目次(もくじ)

  1. 第一章(だいいっしょう)  ゆきの子供達(こどもたち)
  2. 第二章(だいにしょう)  蓮(れん)は何(なに)をしている?
  3. 第三章(だいさんしょう)  狐子(ここ)の捜索(そうさく)
  4. 第四章(だいよんしょう)  助(たす)かった
  5. 第五章(だいごしょう)  旅(たび)の勧(すす)め
  6. 第六章(だいろくしょう)  殿(との)との茶席(ちゃせき)
  7. 第七章(だいななしょう)  旅(たび)の準備(じゅんび)

第一章(だいいっしょう)

ゆきの子供達(こどもたち)

二階(にかい)の窓際(まどぎわ)で女(おんな)の人(ひと)が、兵(へい)を集(あつ)めるための広(ひろ)い中庭(なかにわ)を見下(みお)ろしている。彼女(かのじょ)は、大(おお)きくふくらんだお腹(なか)を、愛(いと)おしそうに撫(な)でていた。長(なが)い髪(かみ)はまだ黒々(くろぐろ)としていて、よく見(み)ないと、その中(なか)にごく僅(わず)かの白毛(しらげ)が混(ま)じっているなど誰(だれ)も気(き)がつかないだろう。頬(ほお)に刻(きざ)まれたうっすらとした皺(しわ)はきっと、今(いま)のように、彼女(かのじょ)がよく微笑(ほほえ)んだ証(あかし)なのだろう。そして、身(み)に纏(まと)った高価(こうか)な着物(きもの)は絹(きぬ)に違(ちが)いない。

中庭(なかにわ)では、数人(すうにん)の少年(しょうねん)が武道(ぶどう)の練習(れんしゅう)をしていた。少年(しょうねん)と言(い)ったが、そのうちの二人(ふたり)は長(なが)く結(ゆ)った髪(かみ)をしていて、相手(あいて)の者達(ものたち)より背(せ)が低(ひく)かった。それにしても、その二人(ふたり)の突(つ)きは飛(と)び抜(ぬ)けて的確(てっかく)で力強(ちからつよ)かった。動(うご)きも流麗(りゅうれい)で、無駄(むだ)がなかった。

「お母様(かあさま)、また姉上達(あねうえたち)の修行(しゅぎょう)をご覧(らん)になっているの?」と、ちらりと顔(かお)を上(あ)げて女(おんな)の子(こ)が言(い)った。九(きゅう)、十歳(じゅっさい)くらいであろうか、本(ほん)の間(あいだ)に突(つ)っ伏(ぷ)して、何(なに)かを一生懸命(いっしょうけんめい)書(か)いている。少(すこ)しあきれた口調(くちょう)だった。

母(はは)は娘(むすめ)をちらっと見(み)ると、「ええ」と、窓(まど)の外(そと)に視線(しせん)を戻(もど)した。

その時(とき)、廊下(ろうか)から足音(あしおと)が聞(き)こえた。すぐに襖(ふすま)が開(あ)いて、十五(じゅうご)、六歳(ろくさい)の女(おんな)の子(こ)が怒(おこ)った顔(かお)で入(はい)ってきた。「お母様(かあさま)、お父様(とうさま)にお話(はな)しして下(くだ)さらない?お父様(とうさま)はなぜ、あの怪(あや)しい大名(だいみょう)と私(わたし)を結婚(けっこん)させたがるのかしら!あの方(かた)、もう四人(よにん)も奥方(おくがた)がおいでなのよ!それに、あの醜(みにく)さといったら!!長女(ちょうじょ)だから、素敵(すてき)な若殿(わかとの)と結婚(けっこん)するはずなのに!」とぼやいた。

先(さき)の娘(むすめ)は、視線(しせん)を紙(かみ)から離(はな)さぬまま、「男(おとこ)の子(こ)は嫌(きら)い」と興味(きょうみ)なさそうに言(い)った。

姉(あね)は妹(いもうと)の元(もと)につかつかと歩(ある)いて来(き)て、妹(いもうと)が覗(のぞ)き込(こ)でいた本(ほん)を無造作(むぞうさ)に取(と)り上(あ)げ、「百合(ゆり)、このような童話(どうわ)や物語(ものがたり)を読(よ)んでいるのに、本当(ほんとう)の事(こと)は何(なに)も分(わ)からないのね。少(すこ)し成長(せいちょう)すると、気持(みも)ちが変(か)わるでしょう」と言(い)った。

すると、百合(ゆり)は思(おも)わず筆(ふで)を落(お)とし、飛(と)び上(あ)がり「それは私(わたし)のよ!返(かえ)して!」と叫(さけ)んで取(と)り戻(もど)そうとしたが、力(ちから)の限(かぎ)り跳(と)んでも、百合(ゆり)は本(ほん)に触(さわ)ることさえできなかった。

母(はは)は振(ふ)り返(かえ)って「桜(さくら)、妹(いもうと)をいじめないでおくれ。百合(ゆり)はまた小(ちい)さいのだから」と言(い)うと、二人(ふたり)の下(もと)に歩(ある)いて行(ゆ)き、優(やさ)しく本(ほん)を桜(さくら)の手(て)から取(と)り、百合(ゆり)に戻(もど)した。百合(ゆり)は本(ほん)を胸(むね)に抱(だ)き、墨(すみ)で染(そ)まった紙(かみ)の方(ほう)を見(み)て、「まあ!書(か)き直(なお)さないと…」と言(い)いながら姉(あね)を睨(にら)んだ。

母(はは)は桜(さくら)の腕(うで)を引(ひ)っ張(ぱ)り、部屋(へや)の隅(すみ)に行(い)った。二人(ふたり)はそこに座(すわ)り、母(はは)が「あなたも評議(ひょうぎ)に参加(さんか)しているので、国(くに)の状況(じょうきょう)が分(わ)かるでしょう。お父様(とうさま)が殿(との)の座(ざ)に就(つ)いてからこの十五年(じゅうごねん)あまり、国(くに)はだんだん貧(まず)しい国(くに)から豊(ゆた)かな国(くに)になって来(き)ましたね。でも国(くに)が豊(ゆた)かになると、近隣諸国(きんりんしょこく)の妬(ねた)みを買(か)ってしまうの。この戦国時代(せんごくじだい)には、味方(みかた)がいないことは危険(きけん)なことなのですよ」と言(い)うと、桜(さくら)は口(くち)を挟(はさ)んだ。

「それは分(わ)かっております。でも、あの大名(だいみょう)と結婚(けっこん)することといったい何(なん)の関係(かんけい)があるの?あの方(かた)は私達(わたしたち)のおじい様(さま)と同(おな)じぐらい年(とし)じゃありませんか」

母(はは)は「ああ、おじい様(さま)は亡(な)くなるまで近隣諸国(きんりんしょこく)の覇権(はけん)を握(にぎ)っていらっしゃった。でも、おじい様(さま)が亡(な)くなった今(いま)は、近隣諸国(きんりんしょこく)の城主(じょうしゅ)の誰(だれ)もが権力(けんりょく)を得(え)ようと画策(かくさく)しているのですよ。あの武威(ぶい)の高(たか)いお方(かた)にはたくさんの奥方(おくがた)がいらしても、まだお子様(こさま)がおりません。跡継(あとつ)ぎを産(う)む奥方(おくがた)がいればきっと同盟(どうめい)を結(むす)べるとお思(おも)いになって、お父様(とうさま)はあなたの縁組(えんぐ)みを提案(ていあん)しているのです」と答(こた)えた。

「そうですか。でも、四人(よにん)の奥方(おくがた)にお子様(こさま)がいないのなら、大名(だいみょう)の問題(もんだい)ではありませんか?新(あたら)しい奥方(おくがた)が身籠(みごも)る可能性(かのうせい)はほとんどないではありませんか?」と少(すこ)し落(お)ち着(つ)き取(と)りを戻(もど)したところで桜(さくら)は訊(き)いた。

母(はは)がくすくすと笑(わら)い、「男(おとこ)の方(かた)は、そうはお考(かんが)えにならないでしょう。特(とく)にご本人(ほんにん)はね…」と言(い)うと、桜(さくら)も笑(わら)わざるを得(え)なかった。

二人(ふたり)の笑(わら)いが収(おさ)まると、母(はは)は「とにかく、またお父様(とうさま)にお話(はな)ししてみましょう。やはり、五人目(ごにんめ)の奥方(おくがた)になるのは桜(さくら)には相応(ふさわ)しくないでしょう。特(てく)にうちにはまだ長子(ちょうし)がいないから…」と言(い)った。

すると、桜(さくら)は「ありがとう、お母様(かあさま)。長子(ちょうし)と言(い)うと、今度(こんど)は…?」と母(はは)のお腹(なか)を示(そめ)した。

母(はは)はまたお腹(なか)を撫(な)で始(はじ)め、「神様(かみさま)に任(まか)せるしか仕方(しかた)がないですね。前(まえ)のように、お社(やしろ)で男子(だんし)が授(さず)かるようにお祈(いの)りいたしましたけれど」と首(くび)を振(ふ)りながら答(こた)えた。

「私(わたし)もそのようにお祈(いの)りしています」と桜(さくら)が言(い)うと、二人(ふたり)は立(た)ち上(あ)がり、互(たが)いに抱(だ)き合(あ)った。

そうこうしているうちに、開(あ)いたままの襖(ふすま)から粉(こま)まみれ顔(かお)の、少(すこ)し太(ふと)っている七(しち)、八歳(はっさい)の女(おんな)の子(こ)が現(あらわ)れ、「お母(かあ)ちゃま!私(わたし)がこしらえましたおにぎりを召(め)し上(あ)がりませんか?」と興奮(きょうふん)しながら言(い)った。母(はは)に駆(か)け寄(よ)ると、おにぎりを一(ひと)つ渡(わた)した。

母(はは)はおにぎりを手(て)に取(と)って食(た)べると、「美味(おい)しい!ありがとう、鈴(すず)」と言(い)ってから鈴(すず)の膨(ふく)らんだ懐(ふところ)を見(み)て、「お姉様達(ねえさまたち)にも食(た)べさせてみたいと思(おも)いませんか?」と訊(き)いた。

鈴(すず)はしばらくためらったが、ようやく物惜(ものお)しそうに懐(ふところ)から葉(は)で包(つつ)まれたおにぎりをもう二(ふた)つ取(と)り出(だ)し、俯(うつむ)きながら桜(さくら)と百合(ゆり)に渡(わた)すと、「後(あと)で食(た)べたかったのに…」という小(ちい)さく呟(つぶや)いた。

母(はは)は鈴(すず)の頭(あたま)を撫(な)で、「もう充分(じゅうぶん)食(た)べたでしょう?今(いま)までいくつ食(た)べましたか?」と訊(たず)ねた。

「ええと…味見(あじみ)したのと落(お)としたのと、階段(かいだん)を上(のぼ)った時(とき)のと廊下(ろうか)を歩(ある)いた時(とき)のだから…たぶん五(いつ)つでしょう?」と鈴(すず)は真面目(まじめ)な顔(かお)をして指(ゆび)で数(かぞ)えながら言(い)った。

「そうだと思(おも)いました。もう少(すこ)しおやつを減(へ)らしましょうね」と母(はは)が言(い)うと、長(なが)い赤毛(あかげ)の女(おんな)の人(ひと)が部屋(へや)に入(はい)って来(き)て、「ゆきちゃん、諦(あきら)めるしかありませんよ。鈴(すず)は一日中(いちにちじゅう)台所(だいどころ)でうろうろしているから、いつでも下女(げじょ)からお菓子(かし)をもらうことができるのですよ。だから、そんな望(のぞ)みは持(も)つだけ無駄(むだ)でしょう」と言(い)って襖(ふすま)を閉(し)めた。一見(いっけん)したところでは年齢(ねんれい)は桜(さくら)と同(おな)じようだが、その輝(かがや)いている瞳(ひとみ)の奥(おく)を見(み)ると、なぜかかなり年上(としうえ)だという気(き)がする。桜(さくら)より背(せ)が低(ひく)いその女(おんな)の着物(きもの)は母(はは)の――ゆきの――と同(おな)じように高価(こうか)なもののようだったが、その渋(しぶ)い柄(がら)の着物(きもの)に対(たい)して、顔立(かおだ)ちや印象(いんしょう)はかなり派手(はで)だった。

鈴(すず)は「狐子(ここ)おば!」と呼(よ)び、赤毛(あかげ)の女(おんな)に向(む)かって駆(か)け寄(よ)り、腰(こし)に抱(だ)きついた。そして、懐(ふところ)からもう一(ひと)つのおにぎりを取(と)り出(だ)し、狐子(ここ)に渡(わた)した。「どうぞ食(た)べてみてください。私(わたし)がこしらえたんです!」

おにぎりを食(た)べてから、狐子(ここ)は鈴(すず)の方(ほう)に身(み)を屈(かが)め、「いつかいいお嫁(よめ)さんになるでしょう。男性(だんせい)の心(こころ)を掴(つか)むには、まず胃袋(いぶくろ)を満(み)たせと言(い)いますからね」と、鈴(すず)の髪(かみ)を優(やさ)しく撫(な)でた。

それを聞(き)くと、鈴(すず)の笑(え)みはさらに広(ひろ)がった。両腕(りょううで)を頭(あたま)の上(うえ)で振(ふ)り、「わい!狐子(ここ)おばに褒(ほ)めてもらって嬉(うれ)しい!」と叫(さけ)びながら部屋(へや)を駆(か)け回(まわ)った。

ゆきは狐子(ここ)のところに歩(あゆ)み寄(よ)り、微笑(ほほえ)んだ。「狐子(ここ)ちゃん、いつも子供達(こどもたち)を甘(あま)やかしすぎますね。はじめて会(あ)ったその日(ひ)の内(うち)に、子供(こども)のことが大好(だいす)きだということに気付(きづ)きました。でも、今(いま)でも分(わ)からない点(てん)があります。それほど子供(こども)が好(す)きなら、私(わたし)のようにたくさんの子供達(こどもたち)を産(う)むのだと思(おも)いました。でも、息子(むすこ)が二人(ふたり)しかいません。どうしてですか?」と訊(き)いた。

狐子(ここ)は、「主人(しゅじん)の年齢(ねんれい)を考(かんが)えてのことなの。婚礼(こんれい)の前(まえ)にもう四十代(よんじゅうだい)だったので、彼(かれ)が子供達(こども)の成長(せいちょう)を見届(みとど)けるのは難(むずか)しいと思(おも)って。それで、次男(じなん)が生(う)まれた時(とき)、子供(こども)はもう充分(じゅうぶん)だと互(たが)いに思(おも)ったの。その後(あと)、身籠(みごも)らないためのおまじないを使(つか)うようにしたの」と答(こた)えた。

ゆきは、「なるほど。そのおまじないはとても便利(べんり)ですね。私(わたし)は大家族(だいかぞく)が欲(ほ)しいけれど、少(すこ)しうらやましい気(き)もします。家老殿(かろうどの)と言(い)えば、今(いま)はいかがですか」と、少(すこ)し困(こま)ったように親友(しんゆう)の顔(かお)をまっすぐに見(み)やった。

狐子(ここ)のいつも輝(かがや)いている瞳(ひとみ)が曇(くも)ったように見(み)えた。俯(うつむ)きながら、「主人(しゅじん)はまだよくなってないの。事件(じけん)の時(とき)に動(うご)かなくなった右手足(みぎてあし)が少(すこ)し動(うご)くようになったけど、まだ自分(じぶん)では歩(ある)けないの。私(わたし)が狐(きつね)の力(ちから)をもってしても、おまじないで最愛(さいあい)の人(ひと)を治(なお)すことも、たったの一日(いちにち)、寿命(じゅみょう)を伸(の)ばすことすらできない。人間(にんげん)の命(いのち)はあまりに短(みじか)い」と、溜息(ためいき)をついた。

でも、持(も)ち前(まえ)の元気(げんき)な性格(せいかく)では長(なが)く悲(かな)しみに沈(しず)んだままでいることはできなかった。狐子(ここ)はすぐに笑顔(えがお)を取(と)り戻(もど)し、「悲(かな)しいことは充分(じゅうぶん)です。桃(もも)と李(すもも)の練習(れんしゅう)はどうでしたか?」と訊(き)いた。

ゆきは窓際(まどぎわ)に戻(もど)り、「あの二人(ふたり)はとても上手(じょうず)になっています。ええ、修行(しゅぎょう)はすでに終(お)わりました」と言(い)うと、廊下(ろうか)から走(はし)って来(く)る足音(あしおと)が聞(き)こえた。

すぐにまた襖(ふすま)が開(あ)いて、さっきまで中庭(なかにわ)にいた、髪(かみ)を結(ゆ)い上(あ)げた二人(ふたり)が駆(か)け込(こ)んで来(き)た。間近(まぢか)に見(み)ると、二人(ふたり)は厳(いか)つい道着(どうぎ)を着(き)ていても、男(おとこ)ではなく、十一(じゅういち)、二歳(にさい)の女(おんな)の双子(ふたご)だということに気(き)がつく。その二人(ふたり)はきっと桃(もも)と李(すもも)だろうが、どっちが桃(もも)で、どっちが李(すもも)かということは、母(はは)でもよく間違(まちが)える程(ほど)であった。男(おとこ)っぽさは外見(がいけん)だけとは限(かぎ)らない。身(み)のこなし方(かた)や話(はな)し方(かた)、態度(たいど)にまでも、姫(ひめ)らしくない点(てん)がたくさんあった。その二人(ふたり)は、部屋(へや)に入(はい)り狐子(ここ)を見(み)るや否(いな)や、「狐子(ここ)おば!」と一斉(いっせい)に叫(さけ)び、駆(か)け寄(よ)って抱(だ)きついた。すると、桃(もも)…だと思(おも)うが、目(め)を閉(と)じ、深(ふか)く息(いき)を吸(す)い込(こ)み、「何(なに)か美味(おい)しそうな匂(にお)いがする」と、李(すもも)…だと思(おも)われる方(ほう)が、狐子(ここ)を見上(みあ)げ、「狐子(ここ)おば、お菓子(かし)を持(も)ってきたの?」と言(い)った。

狐子(ここ)は、「持(も)ってきたのは私(わたし)ではありませんよ」と答(こた)えると、双子(ふたご)は顔(かお)を見合(みあ)わせ、「鈴(すず)!」と叫(さけ)び、妹(いもうと)の方(ほう)に向(む)き直(なお)り、「お菓子(かし)をちょうだい!」と呼(よ)んだ。

鈴(すず)がくすくすと笑(わら)いながら「いや!私(わたし)の!」と、部屋(へや)を抜(ぬ)け出(だ)そうとしたが、素早(すばや)く双子(ふたご)の一人(ひとり)が出口(でぐち)を遮(さえぎ)った。だが、前後(ぜんご)から伸(の)びた双子(ふたご)の手(て)が妹(いもうと)を捕(つか)まえる前(まえ)に、鈴(すず)は身(み)を縮(ちぢ)め、部屋(へや)の奥(おく)に駆(か)け戻(もど)った。何度(なんど)も双子(ふたご)が鈴(すず)を掴(つか)んだ――と思(おも)うと、鈴(すず)は間一髪(かんいっぱつ)で逃(に)げた。でも、双子(ふたご)は鈴(すず)を部屋(へや)から逃(に)がさなかった。どうしてこの武芸(ぶげい)の達者(たっしゃ)な二人(ふたり)が太(ふと)っている妹(いもうと)を捕(つか)まえることができないのかと思(おも)われるかもしれないが、三人(さんにん)の笑(わら)い声(ごえ)を聞(き)けば、彼女達(かのじょたち)が単(たん)に遊(あそ)んでいるだけだということにお気付(きづ)きになるだろう。彼女達(かのじょたち)のお気(き)に入(い)りの遊(あそ)びというわけだ。

そのうち、鈴(すず)は息(いき)を切(き)らし、足取(あしど)りも重(おも)くなった。床(ゆか)に転(ころ)げて仰向(あおむ)けになった鈴(すず)は、はあはあと息(いき)づきながら、「やっぱり、…また…負(ま)けた…。今度(こんど)こそは…逃(に)げる…よ」と言(い)いました。

双子(ふたご)は鈴(すず)の腕(うで)を一本(いっぽん)ずつ掴(つか)み、立(た)ち上(あ)がらせた。妹(いもうと)に歩(ある)かせながら、「褒美(ほうみ)を渡(わた)せ!食(た)べ物(もの)をお出(だ)し!」と繰(ふ)り返(かえ)した。

まだ息(いき)が治(おさ)まらない鈴(すず)は、笑顔(えがお)のまま、残(のこ)りの二(ふた)つのおにぎりを懐(ふところ)から取(と)り出(だ)し、双子(ふたご)に一(ひと)つずつ渡(わた)した。

その遊(あそ)びを見(み)ていた狐子(ここ)は、「ゆきちゃんはあの二人(ふたり)に関(かん)してはちょっと甘(あま)やかしすぎみたいね。他(ほか)の子供達(こどもたち)にはあのように妹(いもうと)をいじめることを許(ゆる)さないんじゃない?どうして二人(ふたり)には許(ゆる)しているのかしら?」と少(すこ)し困(こま)ったように言(い)った。

ゆきはくすくすと笑(わら)い、頭(あたま)を横(よこ)に振(ふ)った。「あれはいじめている訳(わけ)ではありません。鈴(すず)を遊(あそ)びながら運動(うんどう)させているのですよ。鈴(すず)が降参(こうさん)するか部屋(へや)から抜(ぬ)け出(だ)すまではできるだけ運動(うんどう)させる、という約束(やくそく)をしました。鈴(すず)が部屋(へや)を抜(ぬ)け出(だ)したら、追(お)ってはいけなくて、鈴(すず)が持(も)っているお菓子(かし)はもらえません。同(おな)じように、鈴(すず)が泣(な)いてしまった場合(ばあい)も、お菓子(かし)をもらえません。そして、双子達(ふたごたち)はどうして楽(たの)しくなかったのかを反省(はんせい)しなければなりません。でも、最後(さいご)まで楽(たの)しくて鈴(すず)が部屋(へや)を抜(ぬ)け出(だ)すことができなかった場合(ばあい)、鈴(すず)はご褒美(ほうび)としてお菓子(かし)をあげないといけません」

狐子(ここ)の瞳(ひとみ)は前(まえ)よりも明(あか)るく輝(かが)いた。「なるほど。どうして私(わたし)がそのような遊(あそ)び方(かた)を思(おも)い付(つ)かなかったのかしら、驚(おどろ)きだわ」というと、ゆきは「実(じつ)は、『狐子(ここ)なら、何(なに)をするだろう?』と考(かんが)えながら、これを思(おも)い付(つ)きました」と答(こた)えた。

二人(ふたり)が互(たが)いに笑(わら)っていると、戸口(とぐち)から「まあ、お二人(ふたり)とも、子供達(こどもたち)が何(なに)かいたずらをやっている時(とき)には、なぜかいつもあなた方(がた)がいらっしゃいます。今日(きょう)は何(なに)をやったのでしょう」と言(い)う声(こえ)と共(とも)に、「母(かあ)ちゃま!狐子(ここ)おば!」と言(い)う叫(さけ)びが聞(き)こえた。一(いち)、二歳(にさい)の赤(あか)ん坊(ぼう)を抱(だ)き上(あ)げた老女(ろうじょ)の側(そば)から二人(ふたり)の幼(おさな)い女(おんな)の子(こ)がゆき達(たち)の下(もと)に駆(か)け寄(よ)った。一人(ひとり)は三(さん)、四歳(よんさい)で、もう一人(ひとり)は五(ご)、六歳(ろくさい)だろう。

ゆきは駆(か)け寄(よ)った子供達(こどもたち)を抱(だ)くと、そのうちの姉(あね)の方(ほう)が、「母(かあ)ちゃまが婆(ばあ)やの温泉(おんせん)で働(はたら)いていたと婆(ばあ)やが教(おし)えてくれたの。本当(ほんとう)にそうだったの?」と訊(き)いた。

ゆきはしゃがみ、その子(こ)を真(ま)っ直(す)ぐに見(み)て、「そうです、椿(つばき)。桜(さくら)お姉様(ねえさま)と同(おな)い年(どし)だったのです」と答(こた)えた。

椿(つばき)の隣(となり)に立(た)っている妹(いもうと)は「私(わたし)も温泉(おんせん)ではたわけうぅの?」と少(すこ)し舌足(したた)らずに尋(たず)ねた。

ゆきがくすくすと笑(わら)い、その子(こ)の方(ほう)を向(む)き、「白菊(しらぎく)、姫(ひめ)が温泉(おんせん)で働(はたら)くのは変(へん)です」と言(い)うと、椿(つばき)は「だって、母(かあ)ちゃまがそうしたら、ちっとも変(へん)じゃないじゃないか?」と口(くち)を挟(はさ)んだ。

ゆきは「その時(とき)、私(わたし)が姫(ひめ)であるということはまだ知(し)りませんでした。それに、まだ幼(おさ)い頃(ごろ)に両親(りょうしん)が亡(な)くなって、お祖母様(ばあさま)にこっそりと貧(まず)しい村(むら)で育(そだ)てられたので、お祖母様(ばあさま)がなくなると、どこかで働(はたら)かざるを得(え)ませんでした」と説明(せつめい)し、立(た)ち上(あ)がり、婆(はあ)やから赤(あか)ん坊(ぼう)を受(う)け取(と)った。そして、「蘭(らん)、今日(きょう)はいい子(こ)でしたか?」と言(い)うと、蘭(らん)は「ばば」と笑顔(えがお)で言(い)った。

ゆきは部屋(へや)を見回(みまわ)し、娘(むすめ)を数(かぞ)えた。「一(いち)、二(に)、三(さん)、四(よん)、五(ご)、六(ろく)、七(しち)、八(はち)…誰(だれ)かがいません。蓮(れん)?誰(だれ)かが蓮(れん)を見(み)ましたか?」と訊(たず)ねると、桜(さくら)は声(こえ)を上(あ)げた。「そう言(い)えば、今朝(けさ)、紙束(かみたば)を持(も)っているところ廊下(ろうか)で見(み)ました。以前(いぜん)一人(ひとり)でまだ作(つく)っていない建物(たてもの)を探(さが)しに行(い)った時(とき)のように、下女(げじょ)の服(ふく)を着(き)ていました。城(しろ)の門(もん)の外(そと)へ出(で)てはいけないことを忘(わす)れないでと言(い)いましたのに、蓮(れん)は単(たん)に『はい、はい、分(わ)かってる』と答(こた)えました」

すると、鈴(すず)も口(くち)を挟(はさ)んだ。「台所(だいどころ)にいた時(とき)、蓮(れん)お姉(ねえ)ちゃまが勝手口(かってぐち)を抜(ぬ)け出(だ)すところを見(み)ました」

「どうしてあの子(こ)があれほど多(おお)くのおもちゃの家(いえ)を作(つく)りたがるのか分(わ)かりません。蓮(れん)の部屋(へや)はもう布団(ふとん)を敷(し)く隙間(すきま)もないほどおもちゃの家(いえ)で埋(う)ってますよ」と桜(さくら)が続(つづ)けると、紙(かみ)から視線(しせん)を動(うご)かさず百合(ゆり)は、「桜(さくら)お姉様(ねえさま)はしばらくすれば結婚(けっこん)して引(ひ)っ越(こ)すようだから、蓮(れん)お姉様(ねえさま)は襖(ふすま)を外(はず)して桜(さくら)お姉様(ねえさま)の部屋(へや)に自分(じぶん)の部屋(へや)を延(の)ばすと言(い)ってたわ」とつまらなそうに言(い)った。

桜(さくら)は目(め)を吊(つ)り上(あ)げ、両手(りょうて)を腰当(こしあ)てて肘(ひじ)を張(は)り、ゆきを振(ふ)り返(かえ)り、「何(なん)てことを!お母様(かあさま)…」と言(い)いかけたが、ゆきの顔(かお)を見(み)ると、黙(だま)り込(こ)んだ。

目(め)を閉(ど)じたゆきの顔(かお)は青(あお)ざめて、手首(てくび)に巻(ま)いていた数珠(じゅず)を握(にぎ)り締(し)め、祈(いの)るように何(なに)かを呟(つぶや)いていた。

狐子(ここ)はもう部屋(へや)のどこにも見(み)えなかった。

第二章(だいにしょう)

蓮(れん)は何(なに)をしている?

その夜明(よあけ)、蓮(れん)が窓際(まどぎわ)で目覚(めざ)めた時(とき)、障子越(しょうじご)しに差(さ)し込(し)む淡(あわ)い光(ひかり)が、蓮(れん)の周(まわ)りに取(と)り囲(かこ)むように暗(くら)い影(かげ)を作(つく)り、布団(ふとん)だけが白(しろ)くぽっかりと浮(う)き上(あ)がったように見(み)えた。でも、彼女(かのじょ)にとって、その影(かげ)は怖(こわ)いものではなく、よく見慣(みな)れたものであった。

蓮(れん)が障子(しょうじ)を開(あ)けてもっと光(ひかり)を入(い)れると、影(かげ)の正体(しょうたい)は隙間(すきま)なく並(な)べられたおもちゃの家(いえ)であることが分(わ)かった。城(しろ)や山小屋(やまごや)、屋敷(やしき)や草屋(くさや)、お寺(てら)やお社(やしろ)、小間物屋(こまものや)に至(いた)るまで、壁(かべ)を覆(おお)って天井(てんじょう)まで重(かさ)ねた棚(たな)から溢(あふ)れた小(ちい)さな建物(たてもの)が布団(ふとん)の縁(ふち)まで迫(せ)っていた。

愛(いと)しく部屋(へや)を見回(みまわ)し、家(いえ)と家(いえ)の間(あいだ)の狭(せま)い通路(つうろ)を歩(ある)きながらそれぞれの建物(たてもの)を優(やさ)しく撫(な)でている蓮(れん)は、「もう少(すこ)し待(ま)ちなさい。しばらくするともっと広(ひろ)いところに移(いつ)れるから。あれ?兄弟(きょうだい)がもう一軒(いっけん)欲(ほ)しいの?うん、今日(きょう)はあなたの兄弟(きょうだい)に良(よ)さそうな家(いえ)を探(さが)しに行(い)ってくるわ」と呟(つぶや)いた。

少(すこ)し踏(ふ)み違(ちが)えただけで、家(いえ)を一軒(いっけん)を壊(こわ)してしまうほど狭(せま)い通路(つうろ)を用心深(ようじんぶか)く進(すす)みながら、蓮(れん)はあちこちで何(なに)かを直(なお)すために立(た)ち止(と)まった。そうしているうちに、明(あか)るい日差(ひざ)しが部屋(へや)を照(て)らし始(はじ)めた。

蓮(れん)は、自分(じぶん)の作(つく)った建物(たてもの)の中(なか)で最(もっと)も大(おお)きな城(しろ)の前(まえ)で止(と)まり、小(ちい)さな門(もん)を開(あ)け、その奥(おく)に隠(かく)していた下女(げじょ)の服(ふく)を取(と)り出(だ)した。服(ふく)を胸(むね)に抱(だ)いた蓮(れん)は、注意深(ちゅういぶか)くまた狭(せま)い通路(つうろ)を歩(ある)き布団(ふとん)に戻(もど)ると、素早(すばや)く着替(きが)え、黄土(こうど)と木炭(もくたん)の欠片(かけら)を袂(たもと)にしまい、紙束(かみたば)を手(て)に取(と)って襖(ふすま)を開(あ)けた。廊下(ろうか)の両側(りょうがわ)を見渡(みわた)し誰(だれ)もいないことを確認(かくにん)し、襖(ふすま)を閉(し)めて台所(だいどころ)へ向(む)かって歩(ある)き始(はじ)めた。

残念(ざんねん)なことに、廊下(ろうか)の角(かど)を曲(ま)がった所(ところ)で、向(む)こうから来(く)る桜(さくら)に出(で)くわしてしまった。無論(むろん)、その距離(きょり)では長女(ちょうじょ)が次女(じじょ)を見逸(みそ)れるわけがなかった。

「蓮(れん)!どうしてそんな妙(みょう)な格好(かっこう)を?また建物(たてもの)を見(み)に行(い)くつもりなの?決(けっ)して一人(ひとり)で城(しろ)の門(もん)の外(そと)へ出(で)るなとお父様(とうさま)がおっしゃったことを忘(わす)れないで!」と言(い)いながら桜(さくら)が蓮(れん)の腕(うで)を掴(つか)もうとしたが、蓮(れん)は「はい、はい、分(わ)かってる」といらいらしたように言(い)いながら桜(さくら)の手(て)を払(はら)い除(の)け、廊下(ろうか)を階段(かいだん)まで駆(か)けて行(い)った。

桜(さくら)は「ああ、もう!あの馬鹿(ばか)な子(こ)の面倒(めんどう)を見(み)ている暇(ひま)はない。今朝(けさ)の評議(ひょうぎ)に行(い)かないと…」と呟(つぶや)き、妹(いもうと)のことは忘(わす)れ、評議室(ひょうぎしつ)へと急(いそ)いだ。

階段(かいだん)を下(くだ)りながら、蓮(れん)は「もう、城(しろ)の門(もん)の外(そと)へ出(で)るななんて!城(しろ)からはっきり見(み)える建物(たてもの)ならもう全部(ぜんぶ)作(つく)ってしまったのに!城下町(じょうかまち)に行(い)かないと、良(よ)さそうな家(いえ)が見(み)つからない!」と呟(つぶや)いた。

しばらくすると、蓮(れん)は台所(だいどころ)に入(はい)った。いつもの朝(あさ)のように、台所(だいどころ)は賑(にぎ)やかだったが、運良(うんよ)くそこにいる下女達(げじょたち)の視線(しせん)は鈴(すず)の方(ほう)に向(む)いていた。

下女(げじょ)が一人(ひとり)鈴(すず)の方(ほう)に身(み)を屈(かが)め、「今日(きょう)、お姫様(ひめさま)はどんなお料理(りょうり)をお作(つく)りになりますか?」と言(い)った。

鈴(すず)は下女(げじょ)を見上(みあ)げ、「何(なに)か美味(おい)しいおやつ!」と答(こた)えた。

下女(げじょ)は、「おにぎりはいかがでしょうか?」と勧(すす)めた。

「いいよ!おにぎりが大好(だいす)き!」

一方(いっぽう)、蓮(れん)は卓(たく)に積(つ)まれたおやつをいくつか取(と)り、懐(ふところ)にしまってから勝手口(かってぐち)から出(で)ようとすると、背後(はいご)から「蓮(れん)お姉(ねえ)ちゃま!おにぎりをこしらえてみます!後(あと)で食(た)べてみてもらえますか?」と言(い)う威勢(いせい)のいい声(こえ)が聞(き)こえた。「しまった」と呟(つぶや)くと、蓮(れん)は勝手口(かってぐち)から飛(と)び出(だ)した。

蓮(れん)は塀(へい)の側(そば)の桜(さくら)の木(き)へと急(いそ)ぎ、紙束(かみたば)を懐(ふところ)にしまってから上(のぼ)った。枝(えだ)を這(は)って塀(へい)の上(うえ)に乗(の)り移(うつ)り、向(む)こうに下(お)りた。すると、目(め)の中(なか)が町(まち)の建物(たてもの)でいっぱいになった蓮(れん)はそこへ向(む)かって歩(ある)き始(はじ)めた。

町(まち)の道(みち)をぶらぶらと見(み)て歩(ある)きながら、「あれは合(あ)っていない」とか「あれはもう作(つく)った」とか呟(つぶや)いている蓮(れん)の目(め)には建物(たてもの)以外(いがい)の物(もの)は何(なに)も映(うつ)っていないようで、周(まわ)りの人々(ひとびと)にも気(き)を配(くば)っていないようだった。だから、どこに行(い)っても蓑(みの)を着(き)た姿(すがた)が少(すこ)し離(はな)れて蓮(れん)をつけていたことにも、豊(ゆた)かな城下町(じょうかまち)を通(とお)り過(す)ぎ、貧(まず)しく寂(さび)れた場所(ばしょ)に迷(まよ)い込(こ)んだことにも気(き)がつかなかった。

ようやく、蓮(れん)はある建物(たてもの)に引(ひ)き付(つ)けられた。近(ちか)づくと、「あれかしら?」という呟(つぶや)きは、すぐに「あれしかない!」という確信(かくしん)に変(か)わった。

どうしてあの家(いえ)に決(き)めたのか、蓮(れん)自身(じしん)にも分(わ)からなかっただろう。昔(むかし)は鮮(あさ)やかな色(いろ)であったと思(おも)われる二階(にかい)建(た)てのその家(いえ)は今(いま)はくすんで白茶(しらちゃ)けて見(み)える。二階(にかい)の露台(ろだい)にも入(い)り口(ぐち)にも幾人(いくにん)かの女(おんな)がいて、緩(ゆる)んだ着物(きもの)の胸元(むなもと)が少(すこ)しあらわになり、裾(すそ)がはだけて太(ふと)ももが見(み)えていたというのに、建物(たてもの)にしか注意(ちゅうい)が向(む)かない蓮(れん)は気(き)がつかなかった。

道(みち)の向(む)こう側(がわ)に腰(こし)をかけ、蓮(れん)は紙束(かみたば)を膝(ひざ)に乗(の)せて、黄土(こうど)と木炭(もくたん)でその建物(たてもの)を描(えが)き始(はじ)めた。

しかし、そうしているうちに、大(おお)きな重(おも)い手(て)が肩(かた)に置(お)かれ、太(ふと)い男(おとこ)の声(こえ)が聞(き)こえた。「お嬢(じょう)ちゃんは綺麗(きれい)やなぁ。それに、うちに興味(きょうみ)があるらしい。これからうちで働(はたら)くのはどうだ?」

「忙(いそが)しいから放(ほう)っておいて。あっちに行(い)ってくれないと見(み)えない」といらいらした蓮(れん)が男(おとこ)の股(また)の間(あいだ)から建物(たてもの)を見(み)ようとしたが、男(おとこ)の手(て)は容赦(ようしゃ)なく蓮(れん)の肩(かた)を掴(つか)んだ。「いいか、うちで働(はたら)けと言(い)ったら、うちで働(はたら)かなくちゃ駄目(だめ)だ。立(た)て!」

「いたたたた!父上(ちちうえ)がこれを聞(き)くと、大変(たいへん)なことになるわ!誰(だれ)か、助(たす)けて!」と身(み)をよじって蓮(れん)は叫(さけ)んだが、男(おとこ)は蓮(れん)を建物(たてもの)の方(ほう)へ引(ひ)っ張(ぱ)って行(い)った。「お前(まえ)の父親(ちちおや)が来(き)ても、すぐに片付(かたづ)けてやるさ。この辺(へん)は城(しろ)の武士(ぶし)でも一人二人(ひとりふたり)では来(こ)ない所(ところ)だ、助(たす)けに来(く)る奴(やつ)などいるものか」

第三章(だいさんしょう)

狐子(ここ)の捜索(そうさく)

ゆきの部屋(へや)を出(で)ると、狐子(ここ)は狐(きつね)の姿(すがた)に化(ば)けてから台所(だいどころ)へ向(む)かって人間(にんげん)よりも速(はや)く走(はし)った。勝手口(かってぐち)を抜(ぬ)け出(だ)すと、鼻(はな)を地面(じめん)に近(ちか)づけて蓮(れん)の匂(にお)いを見(み)つけようとした。後(うし)ろからの「きゃあ!狐(きちね)が台所(だいどころ)にいた!」という叫(さけ)びにも、「気(き)にしないで、その狐(きつね)はきっと狐子様(ここさま)か狐一様(こいちさま)でしょう」という声(こえ)にも構(かま)わず、匂(にお)いの手掛(てが)かりを辿(たど)って駆(か)けて行(い)った。

しばらくすると、狐子(ここ)は塀(へい)の向(む)こうにまで生(は)い茂(しげ)った大(おお)きな枝(えだ)の桜(さくら)の木(き)の下(した)まで来(き)た。その木(き)の周(まわ)りに匂(にお)いが続(つづ)いていないことを確認(かくにん)してから、猫(ねこ)の姿(すがた)に化(ば)け、木(き)を上(のぼ)り、塀(へい)の向(む)こう側(がわ)に下(お)りた。

今度(こんど)は犬(いぬ)の姿(すがた)に化(ば)け、また蓮(れん)の匂(にお)いを見(み)つけてから、匂(にお)いを辿(たど)って町(まち)に入(はい)った。(町人(まちびと)は城(しろ)の者(もの)ほど狐(きつね)に慣(な)れていないから、その姿(すがた)で城下町(じょうかまち)に入(はい)ると問題(もんだい)が起(お)こるだろう)町(まち)に入(はい)ると、蓮(れん)の匂(にお)いは人々(ひとびと)の行(い)き来(き)で掻(か)き消(け)されたのか、狐子(ここ)は僅(わず)かに残(のこ)った匂(にお)いを頼(たよ)りにゆっくり進(すす)むしかなかった。十字路(じゅうじろ)に来(く)ると、方向(ほうこう)を確認(かくにん)するために行(い)ったり来(き)たらしているうちに、さらに時間(じかん)がかかってしまった。

蓮(れん)の匂(にお)い以外(いがい)に何(なに)も気(き)がつかないほど注意(ちゅうい)を鼻(はない)に集中(しゅうちゅう)していた狐子(ここ)は無論(むろん)、周囲(しゅうい)の豊(ゆた)かな町並(まちな)みが貧(まず)しく寂(さび)れてきたことにさえ気付(きづ)く余裕(よゆう)はなかった。遠(とお)くから微(かす)かに聞(き)こえる「誰(だれ)か、助(たす)けて!」という金切(かなき)り声(ごえ)が狐子(ここ)の意識(いしき)に触(ふ)れたが、それがどこから聞(き)こえて来(き)たのか、蓮(れん)と関係(かんけい)があるのかさえ確信(かくしん)がないまま、一瞬(いっしゅん)足(あし)を止(と)め、ちらりと辺(あた)りを見回(みまわ)したが、また鼻(はな)を地面(じめん)に戻(もど)し何(なに)か手掛(てが)かりはないか捜(さが)し続(つづ)いた。

ようやく、踏(ふ)みつけられて泥(どろ)だらけになった数枚(すうまい)の紙(かみ)に辿(たど)り着(つ)いた。その匂(にお)いを嗅(か)ぐと同時(どうじ)に、道端(みちばた)から「お前(まえ)があの子(こ)を捜(さが)しに来(き)たのなら、もう遅(おそ)いな」という声(こえ)がはっきり聞(き)こえた。声(こえ)をする方向(ほうこう)を振(ふ)り返(かえ)った狐子(ここ)は人間(にんげん)の姿(すがた)に戻(もど)り、「あんたは…」と言(い)いながら二階(にかい)建(た)ての家(いえ)の壁(かべ)に寄(よ)り掛(か)かっている男(おとこ)を睨(にら)んだ。

第四章(だいよんしょう)

助(たす)かった

「この辺(へん)は城(しろ)の武士(ぶし)でも一人(ひとり)二人(ふたり)では来(こ)ない所(ところ)だ、助(たす)けに来(く)る奴(やつ)などいるものか」と蓮(れん)を引(ひ)きずりながら男(おとこ)が言(い)った。その時(とき)、蓑(みの)を着(き)た男(おとこ)が二人(ふたり)の前(まえ)に急(きゅう)に立(た)ちはだかった。「ここにいるかもしれん。とにかく、お嬢様(じょうさま)をこちらによこせ」と言(い)った。その声(こえ)からはその男(おとこ)が、まだほんの若造(わかぞう)であることが分(わ)かる。その若者(わかもの)は蓮(れん)の腕(うで)を掴(つか)んでいる男(おとこ)より背(せ)が低(ひく)かったが、恐(おそ)れる素振(そぶ)りも見(み)せず男(おとこ)を見据(みす)えた。

「お前(まえ)は何者(なにもの)だ?おい、野郎(やろう)ども、この馬鹿野郎(ばかやろう)をやっちまえ」と男(おとこ)がいらだったように言(い)い放(はな)つと、家(いえ)の周(まわ)りにうろついていた三人(さんにん)の荒(あら)っぽいならず者(もの)が「へい!」と言(い)うなり、立(た)ち上(あ)がり、棒(ぼう)や刃物(はもの)を手(て)に構(かま)えた。

蓑(みの)の若者(わかもの)はあざ笑(わら)うかのように、「三対一(さんたいいち)の勝負(しょうぶ)だな。面白(おもしろ)い。では、そやつらの手並(てな)みを拝見(はいけん)といくか」と言(い)い、さっと蓑(みの)を脱(ぬ)いだ。その下(した)から殿(との)の紋(もん)のついた服(ふく)が現(あらわ)れると、蓮(れん)は息(いき)を呑(の)んだ。もちろんこの若者(わかもの)はよく見知(みし)った者(もの)だった。

「狐一(こいち)おじ!助(たす)かった!」と蓮(れん)は言(い)い、自分(じぶん)を抑(おさ)えている男(おとこ)を振(ふ)り返(かえ)った。「大変(たいへん)なことになるって言(い)ったでしょう?狐一(こいち)おじはとても強(つよ)いのよ。あんな連中(れんしゅう)なんか足元(あしもと)にも及(およ)ばないわ」

「黙(だま)れ!わしに逆(さか)らうとどうなるかをこの若造(わかぞう)に教(おし)えてやるぞ」と男(おとこ)は言(い)い、蓮(れん)を激(はげ)しく引(ひ)きずり振(ふ)り回(まわ)しながら、玄関(げんかん)の方(ほう)へ引(ひ)っ張(ぱ)って行(い)ったが、玄関(げんかん)に入(はい)る前(まえ)に、後(うし)ろから折(お)れた武器(ぶき)や三人(さんにん)の手下(てした)どもが次々(つぎつぎ)と玄関(げんかん)先(さき)に放(ほう)り込(こ)まれた。逃(に)げていく女達(おんなたち)の悲鳴(ひめい)と共(とも)に「さすが狐一(こいち)おじ!」という叫(さけ)びが聞(き)こえた。

しばらく呆然(ぼうぜん)と倒(たお)れた手下(てした)を見(み)やってから、男(おとこ)は振(ふ)り返(かえ)った。すると、にこりと笑(わら)っている狐一(こいち)が道(みち)の真(ま)ん中(なか)に一人(ひとり)立(た)っている。「やれやれ。もっと強(つよ)い相手(あいて)を呼(よ)んでくれないなら、次(つぎ)は一対一(いちたいいち)の勝負(しょうぶ)になるらしいな。どうだ?かかって来(こ)い!」

でも、男(おとこ)はもう戦(たたか)う気(き)はないようだった。蓮(れん)を放(はな)して、鬼(おに)に追(お)われたように逃(に)げ出(だ)した。

「では、そやつが手下(てした)を集(あつ)めて戻(もど)る前(まえ)に帰(かえ)ろう」と狐一(こいち)が言(い)ったが、蓮(れん)は左手(ひだりて)を腰(こし)に当(あ)て、狐一(こいち)の顔(かお)の前(まえ)で右人差(みぎひとさ)し指(ゆび)を横(よこ)に振(ふ)った。「狐一(こいち)おじが戦(たたか)いから逃(に)げたことは今(いま)までないのに、私(わたし)がやろうとしていたことをしないで帰(かえ)れと言(い)うの?それに、私(わたし)が持(も)って来(き)た紙(かみ)を踏(ふ)んで汚(よご)すだなんて!」と叱(しか)った。

狐一(こいち)は足元(あしもと)を見(み)てから紙(かみ)の上(うえ)から足(あし)を退(ど)けた。「すまん。蓮姫(れんひめ)を守(まも)ることだけ考(かんが)えていた。蓮姫(れんひめ)を酷(ひど)い目(め)に遭(あ)わせたくないから、できるだけ早(はや)く片付(かたづ)けなさい」

すると、蓮(れん)はあまり汚(よご)れていない紙(かみ)を集(あつ)め、元(もと)の場所(ばしょ)に戻(もど)った。一方(いっぽう)、狐一(こいち)は、蓮(れん)が描(えが)いている家(いえ)の壁(かべ)に寄(よ)り掛(か)かって蓮(れん)を見守(みまも)った。

しばらくすると、倒(たお)れた手下(めした)が一人(ひとり)また一人(ひとり)と我(われ)に返(かえ)ったが、狐一(こいち)と一目(ひとめ)見(み)るや、慌(あわ)てて逃(に)げて行(い)った。最後(さいご)の手下(てした)が足(あし)を引(ひ)きずって逃(に)げるや否(いな)や、地面(じめん)に鼻(はな)を当(あ)てた犬(いぬ)がまだ道(みち)の泥(どろ)にまみれて置(お)き去(さ)りになっている紙(かみ)の方(ほう)へ近寄(ちかよ)った。犬(いぬ)が紙(かみ)を嗅(か)ごうとすると、狐一(こいち)は声(こえ)をかけた。「お前(まえ)があの子(こ)を捜(さが)しに来(き)たのなら、もう遅(おそ)いな」と言(い)うと、犬(いぬ)は女(おんな)の姿(すがた)に化(ば)け、狐一(こいち)を睨(にら)みながら「あんたは…」と話(はな)しかけた。もちろん、狐子(ここ)だった。

いらだちのあまりに口(くち)が塞(ふさ)がったのか、しばらく黙(だま)ってから狐一(こいち)を叱(しか)り始(はじ)めた。「どうして誰(だれ)かに蓮(れん)ちゃんが城(しろ)を抜(ぬ)け出(だ)したことを報告(ほうこく)しなかったのか?ゆきちゃんを心配(しんぱい)させちゃったのよ!」

でも、狐一(こいち)の笑(え)みは全然(ぜんぜん)変(か)わらなかった。ゆっくりと立(た)ち上(あ)がり狐子(ここ)に歩(あゆ)み寄(よ)りながら、「誰(だれ)かに蓮姫(れんひめ)の脱走(だそう)はもうばれていたのに、狐子(ここ)従姉(ねえ)ちゃんは門番(もんばん)の連中(れんちゅう)に何(なに)も訊(き)かずに来(き)たな。いいか、ゆき様(さま)を心配(しんぱい)させないため、台所(だいところ)の下女達(げじょたち)などが蓮姫(れんひめ)が城(しろ)を出(で)るところを見(み)ると、ゆき様(さま)に何(なに)も言(い)わないで門番(もんばん)に報告(ほうこく)するという命令(めいれい)がある。すると、俺(おれ)が蓮姫(れんひめ)を見守(みまも)りに行(い)くことになっているんだな。あの子(こ)が外(そと)でやりたいことをやっちまうと、すぐに城(しろ)に帰(かえ)り、数週間(すうしゅうかん)は部屋(へや)から出(で)ようとしないぞ。しかし、外出(がいしゅつ)を禁止(きんし)したり、目的(もくてき)を遂(と)げる前(まえ)に帰(かえ)らせようものなら、来(く)る日(ひ)も来(く)る日(ひ)も一生懸命(いっしょうけんめい)抜(ぬ)け出(だ)そうとするに違(ちが)いない。だから、このように扱(あつか)った方(ほう)がいいと我(わ)が殿(との)がお決(き)めになったのだ」と言(い)った。

狐子(ここ)の釣(つ)り上(あ)がった目(め)が少(すこ)しずつ優(やさ)しくなった。狐子(ここ)はやっと安心(あんしん)したのか、「なるほど」と答(こた)え、蓮(れん)の方(ほう)へ視線(しせん)を向(む)かった。 「でもね、どうして蓮(れん)ちゃんが狐一(こいち)に一緒(いっしょ)に行(い)こうと訊(たず)ねないの?」

狐一(こいち)は首(くび)を振(ふ)った。「ああ、いや、それは、それをしてみた時(とき)、蓮姫(れんひめ)は自由(じゆう)が束縛(そくばく)されているように感(かん)じて苛立(いらだ)ったから、もうそんな気(き)にはなれないんだな。だから、仕方(しかた)なくいつも一人(ひとり)で脱出(だっしゅつ)しようとしてるんだぞ。では、狐子(ここ)従姉(ねえ)ちゃんは今(いま)はゆき様(さま)に蓮姫(れんひめ)が無事(ぶじ)でいることを報告(ほうこく)しに帰(かえ)るのか、蓮姫(れんひめ)の気(き)が済(す)むまで俺(おれ)と一緒(いっしょ)にここで待(ま)つか?」

「ゆきちゃんを安心(あんしん)させた方(ほう)がいいから、ではまた」と狐子(ここ)は言(い)うと、犬(いぬ)の姿(すがた)に戻(もど)って、城(しろ)へ向(む)かって走(はし)った。

第五章(だいごしょう)

旅(たび)の勧(すす)め

しばらくして戻(もど)ってきた狐子(ここ)は城(しろ)の前(まえ)に人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)け、ゆきの部屋(へや)まで急(いそ)いだ。

ゆきの部屋(へや)に入(はい)ると、ゆきは子供達(こどもたち)に囲(すこ)まれ困(こま)った顔(かお)をして泣(な)きながら、部屋(へや)の真(ま)ん中(なか)に座(すわ)っていた。桜(さくら)が「お母様(かあさま)、そんな顔(かお)をなさらないでください。椿(つばき)や白菊(しろぎく)を泣(な)かせてしまいますから。狐子(ここ)おばが蓮(れん)を捜(さが)しに行(い)ったので、きっと…きっと無事(ぶじ)に帰(かえ)ってきますから」と、背中(せなか)を撫(な)でながら言(い)っていた。

ゆきが狐子(ここ)に気付(きづ)くと、濡(ぬ)れた頬(ほお)を拭(ぬぐ)いながら期待(きたい)に満(み)ちた眼差(まなざ)しを向(む)けたが、すぐに蓮(れん)がいないことに気(き)が付(つ)いた。「蓮(れん)?蓮(れん)はどこにいますか?蓮(れん)の身(み)に何(なに)かあったのでしょうか?」と尋(たず)ねた。よほど心配(しんぱい)だったのだろう。その声(こえ)は震(ふる)えて、かすれ気味(ぎみ)だった

狐子(ここ)はゆきの元(もと)に近寄(ちかよ)り、膝(ひざ)をつくと、ゆきの顔(かお)を真(ま)っ直(す)ぐに見詰(みつ)めながら、「蓮(れん)ちゃんは無事(ぶじ)です。狐一(こいち)の奴(やつ)がずっとついていますから。さっき蓮(れん)ちゃんは家(いえ)の絵(いえ)を描(えが)いていたから、きっとしばらくしたら帰(かえ)ってくるでしょう」と言(い)った。

ゆきは張(は)り詰(つ)めていた緊張(きんちょう)が緩(ゆる)んだのか、長(なが)い溜(た)め息(いき)をつくと、「よかった…」と呟(つぶや)いた。

すると、狐子(ここ)はゆきの手(て)をぎゅっと握(にぎ)り、「昔(むかし)はあんなに強気(つよき)だったゆきちゃんが、いつの間(ま)にこんなに気弱(きよわ)になってしまったのかしら。あの頃(ころ)のゆきちゃんならきっと子供達(こどもたち)を心配(しんぱい)させないように、もっと気丈(きじょう)に振(ふ)る舞(ま)ったでしょうね」と言(い)ったが、ゆきは口(くち)を挟(はさ)んだ。「でも、あの時(とき)、私(わたし)にはまだ子供(こども)はいませんでした。自分(じぶん)の子供(こども)が大変(たいへん)な目(め)に遭(あ)うなんてことはありえなかったのです。例(たと)えば、もし蓮(れん)が一人(ひとり)で城(しろ)を抜(ぬ)け出(だ)して城下町(じょうかまち)に行(い)ったりしたら、私(わたし)は本当(ほんとう)にどうすればいいのか分(わ)かりません」とゆきが言(い)うと、「自分(じぶん)が何(なに)もできない時(とき)には、子供達(こどもたち)の前(まえ)では、何(なに)も問題(もんだい)がないようなふりをした方(ほう)がよいと思(おも)いますよ」と、ゆきの手(て)を握(にぎ)り締(し)めながら言(い)うと、「ふぅ…」と、一度(いちど)大(おお)きな溜(た)め息(いき)をつき、「我(わ)が殿(との)はゆきちゃんを甘(あま)やかしているようですね。問題(もんだい)の対処法(たいしょほう)を学(まな)ばせるというよりむしろ、問題(もんだい)があっても、それをゆきちゃんの目(め)には触(ふ)れないようにしているようですね。狐一(こいち)の奴(やつ)によると、蓮(れん)ちゃんが抜(ぬ)け出(だ)そうとしているのに誰(だれ)かが気付(きづ)いても、ゆきちゃんには何(なに)も言(い)わないで門番(もんばん)に報告(ほうこく)しなさいと命令(めいれい)があったそうですよ。だからそういう時(とき)は、狐一(こいち)が蓮(れん)ちゃんのお見守(みまも)りについて行(い)くそうですわ」と言(い)うと、ゆきはキッと目(め)を釣(つ)り上(あ)げた。「なんてこと!旦那様(だんなさま)に抗議(こうぎ)しないと!」本来(ほんらい)の気(き)の強(つよ)いゆきがやっと戻(もど)って来(き)たようだった。

「それでこそゆきちゃんだわ!頑張(がんば)って!暇(ひま)があったら、必(かなら)ず応援(おうえん)しに来(き)ますわ」と狐子(ここ)が明(あか)るく言(い)ったが、急(きゅう)に顔(かお)曇(こも)らせ、「でも…今(いま)は主人(しゅじん)の世話(せわ)に戻(もど)らないと。お元気(げんき)で」と軽(かる)く頭(あたま)を下(さ)げ、立(た)ち去(さ)った。

狐子(ここ)が去(さ)ってから、ゆきはしばらく無邪気(むじゃき)に遊(あそ)んでおり、幼(おさな)い娘達(むすめたち)を宥(なだ)めていた。百合(ゆり)は寝転(ねころ)がりながら、一冊(いっさつ)また一冊(いっさつ)と本(ほん)をバラバラめくっていた。最後(さいご)の本(ほん)をぱたんと閉(と)じると、「お母様(かあさま)、お祖父様(じいさま)が亡(な)くなっても、私達(わたしたち)はお祖父様(じいさま)の城(しろ)を――いえ、今(いま)は叔父様(おじさま)の城(しろ)と呼(よ)ぶべきかしら?――訪(たず)ねますか?お祖父様(じいさま)の蔵書(ぞうしょ)の中(なか)に読(よ)みたい本(ほん)があったのです。それを読(よ)まないと、私(わたし)が書(か)きたい話(はなし)が上手(うま)く描(えが)けないようですから」と訊(たず)ねた。

ゆきはお腹(なか)を撫(な)でながら、「私(わたし)はこの状況(じょうきょう)では行(い)けませんね。それに、家老殿(かろうさま)はまだご病気(びょうき)ですから、お父様(とうさま)も旅(たび)などお考(かんが)えではないでしょう」と答(こた)えた。

すると桜(さくら)が「お母様(かあさま)!私(わたし)が責任(せきにん)を持(も)って妹達(いもうとたち)の面倒(めんどう)を見(み)るから、どうか叔父様(おじさま)を訪(たず)ねることを許(ゆる)してくれませんか?お願(ねが)いします」と言(い)うと、それに続(つづ)いて桃(もも)や李(すもも)、百合(ゆり)、鈴(すず)からも「私(わたし)も行(い)きたい!」「許(ゆる)してください!」「従兄弟達(いとこたち)と遊(あそ)びたい!」「あそこの美味(おい)しい料理(りょうり)を学(まな)びたい!」「お願(ねが)い!」などと、口々(くちぐち)に自分(じぶん)の希望(きぼう)を言(い)い出(だ)した。その一方(いっぽう)で、椿(つばき)と白菊(しろぎく)は「お母(かあ)ちゃまと残(のこ)りたい」と言(い)った。

ゆきは苦笑(にがわらな)いをしながら、「まあまあ、そんな旅(たび)は私(わたし)が一人(ひとり)で許(ゆる)すことはできません。でも、これについてお父様(とうさま)とお話(はな)しします。約束(やくそく)です」と言(い)うと、「飛(と)び出(だ)した小鳥(ことり)が巣(す)に戻(もど)って来(き)ました」と、戸口(とぐち)から声(こえ)が聞(き)こえ、襖(ふすま)が開(あ)き、狐一(こいち)が、紙(かみ)の束(たば)を胸(むね)に抱(かか)えている蓮(れん)と共(とも)に現(あらわ)れた。それを聞(き)いた蓮(れん)は、小鳥(ことり)を呼(よ)ばれたのが気(き)に障(さわ)ったのだろう。彼(かれ)をきっと睨(にら)んだ。「狐一(こいち)おじ、私(わたし)を小鳥(ことり)などと呼(よ)ぶのはやめてくれませんか?もう十四歳(じゅうよんさい)だし、すぐに狐子(ここ)おばより背(せ)が高(たか)くなるから、ほぼ大人(おとな)ではありませんか?」と言(い)うと、狐一(こいち)は、「もっと大人(おとな)らしく振(ふ)る舞(ま)えるようになれば、やめます」と、蓮(れん)に言葉(しせん)を返(かえ)した。

ゆきは蓮(れん)に歩(あゆ)み寄(よ)り、「お帰(かえ)りなさい。大切(たいせつ)な紙(かみ)が汚(よご)れて皺(しわ)が寄(よ)ってしまったようですね。どうしましたか?」と訊(き)きました。

蓮(れん)は俯(うつむ)き、「ただいま。特(とく)に何(なに)も起(お)こりませんでした。何(なに)もありません。ただ、狐一(こいち)おじの馬鹿(ばか)がなぜか私(わたし)の大切(たいせつ)な紙(かみ)を踏(ふ)みつけました」と呟(つぶや)いてから、ゆきの顔(かお)を見上(みあ)げ、「お母様(かあさま)、皆(みな)どこかへ行(い)くのですか?廊下(ろうか)を歩(ある)いている時(とき)、皆(みな)が『行(い)きたい』と言(い)っているのが聞(き)こえました」と続(つづ)けた。

「行(い)くかどうかはまだ決(き)めていませんが、この子達(こたち)が行(い)きたい所(ところ)は叔父様(おじさま)の城(しろ)です」とゆきが言(い)うと、蓮(れん)は「私(わたし)も行(い)きたい!あっちの町(まち)はまだ作(つく)っていないし、描(えが)くことさえしていない建物(たてもの)が山(やま)ほどあります」と目(め)をぎらぎらと輝(かがや)かせた。

「でも、また城(しろ)を抜(ぬ)け出(だ)した罰(ばつ)としてお父様(とうさま)が行(い)くことを許(ゆる)さないでしょう」とゆきが言(い)うと、蓮(れん)の目(め)から輝(かがや)きが消(き)えた。「だって、私(わたし)が行(い)かないとその建物(たてもの)が作(つ)れません!お父様(とうさま)を説得(せっとく)して!お願(ねが)いします!」と頼(たの)んだ。

「貴方(あなた)が繰(く)り返(かえ)し城(しろ)を抜(ぬ)け出(だ)すことを、お父様(とうさま)も私(わたし)も快(こころよ)く思(おも)っていないことを知(し)っているはずでしょう?この状況(じょうきょう)で、貴方(あなた)が行(い)くことを許(ゆる)すはずはありません」とゆきは言(い)ったが、蓮(れん)の落(お)ち込(こ)んだ表情(ひょうじょう)を見(み)ると、「でも、出発(しゅっぱつ)まで一度(いちど)も抜(ぬ)け出(だ)さずにいられたら、許(ゆる)してくれるようにお父様(とうさま)を説得(せっとく)しましょう」

蓮(れん)は紙(かみ)に描(えが)いた家(いえ)の絵(え)を覗(のぞ)き、「これを作(つく)るには多分(たぶん)一(いち)〜二週間(にしゅうかん)くらいしかがかからないでしょう。その後何(あとなに)も作(つく)るものがなかったら、この指(ゆび)をどうすればいいの?」と片手(かたて)を伸(の)ばしてじっと見(み)つめながら呟(つぶや)いた。

「ところで、あの大名(だいみょう)は桜(さくら)に相応(ふさわ)しくない夫(おっと)だとお父様(とうさま)を説得(せっとく)しようと思(おも)います。もし、それでも桜(さくら)が嫁(とつ)ぐことになったら、桜(さくら)の部屋(へや)は百合(ゆり)にでも与(あた)えることにしましょう」ゆきの言葉(ことば)が胸(むね)に刺(さ)さったのか、蓮(れん)はしばらく呆然(ぼうぜん)と母(はは)の顔(かお)を見(み)つめた。「な…何(なに)?で…でも、部屋(へや)を広(ひろ)げられないのなら、この家(いえ)を置(お)く場所(ばしょ)はいったいどこにありますか?床(ゆか)も棚(たな)ももう家(いえ)でいっぱいですから…」と言(い)ったかと思(おも)うと、突然(とつぜん)瞳(ひとみ)の奥(おく)に火(ひ)がついたように叫(れん)び始(はじ)めた。「そうだ、棚(たな)!もっと棚(たな)が必要(ひつよう)!棚(たな)を作(つく)るしかない!棚(たな)!」と脇目(わきめ)も振(ふ)らず部屋(へや)から飛(と)び出(だ)し、城(しろ)の宮大工(きゅうだいく)の詰所(つめしょ)へ向(む)かって駆(か)け出(だ)した。

狐一(こいち)は首(くび)を振(ふ)り、ゆきに歩(あゆ)み寄(よ)り、「あの子(こ)の気性(きしょう)はちょっと…」とゆきの耳元(みみもと)で呟(つぶや)いた。すると、ゆきは「そうですね」と静(しず)かに答(こた)え、狐一(こいち)を廊下(ろうか)に連(つ)れて行(い)った。「旦那様(だんなさま)と話(はな)す前(まえ)に、町(まち)で起(お)こったことを聞(き)いておきたいのです」と言(い)い、狐一(こいち)の報告(ほうこく)を受(う)けた。

第六章(だいろくしょう)

殿(との)との茶席(ちゃせき)

その晩(ばん)、ゆきはお茶(ちゃ)を点(た)てると茶碗(ちゃわん)を殿(との)に差(さ)し出(だ)しながら声(こえ)をかけた。「旦那様(だんなさま)、ちょっとお話(はな)ししたいことがありますが」

殿(との)は俯(うつむ)き、「蓮(れん)のことか?狐一(こいち)の奴(やつ)が言(い)うには、お前(まえ)はそのことについて快(こころよ)く思(おも)っていないようだな。すまん」と謝(あやま)った。

「私(わたし)が喜(よろこ)ぶとでも思(おも)っていらっしゃいましたか?この状況(じょうきょう)はいつからなのですか?」ゆきの静(しず)かな言葉(ことば)の裏(うら)に怒(いか)りが感(かん)じられた。

殿(との)は顎(あご)をさすりながら、「いつからだと?ふむ。蘭(らん)が病気(びょうき)で、お前(まえ)が蘭(らん)のことしか頭(あたま)になかった時(とき)からだな。もう一年(いちねん)くらい前(まえ)になるだろう。あの時(とき)、私(わたし)は蓮(れん)のことについてお前(まえ)と話(はな)し合(あ)いたかったが、お前(まえ)にはそんな余裕(よゆう)はないように思(おも)えた。それで、自分(じぶん)であの子(こ)の扱(あつか)い方(かた)を決(き)める以外(いがい)仕方(しかた)がなかったのだ。その後(あと)のことは本当(ほんとう)に申(もう)し訳(わけ)ないと思(おも)っている」と言(い)った。

ゆきはしばらく黙(だま)って殿(との)の顔(かお)を眺(なが)めた。そして、「分(わ)かりました。蓮(れん)のことはまた後(あと)で話(はな)し合(あ)うとして、まずは桜(さくら)のことについてです。すでに側室(そくしつ)が四人(よにん)もいる人(ひと)に嫁(とつ)ぐなんて、いくらお相手(あいて)が一国(いっこく)の主(あるじ)であっても、我(わ)が殿(との)の長女(ちょうじょ)には相応(ふさわ)しくないのではないでしょうか?もっと相応(ふさわ)しいお相手(あいて)はいらっしゃらないのでしょうか?」と尋(たず)ねた。

殿(との)は溜(た)め息(いき)をつき、「近隣諸国(きんりんしょこく)の状況(じょうきょう)を見(み)ても分(わ)かるだろう。この辺(あた)りの国(くに)が手(て)を組(く)まないと、一国(いっこく)また一国(いっこく)と関東(かんとう)の連中(れんちゅう)に潰(つぶ)されてしまうのだ。父上(ちちうえ)の時代(じだい)の同盟(どうめい)を再(ふたた)び確固(かっこ)たるものにするには、この縁組(えんぐ)みであの方(かた)と手(て)を組(く)むより他(ほか)に道(みち)はあるまい。桜(さくら)との結婚(けっこん)の意(い)をあの方(かた)から告(つ)げられた時(とき)、正直(しょうじき)なところ、ついていると思(おも)った。だが、何(なに)か引(ひ)っ掛(か)かるところがある。それでまだあの方(かた)にはっきりとした返事(へんじ)はしていないのだ」と答(こた)えた。

ゆきは、「あの方(かた)に、このまま跡継(あさつ)ぎがお生(う)まれにならない場合(ばあい)、あの方(かた)の弟君(おとうとぎみ)が城(しろ)を継(つ)ぐことになりましょう。確(たし)か、弟君(おとうとぎみ)の長男(ちょうなん)は桜(さくら)より少(すこ)し年上(としうえ)で、まだ独(ひと)り身(み)だったと思(おも)いますが。ゆくゆくは城主(じょうしゅ)になる可能性(かのうせい)の高(たか)いその方(かた)に嫁(とつ)がせる方(ほう)が桜(さくら)にとってもお互(たが)いの国(くに)にとってもよい選択(せんたく)なのではないでしょうか」と訊(き)いた。

殿(との)はしばらく考(かんが)え込(こ)んでから、「ふむ。あの方(かた)がそれを受(う)け入(い)れてくれるだろうか。そうなるとよいのだが」と言(い)った。

ゆきは、「よかった。もう一(ひと)つ話(はな)し合(あ)いたいことがあります。百合(ゆり)をはじめ、年長(ねんちょう)の娘達(むすめたち)は鈴(すず)までもが義弟(おとうと)の城(しろ)を訪(たず)ねたがっています。私(わたし)も旦那様(だんなさま)も旅(たび)ができないことを説明(せつめい)したのですが、桜(さくら)は自分(じぶん)が責任(せきにん)をもって妹達(いもうとたち)の面倒(めんどう)を見(み)るので許(ゆる)して欲(ほ)しいと言(い)っています。いかが思(おも)われますか?」と訊(たず)ねた。

殿(との)は、「決(き)める前(まえ)に弟(おとうと)と相談(そうだん)する必要(ひつよう)があるな。打診(だしん)する必要(ひつよう)がある。彼(かれ)が承知(しょうち)しないと無理(むり)だな。旅(たび)をするなら、狐一(こいち)の奴(やつ)に道中(どうちゅう)のことは任(まか)せればいいが、蓮(れん)が行(い)かないなら…難(むずか)しい」と答(こた)えた。

ゆきは頷(うなず)き、「そのことでしたら、蓮(れん)もとても行(い)きたがっていて、自分(じぶん)も行(い)けるのなら、以後(いご)一切(いっさい)城(しろ)を抜(ぬ)け出(だ)しはしないと約束(やくそく)してもいいと思(おも)っているようです。そして、桜(さくら)の部屋(へや)を使(つか)うことはできないと説明(せつめい)すると、棚(たな)を作(つく)りに宮大工(みやだいく)の所(ところ)へ駆(か)けて行(い)ってしまいましたけれど。姫(ひめ)には相応(ふさわ)しいたしなみではありませんが、もしかして蓮(れん)が大工(だいく)の下(もと)で工芸品(こうげいひん)などの細工(さいく)にでも興味(きょうみ)が向(む)いてくれれば、城(しろ)を抜(ぬ)け出(だ)すことが減(へ)るかもしれません。蓮(れん)は細(こま)かい手仕事(てしごと)が好(す)きですからね」と言(い)った。

殿(との)は首(くび)を傾(かし)げ、「ふむ。あの子(こ)が抜(た)け出(だ)すことをやめるならばよかろう。考(かんが)えてみる」と言(い)った。

第七章(だいななしょう)

旅(たび)の準備(じゅんび)

次(つぎ)の朝(あさ)、殿(との)は桜(さくら)と結婚(けっこん)したいという大名(だいみょう)と弟(おとうと)の元(もと)へ使者(ししゃ)を送(おく)った。また、宮大工(みやだいく)を呼(よ)び出(だ)し、蓮(れん)に工芸品(こうげいひん)作(つく)りを勧(すす)めるように命令(めいれい)した。

そして、狐一(こいち)も呼(よ)び出(だ)し、「娘達(むすめたち)は弟(おとうと)の城(しろ)に行(い)きたがっているようだ。弟(おとうと)が了解(りょうかい)してくれるかどうかはまだ分(わ)からないが、いずれにしても旅(たび)の準備(じゅんび)を始(はじ)めなさい」と命(めい)じた。

狐一(こいち)は一礼(いちれい)すると言(い)った。「恐(おそ)れながら、妖怪(ようかい)が暴(あば)れているという噂(うわさ)が広(ひろ)まっております。今(いま)は旅(たび)をしない方(ほう)がよろしいのではないでしょうか」

殿(との)は興味(きょうみ)なさそうに手(て)を振(ふ)った。「この三年間(さんねんかん)というもの、お前(まえ)はずっとそんなことを言(い)っているぞ。だが、今(いま)まで妖怪(ようかい)がこの国(くに)に現(あらわ)れたことなど一度(いちど)たりともなく、届(とど)いたのは皆(みな)狐(きつね)のいたずらの話(はなし)ばかり。そんな噂(うわさ)でいちいち私(わたし)を煩(わずら)わせないでくれ」

狐一(こいち)は不機嫌(ふきげん)そうに黙(だま)ったまま頭(あたま)を下(さ)げ、退(ど)いた。殿(との)の部屋(へや)から続(つづ)く廊下(ろうか)を歩(ある)いていると、桃(もも)と李(すもも)が駆(か)け寄(よ)ってきた。

双子(ふたご)の一人(ひとり)が「狐一(こいち)おじ!父上(ちちうえ)は旅(たび)を許(ゆる)してくれたのですか?」と訊(き)くと、もう一人(ひとり)は「今度(こんど)は、私達(わたしたち)は武士(ぶし)のように馬(うま)に乗(の)りたいの!一年間(いちねんかん)馬(うま)に乗(の)る練習(れんしゅう)をしてきたんですもの、駕籠(かご)になんて乗(の)りたくないわ」と興奮(こうふん)しながら言(い)った。そして、二人(ふたり)が共(とも)に「お願(ねが)い!お願(ねが)い!」と叫(さけ)んだ。

狐一(こいち)は首(くび)を振(ふ)った。「それは私(わたし)が決(き)めることではありませんよ。殿(との)に訊(き)いてみて下(くだ)さい」と言(い)うと、双子(ふたご)は殿(との)の部屋(へや)へ駆(か)け出(だ)した。首(くび)を振(ふ)りながら廊下(ろうか)を歩(ある)いている狐一(こいち)が階段(かいだん)に着(つ)く前(まえ)に、後(うし)ろから「やった!」と言(い)う叫(さけ)びと共(とも)に駆(か)け寄(よ)ってくる足音(あしおと)が聞(き)こえた。双子(ふたご)は狐一(こいち)の周(まわ)りで一躍(ひとおど)りし、「父上(ちちうえ)が許(ゆる)してくれた!」と言(い)ってから階段(かいだん)を駆(か)け下(お)りた。

「伯母上(おばうえ)の子孫(しそん)はみんな変(か)わっているな。狐(きつね)と人間(にんげん)の血(ち)が混(ま)じったせいかな。広子(ひろこ)、俺(おれ)らの子供(こども)はそのようにならないように願(ねが)いたいものだ」と狐一(こいち)は一人(ひとり)呟(つぶや)き、思(おも)わず苦笑(くしょう)した。「まあ、ここに来(く)るまで、俺(おれ)もそのように振(ふ)る舞(ま)っていたがな。責任(せきにん)を持(も)たされるようになってから俺(おれ)も変(か)わったな」

宮大工(みやだいく)の詰所(つめしょ)では、蓮(れん)が棚(たな)の材木(ざいもく)を選(えら)んでいるところだった。殿(との)の部屋(へや)から戻(もど)って来(き)て、蓮(れん)の様子(ようす)を見(み)た大工(だいく)が、「お嬢様(じょうさま)、そんな大変(たいへん)な仕事(しごと)をご自分(じぶん)でなさるのはおやめください」と言(い)ったが、蓮(れん)はただ「忙(いそが)しいから放(ほう)っておいてよ」と答(こた)えた。

大工(だいく)は黙(だま)り込(こ)んだ。そして、卓(たく)から紙(かみ)を取(と)り上(あ)げた。「お嬢様(じょうさま)、我(わ)が殿(との)は工芸品(こうげいひん)を作(つく)るように私(わたし)にご命令(めいれい)なさいました。この図面(ずめん)のように作(つく)りたいのですけれど、この年(とし)を取(と)った目(め)では若者(わかもの)の頃(ころ)のようには細(こま)かい部分(ぶぶん)がもはや見(み)えませんので、できる自信(じしん)がありません。どうか、私(わたし)のこの細工(さいく)を手伝(てつだ)っていただいて、お嬢様(じょうさま)のその力仕事(ちからしごと)を私(わたし)めにお任(まか)せ下(くだ)さるならば本当(ほんとう)に助(たす)かります」と言(い)いながら、紙(かみ)を蓮(れん)の前(まえ)に差(さ)し出(だ)した。

蓮(れん)は紙(かみ)を払(はら)い除(の)け、「忙(いそが)しいと言(い)ったでしょ…」と言(い)いかけたが、ふいに目(め)が丸(まる)くなって、蓮(れん)は大工(だいく)の方(ほう)へ振(ふ)り向(む)き紙(かみ)を掴(つか)もうとした。「ちょ…ちょっと待(ま)って!その絵(え)をもう一度(いちど)見(み)せてちょうだい。こんなに見事(みごと)な意匠(いしょう)は生(う)まれてから一度(いちど)も見(み)たことがないわ。これはぜひとも私(わたし)がこれを作(つく)らなくては」と言(い)ってから、蓮(れん)は絵(え)をよく検討(けんとう)しながら、必要(ひつよう)な道具(どうぐ)を持(も)って来(く)るように口早(くちばや)に大工(だいく)に言(い)いつけた。

そうして蓮(れん)は熱心(ねっしん)に工芸品(こうげいひん)を作(つく)り始(はじ)めた。そのように数日間(すうにちかん)が経(た)った頃(ころ)、殿(との)は弟(おとうと)と使者(ししゃ)のやり取(と)りを繰(く)り返(かえ)し、訪問(ほうもん)の日程(にってい)などを決(き)めた。

桜(さくら)と結婚(けっこん)したいという大名(だいみょう)との交渉(こうしょう)も上手(うま)く言(い)った。大名(だいみょう)は桜(さくら)を大名(だいみょう)の甥(おい)に嫁(とつ)がせるという代案(だいあん)に同意(でうい)し、見合(みあ)いの席(せき)を設(もう)けてくれるよう依頼(いらい)して来(き)た。殿(との)はすぐにそれに同意(どうい)し、日程(にってい)は娘達(むすめたち)が帰(かえ)って来(く)る頃(ころ)と決(き)めた。

狐一(こいち)は旅(たび)の準備(じゅんび)に忙(いそが)しかった。護衛(ごえい)の家来(けらい)や駕籠(かご)舁(か)きや荷運(にひこ)びなどの人選(じんせん)、宿(やど)の手配(てはい)など、旅(たび)の前(まえ)に色々(いろいろ)なことをしなければいけないのである。

姉妹達(しまいたち)も思(おも)い思(おも)いの荷作(にづく)りをした。桜(さくら)は綺麗(きれい)な着物(きもの)、蓮(れん)は大切(たいせつ)で小(ちい)さなおもちゃの家(いえ)、双子(ふたご)は懐(ふところ)に隠(かく)し持(も)てる刃物(はもの)、百合(ゆり)は本(ほん)、鈴(すず)はたくさんのお菓子(かし)を準備(じゅんび)していた。