました。「狐(きつね)どの、狐子(ここ)さんはいつでもここにいるのに、どうしてこのような吹雪(ふぶき)の晩(ばん)まで待(ま)ったのですか」

「私(わたし)ども狐(きつね)にとって、行(い)きたい場所(ばしょ)があれば、悪天候(あくてんこう)など問題(もんだい)にはならぬのです。この子(こ)の決心(けっしん)を待(ま)っているのは私(わたし)だけではありません。娘(むすめ)を紹介(しょうかい)した狐(きつね)たちや、その者達(ものたち)の族長達(ぞくちょうたち)も待(ま)っているのです。『狐子(ここ)はいつ、誰(だれ)と結婚(けっこん)するか』としつこく尋(たず)ねる周(まわ)りの声(こえ)に負(ま)けて、娘(むすめ)の思(おも)いを尋(たず)ねようとやってきたのです」と言(い)うと狐(きつね)は、狐子(ここ)の方(ほう)を見(み)ました。「お前(まえ)、誰(だれ)か心(こころ)に決(き)めた相手(あいて)でもいるのか?」

狐子(ここ)は溜息(ためいき)をつきました。「まだ分(わ)からない」と彼女(かのじょ)が言(い)うと、家老(かろう)は顔(かお)を伏(ふ)せました。「でも、あんな、人間(にんげん)に興味(きょうみ)がない狐達(きつねたち)なんかと結婚(けっこん)したくない」

狐(きつね)は頷(うなず)きました。「なるほど。ではこちらの、お前(まえ)と結婚(けっこん)したいと言(い)うこの人間(にんげん)のことはどうなのだ?」

狐子(ここ)は家老(かろう)の方(ほう)を見(み)ました。「そうね。この方(かた)と結婚(けっこん)したいと思(おも)っていましたが、伯母上(おばうえ)のことを思(おも)い出(だ)すと、少(すこ)し不安(ふあん)になってしまいます」狐子(ここ)は琵琶法師(びわほうし)の方(ほう)を振(ふ)り返(かえ)りました。「この琵琶法師(びわほうし)は人間(にんげん)のことをよく知(し)っているでしょうけど…そんな天涯孤独(てんがいこどく)の狐(きつね)なんかと結婚(けっこん)したいかどうか迷(まよ)ってしまうし…」

家老(かろう)は肩(かた)を落(お)としました。「私(わたし)が何年(なんねん)も夢(やめ)見(み)て、ようやく叶(かな)うと思(おも)ったのに、全(すべ)ては幻(まぼろし)だったのか。二年(にねん)も捜(さが)し回(まわ)って、その後(あと)も十数年(じゅうすうねん)待(ま)ちに待(ま)った相手(あいて)にやっと再会(さいかい)できたと思(おも)ったら、よりによって彼女(かのじょ)を不安(ふあん)にさせることになってしまったとは。諦(あきら)めた方(ほう)がいいようですね」と家老(かろう)は言(い)って、立(た)ち去(さ)ろうとすると、狐子(ここ)は彼(かれ)の手(て)を掴(つか)んで引(ひ)き止(と)めました。狐子(ここ)は「ごめんなさい!そんなつもりじゃなかったんです」と言(い)いました。そして家老(かろう)を隅(すみ)に連(つ)れて行(い)くと、二人(ふたり)は声(こえ)を潜(ひそ)めて話(はな)し出(だ)しました。

狐(きつね)はその光景(こうけい)を見(み)ると、「娘(むすめ)は決(き)められないと言(い)ったが心(こころ)の中(なか)では、どうしたいかが決(き)まっているようだな」と呟(つぶや)きました。琵琶法師(びわほうし)の方(ほう)へ向(む)かい、「いつも人間(にんげん)の姿(すがた)をしている狐(きつね)は珍(めずら)しい。娘(むすめ)がそういうことをするのは伯母(おば)の影響(えいきょう)だよ。お前(まえ)は、どうして人間(にんげん)の姿(すがた)をして人里(にんざと)に住(す)み続(つづ)けているのだ?」と尋(たずね)ねました。

「私(わたし)は望(のぞ)んでこのような姿(すがた)をしているわけではないのでございます。ただ、そうせざるを得(え)ないのでございます。ある日(ひ)、私(わたし)が幼(おさな)いころ、独(ひと)りで林(はやし)で遊(あそ)んだのちうちへ帰(かえ)ると住(す)みかに天狗(てんぐ)が群(む)れて集(あつ)まっていました。古木(こぼく)の穴(あな)に隠(かく)れて、天狗(てんぐ)がいなくなるのを待(ま)ちました。それから私(わたし)が住(す)みかに恐(おそ)る恐(おそ)る近付(ちかづ)くと、そこにあったのは倒(たお)れた家族(かぞく)の姿(すがた)だけでした。父(ちち)も母(はは)も兄弟(きょうだい)も皆(みな)殺(ころ)されてしまったのでございます」

「恐(おそろ)しくてその場(ば)を逃(おそろ)げ出(だ)し、後(うし)ろも振(ふ)り返(かえ)らずに一目散(いちもくさん)に林(はやし)を走(はし)り抜(ぬ)けました。しばらくすると、疲(つか)れてお腹(なか)が空(あ)いてきて、人里(ひとざと)の道(みち)の傍(かたわ)らに横(よこ)たわりました。そうしているうちに、歌(うた)が聞(き)こえてきました。ぼんやりとしながら、ふと見(み)上(あ)げると、人間(にんげん)の老人(ろうじん)が歌(うた)いながら近付(ちかづ)いてくるのが見(み)えました。老人(ろうじん)は私(わたし)の側(そば)に来(く)ると、歌(うた)うのを止(と)めて、『神様(かみさま)に届(とど)きますように』と、乾(ほ)し肉(にく)を道端(みちばた)に置(お)きました。そしてまた歌(うた)いながら歩(ある)いていきました。私(わたし)は肉(にく)を食(た)べてから老人(ろうじん)の後(あと)をついていきました」

「その晩(ばん)、老人(ろうじん)は町(まち)に着(つ)くと、建物(たてもの)に入(はい)りました。私(わたし)は路地(ろじ)に隠(かく)れて待(ま)ちました。次(つぎ)の朝(あさ)、老人(ろうじん)が建物(たてもの)を出(で)て旅(たび)を続(つづ)けると、私(わたし)は、またついていきました。陽(ひ)が高(たか)くなると、彼(かれ)は道端(みちばた)で持(も)っていた包(つつ)みを広(ひろ)げて、食(た)べ物(もの)の一部(いちぶ)を地面(じめん)に置(お)いて祈(いの)りを捧(ささ)げてから、食事(しょくじ)を始(はじ)めるのでした」

「そのようなことが数日間(すうじつかん)続(つづ)きました。ついに、姿(すがた)を変(か)えるまじないを覚(おぼ)えてから、私(わたし)は勇気(ゆうき)をふりしぼり、老人(ろうじん)が昼食(ちゅうしょく)をとっている時(とき)に人間(にんげん)の少年(しょうねん)の姿(すがた)に化(ば)けて、老人(ろうじん)に近付(ちかづ)いていきました」

「『小狐(こぎつね)さま、こんにちは。これは粗末(そまつ)なものですが、もしよろしければどうぞ』と、老人(ろうじん)は弁当(べんとう)を私(わたし)の前(まえ)に差(さ)し出(だ)しました」

簡単(かんたん)に正体(しょうたい)が見破(みやぶ)られたのでしばらく呆然(ぼうぜか)とその場(ば)に立(た)ち竦(すく)んでおりました。そして、尻尾(しっぽ)でもしまい忘(わす)れたかと背中(せなか)を触(さわ)ったり、髭(ひげ)でもあるかと顔(かおろ)を撫(なで)てみたりしました。そして、やっと我(われ)に返(かえ)り、声(こえ)を上(あ)げました。『へえ?じいさん、どうして僕(ぼく)を「小狐(こぎつね)」なんて呼(よ)ぶの?ちゃんと人間(にんげん)の子(こ)の姿(すがた)をしてるだろう?』」

老人(ろうじん)は静(とず)かに笑(わら)いました。『小狐(こぎつね)さま、わしは山(やま)のように年(とし)をとってはおりますが、この耳(みみ)と目(め)はまだそれほど衰(おとろ)えてはおらんのですよ。それに、これほど長(なが)く世(よ)の中(なか)を見(み)て回(まわ)っておりますと、もちろん不思議(ふしぎ)な経験(けいけん)をすることは山(やま)ほどありますのじゃ。小狐(こぎつね)が毎日毎日(まいにちまいにち)ふわふわと後(あと)をついてきていたと思(おも)ったら、突然(とつぜん)落(お)ち葉(ば)の中(なか)から降(ふ)って湧(わ)いたように男(おとこ)の子(こ)が現(あらわ)れたのですから、あなたが小狐(こぎつね)さまだと分(わ)かるのは訳(わけ)ないことでございます』」

「『なんにしろ、僕(ぼく)に「さま」なんてつけないでおくれよ。僕(ぼく)は特別(とくべつ)に偉(えら)い狐(きつね)なんかじゃなくて、平凡(へいぼん)な奴(やつ)だよ』と言(い)うと、老人(ろうじん)の隣(となり)に腰(こし)を下(お)ろし、貪(むさぼ)るように食(た)べ始(はじ)めました。それからは、老人(ろうじん)はいつも私(わたし)のことを『平凡(へいぼん)』と呼(よ)びました」

「数年間(すうねんかん)私(わたし)はその琵琶法師(びわほうし)の老人(ろうじん)と共(とも)にあちこちを渡(わた)り歩(ある)き、老人(ろうじん)はまるで私(わたし)が弟子(でし)ででもあるかのように琵琶(びわ)などの楽器(がっき)の弾(ひ)き方(かた)や様々(さまざま)な歌(うた)を教(おし)えてくれました。でも、ある日(ひ)、道(みち)を歩(ある)いていると彼(かれ)は胸(むね)を押(お)さえて、そのまま倒(たお)れこんでしまいました。私(わたし)は助(たす)けたいと思(おも)いましたが、何(なに)もできませんでした。『平凡(へいぼん)や、お前(まえ)は子供(こども)のないわしにとって息子(むすこ)のような者(こ)だ。別(わか)れるのは辛(つら)いが、わしがこの世(よ)を去(さ)る時(とき)が来(き)たようじゃ。わしは全(すべ)てをお前(まえ)に遺(のこ)す。達者(たっしゃ)でな』とそう言(い)い残(のこ)すと、私(わたし)の腕(うで)の中(なか)で息(いき)を引(ひ)き取(と)りました。私(わたし)の師匠(ししょう)―いや、私(わたし)の唯一(ゆいいつ)の友達(ともだち)―はこうして亡(な)くなってしまったのでございます」

「道端(みちばた)の咲(さ)き乱(みだ)れる野(の)の花(はな)の中(なか)に彼(かれ)を葬(ほうむ)りました。それから私(わたし)は少年(しょうねん)の姿(すがた)をやめ、若者(わかもの)に化(ば)けて、放浪(ほうろう)の旅(たび)を続(つづ)けました。その旅(たび)は連(つ)れ合(あ)いもなく、寂(さび)しいものでしたので、だんだん狐(ひつね)と棲(す)んでいた頃(ごろ)を懐(なつ)かむようになりました。それで、狐(ひつね)の住処(すみか)があるという噂(うわさ)を求(もと)め、訪(たず)ね歩(ある)くようになりました」

「時折(ときおり)、そういう噂(うわさ)を辿(たど)っていくと、狐(きつね)の住処(すみか)を見(み)つけることがありました。でも、せっかく訪(たず)ねていっても、『お前(まえ)のような、尻尾(しっぽ)が一本(いっぽん)しかない、人間(にんげん)被(かぶ)れした、どこの馬(うま)の骨(ほね)とも分(わ)からぬ奴(やつ)には用(い)はない。出(で)ていけ!』とすげなく追(お)い返(かえ)されるのが常(つね)でした。それから、人間(にんげん)の世界(せかい)に戻(もど)って、琵琶法師(びわほうし)として国(くに)から国(くに)へ、城(しろ)から城(しろ)へ、宿(やど)から宿(やど)へと次(つぎ)の噂(うわさ)を求(もと)めて歩(ある)き続(つづ)けました」

「ようやく、今年(ことし)の秋(あき)、狐(きつね)と関係(かんけい)を持(も)つ国(くに)の新(あたら)しい大名(だいみょう)についての噂(うわさ)を聞(き)きました。その国(くに)の近郊(きんこう)で噂(うわさ)を調(しら)べると、大名(だいみょう)よりゆき様(さま)という大名(だいみょう)の奥方(おくがた)が狐(きつね)と関係(かんけい)が深(ふか)いようでした。それに、ゆき様(さま)についての面白(おもしろ)い噂(うわさ)を山(やま)のように聞(き)きました」

「こちらに着(つ)くと、以前(いぜん)に訪(たず)ねた所(ところ)より優(やさ)しく扱(あつか)われました。特(とく)に驚(おどろ)いたことは、他(ほか)にも人間(にんげん)の姿(すがた)をしている狐(きつね)がこちらに住(す)んでいるということでした。よろしくお願(ねが)いします」と突然(とつぜん)言(い)うと琵琶法師(びよほうし)は、狐(きつね)の方(ほう)へ向(む)かって深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げました。

狐(きつね)は首(くび)を傾(かたむ)げました。「まだ尻尾(しっぽ)が一本(いっぽん)しかないと?お前(まえ)、渡(わた)り歩(ある)きながら、何(なに)のまじないも習(なら)わなかったのか?」

「まじないなどを教(おし)えてくれる者(もの)はいなかったのです。でも時折(ときおり)自分(じぶん)で練習(れんちゅう)しているうちに、ごく簡単(かんたん)なまじないだけは出来(でき)るようになりました。最近(さいきん)では、狐子(ここ)さんが教(おし)えてくださいます」と琵琶法師(びわほうし)は言(い)って、狐子(ここ)の方(ほう)を見(み)ました。

「そうか」狐(きつね)の目(む)は琵琶法師(びわほうし)の視線(しせん)を辿(たど)って狐子(ここ)の方(ほう)を向(む)きました。「狐子(ここ)や、ここに来(き)なさい」と言(い)うと、狐子(ここ)は「はい、父(とう)さん」と言(い)い、飛(と)び上(あ)がって狐(きつね)のところに来(き)ました。家老(かろう)は狐子(ここ)の後(あと)に付(つ)いて行(い)きました。

「本当(ほんとう)にこの者(もの)にまじないを教(おし)えているのか?」と狐(きつね)は訊(き)くと、狐子(ここ)は頷(うなず)きました。「そうです、お父様(とうさま)。その代(か)わりに、私(わたし)が知(し)らなかったまじないを教(おし)えてくれるのよ」と答(こた)えました。「簡単(かんたん)なまじないでも、とても便利(べんり)なの」

狐(きつね)は軽(かる)く頷(うなず)きました。「そうか。よし、今度(こんど)我(わ)が住処(すみか)でお前(まえ)の実力(じつりょく)を試(ため)してみよう。そうすれば、お前(まえ)が何本(なんぼん)の尻尾(しっぽ)に値(あたい)するか分(わ)かるだろう」

「ありがとうございます。でも、それは自分(じぶん)で決(き)められることではございません。なぜなら春(はる)までこちらの殿様(とのさま)にご奉公(ほうこう)いたすことになっておりますので、勝手(かって)にお暇(いとま)することはできませんので」と琵琶法師(びわほうし)は言(い)って、若殿(わかとの)に目(め)をやりました。

「やれやれ」と狐(きつね)は呟(つぶや)いてから、若殿(わかとの)の方(ほう)を向(む)きました。「では、若殿(わかとの)、この琵琶法師(びわほうし)の狐(ひつね)を数日間(すうじつかん)貸(か)してもらえませんか。彼(かれ)の実力(じつりょく)を調(しら)べたいのです。娘(むすめ)の狐子(ここ)はこの頃(ごろ)彼(かれ)のまじないの師(し)になったようですから、彼女(かのじょ)も一緒(いっしょ)に三匹(さんびき)…」

「三人(さんにん)!」と狐子(ここ)が言(い)いましたが、狐(きつね)は構(かま)わず「で行(い)ってきます」と続(つづ)けました。

若殿(わかとの)は頷(うなず)きました。「琵琶法師(びわほうし)の音楽(おんがく)は本当(わんとう)に楽(たの)しいのだが、ここにいると、争(あらそ)いごとになるようです。しばらく休暇(きゅうか)をとったほうがいいでしょうね。しかし、二週間(にしゅうかん)ほど後(のち)に、父上(ちちうえ)がここにお越(こ)しになる予定(よてい)です。その前(まえ)に、琵琶法師(びわほうし)を連(つれ)れ帰(かえ)ってきてください」

「もちろん」と狐(きつね)は言(い)うと、狐子達(ここたち)に声(こえ)をかけました。「狐子(ここ)や、この琵琶法師(びわほうし)の実力(じつりょく)を試(ため)しに行(い)くぞ。一緒(いっしょ)に来(き)なさい」

「はい、父(とう)さん」と狐子(ここ)は言(い)いました。

家老(かろう)は声(こえ)を上(あ)げました。「殿(との)、狐様(ひつねさま)がお許(ゆる)しくださるなら、狐子(ここ)さんと一緒(いっしょ)に私(わたし)も行(い)きたいのですが。数日間(すうじつかん)お休(やす)みをいただけませんか。どうかお願(ねが)いいたします」と言(い)いながら深(ふか)く頭(あたは)を下(さ)げました。

「ふむふむ。父上(ちちうえ)をお迎(むか)えするための準備(じゅんび)がまだ終(お)わらないので、難(むずか)しいところだな」と若殿(わかとの)が言(い)うと、ゆきは声(こえ)をかけました。

「あなた、許(ゆる)してあげてください。家老(かろう)の代(か)わりに私(わたし)が留守(るす)を取(と)り仕切(しき)りますから」と言(い)いました。

「そうか?意外(いがい)だな。お前(まえ)も行(い)きたいと言(い)い出(だ)すかと思(おも)っていたが」と、若殿(わかとの)は優(やさ)しくゆきの頬(ほお)に触(ふ)れました。

「気持(きも)ちは殿(との)がおっしゃる通(とお)りですが、いくら行(い)きたくても、今(い)は行(い)けませんもの」とゆきは言(い)って、大(ふと)きくなった腹(はら)を摩(さす)りました。

若殿(わたとの)は頷(うなず)いて、狐(きつね)に向(む)かいました。「よし。この怠(なま)け者(もの)の家老(かろう)と琵琶法師(びわほうし)を一週間(いっしゅうかん)以内(いない)に連(つ)れて戻(もど)ってきてくれるのなら、二人(ふたり)とも連(つれ)れて行(い)っても構(かま)わんぞ」

第六十二章(だいろくじゅうにしょう)

旅(たび)の初(はじ)め

狐(きつね)達(たち)が城(しろ)を出(で)ると、外(そと)は酷(ひど)く冷(つめ)たい吹雪(ふぶき)でした。狐(きつね)は大声(おおごえ)で、「狐子(ここ)や、先(さき)に琵琶法師(びよほうし)を瞬間移動(しゅんかんいどう)で連(つ)れていって、人(ひと)が住(す)める住処(すみか)を準備(じゅんび)させなさい。家老(かろう)は私(わたし)が連(つ)れて行(い)くから」と言(い)いました。

「父上(ちちうえ)、どうしてご家老様(かろうさま)は私(わたし)と行(い)けないの?みんなで行(い)きましょう」と狐子(ここ)は訊(き)きました。

「一週間(いっしゅうかん)しかないから、明日(あした)の朝(あさ)早(はや)くから試験(しけん)が始(はじ)まるんだ。お前(まえ)も彼(かれ)の師(し)として参加(さんか)しなければならないから、二人(ふたり)ともできるだけ早(はや)く着(つ)いて寝(ね)たほうがいいのだ」と言(い)いました。そして、家老(かろう)を指(ゆび)さしました。「その人(ひと)は瞬間移動(しゅんかんいどう)ができない。それに、彼(かれ)はこんな酷(ひど)い天気(てんき)の中(なか)にはいられない。尻尾(しっぽ)が三本(さんぼん)しかないお前(おまえ)は、彼(かれ)を背負(せお)ってうちまで走(はし)っていくことができるかい?」

狐子(ここ)は「分(わ)かった。分(わ)かったわ」と、溜息(ためいき)をつきました。琵琶法師(びわほうし)に向(む)かって、「じゃあ、元(もと)の姿(すがた)に戻(もど)って行(い)きましょうか」と、続(つづ)けました。

「すみません。そういうおまじないはまだ知(し)りません」と琵琶法師(びわほうし)は言(い)いました。

「何(なん)ですって?まだ教(おし)えていなかったっけ?…いいえ、そんなはずはないと思(おも)うけど?じゃあ、簡単(かんたん)なおまじないだから、すぐにできるようになるでしょう。こうです」と言(い)って、おまじないの使(つか)い方(かた)を教(おし)え始(はじ)めました。

「私(わたし)を背負(せお)って走(はし)る?なぜですか?狐(きつね)様(さま)、私(わたし)は馬(うま)で行(い)くとばかり思(おも)っていましたから…」と家老(かろう)は困惑(こんわく)したように言(い)いました。

「ほら、家老(かろう)どの!今夜(こんや)は、この私(わたし)があなたの馬(うま)です!」と狐(きつね)は言(い)って、大(おお)きな黒(くろ)い馬(うま)の姿(すがた)に化(ば)けました。一瞬(いっしゅん)だけ七本(ななほん)の尻尾(しっぽ)が見(み)えました。「普通(ふつう)の馬(うま)より速(はや)く走(はし)れますよ!乗(の)ってください」

「しかし、鞍(くら)も手綱(たづな)もありませんが…」と家老(かろう)が言(い)うと、狐(きつね)はこう答(こた)えました。「そういう馬具(ばぐ)は必要(ひつよう)ないですから、大丈夫(だいじょうぶ)です。乗(の)りなさい!」

家老(かろう)が馬(うま)の姿(すがた)をしている狐(きつね)に乗(の)ってから、狐(きつね)は城門(じょうもん)へ小走(こばし)りして行(い)きました。家老(かろう)は走(はし)っている狐(きつね)に乗(の)ったまま、さっき出(で)た玄関(げんかん)の方(ほう)を振(ふ)り返(かえ)って見(み)ました。渦巻(うずま)いている雪(ゆき)の向(む)こうには、一瞬(いっしゅん)だけ二匹(にひき)の狐(きつね)の姿(すがた)がうっすらと見(み)えました。そして、もう一度(いちど)玄関(げんかん)が見(み)えた時(とき)には、その姿(すがた)はもう消(き)えていました。

第六十三章(だいろくじゅうさんしょう)

狐(きつね)の土地(とち)へ

馬(うま)の姿(すがた)をした狐(すがた)は町(まち)を出(で)ると、歩(あゆ)みをいっそう速(はや)めました。早足(はやあし)というより、駆(か)け足(あし)でした。夜(よる)の闇(やみ)に、馬(うま)の肌(はだ)は青(あお)く眩(まばゆ)い光(ひかり)で照(て)り映(は)えるようでした。

その足(あし)どりは、まるで雪(ゆき)の上(うえ)で軽(こま)やかに踊(おど)っているようでした。新雪(しんせつ)が深(ふか)く積(つ)もったところでも、馬(うま)の蹄(ひづめ)は雪(ゆき)に埋(う)もれることはなく、浮(う)いているようでした。

家老(かろう)は冷(つめ)たい風(かぜ)を感(かん)じることも、渦巻(うずま)く雪(ゆき)に触(ふ)れることもありませんでした。しかも、馬(うま)がいっそう速(はや)く走(はし)っているにもかかわらず、波(なみ)のない水(みず)の上(うえ)を滑(すべ)っているような気(き)がしました。

地面(じめん)に積(つ)もった雪(ゆき)と、周(まわ)りで渦巻(うずま)いている雪(ゆき)以外(いがい)、何(なに)も見(み)えませんでした。

いつまでそうしていたのか家老(かろう)には分(わ)かりませんでしたが、ようやく狐(きつね)は速度(そくど)をゆるめました。林(はやし)に入(はい)ったようでした。前方(ぜんぽう)に現(あらわ)れる木々(きぎ)が次々(つぎつぎ)と背後(はいご)に消(き)えてゆきました。

突然(とつぜん)、空気(くうき)が温(あたた)かくなりました。風(かぜ)は止(や)み、雪(ゆき)は小雨(こさめ)に変(か)わりました。馬(うま)は足(あし)を止(と)めました。夜(よる)の闇(やみ)に一匹(いっぴき)の狐(きつね)がうっすらと浮(う)かび上(あ)がりました。「族長(ぞくちょう)、ご命令(めいれい)の通(とお)り、人間用(にんげんよう)の住処(すみか)を掘(ほ)っておきました」

「よし。では家老(かろう)どの、降(お)りてください。この者(もの)が寝室(しんしつ)にお連(つ)れいたします。私(わたし)はうちへ戻(もど)ります。おやすみなさい」と狐(きつね)の族長(ぞくちょう)は言(い)いました。家老(かろう)が降(お)りると、狐(う)は自分(じぶん)の姿(すがた)に戻(もど)って、去(さ)りました。

待(ま)っていた狐(きつね)が立(た)ち上(あ)がりました。「家老(かろう)さま、こちらへ」と言(い)って、歩(ある)き始(はじ)めました。

家老(かろう)はその青(あお)い燐光(りんこう)を放(はな)つ狐(きつね)についていきました。「すみません、狐(きつね)どの。名(な)はなんと申(もう)すのじゃ?」と聞(き)きました。

狐(きつね)は「八狐(はちこ)と申(もう)します」と答(こた)えました。

「ハチコですか」と家老(かろう)は聞(き)きました。

「そうですよ。八(やっ)つのハチ、狐(きつね)のコです」と八狐(はちこ)は答(こた)えました。

二人(ふたり)が歩(ある)いていくと、突然(とつぜん)、闇(やみ)の奥(おく)から冷笑(れいしょう)が聞(き)こえました。「ほら、あれを見(み)ろよ!人間(にんげん)だ!自分(じぶん)の住処(すみか)すら作(つく)れないらしい」

八狐(はちこ)は声(こえ)を上(あ)げました。「黙(だま)れ、間抜(まぬ)け!こちらは族長(ぞくちょう)のお客(きゃく)だぞ!」と叫(さけ)びました。それから家老(かろう)に言(い)いました。「ごめんなさい。人間(にんげん)が好(す)きではない狐(きつね)もいます」

「分(わ)かりました。狐(きつね)が好(す)きではない人間(にんげん)もいますから」と家老(かろう)は答(こた)えました。

しばらくすると山(やま)の斜面(しゃめん)に着(つ)きました。その斜面(しゃめん)には人間(にんげん)の高(たか)さほどの入(い)り口(ぐち)があり、そこから青(あお)い光(ひかり)が漏(も)れていました。

家老(かろう)は八狐(はちこ)に続(つづ)いて中(なか)へ入(はい)りました。掘(ほ)ったばかりの土(つち)の匂(にお)いがしました。短(みじか)い廊下(ろうか)の先(さき)には六畳(ろくじょう)の部屋(へや)がありました。その奥(おく)の寝台(しんだい)のそばには青(あお)く光(ひか)っている玉(たま)がありました。寝台(しんだい)には布団(ふとん)がもう敷(し)いてありました。

八狐(はちご)は玉(たま)を示(しめ)しました。「これを二回(にかい)軽(かる)く叩(たた)くと、灯(あか)りが消(き)えます。もう一度(いちど)触(ふ)れると、灯(あか)りがつきます」と言(い)って、去(さ)ろうとしましたが、家老(かろう)は彼(かれ)を呼(よ)び止(と)めました。「すみません。狐子(ここ)さんはもう着(つ)きましたか」

「はい。狐子様(ここさま)はもうお部屋(へや)で休(やす)んでおられます。狐子様(ここさま)のお連(つ)れもあちらでお休(やす)みです」

「あれ?一緒(いっしょ)に寝(ね)ているのですか?」と家老(かろう)はびっくりしたように言(い)いました。

八狐(はちこ)は笑(わら)いました。「とんでもない!族長(ぞくちょう)の住処(すみか)には色々(いろいろ)な寝室(しんだい)があるのです」と言(い)って、去(さ)りました。

家老(かろう)は着替(きが)えてから光(ひかり)の玉(たま)を叩(たた)いて、寝(ね)ました。

第六十四章(だいろくじゅうよんしょう)

子狐(こぎつね)との出会(であ)い

翌朝(よくあさ)、家老(かろう)が目覚(めざ)めると、入(い)り口(ぐち)から差(さ)す光(ひかり)で部屋(へや)の中(なか)に何(なに)かが薄(うす)ぼんやり見(み)えました。布団(ふとん)の側(そば)には角盆(かくぼん)がありました。家老(かろう)が玉(たま)に触(ふ)れて灯(あか)りを灯(とも)すと、盆(ぼん)の上(うえ)には食事(しょくじ)と手紙(てがみ)がありました。手紙(てがみ)を手(て)に取(と)って、読(よ)みました。

『家老(かろう)さんへ』

『一緒(いっしょ)に食事(しょくじ)をとりたかったけれど、よく寝(ね)ている姿(すがた)を見(み)ると起(お)こすことができなかったの。ごめんね』

『試験(しけん)がすぐに始(はじ)まるから、もう出掛(でか)けなくちゃ』

『狐子(ここ)より』

家老(かろう)は手紙(てがみ)を読(よ)んでから、愛(あい)おしげに折(お)り畳(たた)んで、懐(ふところ)にしまいました。それから、食事(しょくじ)をとり、着替(きが)えました。

部屋(へや)を出(で)ると、そこは狭(せ)い谷(たに)の中(なか)でした。谷(たに)の間(あいだ)を流(なが)れている小(ちい)さな川(かわ)は霧(きり)の中(なか)に隠(かく)れてしまいそうでした。低(ひく)く垂(た)れ下(さ)がった雲(くも)が空(そら)を覆(おお)っていました。

谷(たに)のあちこちに、小(ちい)さな穴(あな)が開(あ)いていました。沢山(たくさん)の狐(きつね)が百匹(ひゃっぴき)も二百匹(にひゃっぴき)も、谷(たに)の至(いた)る所(きり)で歩(ある)いたり遊(あそ)んだりしていました。

「母(かあ)さん、見(み)て!妖怪(ようかい)がいるよ!」

家老(かろう)が振(ふ)り返(かえ)ると、近(ちか)くにいた小(ちい)さな子狐(こぎつね)が家老(かろう)を指(ゆび)さしていました。

「妖怪(ようかい)じゃないよ。それはただ一人(ひとり)の人間(にんげん)なんだよ」と母狐(ははぎつね)は答(こた)えました。

「人間(にんげん)は妖怪(ようかい)じゃないの?おじさんから人間(にんげん)の話(はなし)を聞(き)くと、いつも怖(こわ)くなるよ」

「違(ちが)うよ。人間(にんげん)は火(ひ)を吐(は)いたりはしないの。おじさんの話(はなし)は大(おお)げさなんだよ」と母親(ははおや)は言(い)って、家老(かろう)に向(む)き直(なお)りました。「息子(むすこ)を許(ゆる)してください。まだ幼(おさな)くて、谷(たに)を出(で)たことがないのです。人間(にんげん)に会(あ)うのは初(はじ)めてなんです」

「気(き)になさらないでください」家老(かろう)が子狐達(こぎつねたち)に近(ちか)づくと、彼(かれ)は母親(ははおや)の尻尾(しっぽ)の下(した)に隠(かく)れようとしました。家老(かろう)は腰(こし)を下(お)ろしました。「実(じつ)は以前(いぜん)、人間(にんげん)が火(ひ)を吐(は)くところを見(み)たことがある」

子狐(こぎつね)は尻尾(しっぽ)の下(した)から顔(かお)を覗(のぞ)かせました。「本当(ほんとう)?」

家老(かろう)は頷(うなず)きました。「祭(まつ)りの時(とき)だった。旅役者(たびよくしゃ)のうちの一人(ひとり)が松明(たいまつ)を持(も)っていた。どうやったのかは分(わ)からないが、彼(かれ)は松明(たいまつ)の炎(ほのお)を吸(す)ってから、長(まが)い炎(ほのお)を吐(は)いたように見(み)えたな」

子狐(こぎつね)は尻尾(しっぽ)の下(した)から一歩(いっぽ)出(で)てきました。「すごい!おまじないだったの?」

家老(かろう)は少(すこ)し間(かた)を置(お)いて、「どうかな。普通(ふつう)の人間(にんげん)はおまじないなどできないから、何(なに)か仕掛(しか)けがあったんだろうね」

子狐(こぎつね)はもう一歩(いっぽ)近(ちか)づいてきました。「人間(にんげん)はおまじないができないの?全然(ぜんぜん)?」家老(かろう)が頷(うなず)くと、子狐(こぎつね)は続(つづ)けました。「僕(ぼく)でも簡単(かんたん)なおまじないができるのに?見(み)て!」と言(い)って、傍(かたわ)らの小石(こいし)に前足(まえあし)を置(お)きました。前足(まえあし)を上(あ)げると、その小石(こいし)は青(あお)く輝(かがや)き、しばらくしてその光(ひかり)は消(き)えました。

家老(かろう)は小石(こいし)を取(と)り上(あ)げました。どこにでもある灰色(はいいろ)の小石(こいし)でした。「私(わたし)にはできないな。人間(にんげん)がこんなことをすると、人間(にんげん)の姿(すがた)をした狐(きつね)かと思(おも)われてしまうよ」

「よくおっしゃいました」とふいに声(こえ)がしました。家老(かろう)が振(ふ)り返(か)ると、そこに座(すわ)っているのは八狐(はちこ)でした。

家老(かろう)は立(た)ち上(あ)がって、会釈(えしゃく)しました。「おはようございます、八狐(はちこ)どの。狐子(ここ)さんに会(あ)ってもいいですか」

八狐(はちこ)は首(くび)を振(ふ)りました。「残念(ざんねん)ですが、受験者(さんかしゃ)しか試験場(しけんじょう)に入(はい)れません。ごめんなさい」八狐(はちこ)はくすくすと笑(わら)いました。「それに、人間(にんげん)は大(おお)きすぎて、入(い)り口(ぐち)から入(はい)ることはできませんから」

家老(かろう)は側(そば)の穴(あな)を見(み)て、苦笑(くしょう)しました。「こんなに小(ちい)さいと、確(たし)かに入(はい)れないでしょうね」

「今晩(こんばん)、狐子(ここ)様(さま)にお会(あ)いになれるでしょう。お姫様(ひめさま)は家老(かろう)様(さま)とお会(あ)いになりたいとおっしゃっているので、今(いま)お風呂(ふろ)や着替(きが)えを準備(じゅうび)しています」と八狐(はちこ)が言(い)うと、家老(かろう)は立(た)ち上(あ)がって、親子(おやこ)に軽(かる)く会釈(えしゃく)し、「では」と言(い)って八狐(はちこ)についていきました。

第六十五章(だいろくじゅうごしょう)

姫(ひめ)との出会(であ)い

家老(かろう)が湯(ゆ)に浸(つ)かったのは霧(きり)に隠(かく)れた温泉(おんせん)でした。風呂(ふろ)から上(あ)がった家老(かろう)は岩(いわ)に置(お)かれた着物(きもの)に着替(きが)えました。それはたいそう古(ふる)い侍(さむらい)の着物(きもの)のようでした。

「八狐(はちこ)どの、どうしてこのような着物(きもの)を着(き)なくてはいけないのでしょうか。私(わたし)の身分(みぶん)に相応(ふさわ)しくないと思(おも)います」と家老(かろう)は尋(たず)ねました。

「お姫様(ひめさま)のご希望(きぼう)なのです」と八狐(はちこ)は答(こた)え、立(た)ち上(あ)がって家老(かろう)を谷(たに)の反対(はんたい)側(がわ)へと案内(あんない)しました。

家老(かろう)はまた尋(たず)ねました。「お姫様(ひめさま)は一体(いったい)どんな方(かた)でしょうか。ご身分(みぶん)の高(たか)い狐(きつね)でしょうか?」

八狐(はちこ)は頷(うなず)きました。「その通(とお)りです。族長(ぞくちょう)の姉上様(あねうえさま)でいらっしやいます」と答(こた)えました。

「族長(ぞくちょう)様(さま)の姉上様(あねうえさま)ですと?…人間(にんげん)と結婚(けっこん)していらっしゃったお方(かた)ですよね」と家老(かろう)が言(い)うと、八狐(はちこ)はしばし足(あし)を止(と)めて、家老(かろう)を見上(みあ)げました。「その話(はなし)をご存知(ぞんじ)なのですか」

「そのお話(はなし)を先日(せんじつ)狐子(ここ)さんがゆき様(さま)達(たち)にしていました。伯母(おば)さまが、話(はな)すことを許(ゆる)されたと言(い)っていました」と家老(かろう)は説明(せつめい)しました。

「分(わ)かりました。さあ、お姫様(ひめさま)がお待(ま)ちかねでいらっしゃいます」と八狐(はちこ)は言(い)って、また歩(ある)き始(はじ)めました。

二人(ふたり)は谷(たに)を登(のぼ)りました。しばらく山(やま)を歩(ある)くと霧(きり)の中(なか)に入(はい)りました。小径(しょうけい)を歩(ある)いて、ようやくある建物(たてもの)に辿(たど)り着(つ)きました。

その建物(たてもの)は御殿(ごてん)というよりは田舎侍(いなかざむらい)の家(いえ)のように見(み)えました。家(いえ)の入(い)り口(ぐち)の側(そば)に八狐(はちこ)は座(すわ)りました。「お入(はい)りください」と言(い)いました。

家老(かろう)は「お邪魔(じゃま)いたします」と言(い)って、戸(と)を開(あ)けました。

奥(おく)の部屋(へや)は確(たし)かに普通(ふつう)の田舎侍(いなかざむらい)の家(いえ)の部屋(へや)に見(み)えましたが、誰(だれ)も住(す)んでいないように思(けかい)えました。

「お姫様(ひめさま)」家老(かろう)がそろそろと部屋(へや)に入(はい)るとうっすらと人影(ひとかげ)が見(み)えてきました。

突然(とつぜん)、灯(あか)りが点(とも)りました。灯(あか)りに照(て)らされたのは二十四(にじゅうよん)、五歳(ごさい)の美(うつく)しい女性(じょせい)でした。見(み)かけは若(わか)いのですが、彼女(かのじょ)の目(め)を覗(のぞ)きこむと、歳(とし)を重(かさ)ねているようでした。

家老(かろう)は深々(ふかぶか)と頭(あたま)を下(さ)げました。「お姫様(ひめさま)、初(はじ)めてお目(め)にかかります。ゆき様(さま)とおっしゃるあなた様(さま)の血縁(けつえん)に当(あ)たるお方(かた)に仕(つか)える家老(かろう)でございます。ゆき様(さま)のお父上(ちちうえ)の時代(じだい)、つまり、お孫(まご)さまの時代(じだい)には、私(わたくし)はお孫(まご)さまの廷吏(ていり)でございました。よろしくお見知(みし)りおきのほどを」

女(おんな)は深(ふか)い溜息(ためいき)をつきました。「私(わたし)はここにいる時(とき)は、ただ侍(さむらい)の未亡人(みぼうじん)のつもりでおります。姫(ひめ)などとおっしゃらないでください」

「あなたさまがご身分(みぶん)の高(たか)い狐(きつね)でいらっしゃるということを忘(わす)れることがあっても、お仕(つか)えした主(あるじ)のご先祖(せんぞ)だということも、結婚(けっこん)したい女性(じょせい)の伯母上(おばうえ)だということも決(けっ)して忘(わす)れることはありません。失礼(しつれい)なことを申(もう)し上(あ)げました」と家老(かろう)は言(い)いました。

「結婚(けっこん)したい女性(じょせい)…?それは狐子(ここ)のことでしょうか?」家老(かろう)が頷(うなず)くと、女(おんな)は少(すこ)し考(かんが)えて次(つぎ)のように言(い)いました。「では、どうぞ私(わたし)のことは『おば』とお呼(よ)びくださいな。こちらにお座(すわ)りください。ゆきのことを詳(くわ)しく話(はな)してくださいませんか」と尋(たず)ねました。

第六十六章(だいろくじゅうろくしょう)

晩(ばん)の会話(かいわ)

一日(いちにち)かけて、家老(かろう)はゆきについて詳(くわ)しく話(はな)しました。女(おんな)は詳細(しょうさい)を知(し)りたがり、家老(かろう)の話(はなし)を何度(なんど)も遮(さえぎ)りました。

しばらくして、家老(かろう)はようやく女(おんな)の質問攻(しつもんぜ)めから解放(かいほう)され、家(いえ)の外(そと)で待(も)っていた八狐(はちこ)と一緒(いっしょ)に谷(たに)へ戻(もど)りました。

家老(かろう)は、自分(じぶん)の部屋(へや)のそばに赤毛(あかげ)の女(おんな)が座(すわ)っているのに気付(きづ)くと、足早(あしばや)に近寄(ちかよ)りました。「狐子(ここ)さん!ただいま戻(もど)りました!」

狐子(ここ)は立(た)ち上(あ)がりました。「お帰(かえ)りなさい。どこに行(い)っていたの?」

「あなたのおばさまにお会(あ)いして、ゆき様(さま)のことを一日中(あちにちじゅう)話(はな)していたんだ。質問攻(しつもんぜ)めにされたので頭(あたま)が痛(いた)くなるほどだったよ。明日(あした)、また来(く)るように言(い)われたよ。疲(つか)れたよ」と家老(かろう)は言(い)って、腰(こし)を下(お)ろしました。

狐子(ここ)も家老(かろう)と向(む)かい合(あ)わせに座(すわ)りました。「どこで会(あ)ったの?人間(にんげん)の姿(すがた)をしていると、伯母(おば)ちゃんの住処(すみが)に入(はい)ることはできないはずよ」

家老(かろう)は谷(たに)の向(む)かい側(がわ)を指差(ゆびさ)しました。「あそこの家(いえ)だった」

「へえ…伯母(おば)さんは誰(だれ)も入(い)れたがらなかったのに!」

「私(わたし)は入(い)れてもらえましたよ…今日(きょう)はむしろ、おばさまから招(まね)かれたんだ。…でも、この着物(きもの)を着(き)せられたんだよ。ところで、狐子(ここ)さんの方(ほう)はどんな風(ふう)に過(す)ごしたの?」

「一日中(いちにちじゅう)琵琶法師(びわほうし)さんがおまじないをするのを見(み)てたの。彼(かれ)がこのおまじないを覚(おぼ>)えてるかしらとか、このおまじないを教(おし)えてあげたかしらとか、はらはらしてたわ。自分(じぶん)の試験(しけん)よりも大変(たいへん)だったわ」

「試験(しけん)はいつまで?」

「いつまでかしら?たいてい、一日(いちにち)で終(たりゅう)わるけれど、別(べつ)の流派(りゅうは)のまじないの本当(ほんとう)の能力(のうりょく)を見分(みわ)けるのは難(むずか)しいから。特(とく)に今回(こんかい)、彼(かれ)は独学(どくがく)…ところで、父上(ちちうえ)が今晩(こんばん)、あなたと食事(しょくじ)をしたいと言(い)ってた。すぐに行(い)かなくちゃ」と狐子(ここ)は言(い)うと立(た)ち上(あ)がりました。

「へえ?どこに?お父様(とうさま)の住処(すみか)には入(はい)れないだろうね」

「住処(すみか)の外(そと)に天幕(てんまく)を張(は)ったのよ。行(い)きましょう!」と狐子(ここ)は言(い)って、家老(かろう)の手(て)を取(と)り立(ち)ち上(あ)がらせました。

二人(ふたり)は、日(ひ)が落(お)ちてすっかり暗(くら)くなった谷(たに)を歩(ある)き、狐子(ここ)の住処(すみか)へと向(む)かいました。

第六十七章(だいろくじゅうななしょう)

族長(ぞくちょう)との会話(かいわ)

食事(しょくじ)の後(あと)で、狐(きつね)の族長(かぞく)が家老(かろう)と狐子(ここ)に声(こえ)をかけました。「家老(かろう)どのの願(ねが)いを許(ゆる)すかどうか決(き)める前(まえ)に、二人(ふたり)に話(はな)したいことがあります」

狐子(ここ)たちが頷(うなず)くと、族長(ぞくちょう)は話(はなし)を続(つづ)けました。「狐(きつね)の一生(いっしょう)は人間(にんげん)より何倍(なんばい)も長(なが)いので、狐(きつね)と人間(にんげん)の結婚(けっこん)には難(むずか)しいものがあります。どんどん歳(とし)を取(と)り、やがては死(し)んでいく配偶者(はいぐうしゃ)を見(み)るのは、狐(きつね)にとって辛(つら)いことなのです。人間(にんげん)の場合(ばあい)、配偶者(はいぐうしゃ)が狐(きつね)だと分(わ)かるや、どんなに狐(きつね)が歳(とし)を取(と)るふりをしても、狐(きつね)が歳(とし)を取(と)らないばかりか、人間(にんげん)よりも遥(はる)かに歳(とし)を取(と)り方(かた)が遅(おそ)いことに関(かん)して、想像(そうぞう)することはできてもそれ以外(いがい)は何(なに)もしてあげられないので、結局(けっきょく)は妬(ねた)んだり疎(うと)ましく思(おも)ったりすることになるでしょう」

「それに、狐(きつね)が歳(とし)を取(と)るふりをせずに長(なが)い時間(じかん)人間(にんげん)の世界(せかい)に住(す)んでいると、人間(にんげん)の配偶者(はいぐうしゃ)がその狐(きつね)のことを妬(ねた)んだり疎(うと)ましく思(おも)ったりしなくても、周囲(しゅうい)の人間(にんげん)が狐(きつね)を恐(おそ)れたり嫌(きら)ったりするでしょう。そういう人間(にんげん)は人間(にんげん)に化(ば)けた狐(きつね)が怪(あや)しい魔法(まほう)を使(つか)っているとか、仲間(なかま)や親戚(しんせき)が病気(びょうき)になったり死(し)んだりするのは、狐(きつね)に憑(つ)かれたからだなどと言(い)って悪(わる)いことを狐(きつね)のせいにするようになるでしょう。そして狐(きつね)を殺(ころ)そうとしたり、狐(きつね)の秘密(ひみつ)の呪(のろ)いを盗(ぬす)んでやろうと思(おも)うかも知(し)れません」

「あの琵琶法師(びわほうし)のように、狐(きつね)が長(なが)い時間(じかん)人間(にんげん)の世界(せかい)に住(す)むと、狐(きつね)の世界(せかい)に戻(もど)るのは難(むずか)しいかもしれません。狐(きつね)の生活(せいかつ)より人間(にんげん)の生活(せいかつ)の方(ほう)に慣(な)れたり、狐(きつね)の仲間(なかま)より人間(にんげん)との方(ほう)が仲良(なかよ)くなったりするでしょう」

「姉上(あねうえ)の場合(ばあい)、人間(ねんげん)の世界(せかい)に住(す)む時間(じかん)はそれほど長(なが)くはなかったが、夫(おっと)があのように若(わか)くして死(し)んだし、姉上(あねうえ)は赤(あか)ん坊(ぼう)を人間(にんげん)の世界(せかい)に手放(てばな)したので辛(つら)い思(おも)いをしました。人間(にんげん)との結婚(けっこん)を許(ゆる)さない狐(きつね)もいて、赤(あか)ん坊(ぼう)を手放(てばな)すことを許(ゆる)さないこともありました。しかも姉上(あねうえ)は自分(じぶん)自身(じしん)に厳(きび)しかったようです。だから姉上(あねうえ)が狐(きつね)の世界(せかい)に戻(もど)ってきても、狐(きつね)の仲間(なかま)に入(はい)ることはできなかったのだと思(おも)います。姉上(あねうえ)は他(ほか)の狐(きつね)から離(はな)れた所(ところ)に自分(じぶん)の住処(すみか)を掘(ほ)り、近(ちか)くに人間(にんげん)の家(いえ)を真似(まね)た建物(たてもの)を作(つく)りました。その場所(ばしょ)から姉上(あねうえ)は未(いま)だに離(はな)れたくないようです。しかし今(いま)でも、手放(てばな)した娘(むすめ)とその息子(むすこ)とゆきを気遣(きづか)い、私(わたし)に彼(かれ)のことをたびたび尋(たず)ねるのです」

「二人(ふたり)とも、このことをよく考(かんが)えなさい。考(かんが)えた上(うえ)でなお結婚(けっこん)したければ、許(ゆる)すか許(ゆる)さないかは私(わたし)が決(き)めます」

家老(かろう)は複雑(ふくざつ)な面持(おもも)ちで顔(かお)を伏(ふ)せました。一方(いっぽう)、狐子(ここ)は声(こえ)を上(あ)げました。「父(とう)さん、そうだったのね。昔(むかし)からずっと考(かんが)えている。伯母上(おばうえ)のことを忘(わす)れることができると思(おも)っているの?でも…」狐子(ここ)は深(ふか)く溜息(ためいき)をつき、目線(しせん)を落(お)としました。「それでも…人間(にんげん)に興味(しょうみ)のない狐(きつめ)なんかより、この家老(かろう)さんと結婚(けっこん)したい。私(わたし)のように人間(にんげん)が好(す)きな狐(きつね)がいたら…でも、そんな狐(きつね)はいないみたいね。あの琵琶法師(びわほうし)でも人間(にんげん)の世界(せかい)に住(す)むほど興味(きょうみ)はないようなの。私(わたし)、うちに帰(かえ)ってくると、人間(にんげん)の世界(せかい)に戻(もど)りたくて、いても立(た)ってもいられなくなるの。夫(おっと)が人間(にんげん)の世界(せかい)に住(す)みたくないのなら結婚(けっこん)する意味(いみ)がないじゃない」

家老(かろう)は顔(かお)を伏(ふ)せたまま強(つよ)い口調(くちょう)で言(い)いました。「狐子(ここ)さんが狐(きつね)だと気(き)づいた時(とき)、一月(ひとつき)ほど狐子(ここ)さんと距離(きょり)を置(お)いて、このことについて考(かんが)えました。しかしずっと狐子(ここ)さんのことで複雑(ふくざつ)な思(おも)いでいました。彼女(かのじょ)への想(おも)いを諦(あきら)めた後(あと)でも、狐子(ここ)さんと再会(さいかい)する今(いま)までずっと、他(ほか)の女性(じょせい)に会(あ)うたびに狐子(ここ)さんのことしか思(おも)い出(だ)されませんでした。私(わたし)の心(こころ)は狐子(ここ)さんの虜(とりこ)になってしまいました。狐子(ここ)さんと結婚(けっこん)できないのなら、生涯(しょうがい)、だれ(だれ)とも結婚(けっこん)するつもりはありません」

族長(ぞくちょう)は「ふむふむ」と呟(つぶや)きました。

家老(かろう)はようやく顔(かお)を上(あ)げました。「族長様(ぞくちょうさま)、恐(おそ)れながら、お聞(き)きしたいことがございます」族長(ぞくちょう)が頷(うなず)くと、「狐(きつね)と人間(にんげん)との結婚(けっこん)がそれほど大変(たいへん)なことならば、お姉様(ねえさま)はいったいどうして人間(にんげん)と結婚(けっこん)することになったのですか?」と聞(き)きました。

族長(ぞくちょう)は深(ふか)い溜息(ためいき)をつきました。「それは私自身(わたしじしん)の話(はなし)ではありません。姉上(あねうえ)本人(ほんにん)に聞(き)きなさい」

しばらくすると、会話(かいわ)が途切(とぎ)れました。天幕(てんまく)を出(で)て、狐子(ここ)は家老(かろう)と一緒(いっしょ)に彼(かれ)の部屋(へや)へ歩(ある)いていきました。

暗闇(くらやみ)から声(こえ)がしました。「ほら!狐子(ここ)の奴(やつ)が人間(にんげん)を飼(か)い馴(な)らしたみたいだぞ!今度(こんど)はあれを乗(の)り回(まわ)すのかな」と、その声(こえ)の主(ぬし)はあざ笑(わら)っていました。

狐子(ここ)は怒(おこ)ったように怒鳴(どな)りました。「こら!卑怯者(そきょうもの)!出(で)てきて堂々(どうどう)と言(い)いなさい!私(わたし)は一人(ひとり)で鬼(おに)に立(た)ち向(む)かったことがあるんだよ!あんた、怖(こわ)くて住処(すみか)から出(で)られないくせに」と狐子(ここ)が言(い)うと、家老(かろう)は狐子(ここ)の腕(うで)を掴(つか)みました。「狐子(ここ)さん!落(お)ち着(つ)いて!言(い)わせておきなさい!」

狐子(ここ)は家老(かろう)を抱(だ)き締(し)めました。「ごめんね。あんなふうに意地悪(いじわる)なやつらのせいで、伯母上(おばうえ)は谷(たに)の外(そと)に住処(すみか)を掘(ほ)ることになったんだと思(おも)う。それが、私(わたし)がここにいたくない理由(りゆう)の一(ひと)つなの」と狐子(ここ)は言(い)いながら、泣(な)き始(はじ)めました。

家老(かろう)は狐子(ここ)の背中(せかな)を撫(な)でました。「ほらほら、泣(な)かないで。いつも元気(げんき)な狐子(ここ)はどこへ行(い)った?」

狐子(ここ)は袖(そで)で涙(なみだ)を拭(ぬぐ)って、家老(かろう)を見上(みあ)げました。「気(き)をつけて。ここに来(こ)なければよかった。私(わたし)か父上(ちちうえ)か八狐(はちこ)さんがいない時(とき)は、決(けっ)して部屋(へや)の外(そと)へ出(で)ないでちょうだい」

「大丈夫(だいじょうぶ)だよ。今朝(けさ)八狐(はちこ)さんに会(あ)う前(まえ)に、狐(きつね)母子(おやこ)と会(あ)ってその息子(むすこ)に、私(わたし)が妖怪(ようかい)じゃないことを証明(かくにん)したよ。問題(もんだい)はないだろう」と家老(かろう)は言(い)って歩(ある)き出(だ)そうとしたが、狐子(ここ)は彼(かれ)の手(て)を掴(つか)んで止(と)めました。

「何(なに)言(い)ってるのよ!その子(こ)は良(よ)くても、人間(にんげん)のことを妖怪(ようかい)だと吹(ふ)き込(こ)んだ奴(やつ)のように人間(にんげん)のことが気(き)に食(く)わない狐(きつね)は沢山(たくさん)いるわ。狐(きつね)同士(どうし)でも化(ば)かし合(あ)いをするのよ。彼(かれ)のほとんどは父上(ちちうえ)が招(まね)いた客(きゃく)を傷(きず)つけるつもりはないけれど、人間(にんげん)は弱(よわ)い生(い)き物(もの)だということが分(わ)からないのよ。狐(きつね)なら平気(へいき)だけど、人間(にんげん)を傷(きず)つけてしまうことがよくあるの」

「それに、父上(ちちうえ)を失脚(しっきゃく)させたいくらい人間(にんげん)を嫌(きら)っている狐(きつね)もいるわ。そいつらは、伯母上(おばうえ)が人間(にんげん)と結婚(にんげん)したことや、私(わたし)がここより人間(にんげん)の世界(せかい)に馴染(まじ)んでいることを根(ね)に持(も)って、父上(ちちうえ)は族長(ぞくちょう)として相応(ふさ)わしくないと言(い)っている。それに奴(やつ)らは、得体(えたい)の知(し)れない狐(きつね)や、狐(きつね)と結婚(けっこん)したいなどと言(い)う人間(にんげん)をここに連(つ)れてくるなんて許(ゆる)せないと言(いい)っているわ。あなたが傷(きず)つこうが死(し)のうが、あいつらは何(なん)とも思(おも)わないでしょう。お願(ねが)い、本当(ほんとう)に気(き)をつけて!」

家老(かろう)は言葉(ことば)を失(うしな)い、狐子(ここ)の顔(かお)を心配(しんぱい)と恐怖(きょうふ)が入(い)り混(ま)じった表情(ひょうじょう)で見(み)ました。「そういうことであれば、部屋(へや)で話(はな)した方(ほう)がいいんじゃないか?あいつらに聞(き)かれてはまずい」

「うん」と狐子(ここ)は頷(うなず)き、再(ふたた)び二人(ふたり)は家老(かろう)の部屋(へや)へ向(む)かいました。

第六十八章(だいろくじゅうはっしょう)

八狐(はちこ)との会話(かいわ)

翌日(よくじつ)、家老(かろう)が目覚(むざ)めると、狐子(ここ)が枕元(まくらもと)に座(すわ)っていました。彼女(かのじょ)の側(そば)に置(お)いてあった角盆(かくぼん)から美味(おい)しそうな匂(にお)いがしました。

二人(ふたり)が食(た)べたり喋(しゃべ)ったりした後(あと)で、部屋(へや)を出(で)ると、そこには八狐(はちこ)が待(ま)っていました。狐子(ここ)は狐(きつね)の姿(すがた)に戻(もど)って立(た)ち去(さ)り、家老(かろう)は八狐(はちこ)を姫(ひめ)の家(いえ)へ案内(あんない)することになりました。

その途中(とちゅう)、家老(かろう)は八狐(はちこ)に尋(たず)ねました。「八狐(はちこ)どの、狐子様(ここ)がお父様(とうさま)のことを気(き)になさっているようです。あの方(かた)が私達(わたしたち)をこちらに連(つれ)れてきたせいで、族内(ぞくない)の問題(もんだい)が山(やま)のように積(つ)もっているとのことです。どう思(おも)いますか」

「そうですか。多分(たぶん)、狐子様(ここさま)はあまりこちらにいらっしゃらないので、事情(じじょう)をよくご存(ぞん)じないのかもしれません。私達(わたしたち)にとって、この問題(もんだい)はあまりにも身近過(みぢかす)ぎて冷静(れいせい)に見通(みとお)せないところがあります。狐子様(ここさま)の方(かた)が、むしろ事態(じたい)に判断(はんだん)することができるかもしれません。しかしながら、族長様(ぞくちょうさま)より強(つよ)い狐(きつね)はただの一匹(いっぴき)しかおりません。もしその方(かた)と族長様(ぞくちょうさま)とが力(ちから)を合(あ)わせれば、たとえ一族(いちぞく)全員(ぜんいん)が族長(ぞくちょう)を倒(たお)そうとしても倒(たお)せないでしょう」と八狐(はちこ)は答(こた)えました。

「なるほど。その方(かた)が族長(ぞくちょう)に挑(いど)んだら、どうなるでしょうか?」と家老(かろう)は尋(たず)ねました。

八狐(はちこ)は数回(すうかい)尻尾(しっぽ)を振(ふ)りました。「そのようなことがあるとは思(おも)えません。お姫様(ひめさま)は権力(けんりょく)を手(て)に入(い)れることに興味(きょうみ)をお持(も)ちでないようです」

家老(かろう)は目(め)を丸(まる)くしました。「お姫様(ひめさま)ですと…?お姫様(ひめさま)がそれほど強(つよ)いのなら、どうして谷(たに)から追(お)い出(だ)されたのですか」

「追(お)い出(だ)されたわけではありません。ただ、お姫様(ひめさま)は狐(きつね)の社会(しゃかい)に戻(も)っても、そこにはもう住(す)めないでしょう。他(ほか)の狐(きつね)のいじめのせいではなく、ご自分(じぶん)が不安(ふあん)なので、谷(たに)の上(うえ)に住処(すみか)を掘(ほ)ったようでございます」と八狐(はちこ)は答(こた)えました。

家老(かろう)はしばらく黙(だま)り込(こ)みました。それから、「もし誰(だれ)かが族長様(ぞくちょうさま)に対(たい)して手(て)を出(だ)したとすれば、お姫様(ひめさま)はどうなさると思(おも)いますか。弟(おとうと)の族長様(ぞくちょうさま)を助(たす)けるのですか、住処(すみか)に残(のこ)ったまま結果(けっか)が出(で)るまで待(ま)つですか」と聞(き)きました。

「そうですね」八狐(はちこ)は少(すこ)し考(かんが)えました。「そのようなの場合(ばあい)、もし族長様(ぞくちょうさま)が倒(たお)される可能性(かのうせい)が高(たか)くなければ、住処(すみか)にお残(のこ)りになることでしょう。もし族長様(ぞくちょうさま)が倒(たお)されるようなことにでもなれば、私達(わたしたち)はどうしたらよいものかと、心配(しんぱい)しております」

家老(かろう)は頷(うなず)きました。「狐子(ここ)さんは、『こんな状況(じょうきょう)だから、一人(ひとり)で部屋(へや)から出(で)たりするなよ。もし私(わたし)もお父様(とうさま)も八狐(はちこ)どのもいない場合(ばあい)は、部屋(へや)の中(なか)に残(のこ)っていなさい』と言(い)いました。八狐(はちこ)どのの意見(いけん)は?」

「もちろん賛成(さんせい)です。族長(ぞくちょう)を倒(たお)せない奴(やつ)は、代(か)わりに嫌(きら)いな人間(にんげん)に悪戯(あくぎ)するかもしれません」と八狐(はちこ)が答(こた)えた後(あと)、二人(ふたり)は姫(ひめ)の家(いえ)へ向(む)かって歩(ある)き続(つづ)けました。

第六十九章(だいろくじゅうきゅうしょう)

姫(ひめ)の話(はなし)

家老(かろう)が家(いえ)に着(つ)いて中(なか)に入(はい)ると、姫(ひめ)はその中(なか)で待(ま)っていました。「おばさま、おはようございます。恐(おそ)れながら、お聞(き)きしたい事(こと)がございます」と家老(かろう)は言(い)いました。姫(ひめ)が頷(うなず)くと、「おばさまはどうして人間(にんげん)とご結婚(けっこん)なさったのですか。狐子(ここ)さんのように人間(にんげん)に興味(きょうみ)がおありになったのか、それとも何(なに)か他(ほか)に理由(りゆう)がおありだったのですか」と聞(き)きました。

しばらくの後(のち)、姫(ひめ)は溜息(ためいき)をつきました。「この事(こと)は弟(おとうと)にさえ話(はな)していなかったのですが、あなたにも関係(かんけい)のある事(こと)なので、この際(さい)、良(よ)い機会(きかい)ですから、お話(はな)ししておきます」

「当時(とうじ)の私(わたし)は今(いま)の狐子(ここ)よりは少(すこ)しだけ年上(としうえ)だったでしょうね。人間(にんげん)には興味(きょうみ)がなかった頃(ころ)のことです。実(じつ)を言(い)うと、人間(にんげん)に会(あ)うたび嫌(いや)な感(かん)じがして、できるだけ早(はや)く離(はな)れるようにしていたのです」と、話(はな)し始(はじ)めました。

「あの時(とき)まではね…」

「ある日(ひ)、森(もり)の中(なか)の道中(どうちゅう)でのことですが、ふいに視界(しかい)が開(あ)けました。そこには日本刀(にっぽんとう)を携(たずさ)えている男(おとこ)がいました。彼(かれ)は影(かげ)と戦(たたか)うように踊(おど)っていました。すぐに立(た)ち去(さ)ろうと思(おも)いましたが、まるで見入(みい)られたかのごとく、その剣(けん)の動(うご)きから視線(しせん)をそらすことができなかったのです」

「彼(かれ)の周囲(しゅうい)には呪(のろ)いの気配(けはい)もなく、また、私(わたし)がどのくらいぼんやりと立(た)っていたかも分(わ)からないのですが、気(き)が付(つ)くと、彼(かれ)は剣(けん)を鞘(さや)に納(おさ)めているところでした。今(いま)思(おも)うと、あれが、呪(のろ)いの解(と)けた瞬間(しゅんかん)だったのかもしれません。すぐさま私(わたし)は逃(に)げましたが、背後(はいご)から『誰(だれ)ぞおったか?』と言(い)う声(こえ)が聞(き)こえました」

「その夜(よる)、夢(ゆめ)を見(み)ました。刀(かたな)だけが夢(ゆめ)の中(なか)でただ踊(おど)っていました。歩(ある)いている内(うち)に、度々(たびたび)無意識(むいしき)にその場所(ばしょ)に戻(もど)って行(い)ってしまうことがありました。何度(なんど)か足(あし)を運(はこ)ぶと、またあの男(おとこ)がそこにいました。今度(こんど)は刀(かたな)ではなく、なぎなたと踊(おど)っていました」

「その時(とき)もまた、彼(かれ)の動(うご)きから目(め)を離(かな)せませんでした。しかし、彼(かれ)が踊(おど)り終(お)わるや否(いな)や、私(わたし)はその場(ば)を離(はな)れました。その夜(よる)も、踊(おど)っている武器(ぶき)の夢(ゆめ)を見(み)ました」

「数週間(すうしゅうかん)、同(おな)じような状態(じょうたい)が繰(く)り返(かえ)されました。いつも、男(おとこ)は違(ちが)った武器(ぶき)を使(つか)っていました。だんだん、武器(ぶき)よりもその男(おとこ)の夢(ゆめ)を見(み)るようになりました。男(おとこ)は、私(わたし)にとって異質(いしつ)のものというより、親(した)しい者(もの)になっていきました。だんだん、彼(かれ)に会(あ)いたいと思(おも)っている自分(じぶん)のことを自覚(じかく)するようになりました」

「ある日(ひ)、彼(かれ)が踊(おど)り終(お)わると、私(わたし)は逃(に)げる代(か)わりにこの姿(すがた)に化(ば)けて、木(き)の後(うし)ろから姿(すがた)を見(み)せました。私(わたし)は人間(にんげん)のことがあまり分(わ)かりませんでした。それまでに見(み)た、一番(いちばん)綺麗(きれい)な着物(きもの)を着(き)ることにしました」

「私(わたし)を見(み)ると、彼(かれ)は膝(ひざ)をついて、『姫様(ひめさま)』と言(い)いました。私(わたし)は、『何(なに)をおっしゃるのですか。私(わたし)は姫(ひめ)などではございません。ただの、普通(ふつう)の女(おんな)でございます』と答(こた)えましたが、彼(かれ)は立(た)ち上(あ)がりませんでした。『そのようなことは私(わたし)には信(しん)じられません。あなた様(さま)はお姿(すがた)も、お召(め)し物(もの)も、話(はな)し方(かた)も姫君(ひめきみ)のようでいらっしゃいます』と彼(かれ)は言(い)い立(た)てました」

「しばらくの間(あいだ)、彼(かれ)に何(なに)を言(い)えば良(よ)いのか分(わ)かりませんでした。やっと、『どうして度々(たびたび)こちらで武器(ぶき)と踊(おど)っておられるのですか』と聞(き)きました。彼(かれ)は驚(おどろ)いたように目(め)を私(わたし)に向(む)けました。『踊(おど)っていたのではありません。ただ武器(ぶき)の練習(れんしゅう)をしているのです。下手(へた)ですから、誰(だれ)もいないところで練習(れんしゅう)するのです』と言(い)いました」

「『とんでもないことです!そんなに優美(ゆうび)な動(うご)きを「下手(へた)」だなんて!それを見(み)ていると、ついいつまでも見(み)ていたいと思(おも)ってしまいます』と私(わたし)は言(い)いました。「先生(せんせい)を失望(しつぼう)させたくありませんので、こちらで練習(れんしゅう)していたのです。このように下手(へた)な練習(れんしゅう)をあなた様(さま)にお見(み)せしてしまった不埒(ふらち)をお許(ゆる)しください』と彼(かれ)は言(い)いました」

「『それでも、私(わたし)はあなたの練習(れんしゅう)が見(み)たいので、ここに来(く)ることを許(ゆる)してください』と私(わたし)が言(い)うと、彼(かれ)はようやく頷(うなず)きました。

「翌日(よくじつ)、私(わたし)がその場所(ばしょ)に着(つ)き、人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)けると、すでにそこには草(くさ)の上(うえ)に布団(ふとん)が広(ひろ)げてありました。私(わたし)は木(こ)の間(ま)から出(で)てその辺(あた)りで躊躇(ためら)っていると、男(おとこ)は布団(ふとん)を示(しめ)しながら『どうぞそちらでお足(あし)を楽(らく)になさってください』と促(うなが)しました。そして、彼(かれ)はその日(ひ)の練習(れんしゅう)を始(はじ)めました。それが終(お)わると、彼(かれ)は私(わたし)の側(そば)に座(すわ)る許(ゆる)しを請(こ)い、私(わたし)がそれを許(ゆる)したので、しばらく語(かた)り合(あ)いました」

「数週間(すうしゅうかん)、同(おな)じことが繰(く)り返(かえ)されました。練習後(れんしゅうご)の会話(かいわ)はだんだん長(なが)くなりました。ある日(ひ)、住(す)んでいる村(むら)を私(わたし)に見(み)せたいと彼(かれ)は言(い)いました。その時(とき)はお断(ことわ)りしましたが、その後(ご)も、彼(かれ)はその申(もう)し出(で)を繰(く)り返(かえ)しました。とうとう、不安(ふあん)もありましたが、私(わたし)は応(おう)じました」

「その日(ひ)、彼(かれ)が帰(かえ)るとき、私(わたし)は彼(かれ)と一緒(いっしょ)でした。私(わたし)は、生(う)まれて初(はじ)めて、人間(にんげん)の村(むら)に入(はい)ったのです。そしてまた、その時(とき)までそれほど多(おお)くの人間(にんげん)に会(あ)ったことはありませんでした。彼(かれ)以外(いがい)の人間(にんげん)に会(あ)うと、まだ嫌(いや)な感(かん)じがしましたが、彼(かれ)が私(わたし)の側(そば)にいれば安心(あんしん)でした」

「家(いえ)に着(つ)き、彼(かれ)の家族(かぞく)に会(あ)いました。彼(かれ)らに対(たい)しても嫌(いや)な感(かん)じがしました。しかし彼(かれ)の妹(いもうと)の一人(ひとり)は嫌(いや)な感(かん)じがしませんでした」

「その妹(いもうと)以外(いがい)は、私(わたし)のことを嫌(いや)がっていました。それでも、その家族(かぞく)も私(わたし)もお互(たが)いに丁寧(ていねい)に挨拶(あいさつ)ができました」

「できるだけ早(はや)く去(さ)らなければと思(おも)っている時(とき)、その妹(いもうと)が台所(だいどころ)から湯(ゆ)を持(も)ってきました。お茶(ちゃ)を淹(い)れて私(わたし)に茶碗(ちゃわん)を渡(わた)しました。お茶(ちゃ)を一口(ひとくち)飲(の)むと、あっという間(ま)に嫌(いや)な感(かん)じが消(き)えました。おまじないかと思(おも)いましたが、おまじないの気配(けはい)はありませんでした」

「『素晴(すば)らしい』と言(い)って、私(わたし)は彼(かれ)の父親(ちちおや)に茶碗(ちゃわん)を渡(わた)しました。皆(みな)がお茶(ちゃ)を飲(の)み終(お)わるころには、部屋(へや)の中(なか)の雰囲気(ふんいき)はずっと心地良(ここちよ)いものになっていました」

「彼(かれ)が父親(ちちおや)に徐々(じょじょ)に切(き)り出(だ)しました。『お父(とう)さん、この女(おんな)の人(ひと)と結婚(けっこん)したいんだよ』と言(い)うと、『何(なん)だって!』と両親(りょうしん)と私(わたし)は同時(どうじ)に言(い)いました。鼓動(こどう)がドクンと脈打(みゃくう)ちました。胸(むね)の奥(おく)から、『私(わたし)もしたい』という小(ちい)さな声(こえ)が聞(き)こえました」

「『息子(むすこ)や、このお嬢(じょう)さんの家系(かけい)は一体(いったい)どこなんだろう?二人(ふたり)が毎日(まいにち)会(あ)っているのなら、お嬢(じょう)さんはこの近(ちか)くに住(す)んでいるに違(ちが)いない。しかし、この辺(あた)りの人々(ひとびと)を全員(ぜんいん)知(し)っているこの俺(おれ)でも、今(いま)までこのお嬢(じょう)さんに会(あ)ったことはなかった」

「『危(あぶ)ない!』と思(おも)いました。私(わたし)は人間(にんげん)ではない――私(わたし)は狐(きつね)だ――と気付(きづ)かれたくなかったのです。そう考(かんが)えると、すぐに『ごめん』と呟(つぶや)きながら質問(しつもん)を忘(わす)れさせる呪(のろ)いをかけました」

「そしてできるだけ早(はや)く失礼(しつれい)のないように立(た)ち去(さ)りました。次(つぎ)の日(ひ)、彼(かれ)の修行(しゅぎょう)を見(み)ながら、彼(かれ)が少(すこ)し下手(へた)になったように感(かん)じました。呪(のろ)いが彼(かれ)の腕(うで)を鈍(にぶ)らせたのだと思(おも)いました」

「その日(ひ)、練習(れんしゅう)の後(あと)に話(はな)し合(あ)って、彼(かれ)と結婚(けっこん)することを承諾(しょうだく)しました。でも、実家(じっか)に住(す)みたくないと言(い)いました。結婚(けっこん)する前(まえ)に、自分(じぶん)の家(いえ)を手(て)に入(い)れなければならないと思(おも)いました。『しかし、それは駄目(だめ)だよ。結婚(けっこん)した子供(こども)が歳取(としと)った親(おや)と住(す)んで、彼(かれ)らのお世話(せわ)をしてあげるのが親孝行(おやこうこう)なのだ』と彼(かれ)は答(こた)えました」

「それを聞(き)くと、心(こころ)が愛(あい)でいっぱいになりました。この人(ひと)と結婚(けっこん)しなければならない!それでも、愛(あい)より悩(なや)みが勝(まさ)ったのです。ですから、やめろと言(い)う心(こころ)の囁(ささや)きを無視(むし)して、また呪(のろ)いをかけました。今度(こんど)は私(わたし)に同意(どうい)させるための呪(のろ)いでした」

「そうして、しばらくして彼(かれ)は自分(じぶん)の家(いえ)を手(て)に入(い)れて、私(わたし)と結婚(けっこん)してくれました。嬉(うれ)しかったのですが、残念(ざんねん)ながら間(ま)もなく夫婦(ふうふ)の間(あいだ)に諍(いさか)いが起(お)きるようになりました。私(わたし)と一緒(いっしょ)に出(で)かけるかとか、綺麗(きれい)な着物(きもの)を買(か)ってくれるかとかいったような些細(ささい)な事(こと)でも、すぐに私(わたし)の言(い)う通(とお)りにしてくれないと、また呪(のろ)いました」

「そのように呪(のろ)いが呪(のろ)いの上(うえ)に積(つ)み重(かさ)なりました。武器(ぶき)の腕前(うでまえ)はだんだん落(お)ちていきました。ようやく村人(むらびと)も彼(かれ)の様子(ようす)がおかしいと気付(きづ)いて、病気(びょうき)にでもなったのかと尋(たず)ねました」

「突然(とつぜん)、殿(との)からの使者(ししゃ)が来(き)ました。戦(いくさ)だから、侍(さむらい)は全員(ぜんいん)城(しろ)に集(あつ)まれと言(い)いました。こんな状況(じょうきょう)では、行(い)ってはいけないと私(わたし)は言(い)いました。務(つと)めだから、行(い)かないわけにはいかないと彼(かれ)は答(こた)えました」

「私(わたし)はまた彼(かれ)を呪(のろ)おうとしましたが、何(なに)も起(おこ)りませんでした。彼(かれ)の忠誠心(ちゅうせいしん)は私(わたし)の力(ちから)より強(つよ)いのだと思(おも)いました。彼(かれ)が行(い)かなければならないのなら、その前(まえ)に、前(まえ)に掛(か)けた呪(のろ)いを解(と)くべきだと思(おも)いました。すぐに呪(のろ)いを解(と)こうと思(おも)いましたが、何一(なにひと)つ解(と)くことができませんでした。どうやら私(わたし)の力(ちから)が封(ふう)じられているようでした」

「泣(な)きながら、彼(かれ)の出陣(しゅつじん)を見送(みおく)りました。彼(かれ)が戦死(せんし)したら、私(わたし)のせいに違(ちが)いありません。どうして、どうして力(ちから)が封(ふう)じられているのかと思(おも)いながら、その頃(ころ)痛(いた)くなった胸(むね)を軽(かる)く摩(す)りました」

「胸(むね)を摩(す)っていると、ピンとわけに気付(きづ)きました。痛(いた)くなったというのは私(わたし)が身籠(みごも)っているからでした。牝狐(めぎつね)が身重(みおも)になると、赤(あか)ん坊(ぼう)を守(まも)るために、産(う)むまでほとんどの力(ちから)が封(ふう)じられるのです。そういうわけで、呪(のろ)うことも呪(のろ)いを解(と)くこともできませんでした」

「彼(かれ)が無事(ぶじ)で帰(かえ)ってくるように祈(いの)って、来(く)る日(ひ)も来(く)る日(ひ)も待(ま)ちました。しかし、彼(かれ)が帰(かえ)ってくることはありませんでした。それは私(わたし)のせいに違(ちが)いないと悟(さと)りました」

「その後(ご)の数週間(すうしゅうかん)のことはあまり覚(おぼ)えていません。我(われ)に返(かえ)ると、彼(かれ)の実家(じっか)に来(き)ていました。どうしてよいか分(わ)からないまま、そこに住(す)み続(つづ)きました」

「生(い)きていたくありませんでした。でも、彼(かれ)の子(こ)のために生(い)き延(の)びなくてはいけませんでした」

「そこに残(のこ)りたくありませんでした。でも、彼(かれ)の子(こ)のために残(のこ)らなくてはいけませんでした。人間(にんげん)の子供(こども)を狐達(きつねたち)と一緒(いっしょ)に育(そだ)てるわけにはいきません。私(わたし)が愛(あい)している夫(おっと)を何回(なんかい)も呪(のろ)ったのですから、人間(にんげん)を好(す)きではない狐達(きつねたち)は、この子(こ)をその何倍(なんばい)も厳(きび)しく呪(のろ)うだろうと考(かんが)えずにはいられませんでした。ですから、私(わたし)の実家(じっか)に戻(もど)ってこの子(こ)を育(そだ)てることなどできませんでした」

「しかし、人間(にんげん)の世界(せかい)に残(のこ)って呪(のろ)わずに子(こ)を育(そだ)てられる自信(じしん)はもうありませんでした。この子(こ)の世話(せわ)を彼(かれ)の両親(りょうしん)に任(まか)せる他(た)はありませんでした」

「この子(こ)から離(はな)れたくありませんでした。でも、離(はな)れないで済(す)む方法(ほうほう)も思(おも)いつきませんでした」

「そんな葛藤(かっとう)で押(お)しつぶされそうになりながらお腹(なか)が大(おお)きくなる日々(ひび)を過(す)ごしました。ようやく、出産(しゅっさん)の日(ひ)が来(き)ました」

「産(う)む痛(いた)みより子(こ)から離(はな)れなければならないことは何(なん)倍(ばい)も切(せつ)なかったです。それでも、離(はな)れるために産(う)まれた子(こ)を見(み)るのも触(ふ)れるのも拒(こば)みました」

「産(う)むと、力(ちから)の封印(ふういん)が解(と)けました。でも、私(わたし)が狐(きつね)であるとばれたくありませんでした。それで、夜中(よなか)まで待(ま)って、こっそりと家(いえ)を出(で)ていって、わざと川(かわ)まで足跡(あしあと)を残(のこ)しました。そして、本当(ほんとう)の姿(すがた)に戻(もど)って、こちらへ帰(かえ)ってきました」

「でも、心(こころ)の不安(ふあん)を抱(かか)えたまま実家(じっか)に戻(もど)ることなどできませんでした。ですから、こちらはただ彼(かれ)と一緒(いっしょ)に住(す)んでいた家(いえ)の思(おも)い出(で)のための再現(さいげん)です。本物(ほんもの)の住処(すみか)は外(そと)で掘(ほ)られているのです」

「弟(おとうと)のおかげで、一度(いちど)も会(あ)うことの叶(かな)わなかった娘(むすめ)と孫(まご)の生(せい)と死(し)を知(し)らせてもらいました。全(すべ)ては私(わたし)のせいに違(ちが)いありません。天罰(てんばつ)ですもの」と姫(ひめ)は言(い)って、泣(な)き出(だ)しました。

「まあまあ」と家老(かろう)は声(こえ)をかけました。「おばさまがご主人(しゅじん)を傷(きず)つけなかったとは言(い)えないが、侍(さむらい)の妻(つま)の悪事(あくじ)のせいで国(くに)が滅(ほろ)んで殿(との)が二人(ふたり)倒(たお)されたわけではないでしょう。これほど倹(つ)しく暮(く)らしている今(いま)のおばさまが、そんな我(わ)がままな嫁(よめ)と同(おな)じ人(ひと)とは思(おも)えません。いつも元気(げんき)なご子孫(しそん)のゆき様(さま)を訪(たず)ねた方(ほう)がいいと思(おも)います。そろそろ跡継(あとつ)ぎがお産(う)まれになるので、こちらに来(き)たくとも来(こ)れませんでした」

姫(ひめ)は泣(な)きながら家老(かろう)を抱(だ)き締(し)めました。「そんなことはできません。そんなわけには参(まい)りません」と何(なん)度(ど)も繰(く)り返(かえ)してしくしく泣(な)きました。

家老(かろう)は姫(ひめ)の背中(せなか)を撫(な)でました。「いいえ、きっとできますよ。行(い)った方(ほう)がいいですよ」と慰(なぐさ)めました。

姫(ひめ)が泣(な)き伏(ふ)している間中(あいだじゅう)、家老(かろう)はずっと彼女(かのじょ)の背中(せなか)を撫(な)でてやりました。姫(ひめ)が泣(な)き終(お)わってやっと、その話(はなし)は終(お)わり告(つ)げたのでした。

第七十章(だいななじっしょう)

狐(きつね)との決戦(けっせん)

その夜(よる)、家老(かろう)はなぜか目(め)を覚(さ)ましました。どうしたのかと思(おも)っていると、悲鳴(ひめい)が聞(き)こえました。

「やめて!誰(だれ)か、助(たす)けて!」狐子(ここ)さんの声(こえ)かと家老(かろう)が思(おも)った瞬間(しゅんかん)、部屋(へや)の外(そと)へ向(む)かって走(はし)り出(だ)していました。

部屋(へや)の外(そと)のどこにも狐子(ここ)の姿(すがた)は見当(みあた)りませんでした。狐(きつね)の群(むれ)が部屋(へや)の出口(でぐち)を取(と)り囲(かこ)んでいました。家老(かろう)が足(あし)を止(と)めて背後(はいご)を振(ふ)り返(かえ)ると、もうそのには出口(でぐち)への道(みち)を遮(さえぎ)る狐(きつね)の姿(すがた)がありました。

「狐子(ここ)さん!どこだ?無事(ぶじ)か?」と家老(かろう)は呼(よ)びかけました。

狐(きつね)達(たち)は弾(はじ)けるようにあざ笑(わら)いました。「狐子(ここ)めはここにいないぞ」と言(い)う声(こえ)が聞(き)こえました。

「でも、たったいま狐子(ここ)さんの声(こえ)が聞(き)こえました」と家老(かろう)が言(い)うと、またもや狐(きつね)達(たち)はどっと笑(わら)い転(ころ)げました。

「これか?『助(たす)けて!』」再(ふたた)び狐子(ここ)のものと思(おも)われる声(こえ)が聞(き)こえました。「それは我々一族(われわれいちぞく)の名誉(めいよ)を汚(けが)す人間(にんげん)の貴様(きさま)を誘(おび)き寄(よ)せる餌(えさ)だったんだぞ。そんなにも簡単(かんたん)な呪(のろ)いで、貴様(きさま)をその強(つよ)い呪(のろ)いで固(かた)く守(まも)られている部屋(へや)から誘(おび)き出(だ)せようとはな」

家老(かろう)は辺(あた)りを見回(みまわ)しました。(危(あぶ)ない!それほど狐(きつね)が多(おお)くては、勝(かち)ち目(め)はない!)と思(おも)い、あっと言(い)う間(ま)に狐(きつね)と遣(や)り合(あ)う計略(けいりゃく)を思(おも)いつきました。

「やれやれ。お前(まえ)ら、怯(おび)えているみたいだな。人間(にんげん)がそれほど怖(ひわ)いのか?武器(ぶき)もなく防具(ぼうぐ)もない人間(にんげん)を一人(ひとり)倒(たお)すために、二十数匹(にじゅうすうひき)の狐(きつね)が要(い)るのか?」と言(い)って、腕組(うでぐ)みして、首(くび)を傾(かし)げました。「それとも、俺(おれ)みたいな汚(よご)れた生(いき)き物(もの)と一対一(いちたいいち)で戦(たたか)うことはしたくないのか?」

家老(かろう)が言(い)うと、狐(きつね)が一匹(いっぴき)円陣(えんじん)の中(なか)に進(すす)み出(で)ました。「黙(だま)れ、人間(にんげん)め!俺一人(おれひとり)だけで百頭(ひゃくとう)ほどの人間(にんげん)と戦(たたか)っても、当然(とうぜん)俺様(おれさま)の勝利(しょうり)だぞ。貴様(きさま)が従姉(いとこ)をたらしこんだり伯母上(おばうえ)を泣(な)かしたりすることが許(ゆる)せない!」と言(い)って、三本(さんぼん)の尻尾(しっぴ)を振(ふ)り回(まわ)しました。

「何(なに)を!誰(だれ)かをたらしこんだ覚(おぼ)えはないぞ!狐子(ここ)さんのことを言(い)うなら、俺(おれ)に出会(であ)う前(まえ)から人間(にんげん)の世界(せかい)に興味(きょうみ)があったのだそうだ。俺(おれ)より人間(にんげん)の世界(せかい)が好(す)きなだけだ。おばさまのことなら、質問(しつもん)を一(ひと)つしただけだ。お前(まえ)らに怨(うら)まれる覚(おぼ)はない」と家老(かろう)は言(い)って、構(かま)えました。

「嘘(うそ)をつくな!貴様(きさま)のようなものが伯母上(おばうえ)を『おばさま』と呼(よ)ぶとは許(ゆる)せない!くらえ!」と狐(きつね)は言(い)って、家老(かろう)の喉(のど)へ向(む)かって跳(と)んできました。

(速(はや)い!速(はや)すぎる!)と家老(かろう)は思(おも)って、横(よこ)へ身(み)を躱(かわ)し、狐(きつね)の体(からだ)を掴(つか)みかかりましたが、握(にぎ)ったのは数本(すうほん)の毛(け)だけでした。相手(あいて)に振(ふ)り返(かえ)ると、右腕(みぎうで)に火(ひ)で焼(や)かれたような感(かん)じがあって、何(なに)か温(あたた)かいものが流(なが)れているのに気(き)がつきました。――血(ち)でした。

また相手(あいて)が駆(かけ)けてきて、また躱(かわ)そうとしましたが、左足(ひだりあし)が動(うご)きませんでした。足(あし)が動(うご)けなくて、家老(かろう)は地(ち)に転(ころ)がり落(お)ちました。「何(なん)だ、これは?」と言(い)って、動(うご)かない足(あし)を見(み)ると、草(くさ)が足(あし)の回(まわ)りに纏(まつ)わり付(つ)けていることに気付(きづ)きました。――呪(のろ)っているに違(ちが)いありません。

家老(かろう)がどうにか立(た)ち上(あ)がって、相手(あいて)の行方(ゆくえ)を確(たし)かめるために見回(みまわ)すと、背後(はいご)にいました。どうにか身(み)をぎこちなく回(まわ)して相手(あいて)に向(む)かうと、相手(あいて)はもうそこから消(き)えていました。後(うし)ろへ振(ふ)り返(かえ)ろうとしましたが、今度(こんど)は、両足(りょうそく)が動(うご)きませんでした。見下(みお)ろすと、草(くさ)はもう左足(ひだりあし)は膝(ひざ)までも、そして右足(みぎあし)は足首(あしくび)までも縛(しば)っていました。

突然(とつぜん)、何(なに)か重(おも)たいものが背後(はいご)から肩(かた)の間(あいだ)に当(あ)たり、家老(かろう)を前(まえ)へ倒(たお)しました。足(あし)が動(うご)かないから、腰(こし)をかがめ手(て)で転倒(てんとう)を食(く)い止(と)めました。

目(め)の前(まえ)の草(くさ)が両手(りょうて)へと伸(の)びて来(き)ました。立(た)ち上(あ)がろうとすると、何(なに)か重(おも)たい物(もの)が背中(せなか)の上(うえ)に伸(の)しかかりました。背中(せなか)の上(うえ)に狐(きつね)が立(た)っていました。

もはや草(くさ)は両手(りょうで)の回(まわ)りで縛(しば)り付(つ)いていました。指(ゆび)一本(いっぽん)さえ動(うご)かせませんでした。「狐子(ここ)さん、ごめんなさい。部屋(へや)を出(で)るなと言(い)ったのに…」と叫(さけ)びました。

相手(あいて)は背中(せなか)から飛(と)び降(お)りました。「黙(だま)れ、人間(にんげん)め!狐(きつね)の名(な)を汚(けが)すな!」と言(い)いました。

「狐子(ここ)さんのことを汚(けが)そうなどとは全(まった)く思(おも)っていない」と家老(かろう)が言(い)うと、「まだ汚(けが)そうとするのか?死(し)ね!」と相手(あいて)は答(こた)え、たくさんの白(しろ)い鋭利(えいり)な牙(きば)が鋭(するど)く光(ひか)る口(くち)を広(ひろ)く開(ひら)きました。

(もうだめだ。何(なに)もできない。狐子(ここ)さんといたいのに、ここで死(し)ぬに違(ちが)いない)と思(おも)って、頭(あたま)を垂(た)れて、目(め)を閉(と)じて、牙(きば)の感触(かんしょく)を待(ま)ち受(う)けました。

第七十一章(だいななじゅういっしょう)

狐子(ここ)の勝負(しょうぶ)

突然(とつぜん)、聞(き)き慣(な)れた声(こえ)が聞(き)こえました。「やめて!彼(かれ)の髪(かみ)の毛(け)一本(いっぼん)にでも触(ふ)れたら、決(けっ)して許(ゆる)さないから!」狐子(ここ)が来(き)たに違(ちが)いありません。

声(こえ)の方(ほう)へ目(め)を向(む)けると、家老(かろう)を取(と)り囲(かこ)む狐(きつね)の群(む)れに向(む)かって歩(ある)いてくる四本(よんほん)の尻尾(しっぽ)の狐(きつね)が見(み)えました。

(四本(よんほん)もの尻尾(しっぽ)!?最近(さいきん)新(あら)たに三本目(さんぼんめ)を与(あた)えられたばかりじゃなかったか?あれは本当(ほんとう)に狐子(ここ)なのだろうか?)と家老(かろう)は思(おも)っていると、狐(きつね)の群(む)れは狐子(ここ)に道(みち)を開(あ)けるように下(さ)がり、狐子(ここ)が中(なか)に入(はい)ると、再(ふたた)び周(まわ)りを囲(かこ)みました。

狐子(ここ)は家老(かろう)の傍(かたわ)らに行(い)くと、前足(まえあし)で地面(じめん)を叩(たた)きました。あっという間(あいだ)に、手足(てあし)を縛(しば)っている草(くさ)は茶色(ちゃいろ)に変(か)わり、地面(じめん)へ落(お)ちました。

「部屋(へや)に戻(もど)った方(ほう)がいい」と、狐子(ここ)は相手(あいて)に向(む)き直(なお)りながら言(い)いました。

家老(かろう)は部屋(へや)の方(ほう)へ向(む)き、その入(い)り口(ぐち)の前(まえ)にいる狐(きつね)を不安(ふあん)そうに一瞥(いちべつ)しました。「しかし…」

闇(やみ)の中(なか)から声(こえ)が聞(き)こえてきました。「心配(しんぱい)しないで、お客様(きゃくさま)は私(わたし)に任(まか)せてください」と言(い)う声(こえ)がしました。彼(かれ)を囲(かこ)んでいた狐(きつね)たちは、彼(かれ)に向(む)かって歩(ある)いてくる声(こえ)の主(ぬし)を一目(ひとめ)見(み)ると、引(ひ)き下(さ)がってゆきました。八狐(はちこ)でした。「こちらへ来(き)てください」

家老(かろう)は狐子(ここ)を物問(ものと)いたげに見(み)ました。「しかし…」

「狐子(ここ)様(さま)のことでしたら心配(しんぱい)ご無用(むよう)でございます。あの方(かた)なら従弟(いとこ)とのお遊(あそ)びにも付(つ)き合(あ)えるでしょう。でも、そういう遊(あそ)び方(かた)は人間(にんげん)には危(あぶ)ないのです。こちらへどうぞ」

家老(かろう)が八狐(はちこ)に近付(ちかづ)くと、「私(わたくし)の隣(となり)に座(すわ)ってください。この勝負(しょうぶ)が見(み)たくないのなら、部屋(へや)に戻(もど)ってもよろしいですが、勝負(しょうぶ)が終(お)わるまで、決(けっ)して狐子達(ここたち)には近(ちか)づかないでください」と八狐(はちこ)は言(い)いました。

それから家老(かろう)は八狐(はちこ)の横(よこ)に座(すわ)って、狐子(ここ)へ視線(しせん)を向(む)けました。

狐子(ここ)は一歩(いっぽ)ずつ相手(あいて)ににじり寄(よ)りました。「愚(おろ)か者(もの)!父上(ちちうえ)の『人間(にんげん)の客人(きゃくじん)に手(て)出(だ)すな』という簡単(かんたん)な教(おし)えすら守(まも)れないの?それとも、何(なに)をしてはいけないかが分(わ)からないほどの空(うつ)け者(もの)なの?」

「何(なに)も分(わ)かっていないのはお前(まえ)のほうだぞ。いつもいつも人間(にんげん)の世界(せかい)に入(い)り浸(びた)り、家族(かぞく)の状態(じょうたい)が分(わ)からなくなりやがったに違(ちが)いない。父親(ちちおや)が族長(ぞくちょう)であるおかげでこの数ヶ月(すうかげつ)の内(うち)に位(い)が上(あ)がり、尻尾(しっぽ)が二本(にほん)さらに与(あた)えられたけれど、お前(まえ)の父親(ちちおや)は家族(かぞく)が人間(にんげん)の中(なか)に混(ま)じっているせいで落(お)ちぶれ、倒(たお)されるのも時間(じかん)の問題(もんだい)だろう。だから、お前(まえ)はもう父親(ちちおや)の守護(しゅご)には頼(たよ)れない。尻尾(しっぽ)が四本(よんほん)といっても、人間(にんげん)と長(なが)く暮(く)らしていたような奴(やつ)は、俺様(おれさま)ほどの呪力(じゅりょく)はもはやないだろう」

「本気(ほんき)でそう思(おも)っているの?あんた、子供(こども)の頃(ころ)からあんたと勝負(しょうぶ)をすると、いつも私(わたし)の勝利(しょうり)だった。今(いま)だってそうでしょうよ。あんた程度(ていど)相手(あいて)、誰(だれ)の手助(てだす)けも要(い)らない。まして父上(ちちうえ)の手(て)を煩(わずら)わす必要(ひつよう)なんて。実力(じつりょく)を比(くら)べましょう。かかってきなさい。来(こ)ないならこっちから行(い)くわよ」と言(い)うと、狐子(ここ)はもう一歩(いっぽ)従弟(いとこ)の方(ほう)へ進(すす)み寄(よ)りました。

突然(とつぜん)、狐子(ここ)の周(まわ)りにある草(くさ)が人間(にんげん)の高(たか)さほどに伸(の)び、狐子(ここ)を掴(つか)もうとするかのように彼女(かのじょ)の方(ほう)へ伸(の)びてきました。でも、狐子(ここ)に触(ふ)れる前(まえ)に、草(くさ)の動(うご)きは止(と)まって、相手(あいて)の方(ほう)へ向(む)かっていきました。あっという間(ま)に、草(くさ)は茶色(ちゃいろ)に変(か)わり、地面(じめん)に落(お)ちました。

狐子(ここ)はまた従弟(いとこ)の方(ほう)へ一歩(いっぽ)、にじり寄(よ)りました。

すると、強(つよ)い風(かぜ)が吹(ふ)き始(はじ)めました。暗(くら)い空(そら)から旋風(つむじかぜ)が狐子(ここ)に向(む)かって吹(ふ)いてきました。しかし、狐子(ここ)に届(とど)く前(まえ)に、旋風(つむじかぜ)は相手(あいて)の方(ほう)に向(む)きを変(え)えました。あっという間(ま)に、旋風(つむじかぜ)も消(き)えて辺(あた)りは静(しず)まりました。

また狐子(ここ)は一歩(いっぽ)従弟(いとこ)に近付(ちかづ)きました。

次(つぎ)は、狐子(ここ)の周(まわ)りに火柱(ひばしら)が噴(ふ)き出(だ)し、狐子(ここ)の姿(すがた)を隠(かく)しました。突然(とつぜん)、炎(ほのお)は相手(あいて)の方(ほう)まで広(ひろ)がって、焦(こ)げた毛(け)の臭(くさ)いがしました。

「狐子(ここ)さん!」と家老(かろう)が言(い)って、立(た)ち上(あ)がろうとすると、八狐(はちこ)は袖(そで)を掴(つか)んで、家老(かろう)を止(と)めました。「邪魔(じゃま)をしてはいけません。ここで見守(みまも)り、狐子(ここ)様(さま)を信(しん)じなさい」

家老(かろう)が座(すわ)ってまた狐子達(ここたち)に視線(しせん)を向(む)けると、炎(ほのお)はすでに消(き)えていました。狐子(ここ)の様子(ようす)には変化(へんか)がなく、しかし相手(あいて)の毛(け)はあちこち黒(くろ)く焦(こ)げました。また狐子(ここ)が一歩(いっぽ)進(すす)むと、今度(こんど)は相手(あいて)が一歩(いっぽ)後(うし)ろへ退(ど)きました。

次(つぎ)から次(つぎ)へ呪文(じゅもん)の攻撃(こうげき)が狐子(ここ)を襲(おそ)いました。狐子(ここ)が歩(あゆ)み寄(よ)る度(たび)に、攻撃(こうげき)は相手(あいて)の方向(ほうこう)に歪(ゆが)んで、呪文(じゅもん)は取(と)り消(け)されました。その都度(つど)、狐子(ここ)は一歩(いっぽ)進(すす)み、相手(あいて)は後(うし)ろへ退(ど)きました。ついに、相手(あいて)は円陣(えんじん)の縁(ふち)に追(お)い詰(つ)められ、もう一歩(いっぽ)も退(ど)けなくなりました。

鼻(はな)と鼻(はな)が触(ふ)れ合(あ)う所(ところ)まで追(お)いつめられ、従弟(いとこ)は仰向(あおむ)けに倒(たお)れました。「畜生(ちくしょう)!また、お前(まえ)の勝(かち)ちだ。好(す)きにしろ」

「一(ひと)つだけ聞(き)きたいことがある。誰(だれ)が父上(ちちうえ)を倒(たお)すと思(おも)っている?」と狐子(ここ)は言(い)いました。

「伯母姫(おばひめ)だ。誰(だれ)もがそう言(い)っている。伯母姫(おばひめ)は以前(いぜん)人間(にんげん)に浚(さら)われたから、人間(にんげん)のことが嫌(きら)いだ。だから、人間(にんげん)に関(かか)わっている族長(ぞくちょう)を倒(たお)したいんだ」

狐子(ここ)はしばらく呆然(ぽうぜん)と座(すわ)っていましたが、それから急(きゅう)に仰向(あおむ)けに転(ころ)がったかと思(おも)うと、ぴくぴく震(ふる)えながら、妙(みょう)な声(こえ)を出(だ)し始(はじ)めました。

「狐子(ここ)さん!大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」と家老(かろう)は呼(よ)びかけ、狐子(ここ)のところに走(はし)っていきました。そこに着(つ)くと、狐子(ここ)は笑(わら)い転(ころ)げていたのだと気付(きづ)きました。

少(すこ)しずつ笑(わら)いは治(おさ)まり、やっとまた話(はな)せるようになりました。「狐一(こいち)君(くん)、あんたは本当(ほんとう)に狐界一(きつねかいいち)の間抜(まぬ)けだよ。伯母姫(おばひめ)が父上(ちちうえ)を倒(たお)したいなんて、人間(にんげん)に浚(さら)われたなんて、そんなことはありえないよ」と言(い)うと、人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)けて、家老(かろう)に手(て)を取(と)られて立(た)ち上(あ)がりました。

「しかし、誰(だれ)もがそう言(い)っているよ」と狐一(こいち)は抗議(こうぎ)しました。

「そんなことなら、誰(だれ)も伯母姫(おばひめ)の秘密(ひみつ)を知(し)らないからだ」と狐子(ここ)は答(こた)えました。「私(わたし)は一部(いちぶ)しか知(し)らないが、それはありえないと分(わ)かるよ」

「そうですとも」闇(やみ)の中(なか)から声(こえ)がしました。声(こえ)の方(ほう)を向(む)くと、二(ふた)つの姿(すがた)が円陣(えんじん)に近付(ちかづ)いてくるのがぼんやり見(み)えました。「弟(おとうと)が昔(むかし)から私(わたし)に言(い)っている通(とお)り、秘密(ひみつ)を伝(つた)えた方(ほう)がよさそうです。明日(あした)、全(ぜん)一族(いちぞく)の評議(ひょうぎ)をしましょうか?そこで、私(わたし)の人間(にんげん)との間(あいだ)で犯(はん)した罪(つみ)を皆(みな)に明(あき)らかにします」そう言(い)ったのは尻尾(しっぽ)を八本(はっぽん)持(も)つ狐(きつね)でした。姫(ひめ)だったのでしょう。

「よし。明日(あした)の昼(ひる)でいい。狐一(こいち)君(くん)、お前(まえ)をどうしてやったらいいのか分(わ)からない」姫(ひめ)の供人(ともびと)は尻尾(しっぽ)を七本(ななほん)持(も)っていました。族長(ぞくしょう)に違(ちが)いありませんでした。

「人間(にんげん)の世界(せかい)を経験(けいけん)させた方(ほう)がいいでしょうか?」と姫(ひめ)は尋(たず)ねました。

「そうかもしれない。しかし、見張(みは)りが必要(ひつよう)だな…。狐子(ここ)や、ゆき殿(どの)のところに戻(もど)る時(とき)、狐一(こいち)も一緒(いっしょ)に連(つ)れて行(い)くのだ。ゆき殿(どの)夫婦(ふうふ)が許(ゆる)せば、そこで一年間(いちねんかん)預(あず)かってほしい」

狐子(ここ)ははっと息(いき)を飲(の)みました。「お父(とう)さん、それは大変(たいへん)!この間抜(まぬ)けは人間(にんげん)の城(しろ)などへ行(い)ったら、問題(もんだい)を起(お)こすことしかしないでしょう」

狐一(こいち)も声(こえ)を上(あ)げました。「問題(もんだい)を起(お)こすのはこの人間好(にんげかず)きな尻(しり)の軽(かる)い雌狐(めぎつね)めだろう!こんな奴(やつ)と一緒(いっしょ)に行(い)くなんて、冗談(じょうだん)じゃない!」

「これは族長(ぞくちょう)としての命令(めいれい)だ。この一族(いちぞく)の人間(にんげん)に対(たい)しての憎(にく)しみを途絶(とだ)えさせたい。私(わたし)たち一族(いちぞく)の敵(てき)はあの国(くに)の人間(にんげん)じゃない。この一族(いちぞく)にも人間(にんげん)の国(くに)にとっても、敵(てき)は妖怪(ようかい)なんだ。それで、手始(てはじ)めにお前(まえ)が人間(にんげん)に慣(な)れて、人間(にんげん)の風俗(ふうぞく)習慣(しゅうかん)を習(なら)ってもらいたい。分(わ)かったな!?」

「あ、は、はい、族長(ぞくちょう)様(さま)」と狐一(こいち)は従順(じゅうじゅん)に答(こた)えました。

「分(わ)かりました、お父様(とうさま)」と狐子(ここ)は力強(ちからづよ)く答(こた)えました。

第七十二章(だいななじゅうにしょう)

若殿(わかとの)との茶席(ちゃせき)

一方(いっぽう)、ゆきは、若殿(わかとの)の父親(ちちおや)がやってくるので、その準備(じゅんび)を取(と)り仕切(しき)っていました。

日(ひ)が沈(しず)んだ後(あと)、ゆきは部屋(へや)に戻(もど)って、寝台(しんだい)に横(よこ)になりました。

「お疲(つか)れ様(さま)でございます。おそれながら、今晩(こんばん)のお茶(ちゃ)のお客様(きゃくさま)がもうそろそろいらっしゃるかと思(おも)います。お召(め)し替(か)えをお手伝(てつだ)いいたしましょうか」と女将(おかみ)は訊(たず)ねました。

「ああ、もう、本当(ほんとう)に疲(つか)れてしまったわ。今晩(こんばん)、ゆっくり休(やす)みたい」とゆきは大(おお)きく溜(た)め息(いき)を吐(つ)きました。「全(すべ)てを揃(そろ)えることがこれほど難(むずか)しいとは思(おも)わなかったわ。座席(ざせき)に座(すわ)っているだけだと思(おも)っていたのに、一日中(いちにちじゅう)城(しろ)のあちこちに行(い)って、人(ひと)に会(あ)い、必要(ひつよう)なものが全(すべ)て揃(そろ)っていることを確認(かくにん)しなければならなかったわ。何(なに)か足(た)りないものがあると、どうやって手(て)に入(い)れたらいいのか、他(ほか)に何(なに)かその代(か)わりに使(つか)えるものがあるかどうかを尋(たず)ねなければならなかった。その間中(あいだじゅう)ずっと赤(あか)ちゃんがお腹(なか)を蹴(け)っている」

「今晩(こんばん)のお客様(きゃくさま)はお断(ことわ)りにならないのではないかと存(ぞん)じます」と女将(おかみ)は答(こた)えました。

「え?誰(だれ)かしら」とゆきが言(い)うと、女将(おかみ)は単(たん)に「秘密(ひみつ)です。もうすぐお分(わ)かりになります」と答(こた)えました。

ゆきは、客(きゃく)は訝(いぶか)しく思(おも)いながら身(み)を起(お)こすと、女将(おかみ)に手伝(てつだ)わせて茶会用(ちゃかいよう)の着物(きもの)に袖(そで)を通(とお)しました。そして、ゆっくりと道具(どうぐ)を整(ととの)え始(はじ)めました。

突然(とつぜん)、後(うし)ろから声(こえ)が聞(き)こえました。「二人(ふたり)で茶席(ちゃせき)を楽(たの)しむのは久(ひさ)しぶりだな」ゆきが振(ふ)り返(かえ)ると、若殿(わかとの)が隣子(しょうじ)を開(あ)けて戸口(とぐち)に立(た)っていました。

「あなたが今晩(こんばん)のお客様(きゃくさま)ですか」とゆきは驚(おどろ)いたように尋(たず)ねると、「違(ちが)う。今日(きょう)はお前(まえ)の番(ばん)だよ。上座(かみざ)に座(すわ)りなさい。俺(おれ)が点前(てまえ)をみせる。お前(まえ)ほど上手(じょうず)ではないが」と若殿(わかとの)は答(こた)えました。

ゆきが座(すわ)っていることを確認(かくにん)すると、若殿(わかとの)はお点前(てまえ)を披露(ひろう)しました。

ゆきがお茶(ちゃ)を飲(の)んでから、若殿(わかとの)は、「なんでそんな身重(みおも)の体(からだ)で城(しろ)の見回(みまわ)りなどしておるのだ?家老(かろう)の家来(けらい)どねを信(しん)じないのか?」と尋(たず)ねました。

「信(しん)じています。ただ…茶席(ちゃせき)で会(あ)ってはいても、誰(だれ)がどこで何(なに)をしているのかは知(し)らないから」とゆきは答(こた)えました。

「やめるべきだ。お前(まえ)のような目上(めうえ)の者(もの)が自(みずか)ら配下(はいか)どもの持(も)ち場(ぱ)に行(い)けば、皆(みな)が働(はたら)きにくくなるだろう。それに、そんなに長(なが)い間(あいだ)自分(じぶん)の席(せき)を離(はな)れていると、机(つくえ)の上(うえ)に山(やま)ほどの報告(ほうこく)、雑務(ざつむ)で溢(あふ)れ返(かえ)ることになる。それを理解(りかい)した上(うえ)で彼(かれ)らを扱(あつか)うのが、我々(われわれ)の本当(ほんとう)の仕事(しごと)なんだよ」と若殿(わかとの)は説明(せつめい)しました。「誰(だれ)がどこで何(なに)かをしているかなんて、知(し)る必要(ひつよう)はない。結果(けっか)があれば充分(じゅうぶん)だ。実務(じつむ)は家来(けらい)たちに任(まか)せろ」

「なるほど。でも、報告書(ほうこくしょ)を読(よ)むだけでは、それが真実(しんじつ)かどうかかどうして分(わ)かりましょう?」とゆきは答(こた)えました。

「それは難(むずか)しい。残念(ざんねん)なことに、主(あるじ)が聞(き)きたいと思(おも)っていることしか報告(ほうこく)しない家来(けらい)が多(おお)すぎる。報告書(ほうこくしょ)をちゃんと読(よ)み、そして、その報告(ほうこく)をする家来(けらい)とよく相談(そうだん)し、できるだけ状況(じょうきょう)を確認(かくにん)すべきだ。そうすれば、嘘(うそ)が分(わ)かるかもしれない。真相(しんそう)が分(わ)かれば、できるだけその嘘(うそ)はその家来(けらい)によるものなのか、彼(かれ)の部下(ぶか)からなのものなのかを確認(かくにん)しなければならない。嘘(うそ)の程度(ていど)に応(おう)じて罰(ばつ)を与(あた)える」と若殿(わかとの)は説明(せつめい)しました。

「なるほど。それならば、どうして私(わたし)と一緒(いっしょ)にこの国(くに)を旅(たび)したの?その間(あいだ)、そういう報告(ほうこく)が山(やま)ほど机(つくえ)にあったでしょう?」とゆきは尋(たず)ねました。

若者(わかとの)は顔(かお)を赤(あか)らめて、俯(うつむ)きました。しばらくすると、頭(あたま)を上(あ)げて、「理由(りゆう)とえば、一(ひと)つにはこの国(くに)を個人的(こじんてき)に知(し)りたかったこと。もう一(ひと)つは新(あたら)しい家老(かろう)の能力(のうりょく)を試(ため)したかったこと。残(のこ)りは嫁(よめ)ともっと親(した)しくなりたかったからだ」

ゆきも頬(ほお)を赤(あか)らめました。「そうなんですか?あっ!蹴(け)ってる!分(わ)かりますか?」というと、若殿(わかとの)の手(て)を取(と)って、お腹(なか)に優(やさ)しく押(お)しつけました。

障子(しょうじ)の外(そと)に座(すわ)って二人(ふたり)の話(はなし)を聞(き)いていた女将(おかみ)は、今夜(こんや)茶席(ちゃせき)を設(もう)けて本当(ほんとう)に良(よ)かったと思(おも)い、にっこりと微笑(ほほえ)みました。

第七十三章(だいななじゅうさんしょう)

城(しろ)へ戻(もど)る

次(つぎ)の日(ひ)から、ゆきは若殿(わかとの)の勧(すす)め従(したが)うように努め(つと)めました。報告書(ほうこくしょ)を読(よ)んだり、家来(けらい)と若殿(わかとの)と評議(ひょうぎ)をしたり、家来(けらい)がしていることよりも、むしろまだしていないことを考(かんが)えようとしたりしました。

数日後(すうじつご)、家老(かろう)たちが城(しろ)に戻(もど)りました。家老達(かろうたち)はすぐにゆきと若殿(わかとの)のもとに参上(さんじょう)しましたが、その中(なか)には見知(みし)らぬ若者(わかもの)の姿(すがた)もありました。

「狐子(ここ)、本当(ほんとう)にこんな姿(すがた)をしなきゃならないのか?服(ふく)を着(き)るのが嫌(いや)だ。あちこちに痒(かゆ)くなってしまってしまうからな」と若者(わかもの)は尻(しり)を掻(か)いて言(い)いました。

「狐一(こいち)のバカ!この国(くに)ではこのお方(かた)の位(くらい)が一番(いちばん)お偉(えら)いのですよ!丁寧(ていねい)にしなさい!」と狐子(ここ)は従弟(いとこ)に呟(つぶや)いてから、若殿(わかもの)に向(む)かって会釈(えしゃく)をしました。「お殿様(とのさま)、こちらは私(わたくし)の従弟(いとこ)なのでございます。お殿様(とのさま)がお許(ゆる)しくだされば、一年(いちねん)ほど彼(かれ)をこちらでご奉公(ほうこう)させて頂(いただ)いて、人間(にんげん)のことを少(すこ)しでも習(なら)うようにと私(わたくし)どもの族長(ぞくちょう)は望(のぞ)んでおります。よろしくお願(ねが)いいたします」そしてまた狐一(こいち)に振(ふ)り返(かえ)って、促(うなが)すように目配(めくば)せしました。

「俺(おれ)は」と狐一(こいち)は始(はじ)めると、狐子(ここ)の視線(しせん)で刺(さ)されたかのように口(くち)を止(と)めました。「あ、いや、丁寧(ていねい)に、分(わ)かった」と呟(つぶや)いた後(あと)で、再(ふたた)び自己紹介(じこしょうかい)を始(はじ)めました。「僕(ぼく)は狐一(こいち)と申(もう)します。よろしくお願(ねが)いします」と言(い)って、軽(かる)く一礼(いちれい)をしました。

「従弟(いとこ)をお許(ゆる)しください。まだ人間(にんげん)の習慣(しゅうかん)があまり分(わ)からないのです」と狐子(ここ)は謝(あやま)りました。

「やれやれ。従弟(いとこ)と申(もう)すのだな。ゆき殿(どの)もか?」と若殿(わかとの)は言(い)って、顎(あご)を撫(な)でました。狐子(ここ)が頷(うなず)くと、若殿(わかとの)は続(つづ)けました。「ゆき殿(どの)が家族(かぞく)がないというのに、縁者(えんじゃ)はどんどん増(ふ)やしているようだな。狐(きつね)をだよね?」狐子(ここ)はまた頷(うなず)きました。「よし、その狐一(こいち)とかいう者(もの)に職(しょく)を与(あた)えることは家老(かろう)に任(まか)せる」

家老(かろう)は傷(きず)ついた腕(うで)を撫(な)でました。「何(なに)か適当(てきとう)な職(しょく)を考(かんが)えます」と言(い)いました。

狐一(こいち)は唾(つば)を呑(の)みました。「姉(ねえ)さん、どうしよう?あいつは何(なに)か嫌(いや)な職(しょく)に就(つ)かせるに違(ちが)いない」と狐子(ここ)に言(い)いました。

「構(かま)わない。そうなるのは、自業自得(じごじとく)じゃない?」と狐子(ここ)は言(い)って、狐一(こいち)に背(せ)を向(む)け、ゆきと喋(しゃべ)り始(はじ)めました。

琵琶(びわ)法師(ほうし)がにっこりと微笑(ほほえ)み、そっとその光景(こうけい)を記憶(きおく)の中(なか)に留(とど)めました。なんと面白(おもしろ)い話(はなし)に成(な)り行(ゆ)きだろう、と思(おも)いました。

第七十四章(だいななじゅうよんしょう)

狐一(こいち)と下女(げじょ)

家老(かろう)は狐一(こいち)に琵琶(びわ)法師(ほうし)と同(おな)じ部屋(へや)を宛(あて)がい、「明日(あした)、朝(あさ)一番(いちばん)で、私(わたし)の執務室(しつむしつ)に来(き)なさい」と告(つ)げるや、あたかももう去(さ)れとでも言(い)いたげに狐一(こいち)に背(せ)を向(む)けたのでした。

それから琵琶(びわ)法師(ほうし)は狐一(こいち)を部屋(へや)に連(つ)れて行(い)きました。部屋(へや)に入(はい)るとすぐに、狐一(こいち)は自分(じぶん)の姿(すがた)に戻(もど)って、布団(ふとん)の上(うえ)に横(よこ)になり、尻尾(しっぽ)を鼻(はな)に巻(ま)き付(つ)けました。「ああ、気持(きも)ちいい!服(ふく)なんかよりも、自分(じぶん)の毛(け)の方(ほう)が温(あたた)かい。それに、俺(われ)のは人間(にんげん)の服(ふく)みたいにむずむず痒(かゆ)くないぞ」と言(い)いました。

「人間(にんげん)の姿(すがた)でいるべきです」と琵琶(びわ)法師(ほうし)が言(い)うと、狐一(こいち)は唸(うな)るように答(こた)えました。「貴様(きさま)!我(わ)が一族(いちぞく)以外(いぎい)の者(もの)で、ましてや年下(としした)の狐(きつね)がこの俺(おれ)に命(めい)じるなどとは!」

「今(いま)は一族(いちぞく)の谷(たに)にいるのではありません。人間(にんげん)の世界(せかい)にいるのなら、この世界(せかい)で自分(じぶん)より経験(けいけん)がある者(もの)は先輩(せんぱい)だと考(かんが)えるべきですか」と琵琶(びわ)法師(ほうし)が説明(せつめい)しようとすると、狐一(こいち)はただ、「うるさい」と唸(うな)りました。

それと同時(どうじ)に、まだ開(あ)いている障子(しょうじ)から「きゃあ!獣(けもの)が!獣(けもの)が城(しろ)の中(なか)に!」という悲鳴(ひめい)が聞(き)こえました。琵琶(びわ)法師(ほうし)が戸(と)の方(ほう)を振(ふ)り返(かえ)ると、そこで落(お)ちた布団(ふとん)の後(うし)ろに立(た)ち尽(つ)くす下女(げじょ)の姿(すがた)がありました。

琵琶(びわ)法師(ほうし)は彼女(かのじょ)に近寄(ちかよ)って、胸(むね)に抱(だ)きました。「まあ、まあ、怖(こわ)くないよ」という呪術(じゅじゅつ)に混(ま)ぜた言葉(ことば)で下女(げじょ)に落(お)ち着(つ)かせようとしましたが、狐一(こいち)は「誰(だれ)が怖(こわ)くないかいって?俺(おれ)は怖(こわ)いぞ」と唸(うな)りました。

「きゃあ!あれ?話(はな)せるの?」琵琶(びわ)法師(ほうし)の腕(うで)越(ご)しに下女(げじょ)は狐一(こいち)を覗(のぞ)きました。「狐(きつね)ですか?可愛(かわい)い!撫(な)でてもいいですか?」と言(い)って、琵琶(びわ)法師(ほうし)を見上(みあ)げました。

「うるさい!誰(だれ)が可愛(かわい)いものか?狐(きつね)を撫(な)でたいなら、そいつを撫(な)でろ」と狐一(こいち)は唸(うな)りました。

下女(げじょ)は辺(あた)りを見回(みまわ)しました。「何(なに)?そいつって誰(だれ)のこと?他(ほか)に狐(きつね)なんていませんよ」

「馬鹿(ばか)者(もの)め!お前(まえ)を抱(だ)いている者(もの)は狐(きつね)だと知(し)らないのか?」

「何(なに)?琵琶(びわ)法師(ほうし)さんはどこから見(み)ても人間(にんげん)ですよ。狐子(ここ)様(さま)は狐(きつね)だという噂(うわさ)がありますけど…」

琵琶(びわ)法師(ほうし)は下女(げじょ)を放(はな)しました。「私(わたし)が狐(きつね)だということはゆき様(さま)達(たち)以外(いがい)、この城(しろ)の者(もの)には秘密(ひみつ)にしておきたたかったですが、事実(じじつ)です」と言(い)うと、本来(ほんらい)の姿(すがた)に戻(もど)って、しばらくするとまた人間(にんげん)に化(ば)けました。

「この目(め)で見(み)ても、なかなか信(しん)じられことですもの。あの…家老(かろう)さまがここには布団(ふとん)がもう一組(ひとくみ)必要(ひつよう)だとおしゃったので、これを持(も)ってきました」と下女(げじょ)は言(い)うと、一礼(いちれい)してから落(お)ちた布団(ふとん)を取(と)り、寝台(しんだい)に広(ひろ)げました。布団(ふとん)を広(ひろ)げながら、下女(げじょ)はこっそりと狐一(こいち)の毛(け)を撫(な)でました。「わあ!とても柔(やわ)らかい!」と言(い)うと、狐一(こいち)はただ「うるさい」とだけ答(こた)え、目(め)を閉(と)じました。しばらくすると、狐一(こいち)は「右(みぎ)へだ。いや、そこじゃない。もっと前(まえ)だ。そこだ、そこを掻(か)け」と言(い)って、楽(たの)しんでいる様子(ようす)を見(み)せました。

間(ま)もなく、下女(げじょ)は立(た)ち上(あ)がりました。「まだ仕事(しごと)がありますからそろそろ行(い)かなくては。ええと、狐(きつね)さま、行(い)く前(まえ)に、名前(なまえ)を教(おし)えていただけませんか」と尋(たず)ねました。

「狐一(こいち)だ」と言(い)うと、彼女(かのじょ)は「初(はじ)めまして、こいち様(さま)。私(わたし)は広子(ひろこ)と申(もう)します。よろしくお願(ねが)いいたします」と言(い)って、一礼(いちれい)をしました。それから、「お邪魔(じゃま)しました」と、立(た)ち去(さ)りました。

「もう人間(にんげん)と仲良(なかよ)くなっていますね」と琵琶(びわ)法師(ほうし)が言(い)うと、狐一(こいち)はまた「うるさい」と答(こた)えました。

第七十五章(だいななじゅうごしょう)

新(あたら)しい着物(きもの)

次(つぎ)の朝(あさ)早(はや)く、廊下(ろうか)から声(こえ)が聞(き)こえました。「ごめんください。狐一(こいち)さまのお着物(きものく)を持(も)ってきました」

琵琶(びわ)法師(ほうし)は、少(すこ)し待(ま)つように言(い)いながら、自分(じぶん)を急(いそ)いで着替(きが)え、狐一(こいち)に人間(にんげん)の姿(すがた)になるよう促(うなが)し、そしてすぐに障子(しょうじ)を開(あ)けました。そこには着物(こもの)を手(てわ)にした広子(ひろこ)がいました。

「どうぞこれをお召(め)しください」と立(た)ち上(あ)がって、それを琵琶(びわ)法師(ほうし)に手渡(てわた)すと、後(うし)ろに立(た)っている狐一(こいち)の方(ほう)をちらりと見(み)ました。「あなたは人間(にんげん)のお姿(すがた)をした狐一様(こいちさま)でしょうか。素敵(すてき)!凛々(りり)しい!あの、狐一(こいち)さま、お着替(きが)えが終(お)わりましたら、ご家老(かろう)の執務室(しつむしつ)にお連(つ)れします」

琵琶(びわ)法師(ほうし)は着物(きもの)を広(ひろ)げて、顔(かお)を赤(あか)くした狐一(こいち)に見(み)せました。「これは少(すこ)し小(ちい)さすぎるかもしれませんね」

「うるさい」と言(い)すと、狐一(こいち)は広子(ひろこ)の目(め)の前(まえ)でその着物姿(きものすがた)に化(ば)けました。もちろん、化(ば)けた着物(きもの)はちょうどいい大(おお)きさに変(か)わっていました。

「まあ!私(わたし)もそんなに簡単(かんたん)に着替(きが)えができたらいいのに!」と手(て)を胸(むね)の前(まえ)に当(あ)てて広子(ひろこ)は叫(さけ)びました。「じゃ、ご家老(かろう)のところに参(まい)りましょう」狐一(こいち)の手(て)を取(と)ると、部屋(へや)から出(で)て行(い)きました。

二人(ふたり)の姿(すがた)が消(き)えるまでに、琵琶(びわ)法師(ほうし)はあっけにとられて彼(かれ)らを眺(なが)めていました。そして、首(くび)を振(ふ)りながら、「昨夜(さくや)のまじないが効きすぎたかな」と呟(つぶや)きました。

第七十六章(だいななじゅうろくしょう)

新(あたら)しい仕事(しごと)

家老(かろう)の執務室(しつむしつ)へと歩(ある)きながら、広子(ひろこ)は途切(とぎ)れることなく狐一(こいち)に喋(しゃべ)り続(つづ)けました。狐一(こいち)の繰(く)り返(かえ)し発(はっ)した「うるさい」という言葉(ことば)が聞(き)こえなかいかのよう顔(かお)をしている広子は(ひろこ)は途中(とちゅう)ですれ違(ちが)った者(もの)の皆(みな)のことを噂(うわさ)しました。

狐一(こいち)のと同(おな)じような服(ふく)を着(き)ている者(もの)は全員(ぜんいん)十二(じゅうに)、三歳(さんさい)の少年(しょうねん)で、「小姓(こしょう)」といった印象(いんしょう)を広子(ひろこ)に与(あた)えました。

狐一(こいち)にとって永遠(えいえん)と思(おも)われるほどの長(なが)い時間(じかん)が経(た)った後(あと)、ようやく家老(かろう)の執務室(しつむしつ)に着(つ)きました。「家老(かろう)殿(どの)のおっしゃる通(とお)り狐一(こいち)様(さま)をこちらにお連(つ)れ致(いた)しました」と広子(ひろこ)は告(つ)げました。

「広子(ひろこ)さま、小姓(こしょう)の名(な)に『さま』などつけてはならませぬ」と家老(かろう)が言(い)うと、「でもね、この方(かた)は狐(きつね)ですよね?狐(きつね)は神様(かみさま)の使者(ししゃ)ですから、『さま』をつけてもいいのではありませんか」と広子(ひろこ)は答(こた)えました。

「待(ま)った!この俺(おれ)が小姓(こしょう)だと!?一体(いったい)どういう意味(いみ)なのだ?」と狐一(みいち)は腹(はら)が立(た)てたように叫(さけ)びました。

家老(かろう)は広子(ひろこ)を見(み)やりました。「狐一(こいち)くんは狐(きつね)であっても、今(いま)ここにいる理由(りゆう)は神様(かみさま)とは関係(かんけい)はない。普通(ふつう)の小姓(こしょう)として扱(あつか)いなさい」と言(い)って、視線(しせん)を狐一(こいち)の方(ほう)へ向(む)けました。「お前(まえ)は、今(いま)、狐(きつね)の谷(たに)にいるのではない。族長(ぞくちょう)様(さま)の命令(めいれい)はここで遊(あそ)べということではなかったはずだ。ここにいる者(もの)の言(い)うことに従(したが)え、人間(にんげん)に習(なら)えということだ。普通(ふつう)に、城(しろ)で仕(つか)え始(はじ)めた子供(こども)が小姓(こしょう)になり、働(はたら)きながら城(しろ)のことなどを習(なら)っていくのだ。しかし、お前(まえ)はそういう子供(こども)よりいくつも年上(としうえ)であるにも関(かか)わらず、初心者(しょしんしゃ)の小姓(こしょう)よりもこちらのことを分(わ)かっていないのだ。だから、一応(いちおう)、小姓(こしょう)として働(はたら)いてもらいたい。小姓(こしょう)の務(つと)めが充分(じゅうぶん)できたのなら、他(ほか)の役目(やくめ)を与(あた)えるだろう」

家老(かろう)は狐一(こいち)をしっからと見据(みす)えました。「最(もっと)も大事(だいじ)な用件(ようじ)は、目上(めうえ)の者(もの)への振舞(ふるま)い方(かた)を正(ただ)すことだ。初心者(しょしんしゃ)のお前(まえ)にとって、この城(しろ)の全(すべ)ての者(もの)が目上(めうえ)であると考(かんが)えるべきだ。もうすぐ我(わ)が殿(との)のお父上(ちちうえ)さま―つまり、隣(となり)の国(くに)の大名(だいみょう)―がお越(こ)しになる。無礼(ぶれい)が我々(われわれ)を困(こま)らせることなどあってほしくはない。分(わ)かったか?」

「分(わ)かった、わか…」狐一(こいち)は突然(とつぜん)、口籠(くちご)もり、目(め)を伏(ふ)せました。「分(わ)かりました。頑張(がんば)ります」

「ふむ。初心者(しょしんしゃ)だから、城内(じょうない)のことがよく分(わ)かるまで、誰(だれ)かが指導(しどう)すべきだろう。広子(ひろこ)さん、今日(きょう)は何(なに)か大事(だいじ)な用事(ようじ)はあるか?」

「ありません」

「よし。今日(きょう)はそいつを指導(しどう)するように」と、家老(かろう)は筆(ふで)と紙(かみ)を取(と)って、何(なに)かを書(か)き始(はじ)めました。

広子(ひろこ)は躍(おど)り上(あ)がらんばかりの喜(よろこ)びようでした。「わーい!狐一(こいち)君(くん)と一緒(いっしょ)に働(はたら)けて、嬉(うれ)しい!ありがとうございます」

狐一(こいち)は慌(あわ)てて広子(ひろこ)を見(み)ました。「この口煩(くちうるさ)い少女(しょうじょ)の側(そば)にいるなんて、僕(ぼく)は罰(ばつ)を受(うけ)ているのですか?腕(うで)を傷(きず)つけたことの?」

「谷(たに)で起(お)こったこととは関係(かんけい)ない」家老(かろう)は紙(かみ)を狐一(こいち)に差(さ)し出(だ)しました。「いいか、これを台所(だいどころ)に持(も)って行(い)ってこい。まだ食事(しょくじ)をしていないのなら、戻(もど)る前(まえ)に朝食(ちょうしょく)にしてもいい」

「はい、了解(りょうかい)しました」と言(い)うと、狐一(こいち)は広子(ひろこ)と共(とも)に事務室(じむしつ)を出(で)て行(い)きました。

二人(ふたり)が消(き)えた後(あと)、家老(かろう)は少(すこ)しの間(あいだ)、入(い)り口(ぐち)を眺(なが)めていました。それから、誰(だれ)もいないはずの部屋(へや)に向(む)かって、こう言(い)いました。「お前(まえ)、どう思(おも)う?あいつは予想(よそう)より大人(おとな)しかったね」

机(つくえ)の下(した)から鼠(ねずみ)が出(で)てきて、赤毛(あかげ)の女(おんな)の姿(すがた)に化(ば)けました。「そうよ。もしかして、伯母(おば)さんの話(はなし)のせいかもしれない。それとも、ここに味方(みかた)がいないからそう風(ふう)に振(ふ)る舞(ま)っているかもしれない。結局(けっきょく)、あなたに対(たい)して反抗(はんこう)する気(き)はあまりなさそうだ。ところで、あの広子(ひろこ)という娘(むすめ)は面白(おもしろ)いのよ。狐(きつね)が好(す)きだなんて思(おも)わなかった。この前(まえ)に、猫(ねこ)を見(み)ただけでも怖(こわ)がっていたのに。どうして狐(きつね)が好(す)きになったのだろう?狐一(こいち)の奴(やつ)のせいじゃないみたいね。人間(にんげん)の姿(すがた)をしている狐(きつね)だけが好(す)きのかしら?調(しら)べてみる。それじゃ」というと、猫(ねこ)の姿(すがた)に化(ば)けて、部屋(へや)を出(で)て行(い)きました。

家老(かろう)はただ首(くび)を横(よこ)に振(ふ)るばかりした。「狐(きつね)や女(おんな)なんてさっぱり分(わ)からない」と呟(つぶや)き、報告書(ほうこくしょ)を手(て)に取(と)って、読(よ)み始(はじ)めました。

第七十七章(だいななじゅうななしょう)

広子(ひろこ)と小猫(こねこ)

その日(ひ)は一日中(いちにちじゅう)、城(しろ)のあちらこちらで狐一(こいち)は広子(ひろこ)と共(とも)にちょっとした使(つか)いに言(い)いつけられました。その間(あいだ)、広子(ひろこ)は辺(あた)りの人(ひと)や場所(ばしょ)について切(き)れ目(め)なく話(はな)し続(つづ)けました。当初(とうしょ)、狐一(こいち)は広子(ひろこ)の話(はなし)を聞(き)き流(なが)していましたが、次(つぎ)から次(つぎ)へと使(つか)いをやらされると、広子(ひろこ)が前(まえ)もって教(おし)えてくれた人(ひと)や場所(ばしょ)に用事(ようじ)を言(い)いつけられることに、だんだん気(き)がついてきました。そして、耳(みみ)を澄(す)まして、広子(ひろこ)の話(はな)していることに注意(ちゅうい)を向(む)け始(はじ)めました。

ある使(つか)いの途中(とちゅう)、二人(ふたり)が角(かど)を曲(ま)がると、広子(ひろこ)は突然(とつぜん)狐一(こいち)の腕(うで)に飛(と)び込(こ)みました。「いや!助(たす)けて!野獣(やじゅう)が!」と叫(さけ)びました。

広子(ひろこ)を抱(だ)き抱(かか)えて、狐一(こいち)は足元(あしもと)でニャンニャンと鳴(な)く小猫(こねこ)を見下(みお)ろしました。野獣(やじゅう)といっても、小猫(こねこ)がいるだけでした。

「アレが怖(こわ)い野獣(やじゅう)なのか!?あの小(ちい)さなものがか?」

「いや!小(ちい)さい大(おお)きいの問題(もんだい)じゃないない!早(はや)く追(お)い払(はら)って!」広子(ひろこ)は狐一(こいち)に泣(な)きついて彼(かれ)の肩(かた)に顔(かお)を埋(う)めました。

「さすがは広子(ひろこ)ちゃん!」広子(ひろこ)の悲鳴(ひめい)に反応(はんのう)しているように廊下(ろうか)に駆(か)け出(だ)した者(もの)は皆(みな)くすくすと笑(わら)いました。

広子(ひろこ)の温(ぬく)もり、柔(やわ)らかさ、とりわけ彼女(かのじょ)の女性(じょせい)らしい匂(にお)いにふと気付(きづ)いて、狐一(こいち)は頬(ほお)を赤(あか)く染(そ)めました。「おい!お前(まえ)!あっちへ行(い)け!」と言(い)いながら足先(あしさき)で小猫(こねこ)を軽(かる)く叩(たた)きました。そると小猫(こねこ)は欠伸(あくび)をしながらゆっくりと立(た)ち上(あ)がって歩(ある)ると、どこかへ歩(ある)いていってしまいました。

小猫(こねこ)が消(き)えると、広子(ひろこ)はようやく狐一(こいち)の腕(うで)から離(はな)れて、狐一(こいち)へ向(む)かって、深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げました。「ありがとうございます。助(たす)かりました」

「とんでもない!そんなやつ、危険(きけん)なはずもない!」

「だって、怖(こわ)いんだもの。助(たす)かったんだってば!もう、どうして誰(だれ)も私(わたし)のことを分(わ)かってくれないの?」と広子(ひろこ)は言(い)って、逃(に)げるように廊下(ろうか)を駆(か)け出(だ)しました。

「俺(おれ)が知(し)るわけないだろう。け、女(おんな)も人間(にんげん)も全(まった)くわけが分(わ)からん」と狐一(こいち)は呟(つぶや)いてから、「おい、待(ま)てよ!」と叫(さけ)んで、広子(ひろこ)を追(お)い掛(か)けました。「何(なに)か気(き)に障(さわ)ることを言(い)ったのなら、謝(あやま)る!」

小猫(こねこ)が消(き)えた所(ところ)から、赤毛(あかげ)の顔(かお)が覗(のぞ)きました。「面白(おもしろ)い。猫(ねこ)でさえ、まだ怖(こわ)いのね」と狐子(ひろこ)は呟(つぶや)きました。

第七十八章(だいななじゅうはっしょう)

狐子(ここ)からの試(ため)し

もう一回(いっかい)の使(つか)い途中(とちゅう)、広子(ひろこ)と狐一(こいち)が角(かど)を曲(ま)がると、床(よか)で寝(ね)ている狐(きつね)が見(み)えました。今(いま)すぐ、広子(ひろこ)は狐(きつね)のところに走(はし)りました。「可愛(かわい)い!」と言(い)って、狐(きつね)の毛並(けな)みを撫(な)で始(はじ)めました。

「おい、危(あぶ)ない!そいつに噛(か)まれるかもしれない!」と狐一(こいち)は言(い)うと、広子(ひろこ)の側(そば)に駆(か)け寄(よ)りました。すると、狐(きつね)をよく見(み)ました。「お前(まえ)、なんでその姿(すがた)を?いつも人間(にんげん)の姿(すがた)でいたいのかと思(おも)っていたのに」

狐(きつね)は赤毛(いかげ)の娘(むすめ)の姿(すがた)に化(ば)けました。「あっ!狐子様(ここさま)、失礼(しつれい)いたしました。すみません」と広子(ひろこ)は言(い)って、深(ふか)く会釈(えしゃく)しました。

「気(き)にしないで。問題(もんだい)はありません」と広子(ひろこ)に一礼(いちれい)を返(かえ)して、狐一(こいち)に振(ふ)り返(かえ)りました。「この子(こ)は、気(き)が変(か)わったようなの。以前(いぜん)はどんな小(ちい)さな獣(けもの)を見(み)ても、怖(こわ)がっていたのよ。それは城(しろ)の誰(だれ)もが知(し)っていたわ。でも、今日(きょう)は狐(きつね)だけが怖(こわ)くないようなの。どうして?」と狐子(ここ)は尋(たず)ねました。

「俺(おれ)のせいじゃないよ。口(くち)を留(と)まる呪文(じゅもん)でさえをこの口(くち)うるさい女(おんな)の人間(にんげん)につかなかった。昨夜(さくや)、この子(こ)が悲鳴(ひめい)を上(あ)げた時(とき)、あの琵琶法師(びわほうし)の奴(やつ)が何(なに)かをしたかもしれない」

「まあ、もうすぐあの人(ひと)と話(はな)すと思(おも)う。ところで、この城(しろ)のみんなはあんたにとって目上(めうえ)の者(かんが)を考(た)えた方(ほう)がいいと家老(かろう)さんが言(い)ったんじゃない?あんたが広子(ひろこ)ちゃんに丁寧(ていねい)に話(はな)すことを聞(き)くこと一度(いちど)もない」

「畜生(ちくしょう)!なぜ狐(きつね)のこの俺(おれ)が人間(にんげん)めらに頭(あたま)を下(さ)げなきゃ?伯父貴(おじき)の命令(めいれい)は変(へん)だぞ」

「父(ちち)の命令(めいれい)だけじゃないよ。伯母様(おばさま)の望(のぞ)みでもあるのよ。この城(しろ)には血(ち)の関係(かんけい)のお方(かた)がいるし、伯母(おば)の間違(まちが)いを繰(く)り返(かえ)さないよう、家族(かぞく)がこの国(くに)と関係(かんけい)をもっと強(つよ)くなるように願(ねが)っているとあんたにも分(わ)かるはずだよ。伯母様(おばさま)の話(はなし)を聞(き)かなかったのか?」

「ふむ。そういえば、伯母(おば)の間違(まちが)いは何(なん)だったっけ?」

「間抜(まぬ)け!その話(はなし)をまた聞(き)く暇(ひま)があるはずがないのよ。仕事(しごと)を続(つづ)けた方(ほう)がいいよ」

そう叱(しか)られて、狐一(こいち)は広子(ひろこ)と一緒(いっしょ)に用事(ようじ)をしに立(た)ち去(さ)りました。狐子(ここ)はしばらく二人(ふたり)を眺(なが)めて、呆(あき)れたように首(くび)を横(よこ)に振(ふ)りました。そして、狐一(こいち)の部屋(へや)の方(ほう)へ向(む)かって小走(こばし)りで歩(いる)き始(はじ)めました。

第七十九章(だいななじゅうきゅうしょう)

琵琶法師(びわほうし)の告白(こくはく)

間(ま)もなく、狐子(ここ)は狐一(こいち)たちの部屋(へや)に着(つ)きました。琵琶法師(びわほうし)はその中(なか)にいました。彼(かれ)は、大名(だいみょう)が訪(たず)ねてきたら、どんな歌(うた)を歌(うた)うのがよいと頭(あたま)を絞(しぼ)っているところでした。狐子(ここ)が障子(しょうじ)を開(あ)けて中(なか)に入(はい)ると、彼(かれ)は机(つくえ)から視線(しせん)を上(あ)げて、お辞儀(じぎ)をしました。「先生(せんせい)、こんにちは。今日(きょう)の修行(しゅぎょう)はもっと遅(おそ)い時間(じかん)ではないのですか。今(いま)、何(なに)か用事(ようじ)がありますか」

「あの広子(ひろこ)という娘(むすめ)さんを知(し)ってますか」

琵琶法師(びわほうし)はしばらく首(くび)を傾(かし)げけて、頷(うなず)きました。「ふむ。狐一(こいち)さんをご家老(かろう)の執務室(しつむしつ)へ連(つ)れて行(い)った人(ひと)ですか?はい、知(し)っています」

「広子(ひろこ)ちゃんは何(なに)かまじないがかけられてるようですが、何(なに)か知(し)っているかしら。どんな呪(のろ)いか分(わ)かりますか?」

琵琶法師(びわほうし)は俯(うつむ)きました。「昨晩(さくばん)、狐一(こいち)さんが狐(きつね)の姿(すがた)のままここで休(やす)んでいる時(とき)、あの娘(むすめ)は狐一(こいち)の姿(すがた)を見(み)てしまい、悲鳴(ひめい)を上(あ)げたのです。彼女(かのじょ)を落(お)ち着(つ)かせようと、狐(きつね)を恐(おそ)れないようにする呪文(じゅもん)を使(つか)ってしまいました。申(もう)し訳(わけ)ありません」

「もう、どうして誰(だれ)も伯母様(おばさま)の話(はなし)にちゃんと聞(き)いていないのかしら」と呟(つぶや)くと、狐子(ここ)は大(おお)きな溜息(ためいき)をつきました。そして、厳(きび)しい視線(しせん)を琵琶法師(びわほうし)の方(ほう)に向(む)けました。「しょうがないわね。どんな呪文(じゅもん)を使(つか)ったのかを教(おし)えなさい」

琵琶法師(びわろうし)が呪文(じゅもん)の種類(しゅるい)を説明(せつめい)すると、狐子(ここ)はまた彼(かれ)を叱(しか)りました。「そんな!あんな呪術(じゅじゅつ)を敵(てき)でない者(もの)に使(つか)うなんて、信(しん)じられません。あれは相手(あいて)の判断力(はんだんりょく)を麻痺(まひ)させて、しまいに命(いのち)まで奪(うば)ってしまうものではありませんか。さあ、行(い)きましょう」

「私(わたし)がですか?どちらへ?」

「狐一(こいち)より愚(おろ)かな者(もの)になろうというの?あの娘(むすめ)を見(み)つけ、術(じゅつ)いを解(と)きに行(い)きますよ。これは今日(きょう)の修行(しゅぎょう)です。早(はや)く!」と狐子(ここ)が言(い)うと、二人(ふたり)は部屋(へや)を出(で)ました。

第八十章(だいはちじっしょう)

呪(のろ)いを解(と)く

間(ま)もなく狐子達(ここたち)はさっき狐子(ここ)が狐一達(こいちたち)に会(あ)った場所(ばしょ)に着(つ)きました。すると、狐子(ここ)が狐(きつね)の姿(すがた)に化(ば)けて、狐一達(こいちたち)の匂(にお)いを嗅(か)ぎ分(わ)けながら走(はし)り出(だ)したので、琵琶法師(びわほうし)は彼女(かのじょ)を追(お)いかけざるを得(え)ませんでした。

しばらくすると、二人(ふたり)は狐一達(こいちたち)に追(お)いつきました。広子(ひろこ)は狐子(ここ)に気付(きづ)くと、「可愛(かわい)い!狐(きつね)って大好(だいす)き!」と声(こえ)を出(だ)し、狐子(ここ)のところまで走(はし)って狐子(ここ)を抱(だ)き上(あ)げました。彼女(かのじょ)の後(うし)ろから「おい、広子(ひろこ)さん!狐子(ここ)と遊(あそ)んでいる暇(ひま)はないんじゃありませんか?」と言(い)う声(こえ)が聞(き)こえました。

「うぐ!この子(こ)が私(わたし)を押(お)しつぶす前(まえ)に、まじないを解(と)きなさい!」と狐子(ここ)がいうと、後(うし)ろから駆(か)けて来(く)る琵琶法師(びわほうし)は広子(ひろこ)の腕(うで)に触(ふ)れました。

すると、広子(ひろこ)は「きゃあ!」と悲鳴(ひめい)を上(あ)げながら倒(たお)れ、広子(ひろこ)の腰元(こしもと)に投(な)げ出(だ)された狐子(ここ)は人間(にんげん)の姿(すがた)に戻(もど)りました。広子(ひろこ)は狐子達(ここたち)からできるだけ遠(とお)くへ這(は)うように逃(に)げて、やっと狐一(こいち)の足下(あしもと)で止(と)まりました。狐一(こいち)の顔(かお)を見上(みあ)げて、さらに高(たか)く悲鳴(ひめい)を上(あ)げ、廊下(ろうか)の壁(かべ)まで這(は)って逃(に)げました。そこで広子(ひろこ)は泣(な)いて震(ふる)えながら身(み)を丸(まる)めました。「きゃあ!狐(きつね)に囲(かこ)まれてる!誰(だれ)か、助(たす)けて!」

「お前(まえ)ら、何(なに)をした?広子(ひろこ)さんを傷(きず)つけたら、決(けっ)して許(ゆる)さないぞ!」狐一(こいち)は拳(こぶし)を握(にぎ)って狐子(ここ)を睨(にら)みました。

「狐一(こいち)の馬鹿(ばか)!あの子(こ)にかけた呪(のろ)いに気(き)づかなかったの?琵琶法師(びわほうし)さんはただそれを解(と)いたの!」

「け!あれ、六ヶ月(ろっかげつ)の子狐(こぎつね)でさえ解(と)けるんじゃない?」

「間抜(まぬ)け!人間(にんげん)が狐(きつね)のまじないを解(と)くなんて出来(でき)るはずがないでしょう?」

「ふむ。…できないのか?け、とにかくあれはあの法師(ほうし)とかいう野郎(やろう)のせいんじゃない?」

琵琶法師(びわろうし)は軽(かる)く咳払(せきばら)いしました。「先生(せんせい)、すみませんが、後(あと)で従弟(いとこ)さんと喧嘩(けんか)できるのでしょうか。今(いま)は、とりあえずあの娘(むすめ)のことを考(かんが)えましょうか」と広子(ひろこ)を示(しめ)しながら訊(たず)ねました。

第八十一章(だいはちじゅういっしょう)

お守(まも)り

狐一(こいち)は広子(ひろこ)に近(ちか)づこうとしました。しかし、広子(ひろこ)の「きゃあ!近(ちか)づかないで!助(たす)けて!どうして、誰(だれ)も助(たす)けてくれないの?」という悲鳴(ひめい)を聞(き)くと、狐子(ここ)の脇(わき)に下(さ)がりました。「広子(ひろこ)さん!一日中(いちにちじゅう)怖(こわ)がらずに一緒(いっしょ)にいたのに、どうして今(いま)さらそんなことを?」と訊(き)きました。

「やめておきなさい。」と狐子(ここ)が言(い)うと、狐一(こいち)は彼女(かのじょ)の方(ほう)へと向(む)かいました。「恐怖(きゅうふ)を奪(うば)うようにする呪(のろ)いが解(と)かれたから、呪(のろ)いをかけている間(あいだ)の恐怖(きょうふ)が一度(いちど)に広子(ひろこ)ちゃんに襲(おそ)ったのよ。何(なに)を言(い)っても無駄(むだ)なの。仕方(しかた)ない。呪術(じゅじゅつ)を使(つか)う他(ほか)にこの子(こ)を落(お)ち着(つ)かせる手(て)はないね」

琵琶法師(びわほうし)は声(こえ)をかけました。「すみませんが、この問題(もんだい)が呪文(じゅもん)のせいなら、他(ほか)の呪文(じゅもん)を使(つか)うと問題(もんだい)はさらに大(おお)きくならないでしょうか」

「すぐ消(き)えるおまじないだけを使(つか)うつもりですもの。命(いのち)にも意思(いし)にも影響(えいきょう)しないで落(お)ち着(つ)くようにするだけのおまじないなら、問題(もんだい)ないでしょう。ほら、見(み)て」と言(い)うと、二人(ふたり)は彼女(かのじょ)を興味深(きょうみぶか)そうに眺(なが)めました。狐子(ここ)がしたことは人間(にんげん)の目(め)から見(み)ると何事(なにごと)も起(お)こりませんでしたが、琵琶法師(びわほうし)は頷(うなず)き、狐一(こいち)は腕(うで)を組(く)み狐子(ここ)から目(め)を背(そむ)けました。「け、そんな簡単(かんたん)なこと、俺(おれ)ができたはずなのに」そう言(い)っている間(あいだ)に、広子(ひろこ)の悲鳴(ひめい)は小(ちい)そくなり、やがて消(きえ)えました。

まだ震(ふる)えている娘(むすめ)に狐子(ここ)は優(やさ)しく訊(たず)ねました。「広子(ひろこ)ちゃん、私(わたし)どもが怖(こわ)いですか」広子(ひろこ)は首(くび)を激(はげ)しく縦(たて)に振(ふ)りました。「このままでいいですか」しばらくして、首(くび)は激(はげ)しく横(よこ)に振(まも)られ、娘(むすめ)は何(なに)かを呟(つぶや)きました。「聞(き)こえません。近(ちか)づいてもいいですか」また首(くび)は激(はげ)しく横(よこ)に振(ふ)られましたが、ふいに止(と)まり、軽(かる)く頷(うなず)きました。できるだけ静(しず)かにゆっくりと狐子(ここ)が近(ちか)づくと、広子(ひろこ)の呟(つぶや)きが聞(き)こえました。「狐一君(こいちくん)を怖(おび)いと思(おも)いたくない。可愛(かわい)い獣(けもの)に怖(こわ)いと思(おも)いたくない。私(わたし)のことを笑(わら)わないで欲(ほ)しいの。怖(こわ)いのが嫌(いや)なの」

「怖(こわ)くなくなるように手助(てだす)けをしてもいいですか」広子(ひろこ)が微(かす)かに頷(うなず)いたのを見(み)て、狐子(ここ)はゆっくりと着物(きもの)の中(なか)に手(て)を入(い)れました。そして、首(くび)を掛(か)ける赤(あか)い毛(け)で作(つく)った小(ちい)さい人形(にんぎょう)を取(と)り出(だ)しました。「このお守(まも)りをかけていると、だんだん可愛(かわい)い獣(けもの)に慣(な)れて、恐怖(きょうふ)が減(へ)るでしょう。おまじないはこのお守(まも)りにかけただけです。いつでもこれを捨(す)てて構(かま)いません。もう、このような恐怖(まも)は襲(おそ)ってこないでしょう。どうか、これを受(う)け取(と)ってください」と狐子(ここ)は言(い)うと、人形(にんぎょう)を持(も)った手(て)をゆっくりと広子(ひろこ)へ伸(の)ばしました。広子(ひろこ)は奪(うば)うように人形(にんぎょう)を受(う)け取(と)るとと、紐(ひも)を首(くび)に掛(か)けて、人形(にんぎょう)を着物(きもの)の中(なか)に入(い)れました。すると、だんだん震(ふる)えが治(おさ)まり、落(お)ち着(つ)きました。

「もう、狐一(こいち)の側(そば)で働(い)くことが出来(でき)ますか」

「たぶん」広子(ひろこ)の声(こえ)は少(すこ)し強(つよ)くなりました。

「家老(かろう)さんは待(ま)っているんでしょうね。急(いそ)いだ方(ほう)がいいでしょう」狐子(ここ)がそう言(い)うと、広子(ひろこ)は頷(うなず)いて、立(た)ち上(あ)がりました。それから、何(なに)も言(い)わずに広子(ひろこ)は狐一(いっしょ)と共(とも)に今(いま)の仕事(しごと)を続(つづ)けました。

第八十二章(だいはちじゅうにしょう)

家老(かろう)との面会(めんかい)

狐一達(こいちたち)が家老(かろう)の執務室(しつむしつ)に戻(もど)ると、広子(ひろこ)は黙(だま)って俯(うつむ)いたまま狐一(こあち)を避(さ)けるかのように見(み)えました。家老(かろう)はすぐにそれに気(き)づき、狐一(こいち)に目(め)を向(む)けました。「お前(まえ)、広子(ひろこ)に何(なに)をしたんだ?」

狐一(こいち)は腹(はら)が立(た)ったように睨(にら)み返(かえ)しました。「俺(おれ)のせっ」と言(い)いかけましたが、ふいに目(め)を伏(ふ)せました。「あ、いや、そんな、私(わたし)は何(なに)もしていません」

広子(ひろこ)は目(め)を伏(ふ)せたまま口(くち)を開(ひら)きました。「どうか、狐一君(こいちくん)を許(ゆる)してください。いい子(こ)ですよ。本当(ほんとう)に何(なに)も悪(わる)いことなどしていません。全(すべ)ては私(わたし)のせいです」

家老(かろう)は席(せき)から立(た)ち上(あ)がり、広子(ひろこ)に近(ちか)づきました。「どういう意味(いみ)ですか。説明(せつめい)しなさい」

広子(ひろこ)は頬(ほお)の涙(なみだ)を拭(ふ)きました。「なぜか呪(のろ)いが私(わたし)にかかっていたようです。呪(のろ)いが解(と)かれるや否(いな)や、狐一君(こいちくん)も狐子様(ここさま)も琵琶法師(びわほうし)さんも怖(こわ)い獣(けもの)にしか見(み)えなくて、私(わたし)は悲鳴(ひめい)を上(あ)げることしか出来(でき)せませんでした。狐子様(ここさま)がこのお守(まも)りをくださってからは、だんだん落(お)ち着(つ)いてきましたが、少(すこ)しずつ怖(こわ)さは減(へ)っているのに、まだ完全(かんぜん)には消(き)えません」と言(い)って、赤毛(いかげ)の人形(にんぎょう)を家老(かろう)に見(み)せました。

「ふむ。あいつを城(しろ)のあちこちへ案内(あんない)したのだから、今日(きょう)はもう下(さ)がって休(やす)んでもよい」

「でも、まだ働(はたら)けますわ」

「心配(しんぱい)は要(い)らない。下(さ)がりなさい。明日(あした)、元気(げんき)で戻(もど)れ」と家老(かろう)が言(い)うと、広子(ひろこ)は頭(あたま)を深(ふか)く下(さ)げてから部屋(へや)を出(で)ました。狐一(こいち)が広子(ひろこ)について行(い)こうとすると、家老(かろう)は「お前(まえ)、どこへ行(い)こうとしている?」と言(い)って、彼(かれ)の足(あし)を止(と)めました。「広子(ひろこ)に呪(のろ)いをかけたのはお前(まえ)なのか?」

狐一(こいち)は慌(あわ)てて両手(りょうて)を振(ふ)りました。「違(ちが)います!こちらだは何(なん)の呪術(じゅじゅつ)も使(つか)ったことがありません!姿(すがた)を変(か)えることを除(のぞ)いては」

「お前(まえ)でなければ、誰(だれ)なんだ?」

「あの法師(ほうし)の奴(やつ)でしょう。広子(ひろこ)さんがたまたま狐(きつね)の姿(すがた)のままの私(わたし)を見(み)かけて悲鳴(ひめい)を上(あ)げた時(とき)、あいつは何(なに)かをしたようです」

「なぜ狐(きつね)の姿(すがた)でいたんだ?」

「着物(きもの)なんかを着(き)ると、あちこちが痒(かゆ)くなり掻(か)くことも難(むずか)しくなるのでいらいらします。狐(きつね)の姿(すがた)の方(ほう)が気持(きもち)ちいいです」

「そんな姿(すがた)でいるから問題(もんだい)が起(お)きるのだ。痒(かゆ)みを減(へ)らしたかったら、湯(ゆ)を浴(あ)びればいいんではないか。琵琶法師(びわほうし)を探(さが)して一緒(いっしょ)に戻(もど)れ。狐子(ここ)さんに出会(であ)ったら、こちらに来(く)るようにと伝(つた)えてくれ」狐一(こいち)が去(さ)ろうとすると、家老(かろう)はまた声(こえ)をかけました。「ところで、琵琶法師(びわほうし)は城(しろ)においても人間界(にんげんかい)の経験(けいけん)においてもお前(まえ)の先輩(せんぱい)だ。『奴(やつ)』などと呼(よ)ぶな」

「あっ、はい、分(わ)かりました」と言(い)うと、狐一(こいち)は執務室(しつむしつ)を出(で)て、廊下(ろうか)を歩(ある)き始(はじ)めました。そして、「け、どうして悪(わる)いことが起(お)こると、いつもみんな俺(おれ)のせいだと思(おも)うんだ?」と呟(つぶや)きました。

第八十三章(だいはちじゅうさんしょう)

頭痛(ずつう)

狐一(こいち)が琵琶法師(びわほうし)とともに執務室(しつむしつ)に戻(もど)ると、狐子(ここ)は家老(かろう)と話(はなし)をしていました。「今度(こんど)はお前(まえ)が叱(しか)られる番(ばん)だぞ」と低(ひく)く琵琶法師(びわほうし)に呟(つぶや)いてから、狐一(こいち)はニヤニヤ笑(わら)いながら声(こえ)を上(あ)げました。「仰(おお)せの通(とお)り、琵琶法師(びわほうし)さんを連(つ)れて参(まい)りました」

家老(かろう)は立(た)ち上(あ)がって、琵琶法師(びわほうし)に近(ちか)づきました。「広子(ひろこ)という娘(むすめ)に呪(のろ)いをかけたのはお前(まえ)だな。説明(せつめい)せよ」

「申(もう)し訳(わけ)ございません。あの子(こ)が狐(きつね)の姿(すがた)でいた狐一(こいち)さんを見(み)て悲鳴(ひめい)を上(あ)げたのを見(み)て、落(お)ち着(つ)かせようと思(おも)わず呪術(じゅじゅつ)を使(つか)ってしまいました。その呪文(じゅもん)が人間(にんげん)に対(たい)してそれほど危険(きけん)だとは知(し)りませんでした。狐子先生(ここせんせい)の元(もと)でもっと勉強(べんきょう)を励(はげ)みます。反省(はんせい)します」と言(い)うと、琵琶法師(びわほうし)は深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げました。

家老(かろう)は二人(ふたり)を見回(みまわ)しました。「こんな事件(じけん)は二度(にど)と起(お)こさないでほしい。特(とく)に我(わ)が殿(との)のお父上(ちちうえ)がこちらにいらっしゃっている間(あいだ)は、我(わ)が殿(との)に恥(は)ずかしい思(おも)いをさせてはならん。分(わ)かったな?」

狐一(こいち)の笑(え)みはすぐに消(き)えました。二人(ふたり)は頷(うなず)きました。

「だから、二人(ふたり)とも、通常(つうじょう)の仕事(しごと)に加(くわ)え、毎日(まいにち)狐子(ここ)さんの元(もと)で適切(てきせつ)な振舞(ふるま)い方(かた)を習(なら)ってもらいたい。分(わ)かったな?」

狐一(こいち)たちがまた頷(うなず)くと、家老(かろう)は「下(さ)がれ」と命(いのち)じて、席(せき)に戻(もど)りました。二人(ふたり)が部屋(へや)を出(で)ようとした時(とき)、ほとんど聞(き)き取(と)れないぐらいの小(ちい)さな声(こえ)で「け、産(う)まれたばかりの狸(たぬき)の方(ほう)があの女狐(めぎつね)よりも適切(てきせつ)な振舞(ふるま)い方(かた)くらい分(わ)かるだろうよ」と言うのが聞(き)こえました。

障子(しょうじ)が閉(し)まると、家老(かろう)は両手(りょうて)で頭(あたま)を抱(かか)えました。「頭(あたま)が痛(いた)い。あいつらに噂話(うわさばなし)をする奴(やつ)らのいじめ方(かた)まで教(おし)えないでくれ」

狐子(ここ)は何食(なにく)わぬ顔(かお)で答(こた)えました。「あら、私(わたし)がいじめ方(かた)を教(おし)えるなんて、とんでもない。いじめた事(こと)うらないのに」

「嘘(うそ)をつくな。ゆき様(さま)について悪(わる)い噂(うわさ)が立(た)った時(とき)、誰(だれ)があいつらをいじめていたのかも、どうしてそうしたのも分(わ)かっている。ただ、これからあいつらに模範(もはん)を示(しめ)してくれ。特(とく)に狐一(こいち)の奴(やつ)に」

狐子(ここ)はクスクス笑(わら)いました。「頑張(がんば)ります」

第八十四章(だいはちじゅうよんしょう)

殿様(とのさま)の到着(とうちゃく)

それから狐一(こいち)はだんだん城(しろ)の暮(く)らしに慣(な)れてきました。広子(ひろこ)の獣(けもの)に対(たい)する恐怖心(きょうふしん)は消(き)えた後(あと)でも、狐一(こいち)の口答(くちごた)えは絶(た)えませんでしたのに、暇(ひま)さえあれば、二人(ふたり)は一緒(いっしょ)にいることが多(おお)くなりました。

狐子(ここ)からの修行(しゅぎょう)は喧嘩(けんか)ごしにもかかわらず、狐一(こいち)の振舞(ふるま)いはだんだん礼儀(れいぎ)正(ただ)しくなって、家老(かろう)に叱(しか)られることは減(へ)ってきました。

しばらくすると、殿様(とのさま)の到着(とうちゃく)の日(ひ)が来(き)ました。見張(みは)り所(しょ)から殿様(とのさま)の旗(はた)が見(み)えると、ゆき達(たち)は城門(じょうもん)に集(あつ)まりました。ゆきは深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げました。「お義父上(ちちうえ)、こちらへようこそ。長旅(ながたび)でお疲(つか)れでございましょう。お湯(ゆ)も食事(しょくじ)も用意(ようい)させてありいます。どちらでもお寛(くつろ)ぎください」

殿様(とのさま)はゆきの姿(すがた)を見(み)やりました。「ほお、お腹(なか)が大(おお)きくなっとるな。すぐに孫(まご)ができるんじゃろうな。お前(まえ)の素晴(すば)らしい茶道(さどう)をまた楽(たの)しんでみたいが、どうじゃ?」

「もちろんですとも。こちらへいらして頂(いただ)けたら、すぐに道具(どうぐ)を用意(ようい)いたします」と言(い)うと、ゆきは殿様(とのさま)と若殿(わかとの)を連(つ)れて自分(じぶん)の部屋(へや)へと向(む)かって歩(ある)き出(だ)しました。

すると、家老(かろう)は声(こえ)をかけました。「狐一(こいち)、荷物(にもつ)を持(も)っている家来(かろう)を殿様(とのさま)の部屋(へや)へ連(つ)れて行(い)け。そして、兵舎(へいしゃ)へ」

「かしこまりました」と言(い)うと、狐一(こいち)は殿様(とのさま)の家来(けらい)を連(つ)れて出(で)ました。

狐子(ここ)は家老(かろう)に近(ちか)づいて囁(ささや)きました。「狐一君(こいちくん)はいい子(こ)になったでしょう」

「みたいだな。しかし信用(しんよう)ならない。この訪問(ほうもん)が問題(もんだい)なく終(お)わるよう祈(いの)っている」と家老(かろう)は小(ちい)さく答(こた)えました。

第八十五章(だいはちじゅうごしょう)

殿様(とのさま)との茶席(ちゃせき)

ゆきのお茶(ちゃ)を飲(の)んだ後(あと)、殿様(とのさま)は声(こえ)をかけました。「ほお、懐(なつ)かしい。ここで素晴(すば)らしいお茶席(ちゃせき)を楽(たの)しむのは十五年(じゅうごねん)ぶりのことじゃな。そなたのお点前(てまえ)はすぐにおばあさんを越(こ)えるじゃろうな」

ゆきの顔(かお)が赤(あか)らみました。「祖母(そぼ)のお点前(てまえ)と比(くら)べられるなんて、とんでもないことです」

「もう一(ひと)つ懐(なつ)かしいことがある。あの門(もん)で会(あ)った、赤毛(いかげ)の女子(おなご)じゃ。ここで籠城(ろうじょう)していた時(とき)を除(のぞ)いて、赤毛(いかげ)の者(もの)に会(あ)ったことはない。しかも、あの子(こ)はあの時(とき)の子(こ)とよく似(に)とる」

「あっ、それは狐子(ここ)さんです。そういえば、狐子(ここ)さんもここに籠城(ろうじょう)していたと言(い)っているのです」

「とんでもない!あの子(こ)は、まだ二十歳(はたち)にもなるまい。しかし、あの時(とき)の子(こ)も確(たし)か『ここ』という名前(なまえ)だったと微(かす)かに覚(おぼ)えておる。門(もん)にいた子(こ)はあの時(とき)の子(こ)の娘(むすめ)か何(なに)かかな」

「でも、狐子(ここ)さんの他(ほか)にもう一人(ひと)の籠城(ろうじょう)していた者(もの)がいます。家老(かろう)さんも狐子(ここ)さんが籠城(ろうじょう)していたと信(しん)じているようです」ゆきは頷(うなず)いている若殿(わかとの)の方(ほう)をちらりと見(み)た後(あと)、「女将(おかみ)さん、家老(かろう)さんと狐子(ここ)さんを探(さが)してここに来(く)るようと伝(つた)えてください」女将(おかみ)が会釈(えしゃく)をして部屋(へや)を出(で)ると、ゆきはまた話(はな)し出(だ)しました。「あの者達(ものたち)を待(ま)つ間(あいだ)に、もっとお茶(ちゃ)でも召(め)し上(あ)がりませんか」

しばらくすると、女将(おかみ)は狐子達(ここたち)を連(つ)れて戻(もど)りました。しかし、彼(かれ)らを殿様(とのさま)に紹介(しょかい)するや否(いな)や、廊下(ろうか)から駆(か)けて来(く)る足音(あしおと)が聞(き)こえました。間(ま)もなく障子(しょうじ)が開(あ)いて、肩(かた)で息(いき)をしている広子(ひろこ)が戸口(とぐち)に立(た)っているのが見(み)えました。「家老様(かろうさま)!大変(たいへん)です!狐一君(こいちくん)が…家来達(けらいたち)と…喧嘩(けんか)しています!」

「あいつめ!」と叫(さけ)ぶと、家老(かろう)は飛(と)び上(あ)がり、皆(みな)と共(とも)に部屋(へや)を出(で)て広子(ひろこ)について行(い)きました。

第八十六章(だいはちじゅうろくしょう)

狐一(こいち)と家来達(けらいたち)

狐一(こいち)が家来(けらい)たちを殿様(とのさま)の部屋(へや)へ連(つ)れて行(い)く途中(とちゅう)、家来(けらい)の一人(ひとり)が彼(かれ)に声(こえ)をかけました。「おい、そこの餓鬼(がき)、普通(ふつう)の小姓(こしょう)よりもずいぶんと年上(としうえ)なんじゃないか?なぜまだ小姓(こしょう)のままなんだ?そんなに頭(あたま)が悪(わる)いのか?」

狐一(こいち)は歯(は)を食(く)いしばりましたが、家老(けらい)の「問題(もんだい)を起(お)こすな」という言葉(ことば)を思(おも)い出(だ)し、黙(だま)って歩(ある)き続(つづ)けました。

殿様(とのさま)の部屋(へや)に着(つ)くまで狐一(こいち)は家来(けらい)たちに侮辱(ぶじょく)を受(う)け続(つづ)けましたが、狐一(こいち)は聞(き)こえない振(ふ)りをしたまま歩きました。しかし、部屋(へや)に殿様(とのさま)の荷物(にもつ)を置(お)いてそこを出(で)る間(ま)もなく、話題(わだい)が変(か)わりました。「ほら、この城(しろ)の主(あるじ)は我(わ)が殿(との)の若君(わかぎみ)だったじゃない?なぜお世継(よつ)ぎを失(うしな)ってまで、こんなところへ追放(ついほう)したのかな?」

「いいか、あの方(かた)は百姓(ひゃくしょう)の娘(むすめ)と恋(こい)に落(お)ちたんだな。なぜか我(わ)が殿(との)はその女(おんな)と結婚(けっこん)させてやったが、その代(か)わりにお世継(よつ)ぎを次男(じなん)に譲(ゆず)らせなければならなかったのだ」

この台詞(せりふ)を聞(き)くと、狐一(こいち)は頭(あたま)に血(ち)が上(のぼ)ったように振(ふ)り返(かえ)って叫(よ)びました。「ゆき様(さま)を百姓(ひゃくしょう)なんか呼(よ)ぶな!謝(あやま)れ!」

家来(けらい)たちは高笑(たかわら)いをしました。「この餓鬼(がき)が俺(おれ)らの長(おさ)のつもりでいるぞ。おい、小姓(こしょう)め、俺(おれ)らが謝(あやま)らないならどうする?」

ちょうどその時(とき)、広子(ひろこ)はそこをを通(とお)りかかりました。その光景(こうけい)を見(み)るなり、狐一(こいち)の元(もと)に駆(か)け寄(よ)って声(こえ)を上(あ)げました。「狐一君(こいちくん)!お客様(きゃくさま)に叫(さけ)ばないで!家老様(かろうさま)から罰(ばつ)を受(う)けるわよ!」

家来達(けらいたち)はさらに高笑(たかわら)いをしました。「ほら、この餓鬼(がき)は女子(おなご)に守(まも)られないと駄目(だめ)なようだぜ!」そして、家来(けらい)の一人(ひとり)は広子(ひろこ)の手(て)を掴(つか)んで引(ひ)き寄(よ)せました。「俺様(おれさま)の方(ほう)があの餓鬼(がき)よりもいい恋人(こいびと)になるぞ」

「きゃっ!手(て)を離(はな)して」と広子(ひろこ)は言(い)うが速(はや)いか、その家来(けらい)はすでに倒(たお)れていました。その仰向(あおむ)いている姿(すがた)に跨(また)がっているのは狐一(こいち)でした。「広子(ひろこ)さん!家老様(かろうさま)を呼(よ)びに行(い)って!」

「ほお!この餓鬼(がき)は度胸(どきょう)があるな!行(い)くぜ!」と家来(けらい)の一人(ひとり)が言(い)い終(お)わる前(まえ)に、広子(ひろこ)は廊下(ろうか)を駆(か)けて行(い)きました。

第八十七章(だいはちじゅうななしょう)

喧嘩(けんか)

家老達(かろうたち)が殿様(とのさま)の部屋(へや)の近(ちか)くまで来(く)ると、ドカン、ドシンというただならぬ音(おと)が聞(き)こえてきました。角(かど)を曲(ま)がると、十数人(じゅうすうにん)の男達(おとこたち)が真(ま)ん中(なか)で暴(あば)れている誰(だれ)かを捉(とら)えようとしながら倒(たお)れたり壁(かべ)に突(つ)き飛(と)ばされたり悪戦苦闘(あくせんくとう)しているところでした。「やめろ!」と家老(かろう)が叫(さけ)ぶと、そこにいた者達(ものたち)はいっせいに大名達(だいみょうたち)の方(ほう)を振(ふ)り向(む)き、凍(こお)り付(つ)いてしまいました。

家老(かろう)はその惨状(さんじょう)を見渡(みわた)しながら言(い)いました。「城内(じょうない)で喧嘩(けんか)をするとはどういうことなのか?説明(せつめい)せよ!」

傷(きず)だらけの家来達(かろうたち)の一人(ひとり)は狐一(こいち)を指差(ゆびさ)しました。「こいつが仲間(なかま)を倒(たお)したんです」

かすり傷(きず)一(ひと)つなさそうな狐一(こいち)は深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げると大名(だいみょう)に向(む)かって言(い)いました。「申(もう)し訳(わけ)ございません。自分(じぶん)に対(たい)する悪口(わるぐち)は聞(き)き捨(す)てることができたのですが、ゆき様(さま)は百姓(ひゃくしょう)だとか我(わ)が殿(との)はこちらへ追放(ついほう)されたとかいうような酷(ひど)いことを聞(き)き、その上(うえ)広子(ひろこ)さんが乱暴(らんぼう)に扱(あつか)われているのを見(み)ると黙(だま)っていられなくなってしまいました」

ゆきと若殿(わかとの)と殿様(とのさま)は呆然(ぼうぜん)と見返(みかえ)して、そして、ドッと笑(わら)い出(だ)しました。「私(わたし)は大名(だいみょう)の娘(むすめ)ではありますが、農村(のうそん)育(そだ)ちなので、百姓(ひゃくしょう)と呼(よ)ばれても気(き)にしませんよ」とゆきは言(い)いました。

殿様(とのさま)も声(こえ)をかけました。「息子(むすこ)を追放(ついほう)したのなら、どうしてわしがここを訪(たず)ねよう。息子(むすこ)や、ところで、あの小姓(こしょう)を貸(か)してくれないか?我(わ)が国(くに)の武道(ぶどう)の指南役(しなんやく)を変(か)えなくてはならんらしい」

若殿(わかとの)は首(くび)を振(ふ)りました。「残念(ざんねん)ながら、あの者(もの)は同盟族(どうめいぞく)からの預(あず)かり者(もの)で、教育(きょういく)は我(われ)らに任(まか)されています。だから勝手(かって)にお貸(か)しするわけにはまいりません。さあ、茶席(ちゃせき)に戻(もど)りましょう。そこでこのことについてもっと詳(くわ)しく話(はな)しましょう。家老(かろう)、あの連中(れんちゅう)をそなたに任(まか)せる」と言(い)うと、若殿達(わかとのたち)はゆきの部屋(へや)へと向(む)かって去(さ)りました。

家老(かろう)は頷(あたま)きました。「狐一(こいち)、執務室(しつむしつ)に行(い)って沙汰(さた)を待(ま)ちなさい。広子(ひろこ)、あの乱闘(らんとう)の始末(しまつ)をせい。お前(まえ)らの処罰(しょばつ)については、殿様(とのさま)がお決(き)めになるだろう。私(わたし)について兵舎(へいしゃ)へ参(まい)れ」

家老(かろう)は狐一(こいち)が側(そば)を通(とお)り過(す)ぎる時(とき)、ボソッと呟(つぶや)いたのを聞(き)き逃(のが)しませんでした。「俺(おれ)一人(ひとり)だけで百頭(ひゃくとう)の人間(にんげん)と戦(たたか)っても、当然(とうぜん)俺様(おれさま)の勝利(しょうり)だと言(い)っただろう?」

第八十八章(だいはちじゅうはっしょう)

小姓(こしょう)をやめる

狐一(こいち)はしばらく執務室(しつむしつ)の外(そと)で廊下(ろうか)の壁(かべ)にもれながら待(ま)ちました。「け、あの騒(さわ)ぎのおかげで、俺(おれ)は狐(きつね)の谷(たに)に戻(もど)されるかもしれない」と呟(つぶや)いた後(あと)で、大(おお)きなため息(いき)をつきました。「しかし、こんなに早(はや)く戻(もど)ると、俺(おれ)が何(なに)か問題(もんだい)を起(お)こしたとみんなが邪推(じゃすい)して、伯母姫(おばひめ)の顔(かお)を潰(つぶ)すことになるに違(ちが)いない。どうしたものか?」そして忍(しの)び笑(わら)いをしました。「だが、人間(にんげん)どもをぶっ飛(と)ばすのは楽(たの)しかったぞ。大怪我(おおけが)しないように気(き)をつけなくちゃいかんがな」

やっと足音(あしおと)が聞(き)こえてきました。狐一(こいち)は背筋(せすじ)を伸(の)ばして立(た)ち上(の)がりました。すぐに家老(けらい)が現(あらわ)れて、執務室(しつむしつ)の障子(しょうじ)を開(あ)けました。机(つくえ)に着席(ちゃくせき)した後(あと)、「入(はい)れ」と命(めい)じました。

狐一(こいち)は机(つくえ)に近(ちか)づき、黙(だま)ってそこに立(た)ちました。

「小姓(こしょう)が勝手(かって)に、訪問中(ほうもんちゅう)の侍(さむらい)と大喧嘩(おおげんか)するなど許(ゆる)されることではない。分(わ)かったな?」

狐一(こいち)は唾(つば)を呑(の)んで、頷(うなず)きました。

「斯(か)くある上(うえ)は、小姓(こしょう)としての勤(つと)めは解任(かいにん)する。他(ほか)の仕事(しごと)を命(めい)じる。厩(うまや)の掃除(そうじ)などをな。ふむ」紙(かみ)と筆(ふで)を取(と)り、家老(かろう)は何(なに)かを書(か)き始(はじ)めました。狐一(こいち)は息(いき)を詰(つ)めました。手紙(てがみ)を折(お)り畳(たた)んで封(ふう)じてから、家老(かろう)は狐一(こいち)へ差(さ)し出(だ)しました。「これを親衛長(しんえいちょう)に届(とど)けよ」

狐一(こいち)は手紙(てがみ)を受(う)け取(と)り、出(で)ました。「いったいこれにどんなことが書(か)かれているのかな」と思(おも)いながら廊下(ろうか)を歩(ある)きました。

第八十九章(だいはちじゅうきゅうしょう)

殿様(とのさま)との会話(かいわ)

一方(いっぽう)、ゆきたちはゆきの部屋(へや)に戻(もど)りました。皆(みな)が正座(せいざ)した後(あと)、殿様(とのさま)は話(すな)し始(はじ)めました。「狐子殿(ここどの)、わしがここに籠城(ろうじょう)していた時(とき)、お前(まえ)のような赤毛(あかげ)の娘(むすめ)に会(あ)ったことがあるな。お前(まえ)はその子(こ)だそうだが、それは信(しん)じがたいことじゃ。その子(こ)のように、お前(まえ)は十代後半(じゅうだいこうはん)と見(み)える。お前(まえ)を良(よ)く見(み)ると、その子(こ)と良(よ)く似(に)とる気(き)がする。お前(まえ)は本当(ほんとう)にその子(こ)か?それとも、その子(こ)の娘(むすめ)とか、妹(いもうと)ではないのか?」

「本当(ほんとう)ですよ。これなら、お信(しん)じていただけますか」と狐子(ここ)は言(い)うと、突然(とつぜん)髪(かみ)の毛(け)の半分(はんぶん)は灰色(はいいろ)になり、口(くち)と目(め)の周(まわ)りに皴(しわ)が現(あらわ)れました。「それとも、こうならばどうですか」今度(こうど)は体(からだ)が太(ふと)た体(からだ)になりました。「でも、そんな姿(すがた)はあまり楽(たの)しくありませんね。これでいいです」狐子(ここ)は元(もと)の姿(すがた)に戻(もど)りました。

殿様(とのさま)は驚(おどろ)いていました。「まさか、何者(なにもの)だ?息子(むすこ)や、妖怪(ようかい)か何(なに)かがここに住(す)むことを許(ゆる)しているのか?」

「父上(ちちうえ)、狐子(ここ)は狐(きつね)のようです。ゆきを助(たす)けた狐(きつね)の娘(むすめ)だそうです」

「なるほど。狐(きつね)は人(ひと)の姿(すがた)に化(ば)けることができるそうだな。狐子殿(ここどの)、どうしてそんなに目立(めだ)った髪(かみ)の色(いろ)をしているのか?たった今(いま)のように、髪(かみ)の色(いろ)も変(か)われるな」

狐子(ここ)は甘(あま)く微笑(ほほえ)みました。「狐(きつね)だから、生(う)まれた時(とき)からこの色(いろ)なので、これが好(す)きなのです。だから、姿(すがた)を化(ば)けるおまじないを習(なら)った時(とき)、目立(めだ)つかどうか構(かま)わず、この色(いろ)でいいと決(き)めました。まあ、あなた様(さま)なら、どんな色(いろ)にするのですか?」

「ふむ」殿様(とのさま)は顎(あご)を撫(な)でて、丁髷(ちょんまげ)を触(さわ)りました。「どんな色(いろ)の髪(かみ)にでもできるのなら、この銀髪(ぎんぱつ)を元(もと)の黒(くろ)にするだろうな。何(なに)しろ、周(まわ)りの者(もの)と同(おな)じような色(いろ)にしかしたくないと思(おも)う。『出(で)る釘(くぎ)は打(う)たれる』と言(い)うからな。ところで、お前(まえ)はどのように当時(とうじ)の包囲(ほうい)された城(しろ)を逃(に)げ出(で)せたのか?わしらと同(おな)じく、家来(けらい)によって地下道(ちかどう)のありかを知(し)ったのか、それとも狐(きつね)の呪術(じゅじゅつ)で逃(に)げたのか?」

狐子(ここ)はくすくすと笑(わら)いました。「私(わたし)が狐(きつね)の能力(のうりょく)であの地下道(ちかどう)を作(つく)って家老(かろう)さんに見(み)せたのですもの」と、ゆきとどの関係(かんけい)があることや、どうしてあの時(とき)彼女(かのじょ)も籠城(ろうじょう)していたのかを説明(せつめい)し始(はじ)めました。その途中(とちゅう)、家老(かろう)が戻(もど)ってきて、自分(じぶん)の経験(けいけん)を加(くわ)えました。

その後(あと)、殿様(とのさま)は二人(ふたり)を見比(みくら)べながらにやりと笑(わら)い、「ほ、二人(ふたり)とも、恋愛(れんあい)を暮(く)したらしい。結婚式(けっこんしき)はいつだ?」と目(め)を輝(かがや)かせながら訊(き)きました。

狐子(ここ)と家老(かろう)は慌(あわてて)ててしばらく沈黙(ちんもく)しました。そして、家老(かろう)は「そ…そのようなことは、ま…まだ決(き)めていません」と言(い)い、狐子(ここ)は「父(ちち)は…族長(ぞくちょう)はまだちょっと…」と言(い)いました。

「ほ、もう自分(じぶん)の意志(いし)で生(い)きているというのに、問題(もんだい)は父親(ちちおや)の許可(きょか)なのか?そうじゃ、わしに任(まか)せろ。狐殿(きつねどの)を呼(よ)びなさい。わしが仲人(なこうど)になろう」と殿様(とのさま)が言(い)うと、狐子(ここ)は「そんなにもったいない言葉(ひとば)をして下(くだ)さったら、本当(ほんとう)にありがとうございます」と、深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げました。

殿様(とのさま)は膝(ひざ)を叩(たた)き、若殿(とのさま)の方(ほう)へ視線(しせん)を向(む)きました。「よし!息子(むすこ)や、不思議(ふしぎ)な琵琶法師(びわほうし)を雇(やと)っているそうだ。あいつはどこに隠(かく)れているのか?」

第九十章(だいきゅうじっしょう)

狐一(こいち)と親衛長(しんえいちょう)

一方(いっぽう)、狐一(こいち)は道場(どうじょう)に着(つ)きました。そこでは親衛長(しんえいちょう)が棒(ぼう)や木剣(ぼっけん)で修行(しゅぎょう)している男達(おとこたち)を見守(みまも)っていました。狐一(こいち)が家老(かろう)からの手紙(てがみ)を渡(わた)すと、親衛長(しんえいちょう)は「ちょっと待(ま)て」と言(い)い、手紙(てがみ)を読(よ)みました。

そして、「侍(さむらい)と喧嘩(けんか)したいらしいな」と言(い)い、狐一(こいち)の大(おお)きさを目(め)で計(はか)ってから、棚(たな)から男達(おとこたち)が着(き)ていると同(おな)じような綿入(わたい)れの服(ふく)を出(だ)しました。「これを着(き)なさい」と、狐一(こいち)に服(ふく)を与(あた)え、練習用(れんしゅうよう)の武器(ぶき)が並(なら)んでいる棚(たな)から一本(いっぽう)の棒(ぼう)を手(て)に取(と)りました。それを着替(きが)えた狐一(こいち)に渡(わた)し、棒(ぼう)を使(つか)っている男(おとこ)の一人(ひとり)を呼(よ)びました。「この小姓(こしょう)は武士(ぶし)と戦(たたか)いたいらしい。実力(じつりょく)を見(み)てみたい」と言(い)うと、狐一(こいち)の方(ほう)へ向(む)かいました。「打(う)たれないでそいつを打(う)ってみろ」

この棒(ぼう)をどう使(つか)えばいいのか分(わ)からないまま、狐一(こいち)が呆然(ぼうぜん)と棒(ぼう)を見(み)つめている間(あいだ)に、男(おとこ)の棒(ぼう)は宙(ちゅう)を切(き)り、狐一(こいち)の持(も)っていた棒(ぼう)をはね飛(と)ばし、狐一(こいち)の胸(むね)を目掛(めが)けて飛(と)んできました。しかし、その時(とき)には、狐一(こいち)はもうそこにいませんでした。

その攻撃(こうげき)の上(うえ)から反応(はんのう)が遅(おそ)すぎる男(おとこ)に向(む)かって飛(と)んでくる狐一(こいち)は、相手(あいて)を肩(かた)に蹴(け)り、後(うし)ろへよろけさせました。男(おとこ)が倒(たお)れるのと同時(どうじ)に、狐一(こいち)は元(もと)の場所(ばしょ)に軽(かる)く着地(ちゃくち)し、親衛長(しんえいちょう)の「やめろ!」という叫(さけ)びが聞(き)こえました。

親衛長(しんえいちょう)は狐一(こいち)が落(お)とした棒(ぼう)を取(と)り上(あ)げ、「武器(ぶき)を放(はな)すな!これで相手(あいて)を叩(たたけ)けと言(い)ったろう」と怒鳴(どな)りつけました。

「こんなのの使(つか)い方(かた)が分(わ)かりません」と狐一(こいち)は指(ゆび)を伸(の)ばしたり折(お)ったりしながら「僕(ぼく)にとって、これさえあれば、武器(ぶき)は充分(じゅうぶん)ですよ」と言(い)いました。

「自分(じぶん)で戦(たたか)うなら、素手(すで)で戦(たたか)っても構(かま)わん。しかし、親衛隊(しんえいたい)に入(はい)ったら、隊員(たいいん)の一人(ひとり)として戦(たたか)うことが必要(ひつよう)な場合(ばあい)も多(おお)い。そんな時(とき)、全員(ぜんいん)がそれそぞれに必要(ひつよう)な武器(ぶき)を使(つつか)わなくちゃならんぞ」

「親衛隊(しんえいたい)に入(はい)ると…?なるほど」狐一(こいち)の目(め)は城(しろ)に来(き)てから、初(はじ)めて輝(かがや)いていました。「じゃあ、この戦(たたか)い方(かた)を習(なら)って頑張(がんば)ります」と言(い)うと、改(あらた)めて棒(ぼう)を手(て)に取(と)って、練習(れんしゅう)している男達(おとこたち)の構(かま)えを真似(まね)ました。

第九十一章(だいきゅうじゅういっしょう)

殿様(とのさま)と狐(きつね)

ちょうどあの翌朝(よくあさ)、狐(きつね)は狐子(ここ)の部屋(へや)に現(あらわ)れました。「狐子(ここ)や、なぜこんなに急(きゅう)にここに来(く)るように呼(よ)んだのだ?まさか、ゆきにお前(まえ)が手(て)に負(お)えないほど酷(ひど)い事件(じけん)が起(お)こったのか」と訊(き)きました。

狐子(ここ)は首(くび)を横(よこ)に振(ふ)り、「そんなことはないわ。ただ、お父様(とうさま)に会(あ)いたいとおっしゃっているお方(かた)がいるの。こちらへどうぞ」と言(い)うと、殿様(とのさま)がゆき達(たち)と一緒(いっしょ)に咲(さ)き始(はじ)めた桜(さくら)の花見(はなみ)を楽(たの)しんでいる庭(にわ)へ狐(きつね)を連(つ)れて行(い)きました。

その様子(ようす)に気(き)づくと、狐(きつね)は人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)け、「ご無沙汰(ぶさた)しております」と殿様(とのさま)に呼(よ)びかけました。

殿様(とのさま)は、「そうだな」と言(い)い、ゆきと若殿(わかとの)を示(しめ)し、「この二人(ふたり)の婚礼(こんれい)の時(とき)、お前(まえ)の顔(かお)には見覚(みおぼ)えがあった気(き)がしたが、いつどこで会(あ)ったのか思(おも)い出(だ)せなかった。しかし、お嬢(じょう)ちゃんの話(はなし)を聞(き)いてピンときた。子供(こども)の頃(ごろ)、親友(しんゆう)に会(あ)いにここに来(き)たら、お前(まえ)も赤毛(あかげ)の女子(おなご)と共(とも)に来(き)たことがあったな」と、狐(きつね)の背中(せなか)を軽(かる)く叩(たた)きました。「綺麗(きれい)なお嬢(じょう)ちゃんがいるな。ここに籠城(ろうじょう)した時(とき)からずっと。ほとんど一人(ひとり)で過(す)ごしているようだな。なぜ夫(おっと)を選(えら)んでやらないのだ?」と訊(たず)ねました。

狐(きつね)はしばらく俯(うつむ)き、「そう言(い)われてみると、狐子(ここ)に夫(おっと)を選(えら)ばせたくはありません。ただ、こんなに若(わか)い頃(ごろ)から、姉(あね)のように夫(おっと)の死(し)を悼(いた)むような思(おも)いはさせたくないのです。分(わ)かるでしょう?」と答(こた)えました。

殿様(とのさま)は「いいか、お嬢(じょう)ちゃん自身(あね)もそのことはよく分(わ)かっているだろう。それに、こいつは兵(へい)ではないので、戦(いくさ)で死(し)ぬはずがない」と、家老(かろう)を示(しめ)しました。

その時(とき)でした。悲鳴(ひめい)が聞(き)こえました。

第九十二章(だいきゅうじゅうにしょう)

ゆきの陣痛(じんつう)

悲鳴(ひめい)をあげたのはゆきでした。皆(みな)はゆきの方(ほう)へ振(ふ)り返(かえ)りました。ゆきは大(おお)きくなっているお腹(なか)に手(て)をあてていました。 ゆきの隣(とのり)に座(すわ)っていた若殿(わかとの)は慌(あわ)てて立(た)ち上(あ)がりました。「ゆき!どうした?大丈夫(だいじょうぶ)か?」と混乱(こんらん)したように訊(き)きました。 ゆきは、「痛(いた)い!お腹(なか)が痛(いた)いの!」と泣(な)き声(ごえ)で答(こた)えました。 若殿(わかとの)は辺(あた)りを見回(みまわ)し、「どうすればいい?誰(だれ)か、医者(いしゃ)を!ゆき、しっかり!」と言(い)いました。 花見(はなみ)のおやつを配(くば)っていた下女(げじょ)と喋(しゃべ)っていた女将(おかみ)が声(こえ)をかけました。「殿(との)、恐(おそ)れながら、助産婦(じょさんぷ)を呼(よ)んだ方(ほう)が適当(てきとう)でしょう。それは産痛(さんつう)に違(ちが)いありません。ゆき様(さま)、痛(いた)みは治(おさ)まりましたか?」と尋(たず)ねました。ゆきが頷(うなず)くと、「お部屋(へや)にお戻(もど)り下(くだ)さい。庭(にわ)で産(う)むのはお恥(は)ずかしいことでしょう。広子(ひるこ)、奇麗(きれい)な布(ぬの)をゆき様(さま)の部屋(へや)に運(はこ)びなさい。沸(わ)かしたお湯(ゆ)も必要(ひつよう)ですね」と言(い)うと、ゆきの腕(うで)を取(と)って、立(た)ち上(あ)がらせました。 下女達(げじょたち)が準備(じゅんび)をしに行(い)くと、若殿達(わかとのたち)はゆき達(たち)と一緒(いっしょ)に部屋(へや)へ向(む)かって行(い)きました。しかし、部屋(へや)に着(つ)いた時(とき)、若殿(わかとの)も入(はい)ろうとすると、女将(おかみ)は、「これは女(おんな)のことなので、男子禁制(だんしきんせい)でございます。例(たと)え殿(との)でも入室(にゅうしつ)はお断(ことわ)ります」と言(い)い、襖(ふすま)を閉(し)めました。 若殿(わかとの)は血(ち)が頭(あたま)に上(のぼ)ったように、「あれは俺(おれ)の妻(つま)で、産(う)まれるのは俺(おれ)の子(こ)ではないか!」と怒鳴(どな)り、襖(ふすま)を破(やぶ)れるところでしたが、後(うし)ろから誰(だれ)かが肩(かた)に手(て)を置(お)きました。振(ふ)り返(かえ)ると、殿様(とのさま)でした。 「やめろ。無駄(むだ)だ。お前(まえ)が生(う)まれた時(とき)、わしも今(いま)のお前(まえ)と同(おな)じように母(はは)と一緒(いっしょ)にいたかったができなかった。待(ま)つ間(あいだ)庭(にわ)に戻(もど)り、できるだけ花見(はなみ)を楽(たの)しもう」と、若殿(わかとの)の腕(うで)を取(と)って、庭(にわ)へ連(つ)れて行(い)こうとすると、狐(きつね)が声(こえ)をかけました。「失礼(しつれい)ですが、後(あと)でお話(はな)ししましう。誰(だれ)かにこのことについて知(し)らせに行(い)ってきますから」と、お辞儀(じぎ)をしてから去(さ)りました。

第九十三章(だいきゅうじゅうさんしょう)

ゆきの子(こ)

庭(にわ)に戻(もど)ると、若殿(わかとの)はまた花見(はなみ)を楽(たの)しもうとしましたが、気持(きも)ちが高(たか)ぶって、視線(しせん)は桜(さくら)よりもついついゆきの部屋(へや)の方(ほう)へ向(む)き、無意識(むいしき)に庭(にわ)のあちこちを歩(ある)き回(まわ)りました。

しばらくして狐(きつね)は一人(ひとり)の供人(ともびと)と一緒(いっしょ)に戻(もど)ってきました。供人(ともびと)を殿様達(とのさまたち)に紹介(しょうかい)してから、狐達(きつねたち)も待(ま)ち始(はじ)めました。待(ま)ちながら、狐(きつね)は殿様(とのさま)との会話(かいわ)を続(つづ)けました。狐子(ここ)のことを決定(けってい)すると、二人(ふたり)は狐子(ここ)と共(とも)に若殿(わかとの)の態度(たいど)や活動(かつどう)に対(たい)して論評(ろんぴょう)し始(はじ)めました。

ようやく、昼過(ひるす)ぎ、女将(おかみ)が庭(にわ)に出(で)てきました。「母子共(ぼしとも)に元気(げんき)でございます。殿(との)、今(いま)はお嬢様(じょうさま)をご覧(らん)になれます」

若殿(わかとの)は「女子(おなご)だ!父(ちち)になった!」と繰(く)り返(かえ)しながらしばらく人(ひと)から人(ひと)へと駆(か)け回(まわ)りました。そして、ゆきの部屋(へや)へ向(む)かって駆(か)け出(だ)しました。皆(みな)も少(すこ)し遅(おく)れて若殿(わかとの)について行(い)きました。

部屋(へや)では、柔(やわ)らかい布(ぬの)で包(つつ)まれた赤(あか)ん坊(ぼう)が、幸(しあわ)わそうな笑(え)みを浮(う)かべたゆきの胸(むね)に抱(だ)かれていました。その光景(こうけい)を壊(こわ)したくないのか、襖(ふすま)の脇(わき)から若殿(わかとの)は静(しず)かに二人(ふたり)を見(み)つめました。

しばらくしてゆきは若殿(わかとの)に目(め)を向(む)けました。「旦那様(だんなさま)、娘(むすめ)を抱(だ)いてやってくださいませんか」と腕(うで)を伸(のば)ばしながら優(やさ)しく訊(き)きました。

若殿(わかとの)は少(すこ)しためらってから部屋(へや)に入(はい)り、娘(むすめ)を抱(だ)き上(あ)げました。続(つづ)いて入(はい)って来(き)た家老(かろう)が、「殿(との)、家系図(かけいず)には、どういうお名前(なまえ)を記(しる)しますか」と訊(たず)ねました。

若殿(わかとの)はしばらく呆然(ぼうぜん)としていましたが、ゆきはすぐに声(こえ)をかけました。「桜(さくら)。この子(こ)は桜(さくら)です」と言(い)うと、若殿(わかとの)は名前(なまえ)を含味(がんみ)するかのように「桜(さくら)」を繰(く)り返(かえ)してから、「うん。桜(さくら)がいい」と言(い)いました。

殿様(とのさま)は「見事(みごと)な名前(なまえ)だな。美(うつく)しい孫娘(まごむすめ)に相応(ふさわ)しいんじゃない」と、手(て)で若殿(わかとの)の背中(せなか)を軽(かる)く叩(たた)きました。

「可愛(かわい)い!次(つぎ)に抱(だ)いてもいい?」と、桜(さくら)を見(み)た狐子(ここ)が飛(と)び跳(は)ねんばかり興奮(こうふん)しました。

そして、狐(きつね)がゆきの知(し)らない女性(じょせい)を連(つ)れて枕元(まくらもと)に来(き)ました。古風(こふう)な着物(きもの)に古風(こふう)な黒髪(くろかみ)の美(うつく)しい人(ひと)でした。しかし、その顔(かお)には見覚(みおぼ)えがありました。狐(きつね)が「ゆき殿(どの)、こちらは…」と紹介(しょうかい)を始(はじ)めると、ゆきは口(くち)を挟(はさ)みました。「まさか、もしかして…おばあさま?いや、ひおばあ様(さま)ですか?」と言(い)いながら立(た)ち上(あ)がりました。

女(おんな)は頷(うなず)き、優(やさ)しく微笑(ほほえ)みました。「初(はじ)めまして、ゆきや。狐(きつね)の谷(たに)の姫(ひめ)と申(もう)します。あまりに長(なが)く時間(じかん)狐(きつね)の谷(たに)に籠(こも)ったまま、我(わ)がままに自分(じぶん)の悩(なや)みしか考(かんが)えていなかったのね。弟(おとうと)がお前(まえ)の活躍(かつやく)を伝(つた)えるたびに興味(こうふん)が少(すこ)しずつ掻(か)き立(た)てられたの。ついに、お前(まえ)が子(こ)を産(う)むところだと聞(き)いて、来(こ)ざるを得(え)なかったの」と言(い)うと、ゆきを抱(だ)き締(し)めました。

その抱擁(ほうよう)が終(お)わると、殿様(とのさま)は声(こえ)をかけました。「ところで、狐殿(きつねどの)が狐子(ここ)ちゃんと家老殿(かろうどの)の婚礼(こんれい)を許(ゆる)してくれた」

ゆきは、「本当(ほんとう)?すごい!いつですか?」と言(い)うと、顔(かお)が割(わ)れんばかりに微笑(ほほえ)みました。

家老(かろう)は狐子(ここ)の顔(かお)を見(み)つめながら、「まだ決(き)めていません。できるだけ早(はや)くと思(おも)っています」と答(こた)えました。

狐(きつね)は、「ゆき殿(どの)、ついに幸(しあわ)せを見(み)つけたのですか」と訊(き)きました。

ゆきが家族(かぞく)と友達(とのだち)の笑顔(えがお)を見回(みまわ)し、「本当(ほんとう)に幸(しあわ)せですが、まだ足(た)りないことがあります」と言(い)うと、皆(みま)はぽかんとゆきを見(み)つめました。

若殿(わかとの)が「いったい何(なに)が足(た)りないのだ!?」と訊(たず)ねると、ゆきは若殿(わかとの)の手(て)を取(と)り、顔(かお)をまっすぐに眺(なが)めながら、「子供(こども)です。一人子(ひとりご)でしたので、多(おお)くの子供(こども)が欲(ほ)しいのです。この城(しろ)を子供(こども)でいっぱいにしたいのです」と言(い)いました。そして、皆(みま)は笑(わら)いました。

終(おわり)