目次(もくじ)

  1. 第一章(だいいっしょう)  ゆきの紹介(しょうかい)
  2. 第二章(だいにしょう)  漁師(りょうし)との出会(であ)い
  3. 第三章(だいさんしょう)  狐(きつね)との出会(であ)い
  4. 第四章(だいよんしょう)  商人(しょうにん)との出会(であ)い
  5. 第五章(だいごしょう)  助(たす)けて!
  6. 第六章(だいろくしょう)  都(みやこ)に到着(とうちゃく)
  7. 第七章(だいななしょう)  買物(かいもの)
  8. 第八章(だいはっしょう)  若殿(わかとの)との出逢(であ)い
  9. 第九章(だいきゅうしょう)  家老(かろう)の調査(ちょうさ)
  10. 第十章(だいじっしょう)  家老(かろう)の調査報告(ちょうさほうこく)
  11. 第十一章(だいじゅういっしょう)  忍者(にんじゃ)の襲撃(しゅうげき)
  12. 第十二章(だいじゅうにしょう)  ゆきはどこだ?
  13. 第十三章(だいじゅうさんしょう)  一本(いっぽん)の毛(け)
  14. 第十四章(だいじゅうよんしょう)  救出(きゅうしゅつ)
  15. 第十五章(だいじゅうごしょう)  大名(だいみょう)
  16. 第十六章(だいじゅうろくしょう)  鬼(おに)
  17. 第十七章(だいじゅうななしょう)  家来(けらい)の不満(ふまん)
  18. 第十八章(だいじゅうはっしょう)  鬼(おに)の襲撃(しゅうげき)
  19. 第十九章(だいじゅうきゅうしょう)  鬼(おに)の敗北(はいぼく)
  20. 第二十章(だいにじっしょう)  殿様(とのさま)の評議(ひょうぎ)
  21. 第二十一章(だいにじゅういっしょう)  大名(だいみょう)の返事(へんじ)
  22. 第二十二章(だいにじゅうにしょう)  殿様(とのさま)の返事(へんじ)
  23. 第二十三章(だいにじゅうさんしょう)  若殿(わかとの)の出陣(しゅつじん)
  24. 第二十四章(だいにじゅうよんしょう)  大名(だいみょう)の思(おも)い付(つ)き
  25. 第二十五章(だいにじゅうごしょう)  忍者(にんじゃ)の思(おも)い付(つ)き
  26. 第二十六章(だいにじゅうろくしょう)  ゆきの出発(しゅっぱつ)
  27. 第二十七章(だいにじゅうななしょう)  ゆきの演説(えんぜつ)
  28. 第二十八章(だいにじゅうはっしょう)  家老(かろう)の再取立(さいとりた)て
  29. 第二十九章(だいにじゅうきゅうしょう)  狐(きつね)との会話(かいわ)
  30. 第三十章(だいさんじっしょう)  狐子(ここ)の紹介(しょうかい)
  31. 第三十一章(だいさんじゅういっしょう)  市場(いちば)へ
  32. 第三十二章(だいさんじゅうにしょう)  呉服屋(ごふくや)の中(なか)
  33. 第三十三章(だいさんじゅうさんしょう)  面白(おもしろ)い本(ほん)はどこだ?
  34. 第三十四章(だいさんじゅうよんしょう)  市場(いちば)の中(なか)
  35. 第三十五章(だいさんじゅうごしょう)  庄屋(しょうや)の家(いえ)の中(なか)
  36. 第三十六章(だいさんじゅうろくしょう)  城(しろ)へ帰(かえ)る
  37. 第三十七章(だいさんじゅうななしょう)  狐子(ここ)との会話(かいわ)
  38. 第三十八章(だいさんじゅうはっしょう)  評議(ひょうぎ)
  39. 第三十九章(だいさんじゅうきゅうしょう)  旅(たび)の準備(じゅんび)
  40. 第四十章(だいよんじっしょう)  最初(さいしょ)の村(むら)
  41. 第四十一章(だいよんじゅういっしょう)  女将(おかみ)の到着(とうちゃく)
  42. 第四十二章(だいよんじゅうにしょう)  危難(きなん)の噂(うわさ)
  43. 第四十三章(だいよんじゅうさんしょう)  鬼(おに)との遭遇(そうぐう)
  44. 第四十四章(だいよんじゅうよんしょう)  破壊(はかい)された村(むら)
  45. 第四十五章(だいよんじゅうごしょう)  広(ひろ)がる噂(うわさ)
  46. 第四十六章(だいよんじゅうろくしょう)  城(しろ)への帰還(きかん)
  47. 第四十七章(だいよんじゅうななしょう)  女将(おかみ)との会話(かいわ)
  48. 第四十八章(だいよんじゅうはっしょう)  家老(かろう)の助言(じょげん)
  49. 第四十九章(だいよんじゅうきゅうしょう)  面会(めんかい)の準備(じゅんび)
  50. 第五十章(だいごじっしょう)  家来(けらい)の妻(つま)
  51. 第五十一章(だいごじゅういっしょう)  茶席(ちゃせき)の予定(よてい)
  52. 第五十二章(だいごじゅうにしょう)  三本(さんぼん)の尻尾(しっぽ)
  53. 第五十三章(だいごじゅうさんしょう)  狐子(ここ)の話(はなし)
  54. 第五十四章(だいごじゅうよんしょう)  話(はなし)の続(つづ)き
  55. 第五十五章(だいごじゅうごしょう)  家老(かろう)の話(はなし)
  56. 第五十六章(だいごじゅうろくしょう)  寂(さび)しげな二人(ふたり)
  57. 第五十七章(だいごじゅうななしょう)  茶室(ちゃしつ)にて
  58. 第五十八章(だいごじゅうはっしょう)  琵琶法師(びわほうし)の到着(とうちゃく)
  59. 第五十九章(だいごじゅうきゅうしょう)  冬(ふゆ)の活動(かつどう)
  60. 第六十章(だいろくじっしょう)  狐(きつね)の到着(とうちゃく)
  61. 第六十一章(だいろくじゅういっしょう)  琵琶法師(びわほうし)の話(はなし)
  62. 第六十二章(だいろくじゅうにしょう)  旅(たび)の初(はじ)め
  63. 第六十三章(だいろくじゅうさんしょう)  狐(きつね)の土地(とち)へ
  64. 第六十四章(だいろくじゅうよんしょう)  子狐(こぎつね)との出会(であ)い
  65. 第六十五章(だいろくじゅうごしょう)  姫(ひめ)との出会(であ)い
  66. 第六十六章(だいろくじゅうろくしょう)  晩(ばん)の会話(かいわ)
  67. 第六十七章(だいろくじゅうななしょう)  族長(ぞくちょう)との会話(かいわ)
  68. 第六十八章(だいろくじゅうはっしょう)  八狐(はちこ)との会話(かいわ)
  69. 第六十九章(だいろくじゅうきゅうしょう)  姫(ひめ)の話(はなし)
  70. 第七十章(だいななじっしょう)  狐(きつね)との決戦(けっせん)
  71. 第七十一章(だいななじゅういっしょう)  狐子(ここ)の勝負(しょうぶ)
  72. 第七十二章(だいななじゅうにしょう)  若殿(わかとの)との茶席(ちゃせき)
  73. 第七十三章(だいななじゅうさんしょう)  城(しろ)へ戻(もど)る
  74. 第七十四章(だいななじゅうよんしょう)  狐一(こいち)と下女(げじょ)
  75. 第七十五章(だいななじゅうごしょう)  新(あたら)しい着物(きもの)
  76. 第七十六章(だいななじゅうろくしょう)  新(あたら)しい仕事(しごと)
  77. 第七十七章(だいななじゅうななしょう)  広子(ひろこ)と小猫(こねこ)
  78. 第七十八章(だいななじゅうはっしょう)  狐子(ここ)からの試(ため)し
  79. 第七十九章(だいななじゅうきゅうしょう)  琵琶法師(びわほうし)の告白(こくはく)
  80. 第八十章(だいはちじっしょう)  呪(のろ)いを解(と)く
  81. 第八十一章(だいはちじゅういっしょう)  お守(まも)り
  82. 第八十二章(だいはちじゅうにしょう)  家老(かろう)との面会(めんかい)
  83. 第八十三章(だいはちじゅうさんしょう)  頭痛(ずつう)
  84. 第八十四章(だいはちじゅうよんしょう)  殿様(とのさま)の到着(とうちゃく)
  85. 第八十五章(だいはちじゅうごしょう)  殿様(とのさま)との茶席(ちゃせき)
  86. 第八十六章(だいはちじゅうろくしょう)  狐一(こいち)と家来達(けらいたち)
  87. 第八十七章(だいはちじゅうななしょう)  喧嘩(けんか)
  88. 第八十八章(だいはちじゅうはっしょう)  小姓(こしょう)をやめる
  89. 第八十九章(だいはちじゅうきゅうしょう)  殿様(とのさま)との会話(かいわ)
  90. 第九十章(だいきゅうじっしょう)  狐一(こいち)と親衛長(しんえいちょう)
  91. 第九十一章(だいきゅうじゅういっしょう)  殿様(とのさま)と狐(きつね)
  92. 第九十二章(だいきゅうじゅうにしょう)  ゆきの陣痛(じんつう)
  93. 第九十三章(だいきゅうじゅうさんしょう)  ゆきの子(こ)

第六十九章(だいろくじゅうきゅうしょう)

姫(ひめ)の話(はなし)

家老(かろう)が家(いえ)に着(つ)いて中(なか)に入(はい)ると、姫(ひめ)はその中(なか)で待(ま)っていました。「おばさま、おはようございます。恐(おそ)れながら、お聞(き)きしたい事(こと)がございます」と家老(かろう)は言(い)いました。姫(ひめ)が頷(うなず)くと、「おばさまはどうして人間(にんげん)とご結婚(けっこん)なさったのですか。狐子(ここ)さんのように人間(にんげん)に興味(きょうみ)がおありになったのか、それとも何(なに)か他(ほか)に理由(りゆう)がおありだったのですか」と聞(き)きました。

しばらくの後(のち)、姫(ひめ)は溜息(ためいき)をつきました。「この事(こと)は弟(おとうと)にさえ話(はな)していなかったのですが、あなたにも関係(かんけい)のある事(こと)なので、この際(さい)、良(よ)い機会(きかい)ですから、お話(はな)ししておきます」

「当時(とうじ)の私(わたし)は今(いま)の狐子(ここ)よりは少(すこ)しだけ年上(としうえ)だったでしょうね。人間(にんげん)には興味(きょうみ)がなかった頃(ころ)のことです。実(じつ)を言(い)うと、人間(にんげん)に会(あ)うたび嫌(いや)な感(かん)じがして、できるだけ早(はや)く離(はな)れるようにしていたのです」と、話(はな)し始(はじ)めました。

「あの時(とき)まではね…」

「ある日(ひ)、森(もり)の中(なか)の道中(どうちゅう)でのことですが、ふいに視界(しかい)が開(あ)けました。そこには日本刀(にっぽんとう)を携(たずさ)えている男(おとこ)がいました。彼(かれ)は影(かげ)と戦(たたか)うように踊(おど)っていました。すぐに立(た)ち去(さ)ろうと思(おも)いましたが、まるで見入(みい)られたかのごとく、その剣(けん)の動(うご)きから視線(しせん)をそらすことができなかったのです」

「彼(かれ)の周囲(しゅうい)には呪(のろ)いの気配(けはい)もなく、また、私(わたし)がどのくらいぼんやりと立(た)っていたかも分(わ)からないのですが、気(き)が付(つ)くと、彼(かれ)は剣(けん)を鞘(さや)に納(おさ)めているところでした。今(いま)思(おも)うと、あれが、呪(のろ)いの解(と)けた瞬間(しゅんかん)だったのかもしれません。すぐさま私(わたし)は逃(に)げましたが、背後(はいご)から『誰(だれ)ぞおったか?』と言(い)う声(こえ)が聞(き)こえました」

「その夜(よる)、夢(ゆめ)を見(み)ました。刀(かたな)だけが夢(ゆめ)の中(なか)でただ踊(おど)っていました。歩(ある)いている内(うち)に、度々(たびたび)無意識(むいしき)にその場所(ばしょ)に戻(もど)って行(い)ってしまうことがありました。何度(なんど)か足(あし)を運(はこ)ぶと、またあの男(おとこ)がそこにいました。今度(こんど)は刀(かたな)ではなく、なぎなたと踊(おど)っていました」

「その時(とき)もまた、彼(かれ)の動(うご)きから目(め)を離(かな)せませんでした。しかし、彼(かれ)が踊(おど)り終(お)わるや否(いな)や、私(わたし)はその場(ば)を離(はな)れました。その夜(よる)も、踊(おど)っている武器(ぶき)の夢(ゆめ)を見(み)ました」

「数週間(すうしゅうかん)、同(おな)じような状態(じょうたい)が繰(く)り返(かえ)されました。いつも、男(おとこ)は違(ちが)った武器(ぶき)を使(つか)っていました。だんだん、武器(ぶき)よりもその男(おとこ)の夢(ゆめ)を見(み)るようになりました。男(おとこ)は、私(わたし)にとって異質(いしつ)のものというより、親(した)しい者(もの)になっていきました。だんだん、彼(かれ)に会(あ)いたいと思(おも)っている自分(じぶん)のことを自覚(じかく)するようになりました」

「ある日(ひ)、彼(かれ)が踊(おど)り終(お)わると、私(わたし)は逃(に)げる代(か)わりにこの姿(すがた)に化(ば)けて、木(き)の後(うし)ろから姿(すがた)を見(み)せました。私(わたし)は人間(にんげん)のことがあまり分(わ)かりませんでした。それまでに見(み)た、一番(いちばん)綺麗(きれい)な着物(きもの)を着(き)ることにしました」

「私(わたし)を見(み)ると、彼(かれ)は膝(ひざ)をついて、『姫様(ひめさま)』と言(い)いました。私(わたし)は、『何(なに)をおっしゃるのですか。私(わたし)は姫(ひめ)などではございません。ただの、普通(ふつう)の女(おんな)でございます』と答(こた)えましたが、彼(かれ)は立(た)ち上(あ)がりませんでした。『そのようなことは私(わたし)には信(しん)じられません。あなた様(さま)はお姿(すがた)も、お召(め)し物(もの)も、話(はな)し方(かた)も姫君(ひめきみ)のようでいらっしゃいます』と彼(かれ)は言(い)い立(た)てました」

「しばらくの間(あいだ)、彼(かれ)に何(なに)を言(い)えば良(よ)いのか分(わ)かりませんでした。やっと、『どうして度々(たびたび)こちらで武器(ぶき)と踊(おど)っておられるのですか』と聞(き)きました。彼(かれ)は驚(おどろ)いたように目(め)を私(わたし)に向(む)けました。『踊(おど)っていたのではありません。ただ武器(ぶき)の練習(れんしゅう)をしているのです。下手(へた)ですから、誰(だれ)もいないところで練習(れんしゅう)するのです』と言(い)いました」

「『とんでもないことです!そんなに優美(ゆうび)な動(うご)きを「下手(へた)」だなんて!それを見(み)ていると、ついいつまでも見(み)ていたいと思(おも)ってしまいます』と私(わたし)は言(い)いました。「先生(せんせい)を失望(しつぼう)させたくありませんので、こちらで練習(れんしゅう)していたのです。このように下手(へた)な練習(れんしゅう)をあなた様(さま)にお見(み)せしてしまった不埒(ふらち)をお許(ゆる)しください』と彼(かれ)は言(い)いました」

「『それでも、私(わたし)はあなたの練習(れんしゅう)が見(み)たいので、ここに来(く)ることを許(ゆる)してください』と私(わたし)が言(い)うと、彼(かれ)はようやく頷(うなず)きました。

「翌日(よくじつ)、私(わたし)がその場所(ばしょ)に着(つ)き、人間(にんげん)の姿(すがた)に化(ば)けると、すでにそこには草(くさ)の上(うえ)に布団(ふとん)が広(ひろ)げてありました。私(わたし)は木(こ)の間(ま)から出(で)てその辺(あた)りで躊躇(ためら)っていると、男(おとこ)は布団(ふとん)を示(しめ)しながら『どうぞそちらでお足(あし)を楽(らく)になさってください』と促(うなが)しました。そして、彼(かれ)はその日(ひ)の練習(れんしゅう)を始(はじ)めました。それが終(お)わると、彼(かれ)は私(わたし)の側(そば)に座(すわ)る許(ゆる)しを請(こ)い、私(わたし)がそれを許(ゆる)したので、しばらく語(かた)り合(あ)いました」

「数週間(すうしゅうかん)、同(おな)じことが繰(く)り返(かえ)されました。練習後(れんしゅうご)の会話(かいわ)はだんだん長(なが)くなりました。ある日(ひ)、住(す)んでいる村(むら)を私(わたし)に見(み)せたいと彼(かれ)は言(い)いました。その時(とき)はお断(ことわ)りしましたが、その後(ご)も、彼(かれ)はその申(もう)し出(で)を繰(く)り返(かえ)しました。とうとう、不安(ふあん)もありましたが、私(わたし)は応(おう)じました」

「その日(ひ)、彼(かれ)が帰(かえ)るとき、私(わたし)は彼(かれ)と一緒(いっしょ)でした。私(わたし)は、生(う)まれて初(はじ)めて、人間(にんげん)の村(むら)に入(はい)ったのです。そしてまた、その時(とき)までそれほど多(おお)くの人間(にんげん)に会(あ)ったことはありませんでした。彼(かれ)以外(いがい)の人間(にんげん)に会(あ)うと、まだ嫌(いや)な感(かん)じがしましたが、彼(かれ)が私(わたし)の側(そば)にいれば安心(あんしん)でした」

「家(いえ)に着(つ)き、彼(かれ)の家族(かぞく)に会(あ)いました。彼(かれ)らに対(たい)しても嫌(いや)な感(かん)じがしました。しかし彼(かれ)の妹(いもうと)の一人(ひとり)は嫌(いや)な感(かん)じがしませんでした」

「その妹(いもうと)以外(いがい)は、私(わたし)のことを嫌(いや)がっていました。それでも、その家族(かぞく)も私(わたし)もお互(たが)いに丁寧(ていねい)に挨拶(あいさつ)ができました」

「できるだけ早(はや)く去(さ)らなければと思(おも)っている時(とき)、その妹(いもうと)が台所(だいどころ)から湯(ゆ)を持(も)ってきました。お茶(ちゃ)を淹(い)れて私(わたし)に茶碗(ちゃわん)を渡(わた)しました。お茶(ちゃ)を一口(ひとくち)飲(の)むと、あっという間(ま)に嫌(いや)な感(かん)じが消(き)えました。おまじないかと思(おも)いましたが、おまじないの気配(けはい)はありませんでした」

「『素晴(すば)らしい』と言(い)って、私(わたし)は彼(かれ)の父親(ちちおや)に茶碗(ちゃわん)を渡(わた)しました。皆(みな)がお茶(ちゃ)を飲(の)み終(お)わるころには、部屋(へや)の中(なか)の雰囲気(ふんいき)はずっと心地良(ここちよ)いものになっていました」

「彼(かれ)が父親(ちちおや)に徐々(じょじょ)に切(き)り出(だ)しました。『お父(とう)さん、この女(おんな)の人(ひと)と結婚(けっこん)したいんだよ』と言(い)うと、『何(なん)だって!』と両親(りょうしん)と私(わたし)は同時(どうじ)に言(い)いました。鼓動(こどう)がドクンと脈打(みゃくう)ちました。胸(むね)の奥(おく)から、『私(わたし)もしたい』という小(ちい)さな声(こえ)が聞(き)こえました」

「『息子(むすこ)や、このお嬢(じょう)さんの家系(かけい)は一体(いったい)どこなんだろう?二人(ふたり)が毎日(まいにち)会(あ)っているのなら、お嬢(じょう)さんはこの近(ちか)くに住(す)んでいるに違(ちが)いない。しかし、この辺(あた)りの人々(ひとびと)を全員(ぜんいん)知(し)っているこの俺(おれ)でも、今(いま)までこのお嬢(じょう)さんに会(あ)ったことはなかった」

「『危(あぶ)ない!』と思(おも)いました。私(わたし)は人間(にんげん)ではない――私(わたし)は狐(きつね)だ――と気付(きづ)かれたくなかったのです。そう考(かんが)えると、すぐに『ごめん』と呟(つぶや)きながら質問(しつもん)を忘(わす)れさせる呪(のろ)いをかけました」

「そしてできるだけ早(はや)く失礼(しつれい)のないように立(た)ち去(さ)りました。次(つぎ)の日(ひ)、彼(かれ)の修行(しゅぎょう)を見(み)ながら、彼(かれ)が少(すこ)し下手(へた)になったように感(かん)じました。呪(のろ)いが彼(かれ)の腕(うで)を鈍(にぶ)らせたのだと思(おも)いました」

「その日(ひ)、練習(れんしゅう)の後(あと)に話(はな)し合(あ)って、彼(かれ)と結婚(けっこん)することを承諾(しょうだく)しました。でも、実家(じっか)に住(す)みたくないと言(い)いました。結婚(けっこん)する前(まえ)に、自分(じぶん)の家(いえ)を手(て)に入(い)れなければならないと思(おも)いました。『しかし、それは駄目(だめ)だよ。結婚(けっこん)した子供(こども)が歳取(としと)った親(おや)と住(す)んで、彼(かれ)らのお世話(せわ)をしてあげるのが親孝行(おやこうこう)なのだ』と彼(かれ)は答(こた)えました」

「それを聞(き)くと、心(こころ)が愛(あい)でいっぱいになりました。この人(ひと)と結婚(けっこん)しなければならない!それでも、愛(あい)より悩(なや)みが勝(まさ)ったのです。ですから、やめろと言(い)う心(こころ)の囁(ささや)きを無視(むし)して、また呪(のろ)いをかけました。今度(こんど)は私(わたし)に同意(どうい)させるための呪(のろ)いでした」

「そうして、しばらくして彼(かれ)は自分(じぶん)の家(いえ)を手(て)に入(い)れて、私(わたし)と結婚(けっこん)してくれました。嬉(うれ)しかったのですが、残念(ざんねん)ながら間(ま)もなく夫婦(ふうふ)の間(あいだ)に諍(いさか)いが起(お)きるようになりました。私(わたし)と一緒(いっしょ)に出(で)かけるかとか、綺麗(きれい)な着物(きもの)を買(か)ってくれるかとかいったような些細(ささい)な事(こと)でも、すぐに私(わたし)の言(い)う通(とお)りにしてくれないと、また呪(のろ)いました」

「そのように呪(のろ)いが呪(のろ)いの上(うえ)に積(つ)み重(かさ)なりました。武器(ぶき)の腕前(うでまえ)はだんだん落(お)ちていきました。ようやく村人(むらびと)も彼(かれ)の様子(ようす)がおかしいと気付(きづ)いて、病気(びょうき)にでもなったのかと尋(たず)ねました」

「突然(とつぜん)、殿(との)からの使者(ししゃ)が来(き)ました。戦(いくさ)だから、侍(さむらい)は全員(ぜんいん)城(しろ)に集(あつ)まれと言(い)いました。こんな状況(じょうきょう)では、行(い)ってはいけないと私(わたし)は言(い)いました。務(つと)めだから、行(い)かないわけにはいかないと彼(かれ)は答(こた)えました」

「私(わたし)はまた彼(かれ)を呪(のろ)おうとしましたが、何(なに)も起(おこ)りませんでした。彼(かれ)の忠誠心(ちゅうせいしん)は私(わたし)の力(ちから)より強(つよ)いのだと思(おも)いました。彼(かれ)が行(い)かなければならないのなら、その前(まえ)に、前(まえ)に掛(か)けた呪(のろ)いを解(と)くべきだと思(おも)いました。すぐに呪(のろ)いを解(と)こうと思(おも)いましたが、何一(なにひと)つ解(と)くことができませんでした。どうやら私(わたし)の力(ちから)が封(ふう)じられているようでした」

「泣(な)きながら、彼(かれ)の出陣(しゅつじん)を見送(みおく)りました。彼(かれ)が戦死(せんし)したら、私(わたし)のせいに違(ちが)いありません。どうして、どうして力(ちから)が封(ふう)じられているのかと思(おも)いながら、その頃(ころ)痛(いた)くなった胸(むね)を軽(かる)く摩(す)りました」

「胸(むね)を摩(す)っていると、ピンとわけに気付(きづ)きました。痛(いた)くなったというのは私(わたし)が身籠(みごも)っているからでした。牝狐(めぎつね)が身重(みおも)になると、赤(あか)ん坊(ぼう)を守(まも)るために、産(う)むまでほとんどの力(ちから)が封(ふう)じられるのです。そういうわけで、呪(のろ)うことも呪(のろ)いを解(と)くこともできませんでした」

「彼(かれ)が無事(ぶじ)で帰(かえ)ってくるように祈(いの)って、来(く)る日(ひ)も来(く)る日(ひ)も待(ま)ちました。しかし、彼(かれ)が帰(かえ)ってくることはありませんでした。それは私(わたし)のせいに違(ちが)いないと悟(さと)りました」

「その後(ご)の数週間(すうしゅうかん)のことはあまり覚(おぼ)えていません。我(われ)に返(かえ)ると、彼(かれ)の実家(じっか)に来(き)ていました。どうしてよいか分(わ)からないまま、そこに住(す)み続(つづ)きました」

「生(い)きていたくありませんでした。でも、彼(かれ)の子(こ)のために生(い)き延(の)びなくてはいけませんでした」

「そこに残(のこ)りたくありませんでした。でも、彼(かれ)の子(こ)のために残(のこ)らなくてはいけませんでした。人間(にんげん)の子供(こども)を狐達(きつねたち)と一緒(いっしょ)に育(そだ)てるわけにはいきません。私(わたし)が愛(あい)している夫(おっと)を何回(なんかい)も呪(のろ)ったのですから、人間(にんげん)を好(す)きではない狐達(きつねたち)は、この子(こ)をその何倍(なんばい)も厳(きび)しく呪(のろ)うだろうと考(かんが)えずにはいられませんでした。ですから、私(わたし)の実家(じっか)に戻(もど)ってこの子(こ)を育(そだ)てることなどできませんでした」

「しかし、人間(にんげん)の世界(せかい)に残(のこ)って呪(のろ)わずに子(こ)を育(そだ)てられる自信(じしん)はもうありませんでした。この子(こ)の世話(せわ)を彼(かれ)の両親(りょうしん)に任(まか)せる他(た)はありませんでした」

「この子(こ)から離(はな)れたくありませんでした。でも、離(はな)れないで済(す)む方法(ほうほう)も思(おも)いつきませんでした」

「そんな葛藤(かっとう)で押(お)しつぶされそうになりながらお腹(なか)が大(おお)きくなる日々(ひび)を過(す)ごしました。ようやく、出産(しゅっさん)の日(ひ)が来(き)ました」

「産(う)む痛(いた)みより子(こ)から離(はな)れなければならないことは何(なん)倍(ばい)も切(せつ)なかったです。それでも、離(はな)れるために産(う)まれた子(こ)を見(み)るのも触(ふ)れるのも拒(こば)みました」

「産(う)むと、力(ちから)の封印(ふういん)が解(と)けました。でも、私(わたし)が狐(きつね)であるとばれたくありませんでした。それで、夜中(よなか)まで待(ま)って、こっそりと家(いえ)を出(で)ていって、わざと川(かわ)まで足跡(あしあと)を残(のこ)しました。そして、本当(ほんとう)の姿(すがた)に戻(もど)って、こちらへ帰(かえ)ってきました」

「でも、心(こころ)の不安(ふあん)を抱(かか)えたまま実家(じっか)に戻(もど)ることなどできませんでした。ですから、こちらはただ彼(かれ)と一緒(いっしょ)に住(す)んでいた家(いえ)の思(おも)い出(で)のための再現(さいげん)です。本物(ほんもの)の住処(すみか)は外(そと)で掘(ほ)られているのです」

「弟(おとうと)のおかげで、一度(いちど)も会(あ)うことの叶(かな)わなかった娘(むすめ)と孫(まご)の生(せい)と死(し)を知(し)らせてもらいました。全(すべ)ては私(わたし)のせいに違(ちが)いありません。天罰(てんばつ)ですもの」と姫(ひめ)は言(い)って、泣(な)き出(だ)しました。

「まあまあ」と家老(かろう)は声(こえ)をかけました。「おばさまがご主人(しゅじん)を傷(きず)つけなかったとは言(い)えないが、侍(さむらい)の妻(つま)の悪事(あくじ)のせいで国(くに)が滅(ほろ)んで殿(との)が二人(ふたり)倒(たお)されたわけではないでしょう。これほど倹(つ)しく暮(く)らしている今(いま)のおばさまが、そんな我(わ)がままな嫁(よめ)と同(おな)じ人(ひと)とは思(おも)えません。いつも元気(げんき)なご子孫(しそん)のゆき様(さま)を訪(たず)ねた方(ほう)がいいと思(おも)います。そろそろ跡継(あとつ)ぎがお産(う)まれになるので、こちらに来(き)たくとも来(こ)れませんでした」

姫(ひめ)は泣(な)きながら家老(かろう)を抱(だ)き締(し)めました。「そんなことはできません。そんなわけには参(まい)りません」と何(なん)度(ど)も繰(く)り返(かえ)してしくしく泣(な)きました。

家老(かろう)は姫(ひめ)の背中(せなか)を撫(な)でました。「いいえ、きっとできますよ。行(い)った方(ほう)がいいですよ」と慰(なぐさ)めました。

姫(ひめ)が泣(な)き伏(ふ)している間中(あいだじゅう)、家老(かろう)はずっと彼女(かのじょ)の背中(せなか)を撫(な)でてやりました。姫(ひめ)が泣(な)き終(お)わってやっと、その話(はなし)は終(お)わり告(つ)げたのでした。