目次(もくじ)

  1. 第一章(だいいっしょう)  ゆきの子供達(こどもたち)
  2. 第二章(だいにしょう)  蓮(れん)は何(なに)をしている?
  3. 第三章(だいさんしょう)  狐子(ここ)の捜索(そうさく)
  4. 第四章(だいよんしょう)  助(たす)かった
  5. 第五章(だいごしょう)  旅(たび)の勧(すす)め
  6. 第六章(だいろくしょう)  殿(との)との茶席(ちゃせき)
  7. 第七章(だいななしょう)  旅(たび)の準備(じゅんび)

第一章(だいいっしょう)

ゆきの子供達(こどもたち)

二階(にかい)の窓際(まどぎわ)で女(おんな)の人(ひと)が、兵(へい)を集(あつ)めるための広(ひろ)い中庭(なかにわ)を見下(みお)ろしている。彼女(かのじょ)は、大(おお)きくふくらんだお腹(なか)を、愛(いと)おしそうに撫(な)でていた。長(なが)い髪(かみ)はまだ黒々(くろぐろ)としていて、よく見(み)ないと、その中(なか)にごく僅(わず)かの白毛(しらげ)が混(ま)じっているなど誰(だれ)も気(き)がつかないだろう。頬(ほお)に刻(きざ)まれたうっすらとした皺(しわ)はきっと、今(いま)のように、彼女(かのじょ)がよく微笑(ほほえ)んだ証(あかし)なのだろう。そして、身(み)に纏(まと)った高価(こうか)な着物(きもの)は絹(きぬ)に違(ちが)いない。

中庭(なかにわ)では、数人(すうにん)の少年(しょうねん)が武道(ぶどう)の練習(れんしゅう)をしていた。少年(しょうねん)と言(い)ったが、そのうちの二人(ふたり)は長(なが)く結(ゆ)った髪(かみ)をしていて、相手(あいて)の者達(ものたち)より背(せ)が低(ひく)かった。それにしても、その二人(ふたり)の突(つ)きは飛(と)び抜(ぬ)けて的確(てっかく)で力強(ちからつよ)かった。動(うご)きも流麗(りゅうれい)で、無駄(むだ)がなかった。

「お母様(かあさま)、また姉上達(あねうえたち)の修行(しゅぎょう)をご覧(らん)になっているの?」と、ちらりと顔(かお)を上(あ)げて女(おんな)の子(こ)が言(い)った。九(きゅう)、十歳(じゅっさい)くらいであろうか、本(ほん)の間(あいだ)に突(つ)っ伏(ぷ)して、何(なに)かを一生懸命(いっしょうけんめい)書(か)いている。少(すこ)しあきれた口調(くちょう)だった。

母(はは)は娘(むすめ)をちらっと見(み)ると、「ええ」と、窓(まど)の外(そと)に視線(しせん)を戻(もど)した。

その時(とき)、廊下(ろうか)から足音(あしおと)が聞(き)こえた。すぐに襖(ふすま)が開(あ)いて、十五(じゅうご)、六歳(ろくさい)の女(おんな)の子(こ)が怒(おこ)った顔(かお)で入(はい)ってきた。「お母様(かあさま)、お父様(とうさま)にお話(はな)しして下(くだ)さらない?お父様(とうさま)はなぜ、あの怪(あや)しい大名(だいみょう)と私(わたし)を結婚(けっこん)させたがるのかしら!あの方(かた)、もう四人(よにん)も奥方(おくがた)がおいでなのよ!それに、あの醜(みにく)さといったら!!長女(ちょうじょ)だから、素敵(すてき)な若殿(わかとの)と結婚(けっこん)するはずなのに!」とぼやいた。

先(さき)の娘(むすめ)は、視線(しせん)を紙(かみ)から離(はな)さぬまま、「男(おとこ)の子(こ)は嫌(きら)い」と興味(きょうみ)なさそうに言(い)った。

姉(あね)は妹(いもうと)の元(もと)につかつかと歩(ある)いて来(き)て、妹(いもうと)が覗(のぞ)き込(こ)でいた本(ほん)を無造作(むぞうさ)に取(と)り上(あ)げ、「百合(ゆり)、このような童話(どうわ)や物語(ものがたり)を読(よ)んでいるのに、本当(ほんとう)の事(こと)は何(なに)も分(わ)からないのね。少(すこ)し成長(せいちょう)すると、気持(みも)ちが変(か)わるでしょう」と言(い)った。

すると、百合(ゆり)は思(おも)わず筆(ふで)を落(お)とし、飛(と)び上(あ)がり「それは私(わたし)のよ!返(かえ)して!」と叫(さけ)んで取(と)り戻(もど)そうとしたが、力(ちから)の限(かぎ)り跳(と)んでも、百合(ゆり)は本(ほん)に触(さわ)ることさえできなかった。

母(はは)は振(ふ)り返(かえ)って「桜(さくら)、妹(いもうと)をいじめないでおくれ。百合(ゆり)はまた小(ちい)さいのだから」と言(い)うと、二人(ふたり)の下(もと)に歩(ある)いて行(ゆ)き、優(やさ)しく本(ほん)を桜(さくら)の手(て)から取(と)り、百合(ゆり)に戻(もど)した。百合(ゆり)は本(ほん)を胸(むね)に抱(だ)き、墨(すみ)で染(そ)まった紙(かみ)の方(ほう)を見(み)て、「まあ!書(か)き直(なお)さないと…」と言(い)いながら姉(あね)を睨(にら)んだ。

母(はは)は桜(さくら)の腕(うで)を引(ひ)っ張(ぱ)り、部屋(へや)の隅(すみ)に行(い)った。二人(ふたり)はそこに座(すわ)り、母(はは)が「あなたも評議(ひょうぎ)に参加(さんか)しているので、国(くに)の状況(じょうきょう)が分(わ)かるでしょう。お父様(とうさま)が殿(との)の座(ざ)に就(つ)いてからこの十五年(じゅうごねん)あまり、国(くに)はだんだん貧(まず)しい国(くに)から豊(ゆた)かな国(くに)になって来(き)ましたね。でも国(くに)が豊(ゆた)かになると、近隣諸国(きんりんしょこく)の妬(ねた)みを買(か)ってしまうの。この戦国時代(せんごくじだい)には、味方(みかた)がいないことは危険(きけん)なことなのですよ」と言(い)うと、桜(さくら)は口(くち)を挟(はさ)んだ。

「それは分(わ)かっております。でも、あの大名(だいみょう)と結婚(けっこん)することといったい何(なん)の関係(かんけい)があるの?あの方(かた)は私達(わたしたち)のおじい様(さま)と同(おな)じぐらい年(とし)じゃありませんか」

母(はは)は「ああ、おじい様(さま)は亡(な)くなるまで近隣諸国(きんりんしょこく)の覇権(はけん)を握(にぎ)っていらっしゃった。でも、おじい様(さま)が亡(な)くなった今(いま)は、近隣諸国(きんりんしょこく)の城主(じょうしゅ)の誰(だれ)もが権力(けんりょく)を得(え)ようと画策(かくさく)しているのですよ。あの武威(ぶい)の高(たか)いお方(かた)にはたくさんの奥方(おくがた)がいらしても、まだお子様(こさま)がおりません。跡継(あとつ)ぎを産(う)む奥方(おくがた)がいればきっと同盟(どうめい)を結(むす)べるとお思(おも)いになって、お父様(とうさま)はあなたの縁組(えんぐ)みを提案(ていあん)しているのです」と答(こた)えた。

「そうですか。でも、四人(よにん)の奥方(おくがた)にお子様(こさま)がいないのなら、大名(だいみょう)の問題(もんだい)ではありませんか?新(あたら)しい奥方(おくがた)が身籠(みごも)る可能性(かのうせい)はほとんどないではありませんか?」と少(すこ)し落(お)ち着(つ)き取(と)りを戻(もど)したところで桜(さくら)は訊(き)いた。

母(はは)がくすくすと笑(わら)い、「男(おとこ)の方(かた)は、そうはお考(かんが)えにならないでしょう。特(とく)にご本人(ほんにん)はね…」と言(い)うと、桜(さくら)も笑(わら)わざるを得(え)なかった。

二人(ふたり)の笑(わら)いが収(おさ)まると、母(はは)は「とにかく、またお父様(とうさま)にお話(はな)ししてみましょう。やはり、五人目(ごにんめ)の奥方(おくがた)になるのは桜(さくら)には相応(ふさわ)しくないでしょう。特(てく)にうちにはまだ長子(ちょうし)がいないから…」と言(い)った。

すると、桜(さくら)は「ありがとう、お母様(かあさま)。長子(ちょうし)と言(い)うと、今度(こんど)は…?」と母(はは)のお腹(なか)を示(そめ)した。

母(はは)はまたお腹(なか)を撫(な)で始(はじ)め、「神様(かみさま)に任(まか)せるしか仕方(しかた)がないですね。前(まえ)のように、お社(やしろ)で男子(だんし)が授(さず)かるようにお祈(いの)りいたしましたけれど」と首(くび)を振(ふ)りながら答(こた)えた。

「私(わたし)もそのようにお祈(いの)りしています」と桜(さくら)が言(い)うと、二人(ふたり)は立(た)ち上(あ)がり、互(たが)いに抱(だ)き合(あ)った。

そうこうしているうちに、開(あ)いたままの襖(ふすま)から粉(こま)まみれ顔(かお)の、少(すこ)し太(ふと)っている七(しち)、八歳(はっさい)の女(おんな)の子(こ)が現(あらわ)れ、「お母(かあ)ちゃま!私(わたし)がこしらえましたおにぎりを召(め)し上(あ)がりませんか?」と興奮(きょうふん)しながら言(い)った。母(はは)に駆(か)け寄(よ)ると、おにぎりを一(ひと)つ渡(わた)した。

母(はは)はおにぎりを手(て)に取(と)って食(た)べると、「美味(おい)しい!ありがとう、鈴(すず)」と言(い)ってから鈴(すず)の膨(ふく)らんだ懐(ふところ)を見(み)て、「お姉様達(ねえさまたち)にも食(た)べさせてみたいと思(おも)いませんか?」と訊(き)いた。

鈴(すず)はしばらくためらったが、ようやく物惜(ものお)しそうに懐(ふところ)から葉(は)で包(つつ)まれたおにぎりをもう二(ふた)つ取(と)り出(だ)し、俯(うつむ)きながら桜(さくら)と百合(ゆり)に渡(わた)すと、「後(あと)で食(た)べたかったのに…」という小(ちい)さく呟(つぶや)いた。

母(はは)は鈴(すず)の頭(あたま)を撫(な)で、「もう充分(じゅうぶん)食(た)べたでしょう?今(いま)までいくつ食(た)べましたか?」と訊(たず)ねた。

「ええと…味見(あじみ)したのと落(お)としたのと、階段(かいだん)を上(のぼ)った時(とき)のと廊下(ろうか)を歩(ある)いた時(とき)のだから…たぶん五(いつ)つでしょう?」と鈴(すず)は真面目(まじめ)な顔(かお)をして指(ゆび)で数(かぞ)えながら言(い)った。

「そうだと思(おも)いました。もう少(すこ)しおやつを減(へ)らしましょうね」と母(はは)が言(い)うと、長(なが)い赤毛(あかげ)の女(おんな)の人(ひと)が部屋(へや)に入(はい)って来(き)て、「ゆきちゃん、諦(あきら)めるしかありませんよ。鈴(すず)は一日中(いちにちじゅう)台所(だいどころ)でうろうろしているから、いつでも下女(げじょ)からお菓子(かし)をもらうことができるのですよ。だから、そんな望(のぞ)みは持(も)つだけ無駄(むだ)でしょう」と言(い)って襖(ふすま)を閉(し)めた。一見(いっけん)したところでは年齢(ねんれい)は桜(さくら)と同(おな)じようだが、その輝(かがや)いている瞳(ひとみ)の奥(おく)を見(み)ると、なぜかかなり年上(としうえ)だという気(き)がする。桜(さくら)より背(せ)が低(ひく)いその女(おんな)の着物(きもの)は母(はは)の――ゆきの――と同(おな)じように高価(こうか)なもののようだったが、その渋(しぶ)い柄(がら)の着物(きもの)に対(たい)して、顔立(かおだ)ちや印象(いんしょう)はかなり派手(はで)だった。

鈴(すず)は「狐子(ここ)おば!」と呼(よ)び、赤毛(あかげ)の女(おんな)に向(む)かって駆(か)け寄(よ)り、腰(こし)に抱(だ)きついた。そして、懐(ふところ)からもう一(ひと)つのおにぎりを取(と)り出(だ)し、狐子(ここ)に渡(わた)した。「どうぞ食(た)べてみてください。私(わたし)がこしらえたんです!」

おにぎりを食(た)べてから、狐子(ここ)は鈴(すず)の方(ほう)に身(み)を屈(かが)め、「いつかいいお嫁(よめ)さんになるでしょう。男性(だんせい)の心(こころ)を掴(つか)むには、まず胃袋(いぶくろ)を満(み)たせと言(い)いますからね」と、鈴(すず)の髪(かみ)を優(やさ)しく撫(な)でた。

それを聞(き)くと、鈴(すず)の笑(え)みはさらに広(ひろ)がった。両腕(りょううで)を頭(あたま)の上(うえ)で振(ふ)り、「わい!狐子(ここ)おばに褒(ほ)めてもらって嬉(うれ)しい!」と叫(さけ)びながら部屋(へや)を駆(か)け回(まわ)った。

ゆきは狐子(ここ)のところに歩(あゆ)み寄(よ)り、微笑(ほほえ)んだ。「狐子(ここ)ちゃん、いつも子供達(こどもたち)を甘(あま)やかしすぎますね。はじめて会(あ)ったその日(ひ)の内(うち)に、子供(こども)のことが大好(だいす)きだということに気付(きづ)きました。でも、今(いま)でも分(わ)からない点(てん)があります。それほど子供(こども)が好(す)きなら、私(わたし)のようにたくさんの子供達(こどもたち)を産(う)むのだと思(おも)いました。でも、息子(むすこ)が二人(ふたり)しかいません。どうしてですか?」と訊(き)いた。

狐子(ここ)は、「主人(しゅじん)の年齢(ねんれい)を考(かんが)えてのことなの。婚礼(こんれい)の前(まえ)にもう四十代(よんじゅうだい)だったので、彼(かれ)が子供達(こども)の成長(せいちょう)を見届(みとど)けるのは難(むずか)しいと思(おも)って。それで、次男(じなん)が生(う)まれた時(とき)、子供(こども)はもう充分(じゅうぶん)だと互(たが)いに思(おも)ったの。その後(あと)、身籠(みごも)らないためのおまじないを使(つか)うようにしたの」と答(こた)えた。

ゆきは、「なるほど。そのおまじないはとても便利(べんり)ですね。私(わたし)は大家族(だいかぞく)が欲(ほ)しいけれど、少(すこ)しうらやましい気(き)もします。家老殿(かろうどの)と言(い)えば、今(いま)はいかがですか」と、少(すこ)し困(こま)ったように親友(しんゆう)の顔(かお)をまっすぐに見(み)やった。

狐子(ここ)のいつも輝(かがや)いている瞳(ひとみ)が曇(くも)ったように見(み)えた。俯(うつむ)きながら、「主人(しゅじん)はまだよくなってないの。事件(じけん)の時(とき)に動(うご)かなくなった右手足(みぎてあし)が少(すこ)し動(うご)くようになったけど、まだ自分(じぶん)では歩(ある)けないの。私(わたし)が狐(きつね)の力(ちから)をもってしても、おまじないで最愛(さいあい)の人(ひと)を治(なお)すことも、たったの一日(いちにち)、寿命(じゅみょう)を伸(の)ばすことすらできない。人間(にんげん)の命(いのち)はあまりに短(みじか)い」と、溜息(ためいき)をついた。

でも、持(も)ち前(まえ)の元気(げんき)な性格(せいかく)では長(なが)く悲(かな)しみに沈(しず)んだままでいることはできなかった。狐子(ここ)はすぐに笑顔(えがお)を取(と)り戻(もど)し、「悲(かな)しいことは充分(じゅうぶん)です。桃(もも)と李(すもも)の練習(れんしゅう)はどうでしたか?」と訊(き)いた。

ゆきは窓際(まどぎわ)に戻(もど)り、「あの二人(ふたり)はとても上手(じょうず)になっています。ええ、修行(しゅぎょう)はすでに終(お)わりました」と言(い)うと、廊下(ろうか)から走(はし)って来(く)る足音(あしおと)が聞(き)こえた。

すぐにまた襖(ふすま)が開(あ)いて、さっきまで中庭(なかにわ)にいた、髪(かみ)を結(ゆ)い上(あ)げた二人(ふたり)が駆(か)け込(こ)んで来(き)た。間近(まぢか)に見(み)ると、二人(ふたり)は厳(いか)つい道着(どうぎ)を着(き)ていても、男(おとこ)ではなく、十一(じゅういち)、二歳(にさい)の女(おんな)の双子(ふたご)だということに気(き)がつく。その二人(ふたり)はきっと桃(もも)と李(すもも)だろうが、どっちが桃(もも)で、どっちが李(すもも)かということは、母(はは)でもよく間違(まちが)える程(ほど)であった。男(おとこ)っぽさは外見(がいけん)だけとは限(かぎ)らない。身(み)のこなし方(かた)や話(はな)し方(かた)、態度(たいど)にまでも、姫(ひめ)らしくない点(てん)がたくさんあった。その二人(ふたり)は、部屋(へや)に入(はい)り狐子(ここ)を見(み)るや否(いな)や、「狐子(ここ)おば!」と一斉(いっせい)に叫(さけ)び、駆(か)け寄(よ)って抱(だ)きついた。すると、桃(もも)…だと思(おも)うが、目(め)を閉(と)じ、深(ふか)く息(いき)を吸(す)い込(こ)み、「何(なに)か美味(おい)しそうな匂(にお)いがする」と、李(すもも)…だと思(おも)われる方(ほう)が、狐子(ここ)を見上(みあ)げ、「狐子(ここ)おば、お菓子(かし)を持(も)ってきたの?」と言(い)った。

狐子(ここ)は、「持(も)ってきたのは私(わたし)ではありませんよ」と答(こた)えると、双子(ふたご)は顔(かお)を見合(みあ)わせ、「鈴(すず)!」と叫(さけ)び、妹(いもうと)の方(ほう)に向(む)き直(なお)り、「お菓子(かし)をちょうだい!」と呼(よ)んだ。

鈴(すず)がくすくすと笑(わら)いながら「いや!私(わたし)の!」と、部屋(へや)を抜(ぬ)け出(だ)そうとしたが、素早(すばや)く双子(ふたご)の一人(ひとり)が出口(でぐち)を遮(さえぎ)った。だが、前後(ぜんご)から伸(の)びた双子(ふたご)の手(て)が妹(いもうと)を捕(つか)まえる前(まえ)に、鈴(すず)は身(み)を縮(ちぢ)め、部屋(へや)の奥(おく)に駆(か)け戻(もど)った。何度(なんど)も双子(ふたご)が鈴(すず)を掴(つか)んだ――と思(おも)うと、鈴(すず)は間一髪(かんいっぱつ)で逃(に)げた。でも、双子(ふたご)は鈴(すず)を部屋(へや)から逃(に)がさなかった。どうしてこの武芸(ぶげい)の達者(たっしゃ)な二人(ふたり)が太(ふと)っている妹(いもうと)を捕(つか)まえることができないのかと思(おも)われるかもしれないが、三人(さんにん)の笑(わら)い声(ごえ)を聞(き)けば、彼女達(かのじょたち)が単(たん)に遊(あそ)んでいるだけだということにお気付(きづ)きになるだろう。彼女達(かのじょたち)のお気(き)に入(い)りの遊(あそ)びというわけだ。

そのうち、鈴(すず)は息(いき)を切(き)らし、足取(あしど)りも重(おも)くなった。床(ゆか)に転(ころ)げて仰向(あおむ)けになった鈴(すず)は、はあはあと息(いき)づきながら、「やっぱり、…また…負(ま)けた…。今度(こんど)こそは…逃(に)げる…よ」と言(い)いました。

双子(ふたご)は鈴(すず)の腕(うで)を一本(いっぽん)ずつ掴(つか)み、立(た)ち上(あ)がらせた。妹(いもうと)に歩(ある)かせながら、「褒美(ほうみ)を渡(わた)せ!食(た)べ物(もの)をお出(だ)し!」と繰(ふ)り返(かえ)した。

まだ息(いき)が治(おさ)まらない鈴(すず)は、笑顔(えがお)のまま、残(のこ)りの二(ふた)つのおにぎりを懐(ふところ)から取(と)り出(だ)し、双子(ふたご)に一(ひと)つずつ渡(わた)した。

その遊(あそ)びを見(み)ていた狐子(ここ)は、「ゆきちゃんはあの二人(ふたり)に関(かん)してはちょっと甘(あま)やかしすぎみたいね。他(ほか)の子供達(こどもたち)にはあのように妹(いもうと)をいじめることを許(ゆる)さないんじゃない?どうして二人(ふたり)には許(ゆる)しているのかしら?」と少(すこ)し困(こま)ったように言(い)った。

ゆきはくすくすと笑(わら)い、頭(あたま)を横(よこ)に振(ふ)った。「あれはいじめている訳(わけ)ではありません。鈴(すず)を遊(あそ)びながら運動(うんどう)させているのですよ。鈴(すず)が降参(こうさん)するか部屋(へや)から抜(ぬ)け出(だ)すまではできるだけ運動(うんどう)させる、という約束(やくそく)をしました。鈴(すず)が部屋(へや)を抜(ぬ)け出(だ)したら、追(お)ってはいけなくて、鈴(すず)が持(も)っているお菓子(かし)はもらえません。同(おな)じように、鈴(すず)が泣(な)いてしまった場合(ばあい)も、お菓子(かし)をもらえません。そして、双子達(ふたごたち)はどうして楽(たの)しくなかったのかを反省(はんせい)しなければなりません。でも、最後(さいご)まで楽(たの)しくて鈴(すず)が部屋(へや)を抜(ぬ)け出(だ)すことができなかった場合(ばあい)、鈴(すず)はご褒美(ほうび)としてお菓子(かし)をあげないといけません」

狐子(ここ)の瞳(ひとみ)は前(まえ)よりも明(あか)るく輝(かが)いた。「なるほど。どうして私(わたし)がそのような遊(あそ)び方(かた)を思(おも)い付(つ)かなかったのかしら、驚(おどろ)きだわ」というと、ゆきは「実(じつ)は、『狐子(ここ)なら、何(なに)をするだろう?』と考(かんが)えながら、これを思(おも)い付(つ)きました」と答(こた)えた。

二人(ふたり)が互(たが)いに笑(わら)っていると、戸口(とぐち)から「まあ、お二人(ふたり)とも、子供達(こどもたち)が何(なに)かいたずらをやっている時(とき)には、なぜかいつもあなた方(がた)がいらっしゃいます。今日(きょう)は何(なに)をやったのでしょう」と言(い)う声(こえ)と共(とも)に、「母(かあ)ちゃま!狐子(ここ)おば!」と言(い)う叫(さけ)びが聞(き)こえた。一(いち)、二歳(にさい)の赤(あか)ん坊(ぼう)を抱(だ)き上(あ)げた老女(ろうじょ)の側(そば)から二人(ふたり)の幼(おさな)い女(おんな)の子(こ)がゆき達(たち)の下(もと)に駆(か)け寄(よ)った。一人(ひとり)は三(さん)、四歳(よんさい)で、もう一人(ひとり)は五(ご)、六歳(ろくさい)だろう。

ゆきは駆(か)け寄(よ)った子供達(こどもたち)を抱(だ)くと、そのうちの姉(あね)の方(ほう)が、「母(かあ)ちゃまが婆(ばあ)やの温泉(おんせん)で働(はたら)いていたと婆(ばあ)やが教(おし)えてくれたの。本当(ほんとう)にそうだったの?」と訊(き)いた。

ゆきはしゃがみ、その子(こ)を真(ま)っ直(す)ぐに見(み)て、「そうです、椿(つばき)。桜(さくら)お姉様(ねえさま)と同(おな)い年(どし)だったのです」と答(こた)えた。

椿(つばき)の隣(となり)に立(た)っている妹(いもうと)は「私(わたし)も温泉(おんせん)ではたわけうぅの?」と少(すこ)し舌足(したた)らずに尋(たず)ねた。

ゆきがくすくすと笑(わら)い、その子(こ)の方(ほう)を向(む)き、「白菊(しらぎく)、姫(ひめ)が温泉(おんせん)で働(はたら)くのは変(へん)です」と言(い)うと、椿(つばき)は「だって、母(かあ)ちゃまがそうしたら、ちっとも変(へん)じゃないじゃないか?」と口(くち)を挟(はさ)んだ。

ゆきは「その時(とき)、私(わたし)が姫(ひめ)であるということはまだ知(し)りませんでした。それに、まだ幼(おさ)い頃(ごろ)に両親(りょうしん)が亡(な)くなって、お祖母様(ばあさま)にこっそりと貧(まず)しい村(むら)で育(そだ)てられたので、お祖母様(ばあさま)がなくなると、どこかで働(はたら)かざるを得(え)ませんでした」と説明(せつめい)し、立(た)ち上(あ)がり、婆(はあ)やから赤(あか)ん坊(ぼう)を受(う)け取(と)った。そして、「蘭(らん)、今日(きょう)はいい子(こ)でしたか?」と言(い)うと、蘭(らん)は「ばば」と笑顔(えがお)で言(い)った。

ゆきは部屋(へや)を見回(みまわ)し、娘(むすめ)を数(かぞ)えた。「一(いち)、二(に)、三(さん)、四(よん)、五(ご)、六(ろく)、七(しち)、八(はち)…誰(だれ)かがいません。蓮(れん)?誰(だれ)かが蓮(れん)を見(み)ましたか?」と訊(たず)ねると、桜(さくら)は声(こえ)を上(あ)げた。「そう言(い)えば、今朝(けさ)、紙束(かみたば)を持(も)っているところ廊下(ろうか)で見(み)ました。以前(いぜん)一人(ひとり)でまだ作(つく)っていない建物(たてもの)を探(さが)しに行(い)った時(とき)のように、下女(げじょ)の服(ふく)を着(き)ていました。城(しろ)の門(もん)の外(そと)へ出(で)てはいけないことを忘(わす)れないでと言(い)いましたのに、蓮(れん)は単(たん)に『はい、はい、分(わ)かってる』と答(こた)えました」

すると、鈴(すず)も口(くち)を挟(はさ)んだ。「台所(だいどころ)にいた時(とき)、蓮(れん)お姉(ねえ)ちゃまが勝手口(かってぐち)を抜(ぬ)け出(だ)すところを見(み)ました」

「どうしてあの子(こ)があれほど多(おお)くのおもちゃの家(いえ)を作(つく)りたがるのか分(わ)かりません。蓮(れん)の部屋(へや)はもう布団(ふとん)を敷(し)く隙間(すきま)もないほどおもちゃの家(いえ)で埋(う)ってますよ」と桜(さくら)が続(つづ)けると、紙(かみ)から視線(しせん)を動(うご)かさず百合(ゆり)は、「桜(さくら)お姉様(ねえさま)はしばらくすれば結婚(けっこん)して引(ひ)っ越(こ)すようだから、蓮(れん)お姉様(ねえさま)は襖(ふすま)を外(はず)して桜(さくら)お姉様(ねえさま)の部屋(へや)に自分(じぶん)の部屋(へや)を延(の)ばすと言(い)ってたわ」とつまらなそうに言(い)った。

桜(さくら)は目(め)を吊(つ)り上(あ)げ、両手(りょうて)を腰当(こしあ)てて肘(ひじ)を張(は)り、ゆきを振(ふ)り返(かえ)り、「何(なん)てことを!お母様(かあさま)…」と言(い)いかけたが、ゆきの顔(かお)を見(み)ると、黙(だま)り込(こ)んだ。

目(め)を閉(ど)じたゆきの顔(かお)は青(あお)ざめて、手首(てくび)に巻(ま)いていた数珠(じゅず)を握(にぎ)り締(し)め、祈(いの)るように何(なに)かを呟(つぶや)いていた。

狐子(ここ)はもう部屋(へや)のどこにも見(み)えなかった。